2018年12月1日土曜日

ツイ禁、三日坊主

ツイッター依存が深刻化しているかもしれない、と思い、しばらく辞めてみることにした。3週前くらいの話。きっかけは、防弾少年団のMステからドタキャンされ事件だった。最初、怒りにまかせていろいろつぶやいたりしていたが、しばらくして、色んな意見が目に入り「それは違うだろ」「何言ってんだこれ」「ああそんなことも分からんのか」などとイライラしっぱなしになってしまった。ネットから離れても、頭の中に「反論」が浮かんでは消えたり、気になる文言があらわれたり。ネトウヨの戯言だけなら、いつもの事だなって感じなのだが、今回のは、ネタ的に、いろいろ意見が分かれるところもある出来事だったので、普段は近い意見の人の声の方が、よりひっかかったりした。何とも情けない話だが、わたしは、自分と違う意見にすぐに反発を覚えるくせに、自分の考えに確かな自信など全然ないのだ。いろいろこねくり回しているうちに、自分が間違っているような気もしてくるし、あれこれ頭が動き、とにかくどんどん疲れていった。これは、まずい。そうこうしているうちに、こんな貧乏人が、あんなに大儲けしている人ら(防弾少年団の皆さん他)を何でこんなに一生懸命擁護せなあかんねん、という「我に返る」瞬間もたびたびあったりした。韓国の大衆文化についての自分の「思い」みたいなものは、そのうち整理して書いてみたいなとは思っているが、それはともかく、こんなことしてたらアホになるわ、ツイッター辞めた方がいいんじゃないか、ということになったのだ。

自分のツイッター依存については、去年くらいから気になってはいた。一日一定の時間、ツイッターを見たらつながらなくするアプリを入れたりしてみたが、すぐにオーバーして邪魔になり外した。制限はできない。減らすには、やめるしかない、と思った。タバコと一緒だな、と。ただ、今年の頭に初めての本が出る予定だったので、ここで辞めてしまうのはもったいない。人脈の弱い自分にとって、数少ない宣伝ツールになるだろうし、本が出るまではやっておこうと思った。以前は知り合い以外には匿名だったが、今年からは、こういう訳で、晒し気味で使ってみることにして、しばらくして不具合あったら辞めようと思っていた。しかし、個人情報をある程度出して以降の方が、社会生活が広がったような勘違いもできてより楽しくなってきた。そういうわけで「節度をもって楽しみ続けることにしよう」という方針だったのだが、上に書いたよう次第で、これはおかしくなるぞ、あるいは、とっくになっているな、と改めて危機感をもったのだ。

依存を断つには、アカウント削除しかない、と思った。でも、ここでしかつながっていない人もいるしな、リアルで会ったことはないけど、「つき合い」が長くなって、自分の生活世界の登場人物化している人も少なくなかったり、などという執着もあり、惜しい気持ちがあったが、「ツイッター辞める」とかでググってみると、削除しても一か月以内には復帰できるとあり、それなら一度、やってみようと決行した。過去ツイートをダウンロードして一応保存しておく、なんてこともして。無駄なテキストの山だが、完全に消えてしまったら寂しい気もした。

とりあえず、一日我慢してみよう、と思った。自分は、20代の真ん中くらいから40頃までタバコを吸っていた。最後の方は、何度もやめようと思ったが、禁煙を決意して数時間で挫折する、というのを何度も繰り返していた。初めて一日我慢できた時が、最後のチャレンジに(今の所)なった。タバコを吸っていて、止めなきゃな、という考えが浮かび始めた頃は、禁煙をイメージするだけでゾッとするような感じがあった。タバコを辞めて、どうやって時間に区切りをつけるのか。のっぺりした永遠が続くのなんて、とても考えられないぞ。朝起きて一服。飯食って一服。仕事前に、風呂前に、後に、一服。たどりついたら一服、休憩で一服、毎日の時間に句読点をうつのに、タバコは確かに快適なものだった。句読点などそもそもいらなかったのだ、と、やめた今になっては思うが、乗り越えるのが大変な壁に見えたのは確かだ。ツイッターも全く同じだ。起きたら、チェック。ひと段落ついたら、チェック。作業がつまったらチェック。何もなくてもチェック。そして、何かが浮かんだら、あ、これ今度つぶやこう、と意識するようになっていた。ツイッターを主にパソコンでやっているので、外出中は、手書きのメモ帳に、つぶやくネタをメモしてみたり。ツイッターをやめるとなると、この日々の、ちょっとした発見をどうしたらいいのか。人を捕まえてわざわざ話すほどの内容ではないけど、でも、誰かに伝えたい、このコレを、どうすれば。

辞めてみると、やはり、タバコと同じだった。削除した当日は、辛かった。あ、ここでタイムラインのチェックできないんだ、あ、この気分、伝える場所無いんだ、の繰り返しだった。これは今後めちゃくちゃ虚しい日々が永遠に続きそうだぞ、なんて思いが頭の中をぐるぐるしていたが、一日経ったら、それなりに慣れてはきた。タイムライン見る必要なんて、全くなかった、ということにあらためて気づいた。しかし、何ともいえず寂しかった。このままやめ続ける方がいいのか、については、タバコほどの健康面での実害はないような気もするし、と揺れ続けた。結局、5日目くらいに再ログインして、禁ツイ生活は終わった。とりあえず、一日、まぁ、三日続けばいいかな、という感じでもあったので想定内の結果ではあった。タバコの時は、断煙するつもりだったが、今回は、一か月後には復活させようと初めから思っていたというので、そもそも違いはあったが、どんな禁断症状が出るのかについては、ちょっと分かった所はあった。

タバコ以上につらいと思ったのは、時間の流れがなくなって見えたことだ。人の声がリアルタイムで次々に流れている(ように見える)これに慣れていると、ネットニュースの更新スピードなんて止まっているようなものだし、とにかく世界が動きをやめてしまったように感じられたのだ。個人的なメールなどがほとんど来ないので、特にそうなのかもしれないが。ベルクソンが時間を空間的に考えるのは間違っているみたいなことを言っていて(たぶん)なるほどな、と思っていたが、時間と視覚を切り離せないなんて、そういう謬見の最たるものなのかもしれない。脳みそが一番ツイッターに侵されている部分なのだと思う。

そんなわけで、自分は、いつでもツイッターをやめられる、なんてとても言えません。やめて、静かに読書するのだ、なんてことも。でも、そろそろやり始めて10年。今回気づいた以上の「害」はやっぱいろいろあるだろうし、どこかで、考え直さないといけないのかもしれない、とは思っております。

2018年11月5日月曜日

よどがわさん、普段なにしてるんですか

大学が用意したミニレポート用紙を配布して何か書いてもらうことがある。担当者名を記入する欄があり、だいたいは私の苗字だけ、もしくは「~~先生」と書いてあるが、たまに「~~さん」と書いている学生がいる。2、3年前から、見るようになった、気がする。別に「先生と呼べ」なんて思わないから、好きに書けばいいんだけど、わざわざ手書きで「~~さん」は、はじめちょっと違和感はあった。敬称略でいい所だけど、柔らかくするために「さん」をつけたのか。手紙じゃないから様はおかしいが「先生」と書くのは何か違う、ということなのだろうか。

そういえば、大学院に入った時、同期の一人が教員らを「~~さん」と呼んでいたことを思い出した。「大学院なんだから、同じ研究者同士じゃないか!」というのが、その理由。自分より少し年上で、社会人経験もある人だった。へぇーすごい自信だなぁ、かっこいいな、と思ったが自分はマネする気にならず、無難に先生と呼んでいた。今考えたら、ちょっと「かまして」たのだろうな。でも、この方も、「さん」で呼んでいたのは院生同士の時だけで、教員本人に向かっては、無難に「先生」付けだった気もする。昔のことだから、詳しくは忘れた。

とにかく、「さん」はどんなココロなのかな、とちょっと気になっていた中、この前、某学生さんに質問をされた際、とても親しみをこめて「さん」と呼ばれた。それで何となく思ったのは、バイト先の「社員さん」とか、ベテランバイトの上司とか、そんな感じかな、ということだ。年上の大人と、どんな形でコミュニケーションするか、人によっては結構難しいことなのかもしれない。高校までの「先生」とは違う感じがするのだろう。そんな中、大人との付き合い方を学ぶ場所は、バイト先じゃないかな。

「さん」いいですよ。たぶん、向こうからしたら全然そんなことないのだろうけど、パイセンくらいな感じで若く見てくれているのかな、という気もしないでもないし。先生と呼ばれるほどの、ナントカカントカ。子どもの頃、うちの母親は、学校の先生にだけはならんといてな、と言っていた。先生と呼ばれる仕事はバカになるから、みたいな理由をつけていたような。親の言いつけに逆らって、そんな感じの仕事をしているが、碌な中身がないのに形だけ「先生」呼ばわりされるのに慣れてしまっている状況は、心配された通りの結果になっていると言えるかもしれない。そんなに深い考えがあったわけではなく、たぶん、先生業に何かうらみがあっただけだとは思うが。カタカナで「センセ」呼ばわりされるより、「さん」の方が、真実の応答をしなければな、という気にさせられるような気がする、ような、関係ないような。

2018年11月3日土曜日

twiceになるのは大変

某所の授業終り、体育会系の女子学生が盛り上がって喋っていた。「twice」というキーワードが耳に入ったので「何の話してんの?」と口を挟む。「生まれ変わったらtwiceになりたい」というたわいない話をしていたらしい。「女の子、女の子した人生も送ってみたいんで、いっぺん」とのこと。短髪で後輩に人気がありそうな、超ボーイッシュな風貌の彼女だが、そういう憧れもあるらしい。なるほど。思わず「分かるわ~僕もなりたいもん」としょうもないことを言って、スルーされた憐れなオッサンな私であるが、若い時からほんとにパッとしない人生だったので、twiceの皆さんのような輝かしい人生を送ってみたいというのは本心だ。

だが、今ここに、すぐにtwiceになれるボタンがあったとしても、絶対に押さないだろう。華やかなステージに立つのはステキだが、活動のある時のスケジュールは殺人的だし、合間は、稽古稽古稽古の毎日。精神的、体力的に、一日もついて行けずにやめたくなるに決まっている。今の自分みたいなのではなく「疲れない身体、タフな精神」を持っているとして、という設定なら、もうそれは「僕」ではないので、僕がなったことにならず、それはただの他人であり、現状のtwiceと変わらないのである。そういう意味では、もう、自分もなっている、と言えなくもないのだ。

30年前の中学生の頃も、当時好きだった芸能人に対して、こういうしょうもないことを考えていた気がする。その頃も、タフな精神は持っていなかったが、「今よりは」疲れない身体だった。情報としての知識はちょっと増えたが、考えていることは一緒なら、全体として退化しているとしか言いようがない。学生時代、スポーツに打ち込んだ青春って、そりゃ輝いていると思いますよ。自分の舞台で全力を出してください。twiceの皆さんのように。自分の舞台を大事にしなかった後悔は一生続くような気がします。それはそれとして、授業中、もうちょっと起きててちょうだいね。

2018年10月27日土曜日

世論とのつながりかた

フェイスブックより社会を広く感じられる気がして、ツイッターの方を愛用しているが、広げるためにあまり選別せずにフォローしているのもあって、世の出来事に対して「なんでそう考えるのか…」とあきれるようなツブヤキを目にする機会も多く、イライラして精神衛生に悪いという難点がある。フォローしなきゃいいんだけど、自分の関心上、たとえば普通の競輪ファンの声とか聞きたいという気持ちもあるし、パッパとフォロー外しをするのも気が進まない。自分が「政治的」なツイート、RTいっぱいするから、外した、という人は結構いるだろうけど。

インテリだけと付き合えたら、そりゃ楽だろうなと思う。純度を高めておけば、例えば、安田さんの解放に関して、あるいは、安倍政権に対して、共感できる声ばかりが聞えるようになるし、その方が「楽しみ」としてはいいのだけど、あんな状態でも安倍支持率が4割もある、ということが、ただの不思議(あるいは陰謀)にしか見えてこないようになってしまうかもしれないな、という懸念もある。大衆的な下町に生まれ、たぶん一生そこで貧乏暮らしをし続ける自分のような人間が、大衆に嫌悪感を抱く、というのは自分を否定するということでもある。安全地帯に抜け出て、上から、庶民を見つめたい、という嫌らしい願望が自分の中にはあったのかもしれない。などと自己反省をしてみたり。まぁ、そんなことは今はいいや。

我慢できる範囲で、小雨には傘をささないでおこうか、気楽にミュートなどすればいいか、適宜考えよう。3次元で他人と雑談する機会がほとんどないため、SNS切ったら寂しすぎるなと思ってついつい依存してしまっているが、もっと孤独に耐性をつけた方がいいのだろう。あとは、他人の意見に、いちいちイライラしないように、反応しないようにすることか。ちょっとした共感が喜びになるんだから、反対が不快になるのは、当然の原理なのだけど。まぁ、でも少しは受け流す力がついたかも。これでも。以前は、「なんでそうなんだよ?」と、いろんなことにいちいち反応していたからなぁ。日常生活でも。

2018年10月21日日曜日

俺、僕、私

高橋源一郎氏が小川榮太郎氏について上から批判した(ことになるのか)例のエッセー(「俺は泣いた」)の件、色々気になることがあった中、些末なことなのだけど、一人称「俺」なんだな、というのもあった。普段、彼の書いたもの読んでないので分からないが、いつも「俺」なんですかね。もしかしたら、「泣いた」に合わせて「俺」にしたのか。どっちでもいいんだけど、ひっかかるのはひっかかった。別に、俺だろうが、僕、私だろうが何でもいいのだけど、文系のインテリは、僕・私が普通のように思っていたので、あえて「俺」か、どんなココロなのか、と気になったのだ。

男の一人称は、気にしだすと気になる。女の人だって簡単ではないだろうが、ベタな選択肢が3つもあって、何かを選んだらそれなりに意味が発生する。他者へ向けた自己呈示に関わって、さりげなさを演出しているように見えたら、不自然な匂いがしてきたりもする。オレ、ボク、ぼく、わたし、とカナを使ったりするのも、その辺のことを意識してのものだろう。

自分は、日常会話では、おそらく大学院に入ったころから、「俺」を控えるようになった気がする。表面的な部分だけでも、マッチョさを消すべきだ、と考えてのことだった、と思う。でも、しばらくは「俺」がちょくちょく出てきた。今は、ほとんど「僕」になっている。仕事では「私」も使う。今、ふと、もうつき合いがなくなった知人が、普段から「私」で統一していて、この人は何で「私」なんだろうと気になったことを思い出した。大学院時代の知り合いなので、その頃でもまだ私は「俺」だったのかもしれない。

話し言葉については、ここではおく。書き言葉になると、「自然に出ちゃう」という以上の、意図があるのは間違いない。どれを選ぶのか、で。ツイッターとかを読んでいて、「この人、『俺』なんだなぁ」と意外に思ったりすることもある。「私」の方が無難なのは間違いないだろうから、俺の人は、普段から俺だから、軽い書き物で私は不自然と感じてのことなのか、俺っぽく見せたいのか、どっちなんだろう、などと。(高橋源一郎「俺は泣いた」を読むまでは、それほど気にしていたわけではないですが。)論文や本などは、普通、「私」、あるいは「筆者」だろうから、SNSなんかが普及するまでは、他人が「普段使いの書き言葉での一人称」に何を使っているのか、知る機会ってあんまりなかったのだろうと思う。もしかして、と気になって、小川榮太郎氏のフェイスブックを覗いてみた。「小生、とかかな、フフフ」と期待したけど、普通に「私」でした。

「私」が文学的に気取って書いた文章を、「俺」が軽く切って捨てたという構図か。「俺は泣いた」「僕は泣いた」「私は泣いた」…まぁ、こう並べたら、「俺」じゃないと決まらないですけどね。確かに。普通の仕事の人は知らないですが、大学の先生職やっているような人の中では、多分、「俺」は少数派だと思うので、「あえて感」が漂うのは間違いない。僕や私よりは、キャラ設定っぽく感じてしまうが、気にしすぎかも。

まとまらないから、このへんで。これから、どれでいこうかしら、とちょっと考えてみたり。こういう所で書いているのを振り返ってみると、ふざけて逃げる時は、ワテ、ワシとか大阪風味を使っているようですね…俺。



http://kangaeruhito.jp/articles/-/2641

2018年10月6日土曜日

京橋名物に完敗

最寄り駅構内のコンビニでパンを買って、電車が来るまでにホームでかぶりつく、という雑な昼飯になってしまった。仕事は午後からだが、連続で三コマ。家での準備に手間取り、ちゃんとしたもの食って出る余裕がなかった。サンドイッチとかを買えば良かったのだが、ついミルククリームフランスに手を出した。美味い。が、当然ながら、甘い。メシにはやっぱりショッパイ系にせんとあかんよな、と思いながら、乗り換えの京阪電車京橋駅にたどりついた。

ここのホームの売店には、なぜかフランクフルトが売っていて「京橋名物」をうたっている。普段、見かけても「なんで名物やねん」とつっこむだけだが、何せ口の中が甘いものだから、めちゃくちゃ美味そうに思えた。どうするかな、と売店前で突っ立って迷っていたら、近くにいたおじさんが、迷いなくさっと購入した。しかも、二本も。様子を見ていた連れのおじさんに、笑顔で一本さし出した。駅のホームでフランクフルトをほうばる、という子供っぽくも見える振る舞いに、ちょっと照れるような様子でもあったが、二人とも何だか楽しそうで、そして、めちゃくちゃ美味そうだった。甘い口を緩和するために食べたかったさっきの状態を60点とすると、95点くらいに食べたい度は跳ね上がった。が、ここで手を出したら、「二人が食べている様子に誘われた」の丸出しだ。ああ、どうしようかな、とさらに躊躇していたら、別の兄ちゃんが購入した。

これは確実に、さっきのおじさんにつられたパターンだ。美味そうに見えたんだな、兄ちゃんも。しかし、注文時の照れのなさを見ると、誘われたことを意識すらしておらず、まるで潜在意識に動かされているかのようであった。他人が食べている姿に誘われて、つい買ってしまう、なんて、言ってみれば、店側の思うつぼでもあり、何とも主体性がなさすぎる。食べたい度は、身体的には99点になっていたが、心が冷めてしまい「ここは我慢すべき」と断念し、やってきた電車に駆けこんだのだった。何かに勝ったような、逆に、負けたような変な気分を抱えて、職場にむかった。

これが、先週の話。今日も、同じルートで、京橋駅へ。口の中は、さほど甘くなかったが、何の迷いもなく、一直線に売店へ向かいフランクフルトを購入した。どこにでもある、普通の味。しかし、美味かった。「一週殺し」の技をかけられて、負けたような気分だ。「京橋名物」という、あの看板に身体が騙されているのだ。きっと。すごい看板、なのかもしれない。

2018年9月19日水曜日

知らない人への部分的メッセージみたいなもの

九州大学の元大学院生が研究室に放火して自殺するという事件があった。苦学して大学院に進学し、研究職への就職をめざしていたが叶えられず、不安定な生活が続き、行き詰った末の決行ではないか、という「背景」が報道された。ツイッターでは、アカデミズム界隈の方々から、「他人事ではない」「彼は自分だったかもしれぬ」という反応が、方々から聞かれた。自分も、当然、心にひっかかる事件なのだが、ニュースが耳に入るのと、ほぼ同時くらいに、それらの反応を目にしたので、何となく白けた気分になった。他人事ではない、と語っている多くが、すでに、彼が陥っていたとされる、苦しい「その状況」から抜け出した後の人たちに見えたからだ。何となく、今時の表現(なのか)を使うと、「上から目線」を感じた。自分は生き残った、抜け出した、ああよかった。そのことにしみじみと安堵した上での、もしかしたら自分だったかもしれぬ、に見えちゃったのだ。間違いなく、僻み根性による、歪んだ見方である。全部のツイートに目を通したわけではないが、多くが誠実な感想表明だったように思う。大学人らしく、個々の問題を、社会的文脈に結び付け、「みんなの問題」として、捉えなおしたような。学ぶべき意見もあって、それを認めた上での、個人的な白け、だ。彼と同じような、と多分思われる「その状況」にいる自分は、彼が自分だったかも、とは全く思わなかった。他人事だ、と思った。自分事だ、と思ったら、やってられないから、かもしれない。知らんがな、と思った。

安定した研究職に就職する見込みは、ほぼない。「ソフトランディング」して、他の道に行く機会も既に逸した。手に職もない。かといって、やってきたことを全部投げ出して、完全フリーアルバイターとして生きるのは、つらい。その労働時間、どんな葛藤に苛まれるかと考えると、とてもまともではいられない。何とかしなければならない。でも、じゃぁ、今、何をどうすればいいかは分からない。そういう状況は、ほとんど私も一緒だ。『西日本新聞』のネット記事一本を読んだだけだから、そこに書かれていたことから解釈した、記者の解釈を私が解釈した、彼の「状況」に過ぎないが。彼は、もうバイト中心に移行していたようだ。自分は、まだ、大学周りのアルバイトだけで済んでいる。ただ、今の所、再来年には何かはじめないと厳しそう、というのが予定されている。年齢は、彼より私の方が上だ。もちろん、それはマイナス要因だ。年齢差別が、この社会(全体社会と大学業界ともに)で如何に強いか、「老眼の若手」の居づらさを、彼も感じていたんじゃないか、と勝手に想像してしまう。「普通の若手」と交流を断っていたらしいし。それくらい、「同じ」だからこそ、彼我の違いにしか目が行かなかった。いやいやいや、一緒にせんといてくれ。違う違う、あんたと私は全然ちゃうで、と。

彼は死んだ。私は生きている。「その状況」から抜け出したからではなく、同じような状況にいるが、生きる方を選んでいる。その点で、彼と私は、決定的に違う。もちろん、死にたいと思ったことが全くないわけではない。が、そんなの、誰だって一回や二回あるだろう。老眼になるくらい生きていりゃ。いくら似ているように見えても、全く違うのだ。「自分だったかもしれない」と気楽に(ってことはないのでしょうが)言えるのは、全然違う状況にいることを、心の底から実感できているからじゃないか、良いですね、簡単に同一化できて、なんて思っちゃうのだ。そんなことはないのです。それは分かっているのです。苦労して、抜け出した人たちが、自分の過去の経験から、ヒリヒリするような思いからの「理解」なのは、重々承知です。それでも、気楽に見えてしまうのです。これは誤解しないで欲しいが、資格の話をしているのではない。自分の方が、彼の気持ちが分かるんだ、なんて言っているのでは全然ない。私は、分かりません。彼の気持ちなんて。誰にも、自分はよく分かっている、なんて特権的に言える権利はないんじゃないか、ということです。(もちろん、個人的な知り合いは別です。)もちろん、社会で起こった出来事に、各自好きなことを言うのは大事なことであり、当然自由だから、皆好きに言ったらいいし、自分もこうやって言っているのだが、簡単に理解されたり、分かられたりされるのは、かわいそうだ、という気がするのだ。

繰り返しになるが、自分もあの時代に苦労したから、だから「分かる」という人の気持ちも「分かる」気がするが、出口がないように見えた「その状況」は、そこから抜け出した瞬間に、もう、完全に別のものになっているのではないか。どんなギリギリでも。今日、抜けた、という人も。その瞬間に、「出口のある状況」での苦労物語になっているのだ。出口を信じて、自分を信じて、時に不安になりながらも、前にすすめた。そして、見事、出口を見つけたのだ。「その状況」の特徴は、出口がないことであり、出た人が経験したのは、もう「その状況」ではないのだ。それは、もう、全く違う経験だ。「同じ経験をした」なんて言えないのではないか。それがあっと言う間だった人も、「平均」よりグッと長かったという人も、抜けた人は、抜けたのだ。出口があったのだ。彼には、無かった。結果としても、無かった。少なくとも、望んでいただろう出口は。あと5年頑張っていたらどうか。そんな想像は虚しい。もうダメだったのだ。この辺は、めちゃくちゃ勝手な想像だが、彼自身、後期若手時代的状況を自覚し始めてからは、どんどん出口の実在の可能性を信じられなくなっていただろう。この可能性っていうものが、またくせ者で、確固たるデータなんて何もないのだ。周りの様子を見る。こういう例もあった。ああいう例もあった。一般的には、これこれこうと言われている。それら自分が見聞きしたモノから生まれた状況定義にすぎない。もうだめだ、と思い始めて、かなり経っていただろう。論文なんて書けなくなっていたと思う。そんな「その状況」を、出口のあった人が、自分も経験してきましたよ、みたいに語られると、ちょっと辛くなる。彼がかわいそうに思う。そんなの、経験していないでしょう。自分も、経験はしていない。似ている所があるだけだ。彼の公式的な立場から推定できる何かについて、大学院に行ったことがない人よりは、ちょっと詳しいかもしれないくらいのもので、何が彼を追いつめたのか、なんであんなことしちゃったのかについては、全然分かりません、ということなのだ。

何で死んだんや。なんで研究室に放火なんかしたんや。アホか。いろいろあったんだろう「その状況」の他にも、辛い事や、悩みが。バイト先で嫌な奴にあったんと違うか。介護の問題とかもあったんじゃないか。ベタな想像で悪いけど、恋愛で苦しんでいたとか。「その状況」以外に、苦しい事がいっぱいあったんやろ。気の毒に。そやけど、自分も含め、こうやって日本中から、「分かる」とか言われてしまうんは、あんたが悪いんやで。研究室で死ぬなんて、なんでそんな象徴的な行為をしたのよ。言葉があるでしょ、言葉が。腹立つことがあったんなら、嫌な奴がいたのなら、それ書いておいてよ。あの時の、あの一言がショックだったとか、あれが気になって仕方なかったとか、何でもいいから。自分に不甲斐ないと思ったのか。宅配のバイト、辛かったですか。勉強したかったですか。もうどうでもよくなりかけてましたか。どうなんですか。論文書けない気持ちは、申し訳ないが、よく「分かる」気がする。でも、読み書き能力は、別に研究のためにあるもんと違いますよ。研究にも使えるだけで、コミュニケーションの道具なんやで。文系なんやし、折角それなりにもっている道具があるんやから、何か書いておいてよ。ネットもあるんやし、見える場所に。それが読まれて、「分かる」「分からん」言われるんなら、別にいいがな。コミュニケーションなんて部分的に伝わったら上出来なんやから。無言で象徴的行為をしてしまうくらいなんやったら。それしかどうしようもなかったんやろうけど。書くような気力なかったんやろうけど。自分用には何か書いていたのかもしれないけど。黙ってやったら、どんなしんどかったかしらんが、自己中心的な、幼稚な愚行と判断するしかないやないですか。そんなことしたら、「気持ちを読み解いてよ」と、誰かに甘えてるだけに見えるやないですか。知らん人なのに、勝手に乗っかって、自分が何かを言うための素材にしてしまい、申し訳ないです。自分は何の迷惑もかけられてないのに。ごめんなさい。でも、あなたの気持ちはよく分からない、とだけは言っておきたい。

自分もそのうち死ぬでしょう。当たり前だけど。一応、自然なお迎えが来るまで待っているつもりではおりますが、人生何があるかわかりません。さっきも書いたように、私ら同様、似非インテリな皆さんなら、一度や二度は、ああいっそのこと、と思い詰めたことくらいあるでしょうし、これからも絶対ないとは言えません。「その状況」からの出口があった人でも、それは当然、いろいろあるでしょうから。だから、まぁ、しないようにはしますが、もし、そんなことになったとしてもですね、「ああ、彼も「その状況」に苦しんでいたからなぁ、気の毒に」とか勝手に分からないでください、とお願いしておきます。(誰にお願いしているか、というと、半分は自分に言ってます。)私は、別に、日々、全面的な苦しみにあえいではおりません。部分的には、いつも幾つもの不安に苛まれていますが、そんなの「普通」でしょう。実際、お金で解決できることがめちゃくちゃ多いので、ツイッターなどで愚痴はこぼし続けるかもしれませんが、暑い、とか、地震怖いな、とか、白菜高いな、とか、そういうものと、同種のものですわ。「ソフトランディング」云々、も、そりゃもうずっと考えています。動きが遅いだけで。パッと動けるようなら、もうどうにかなってますわ。何の話や。えー、だから、もし、万一、そういうことになったら、今では想像できないような、それなりの理由がいろいろあったからに違いないのです。仕事上の不遇と関連する諸々は、そのうちの一つではあるでしょうが、たぶん、その時の自分を突き動かした主要因ではないはずですので、ひとつ、その辺、よろしくです。

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/450029/

2018年9月5日水曜日

淀川を渡る暴風

今の住まいは、淀川のすぐそばの古いマンションで、ベランダから河川敷越しに梅田の高層ビルも見渡せるなかなかの絶景なのだが、遮る物がないため、普段から相当に強い風が吹いている。今回、「非常に強い台風」がほぼ直撃ということで、ベランダに物を置かないでおく、というくらいの緩い警戒は一応していたのだが、まぁでも倒れるわけはないし、万一洪水でも3階から上は大丈夫だろうし、と、どっちかというと非日常を期待するような気持ちの方が強かった。多くの人も同じだろうけど、風が強くなる直前まで(うちで言うと午後2時位)ちょっと風が強いかなって程度で、JRが前日から運休予告したり、色んな店舗が休業していたりした割には、それほどでもないかもな、なんて思っていた。

が、暴風圏に入ると、想像の何倍という激しい風が吹きあれた。淀川の水面から水しぶきが吹きあがる。河口から潮が逆流しているのが、はっきりと分かるように、どんどん水位があがっていく。いつも、少年野球やサッカーチームが練習しているグランドも波に飲み込まれ、バックネットやサッカーゴールなんかも激流にながされている。うちの部屋は、ベランダに面したアルミサッシが古びているため立てつけが悪いのだが、突風にガタガタ震えはじめ、これは壊れちゃうんじゃないかというくらいだった。同居人と二人で、変化する様子を、すごいなと半分笑いながら眺めていたのだが、すぐに余裕がなくなってきた。防災的には、こんな時は、窓から離れてじっとしておくべきなのだろうけど、ガタガタの揺れが破壊につながるような気がして、半身になって窓全体を抑えていた。アニメの竜巻シーンみたいに、色んなものが空中を飛びまわりはじめた。時たま、風の塊りが波しぶきをまとめて、ぶつかってくるみたいに吹きつけてきたりした。このサッシ、とても持たないぞ。ぶっ壊れたら、部屋の中めちゃくちゃになるな。いや、ひょっとして、死んでまうんじゃないか…。頭の中が真っ白というほどではないが、どうしたらいいかよく分からない状態になっていた。とにかく、怖かった。激しかったのは、小一時間か。体感としては、もっと長かった。やがて、ピークを過ぎたのがはっきり分かってきて、ようやくツイッターを覗いたりする余裕が生まれた。

ニュースで、状況確認。各地の被害、あの風なら、そりゃそうやろうと思う。そにしてもJRの予告運休はほんとに英断だ。都市全体を無理やり休業に持って行っていたからこそ、これくらいの被害で済んだのだろう。ちょっと前に、たまたま大阪の水についての番組で、大正区のかつての水害の話を見たところだった。室戸台風とか伊勢湾台風の時、海抜ゼロメートルのあの地域がどれだけ水害の被害にあったか、それ以降、3メートルも地上げしたり、防潮堤整備したりして被害はなくなったという話だった。この辺りも、ゼロメートル以下地帯で、それらの台風の時の被害はすごかったはず。子どもの頃、社会科の時間でちょっと勉強したような。それらの過去の教訓が生かされて、土木整備がされたからこそ、この程度なのだろう。気象学とか、土木技術が、過去の経験を引き継いだ知恵の結晶であり、それを行政が生かすことの重要性にあらためて気づかされた。

5時位から、堤防の上にも人の姿がちらほらし始めた。ピークの時は、流石にどんな命知らずの野次馬でも立っていられるような状況じゃなかったが。満潮の時間を念頭においても、大きな危険は去っただろうと判断し、私と同居人も、辺りの様子を見に出かけた。近くの緑地帯では、大きな木が何本も根こそぎ倒れていた。道路では横転しているトラックもあった。瓦がところどころはがれている家もあった。公園の近くでは、交通標識が一本、ぽっきり折れていた。テントみたいなものが、電柱に引っかかっていたりした。

そんなこんなで「非常に強い台風」は、とても恐ろしいものだ、ということを実感しました。気象予報士の方々がツイッターなどで鳴らしていた警鐘は、本当にその通りでした。今回の、そしてこれまでの諸々の自然災害で被害にあった人たちの、怖さ、これまでよりはもうちょっとだけ共感をもって分かるようになった気もします。すぐに喉もと過ぎた感じになってしまうとは思いますが。

河川敷を高潮が飲み込んでいた時

中学生が「インスタ映えや!」とハイテンションで撮っていた。他人の不幸を何やと思てんねん、と言いながら、自分もパチリ。運転手さんは無事だったよう。

近所の緑地帯、大きな木が何本もバッタリ。抜かれてしまうことになるんやろうか。

少年野球のネット。ゴミがたまっていた。

どこまで水が来たのか、一目瞭然の「ライン」ができていた。

2018年9月3日月曜日

日記も書けない

ブログは更新しなくても、自分用の日記(のようなもの)は書いていたのだけど、ここ二週間くらいはそれも止まりがちになっている。忙しいから、ではなく、むしろ反対、自由が多すぎて何も手につかないような状態に近い。情けないが、だいたいいつもこの時期はこんな感じになる。講義が始まったら、とても忙しくなるから、自分のために、自分の「本当にやるべきこと」のために、積極活用すべきなのだが、そう考えるだけで身体が固まってしまう。ちょっとはマシになったと思ったのだが、人間性なんて簡単には変えられない。これまでためしてきた打開策をちょっとずつ実現させていくしかない。旅行に行ったりもしたかったのだけど、その計画を立てることすらできなかった。もっとシンプルに考えるようにしないと。とはいえ、競輪場に行ったり、懐かしい人にあったり、ちょっとは休みらしいこともしたので、ぼちぼちここでの「公開日記」も更新しよう。

2018年8月22日水曜日

いれずみと私

りゅうちぇるの刺青の話は、興味深い。そういえば、日本の芸能人は表だって入れている人少ないようだ。韓国の芸能人を見ていると、びっくりする位、多くの人が入れている。ガッツリ系から、ワンポイントまで色々だけど。その割に、地上波では結構規制もあって、入れている人がテレビ出演する時は、その部分にテープを貼ったりして隠したりしている。完璧に見えなくするというより、間接広告にならないために商品名を隠すみたいに、ここ隠してますよ、と分かるような隠し方で。そんな面倒があるなら、テレビ出る仕事の人は入れなきゃいいのに、と思うけど、入れたいという気持ちはそれを上回っているのだろう。

自分は、刺青に対しては、「わ、刺青だ」という感想を持つ。ファッションだから、自由だから、とか否定しないための理屈は後から頭に浮かぶが、まずはやっぱり「わ、」と思う。教えに行っている大学の一つで、女子学生の足首に、小さな彫り物があるのを発見した時など、口には出さないが、「へー、はー、ふーん、うーん」としばらく色んな感情がわいた。すぐに、なんてことないか、と思うようにしたが、身近な人が「入れようと思うんだけど」と言ったら、とりあえず反対はするだろう。やめといた方がいいんじゃないですか、と。連れ合いとか、いないけど自分の子どもとかなら、本格的に反対すると思う。やめておけ、と。なぜだろうか。不良のシルシだからか。それは当然あるけど、やっぱり、ファッションっていうものは、流れ去るものであり、今カッコよくてもそのうちそうじゃなくなるに決まっているから後悔する可能性が高いよ、というのもある。その意味では、ヤクザ屋さんの「伝統柄」はそのリスクは低いのかもしれないが、今の話は、そういう本格的なやつの事ではないので、とりあえずおく。(もちろん、線引きなんて簡単にはできないだろうが。)身体に刻み付ける、という行為のメッセージ性は、強力なものだと感じる。

というわけで、自分は(多分)入れないが、あこがれの気持ちもある。入れている人を見たら、この人は、あるタイミングで「引き返せない道を行く」決断をしたのだなぁ、という尊敬の念も感じるのだ。決断。自分が避けてきたものだ。しんどかったら、引き返せばいいや、と常に精神的な逃げ道を用意しながら生てきたような気がする。実際には、刺青を入れたって別に引き返せるし、自分だって、ゆるゆるとは小決断を積み重ね、その結果、引き返せない深みに知らず知らずはまり込んで今に至っているのだから、何とも言えないのだけど。とにかく、「よし、ここで、自分はこう生きよう」と決意するのは、カッコいいと思う。りゅうちぇるのお父さんも龍をしょっていたんですってね。それが、彼にとっての父の背中だったのだな。

刺青入れている方、銭湯やサウナでご一緒する機会があったら、たぶん、チラチラ見てしまうと思います。単にビビっているわけでも、もちろん、バカにしている訳でもありません。自分なりに、メッセージを受け取っているのです。失礼にならない範囲にとどめますので、悪くとらないようよろしくお願いします。もし、入れるとしたら、どんなのがいいかなぁ…とちょっと妄想する今日この頃。

2018年8月18日土曜日

競輪、新規ファン開拓のために

 今から十年くらい前、奈良競輪のスタッフだった方から誘われて、初心者競輪体験イベントに協力したことがある。競輪を見たことがない学生に来てもらい、レースを楽しんでもらって、率直な感想を聞きたい、という趣旨の企画だった。その頃、つき合いのあった大学院の後輩や、学生さんなんかを10人くらい誘って連れて行った。自分がしたのはそれだけだが、競輪場側は、この少人数を相手に、現役選手への質問会や、中継に良く出られている女性フリーアナの方がレクチャーする入門講座に、宿舎や道場を含めたバックヤード見学、場内食堂でのお食事券にお土産まで用意してくれる本格的な構えだった。たかが学生を何人か連れて行くくらいなんてことないのに、ここまでしてくれなくても、とその時は思った。しかし、競輪場側からしたら、それなりに関心を持った若い新規客が10人もやってくるなんて、なかなか得難い機会だったのだろうと、あとから気づいた。本当に、学生がどんな感想を持つか、知りたかったのだとも思う。

 連れて行った人たちには、楽しんでもらえたと思うけど、だからと言って、その中の誰かが、そのまま競輪ファンになるなんてことはなかった。企画サイドも、そこまでは期待していなかっただろう。売上げ増という目的を考えると、その効果は、ほぼゼロだ。参加者は「生で競輪見たことあるよ。結構面白かったよ」と言ってくれる人にはなった。とりあえず、それでOK。そういうイベントをやっていくことで、次の動きを作っていくこと、そこに意味がある、というくらいの気持ちで立てた企画だったのだと思う。直接的効果は薄くとも、とにかく何かやらないとじり貧だ、という危機感のもとに。もしかしたら、内部のスタッフ(お役所の方も含め)へ刺激を与えたい、という狙いもあったのかもしれない。

 あれから、競輪をめぐる状況はより厳しくなった、ように見える。現場では、何か手はないか、といろいろ模索されているようだ。たまに、競輪の人気回復策はないですかね、とか聞かれることがあるが、一般論的な意見しか思いつかない。コマーシャルの内容や打ち方など、現状の広報戦略には疑問はあるが、そのあたりは、上の方の色んな関係で決まるのだろうから、自分なんかが何か言っても仕方がないだろうし。それでも、今回、”競輪の本”を出版したので、別に競輪関係者になったわけではないけれど、新規ファン開拓の必要性を、10年前よりは他人事ではなく感じるようになっている。やっぱり競輪にはもう少し盛り上がって欲しいし。組織の「上の方」はともかく、持ち駒が少ない中、現場で苦闘されている担当の方や選手会の方々に、何か協力できないかという気持ちはある。自分は、広報について勉強したことなどない素人だが、広告代理店のような「専門家」に任せた所で、これまでうまくいかなかったのは明らかだし、色んな意見のひとつとして、自分の考えを書いておくのも無駄ではないだろう。

 という訳で、こういうことすればちょっと効果があるんじゃないか、ということを幾つか思いつくままに書いておきます。

1.女性ファンにこそ、こってりとした競輪を
 やはり、人口の半分である女性ファンを作ることが必要だ。プロレスや野球など、「昭和の」「男の」という匂いの強かった娯楽が、復活したのは、女性人気のおかげだ。もちろん、そんなことは誰でも分かるから、女性向けの企画が立てられていると思うのだけど、「女子会のような」とか「スィーツを用意して」というノリは、ちょっと逆方向かなと感じる。プロレスや野球の楽しさを発見した女性たちは、普通に、それまで男が楽しんでいたものを楽しんでいるだけなのだ。野球場では、おっさんと同じようにビール飲んで楽しんでいる。「スィーツ」は、真壁や大乃国を見ても分かるように(?)、今では逆に「男」に向けてアピールし始めているように思う。(という訳で、ケーキ用意してくれる企画があったら、オッサンも参加OKにしてください。)
 アルコールから、ソフトドリンクへ、喫煙から禁煙へという流れも(多分、その中にギャンブル離れもあると思うけど)男女共通の動きだ。女性を呼びたいからって、「オッサンが考えた女性」向けになってたらピントはずれだと思う。

 だから、女性を呼ぶにしても、ガッツリ、場内のオッサンたちが楽しんでいる通りの競輪を、競輪競輪したまま教えて、楽しんでもらうような企画がいい気がする。面白い、奥が深い、ギャンブルの競輪に、あなたも挑戦しませんか――というストレートな感じの。お楽しみ企画より、車券を当てることに、レースの奥深さを楽しむことにターゲットを絞った講座がいい。先の10年前の時も、いろいろ話を聞くより、生のレースをちょっとでも沢山見て、予想の仕方を教えてほしい、という参加者が多かったように思う。
 午前中、集中して予想紙の見方をレクチャーし、これまでのレースを何本か映像で見せ、4レース位から、全レース、とにかく予想して、ちょっと車券買って、レースを見てみる。後半は、できれば、特観のような所より、場内で金網越しに見た方がいい。また次に自発的に来て遊べるように。

 選手への質問会とか、バックヤードツアーとかは、既存のファンの人にこそ、優先的に参加しやすい形で実施した方がいいように思う。

2.関心を持ってくれそうな人に貪欲に呼びかける
 現実問題として、ギャンブル、自転車競技、このどちらかにちょっとでも関心がないと、ファンになってもらうのは難しいだろう。スポーツ観戦好きは、ちょっと可能性がある。ということは、そういう層に的を絞って積極的にアピールした方が良い。ネットのターゲット広告は実施しているのだろうけど、競輪ファンにしか届いていないような気がしてもどかしい。

 例えば、ガールズのサイトや、「けいりんマルシェ」というサイトは、keirin.jpとどういう役割分担になっているのだろう。keirin.jpを見て分からない一見さんが、「けいりんマルシェ」をわざわざ見に来るだろうか。別にダメだしする気はないのだけど、綺麗、オシャレに作っているってことは、結構お金もかかっているだろうし、それなら効果をもっと検証した方がいいのでは、と思ってしまうのだ。

「けいりんマルシェ」のツイッターアカウントを見たら、200何人しかフォローしていない(執筆時現在)。どんな人をフォローしているのかと確認したら、選手が主だ。競輪情報を、選手に宣伝しても意味がないだろう。ツイッター上で、競輪について何か言っている人をサーチして、どんどんフォローしていき、応答を期待すべきだろう。さらに、自転車競技、競馬、競艇、オートなど、関連のありそうなことをつぶやいているアカウントは、片っ端からフォローしまくる。ガールズの選手や、日本代表選手などが地上波のテレビに出たりしたときは、すぐにエゴサをして、関心を持った人をひっかける。それくらいの粘りがいるだろう。自分がツイッターしかよく分からないから、例にあげているが、その他のSNSもいろいろ工夫の仕方があるのじゃないだろうか。

3.既存のファンを大事に
 競輪場に来ているファンたちや、大口の上客達にもっとおもてなしを、というのは言うまでもない。それ以外に、競輪の情報発信ブログやyoutubeのチャンネルを持っている人などを、もっと尊重して、活用すべきだろう。運営のあり方に批判的な意見も多いだろうが、良薬は口に苦しで、厳しい声も含めて、競輪広報の貴重な資源になり得る、と考えた方がいい。丁寧な記事を書いているブログなどは、積極的に公式サイトで取り上げて紹介したり、味方として取り込もうとするくらいの貪欲さがいるように思う。

 ファンを増やす王道は、今来ているお客さんに、友だち、知り合いを連れてきてもらうことだ。その人がまた、別の人を、という流れが途絶えたから、今の状態になっているのだろう。ミッドナイトも、新しいファンがついたというより、これまでのファンの競輪離れを何とかくい止めている、というのが実際のところじゃないかと思うのだが、どうだろう。やはり本場開催を生で見て、一日楽しんで、という経験をした人でないと、いきなり銀行口座作ってネット投票の手続までいかないように思う。とにかく、既存の客を大事にして、そのネットワークを生かすことを考えてほしい。

とりあえず、以上です。

書いてみると、外野からの「一般論」に過ぎないような気がしてきたが、折角だから公開しておきます。激増している外国人の旅行者をお客にする方法はないか、とか、考えてみたいことはありますが、いずれまた。

2018年8月13日月曜日

祭りを担がず生きてきた

小学校の低学年まで尼崎の外れに住んでいた。同じ文化住宅に住んでいた人たちや、近所に住む同級生の親世代の人たちは、うちの親同様、高度成長期に関西圏外の地方から来た人がほとんどだった。近所の神社でお神輿を担ぐお祭りがあり、親が私を参加させようと連れて行ったら「よその子はダメ」と言われたそう。自分はよく分かっていなかったし、そもそもそんなの参加したくなかった(理由は身体を動かすのがしんどいから)から平気だったが、親は長らくその排他性を怒っていた。

その後、大阪市内に引越した。近くに神社は無かったが、夏休みに町の一角に夜店が出る日というのがあって、それを見に行って何となくワクワクする、というようなことはあった。今考えると、近くの公園に住吉神社の址という石碑があったから、元はその神社の祭りだったのかもしれない。あと町内会の盆踊りなんかもあったが、町内会やPTAで活動する大人(市会議員とかか)の子どもと、ヤンキーが大きい顔をする場という感じで、楽しい思い出はない。中学以降は、覗きにも行かなくなった。

実家を出てから、幾つかの場所を経て、今は実家の隣区に住んでいる。かなりの世帯が暮らす古い集合住宅で、夏になるとナントカ神社の賛助云々という名目で町内会がお金を集めに来る。夏祭りの経費だという。いくらでもいいからというので、最初の年には数十円だけわたしたが、何とも釈然しない気持ちが残り、以降、一切断わることにした。ここから100メートルも離れていないくらいのほんの近くにちょっとした神社があるのだが、この住宅が出来た40年くらい前、ここの住民は「よそ者」として氏子に入れてもらえなかったらしいのだ。そのため、ここの町内会の人たちで、無理やり新しい神社を(いろんな由来のお話をひっつけて)作ったそう。詳しくは知らないが、たぶん、そういう流れだと思う。その神社、夏祭りと、初詣の時とだけ、それらしい飾りとかをつけているが、普段は拝む人などだれもいない、変なスペースになっている。

由緒ありそうな方の近所の神社(大正期にはあったらしい)、そして、さらに隣町には、本格的に由緒のある神社(中世からあったらしい)が二つくらいあって、それぞれ別に祭りをしていて、最近の「保守化風潮」を反映しているようにしか自分には見えないのだが、自分が子供の頃よりも、盛り上がっているような感じなのだ。太鼓をたたいたり、岸和田の小型版みたいなダンジリの引き回しをしたり。それらを眺めると、しらっとした気分になってしまう。同じようなくすんだ下町に住んでいる者同士で、よそ者だ、どうだなんて線引きして盛り上がってるんだろうな、と考えると。

もちろん、この辺りは基本は都会だから、盛り上がっている人らの方が少数派なのだと思う。住人がほぼ全員参加の祭りがあるような所に住んでいて、しかもなんかの理由で、そこに参加できない、してもしんどい、なんて状況になった時のキツさなんてこんなもんじゃないだろうな、なんてことを考える。

お祭りというもの、あってもいいとは思うけど、やり方なんか、どんどん変えていけばいいんじゃないのかなぁ。とにかく、自分の人生とお祭りは、何の関係もないことは確かだ。何かに組み込まれ損ねた、ということではあるのだろう。観光のために、地域の祭りを残すのはいいと思う。が、自分は別に見たいと思わない。祇園祭は一回行った。もう一生行かなくていい。天神祭も、一二回は行ったからもういい。自分には関係がないものだ。話題の阿波踊りなども、見たら面白いのかもしれないが、別に見なくてもいいな。よく分からないけど、弾圧されている人がいるなら、頑張ってはねのけて欲しい、ような気はするが。うーん、民俗学を全否定するような発想になっているかな…。いや、そんなこともないですよね。今の時点での、ある種の民俗記録として書き残しておきます。生まれた所から、半径10キロくらいの範囲に半世紀近くも暮らしてきた古老(手前)の語り。

2018年8月10日金曜日

毎日が夏休み

今年の後期は週11コマ。収入の面ではありがたいが、半分くらい来年には無くなると言われているから、モチベーションは低いし、移動して一日に4コマとか体力的にかなりきつくもあるので、前期の講義期間中からすでに不安だった。今でも結構しんどいのに、後期は大丈夫か、と。ようやく、夏休みになった。採点なども大体片付いた。自分の時間として活用すべき自由な時間なのに、授業が再開したら、そんな生活に耐えられるのだろうかという心配に襲われ、精神的に委縮してしまっている。そんなことなら、早く始まってしまえばいい、というマゾ的な気持ちも湧き出て来たり。まともに働いている人は、数日間の夏休みを楽しみにしていることだろう。自分は休みが何日もあるのに、何とも言えない焦りの感情を抱えてふわふわして過ごしているだけだ。もっとも、まともな収入があった上での連休ではないから、そんなに罪悪感は感じていないが。

どうやったら、自分の「自由」を生かせるか。こんな生活をするようになって、というか、こんな生活が続くことがはっきりして以降、何度も考えてきた。焦りの感情は自分が作り出した幻影だ。そこから逃れるために、森田療法とかマインドフルネスとかの本を読んだりもしたが、最近はその手の本がそそらなくなってきた。自分は、神経が鈍感だから、うつにはならないようだけれど、もう少し平安な気分で過ごす時間を増やし、自分なりの課題に、前向きに取り組みたいと思う。そのためにはどうするか。とにかく、何かを実践していくしかない。何か、いつか、と言っていると、ただの焦りになるから、具体的なことにとりくみ、それを淡々と積み上げていくことをめざす。結局、結論はいつも同じだ。それにプラスして、もっと隣人のために生きることを心がけることと。自分のことしか考えないで生きてきたから、実践するのは大変難しいが、とりあえずの目標として。

老眼が進んでも、髭に白髪が数多く混じるようになっても、朝めちゃくちゃ早く目が覚めるようなっても、頻尿気味になっても、自分は中二病なのだ。死ぬまでこのままなのか、と不安になるが、体力の減退とあわせて精神のあり方も少しは変わって来てはいるようではある。成熟か枯れていっているだけか、よく分からないが。自力でここから抜け出すのは、なかなか難しい。自分の精神をあまり覗き続けない方がいいのだろう。

どこかに行って気分転換したいが、金がかかると思うとどうしても腰が重くなる。とはいえ、生きている内が花だからな、何か工夫して、活動する気力を呼び起こしたい。

2018年7月21日土曜日

生活を薔薇で飾れというけれど

ユニクロに行ったらズボンの安売りをしていた。これは買いだな、と試着室に向かうと、担当のバイトさんが「あ」という顔をした。見覚えがある。某所で私の講義に出ていた子だ。恥かしさに襲われる。ユニクロを着てユニクロに行く、というのをちょっと前までは一応さけていたが、最近では、ユニクロ以外の服がほとんどなくなってしまったので、気にしないようになった。この日も、全身そうだった。ただの店員役割の人からならテレパシーで伝わってきても平気な「全身ユニクロづくめで、2000円のズボン買いに来てるで、このオッサン」という脳内のつぶやきも、別の所で先生ヅラして接している相手からだったら、パンチ力が違う。「今すぐ買わずに帰りたい」と思ったが、ズボンをもって試着室に来てしまった以上、どうしようもない。動揺を隠ぺいするために、スッとした顔を作り、「ナントカ大の学生さんですよね」と声をかけた。バイト頑張ってね、的な感じで。お前が頑張れよ、という話だ。お前が。

勉強が苦手な人ばかりが集まっている大学で、少人数講義でも、寝てたり、ゲームしていたりという学生がほとんど。彼女もそんな中の一人という印象だった。そんな子が、テキパキと働いている姿を見て、企業の人を操る力ってすごいなと感心する。何だか恐ろしいな、とも思う。そしてまた大学なんていらんのじゃないかとも思う。勉強が好きではない者までかき集めてようやく成立するような大学なら。それが、今の所、自分が食い扶持を得ている「企業」なのだし、嫌ならやめろという話だろうが。まぁ、自分もバイトだし。それに、来年には、ここはクビになる予定だし。

それはそれとして、ユニクロで、自分は働けるかなというのをちょっと考えた。きつそうに見えるけど、案外何とかなるのだろうか。というわけで、自分でもできる他のバイトを緩やかに探す日々です。当分、ユニクロから逃れられなさそう。(GUも含む。)

2018年6月30日土曜日

見たくなければ見なければいい、の話

 控室で英語担当の女性講師が「先生、今日は眠くありませんか?」と声をかけてくれた。非常勤講師としていろんな所で働いているが、「コンニチワ」「オツカレサマデシタ」以上の会話はあまりしない。そんな中、いつも何か話題を振ってくれるこの方は、貴重な存在だ。「あんな試合なら起きてなくてもよかったかなって後悔しましたよ」と笑ってらっしゃる。本当に、少し眠たそう。ワールドカップの話だな。自分は見てない。見ていないけど、やっている時間は起きていた。だから、眠くはある。ツイッターも眺めていたから、何がどうなったかは、だいたい知ってはいる。どう答えようか、と一瞬ためらったが、考えるより先に、「僕はサッカー見ないので、眠くありません」という拒絶的な言葉を発してしまった。「…あ、そうなんですか…」「ええ、国家代表とか、そういうナショナリズムが嫌いなんです」と余計なことまで口にした。言った瞬間、激しく後悔したが、遅かった。「ああ、そういえば、まぁ、そういうのは、あれですよね」と、気まずさを調整するような言葉を相手に言わせてしまった。
 「こんにちは」「お疲れさま」と仰っただけなのだ。「暑いですね」「鬱陶しい天気ですね」の延長線なのだ、「サッカー何々でしたね」も。見てなくてもいいのだ。「僕、見てなかったですが、どうでした?」とか、「これこれこうなんですってね、見てないですが」とか答えたらいいだけなのだ。サッカーとは何か。スポーツはどうあるべきか。はたまた国家とは…、なんて、何の関係もないのだ。どうして、自分は、こんな当たり前の大人としての対応が出来ないのか。
 まずい、と思い、「知人も好きな人が多いですからね、サッカーは」「ヨーロッパリーグとか応援していたり、ナショナリズムを越えた魅力がありますよね」とか、いろいろ取り繕うことを口にした。自分の言葉はいつも軽いが、これらの言葉の空虚さは後に引きずるほどのものだった。
 
 別の男性講師の方が入ってきて、お二人で、サッカーの話は継続された。ああいう作戦をどう評価するのか。フェアプレーポイントみたいなのがあるのは初めて知った。次にあたるのは、どこどこだ。ドイツが韓国に負けたのは意外だった。前回優勝チームは、予選敗北というジンクスがあるのだ。などなど。全く試合を見ていない自分でも、全て知っている話ばかりで、楽しい会話は続いていた。
 日本中で、あるいは、焦点は違うだろうが、世界中で、同じ話を、同じようにみなでやっているのだ。あれは良かったのか、ダメならどうなのか、それにしてもあれでは、とはいえあの場合は。そういうものなのだ。自分は、たまたまサッカーからは距離があるだけで、他のテーマについては、同じようにやっているのだ。あれはどうだ、これは、こうだ、あれはゆるせない、でもこれはしかたない、あんな意見があるが、それはこうだ、これが分かっていないのだ、でも、たしかに、まぁ、そうですね、と。
 
 三島由紀夫が『不道徳教育講座』で、流行には乗っておけ、「乗らないぞ」なんて意識している奴の方が、よっぽど流行に左右されているのだ、というようなことを言っていた。まさにそうだと思う。ここ連日、ワールドカップの事ばかり気にして過ごしている。一試合も観ずに。流行に左右されまくっている。
 講義の雑談で、「早く終わらないかな、とかネットでつぶやいてますが…」と言ったら、ちょっと受けた。安物の「ぶっちゃけ芸」みたいなことをしてしまっている。恥かしい。視聴率がある程度正確なら、まぁ、半分弱くらいの学生は見ている、という感じだろうか。
 いつからこんなに「気にする」ようになったのか。もう覚えてない。中田とか、カズとか、武田とか、川口とかは、名前と顔が一致するから、その人たちの頃は、普通に試合も見ていたのだと思う。熱心ではなかったが。その次の世代は、コマーシャルに出ている人の一部とか、モノマネされる人くらいしか知らない。いつからか、意識して見ないようにし始めたのだろう。
 私の知っている社会学者には、野球ファンは少ないが、サッカーファンは多い。自分にとっては、それが余計に苦手意識へとつながっているような気もする。準拠集団の皆さんへの恐怖感か、何かしらないが、とにかく。ここ何年かの間に、試合の映像がたまたまテレビに映っていて目にしたことはある。何となく、面白そうな感じはする。しかし、その面白そうな感じが、またちょっと気持ち悪かったりする。
 
 ふと考える。自分の内なるコレは、数年前「韓国嫌い」の連中が、フジテレビにデモをした時の原動力と同じものなのではないか、と。「嫌いなら見なければいい」「誰も見てくれなんて頼んでいない」「好きな人の邪魔しないでくれ」。KARAや少女時代が好きな自分は、韓国の芸能人を日本のテレビに出すな、と訴えた、あのデモの連中を憎んでいる。馬鹿な奴らだと心から軽蔑している。あのデモは、戦後に実施された大衆デモの中で、「目的を達成した」数少ないもののひとつだ。自分が、ワールドカップに感じるコレは、あいつらの感じていたものと同じなのではないか。「嫌いなら見なければいい」のだ。確かに。「好きな人の邪魔」なんてしてはいけないのだ。しかし…。黙っている、ことの何とも言えぬ圧力。だから、つい「嫌だ」を訴えたくなる。あいつらと自分は、同じ穴のムジナなのかもしれない。
 肥大化した自意識と、メディアが作る疑似環境と、そのあたりの問題だろうとは思うが、どうか。もう少し、きっちり考えないといけない、かもしれない、かも…。

 と、まぁ、このようなことを考えながら、鬱陶しい雨の中、二つ目の勤務先に移動した。
 ここの学校は、女子スポーツ部が盛んで、グラウンドでは彼女たちのトレーニング姿がいつも目に入る。どのクラブも、雨のために練習は休みのようだった。そんな中、女子サッカー部の学生数人が、びしょ濡れになりながら、ボールの蹴りっこをしていた。前日の試合を見ていて、じっとしていられなくなったのかもしれない。本当に楽しそうで、サッカーが面白くて仕方がない、という様子だった。こんな美しいサッカーを見てしまい、グチグチとこねくり回している自分の気色悪さが恥ずかしく思えてきた。

 なんですね。運動不足ですね。自分。たぶん。あと、カルシウムとかも足りてないのかも。4年後は、ケロッとした顔で、あそこの監督はどうたら、とか言っているかもしれません。その時は、すみません。ああ、でも、もう次の試合は惜敗してほしいなぁ…。

2018年6月21日木曜日

時の人・木暮選手との遭遇

 ツイッターでチラッと書いたが、岸和田競輪場で開催された高松宮杯最終日の帰り道、偶然、木暮安由選手に遭遇した。南海の新今宮で環状線に乗り換えるのだが、木暮選手もそうだったらしくホームでスマホをのぞいて乗り換えの確認をしていた。
 スラッと背が高く、高そうなオシャレスーツを着ていたので、なかなかのオーラだった。私は、「あ、木暮だ!」と引き寄せられるように近づいて行ってしまった。レース直後とはいえ、競輪場から出たオフの状況で、ファンに話しかけられるのは迷惑だろうと思いつつ、このタイミングで、あの木暮選手に偶然会えるなんて、これは競輪の神さまのおぼしめしなんじゃないか、と思わずにいられなかった。

 私は、もともと木暮選手が好だった。コメントや記事を通して、レースに独自の哲学を持っているように感じていたし、たたずまいというか、無表情じゃないのに感情があまり表れない、勝負師らしい顔なんかも気に入っていた。去年、18きっぷを使って、大阪から福島のいわき平まで、ちんたらオールスター競輪を見に行ったけど、その時、木暮選手は目の前で危険な落車をした。ユニフォームも擦り剥けズタボロで担架に乗せられた彼に、例によって興奮した客の一人が罵声を浴びせた。片膝立てで運ばれながら、木暮選手は、その客の方にスッと目を向けたのだ。そして、ほんのちょっと笑った、ように見えた。その表情には、何とも言えぬ色気があった。とても印象深いシーンだった。
 今開催で、彼は競輪界の時の人になった。決勝戦に当って、競輪界の常識を覆すような選択をしたからだった。ファンには説明不要だろうが、簡単に解説すると、競輪は地域毎にラインを組んで半団体戦で戦う。その際、強い先行選手の後ろの位置が好位置になるのだが、一番有利なそこに誰が行くのか、その後ろでどう並ぶかは、だいたいの慣例で決まっている。今回、吉澤という選手が関東地区の先頭を走ったのだが、そのすぐ後ろの位置をめぐって、木暮と武田豊樹が競ることになったのだ。武田はタイトルを幾つも取ったスター選手で、木暮にとっては隣接地区の大先輩。しかも、武田と吉澤は師弟関係にある。慣例なら、その絆を尊重し、武田に前を譲り、三番手をまわる、という選択をするところだった。しかし、木暮は、タイトルを取るために、二番手を武田と争う、と宣言したのだ。木暮と武田の競り、というニュースは、ファンの間に大きな衝撃を与えた。「お約束」を破る、下克上宣言だった。
 評価は様々だ。めちゃくちゃだ、バカじゃないか、という意見も多かった。競りになるとエネルギーを消耗して、たとえ武田に勝ったとしても、一着になれる可能性は低いだろう。今回は、オリンピックを狙う脇本という近畿の選手が絶好調だ。関東で力を合わせて何とかするべき時に、そんなことをしたらそのチャンスもなくなるだろう。もし、三番手が嫌なら、近畿地区の二番手とか他のラインに競りかけるべきだ。武田に挑むにしても、この機会が、よかったのか。云々。どれもごもっともな意見だった。
 今回の木暮選手の選択が正しかったのか、どうか、自分は分からない。そもそも、何を以て正しいというのか、そんなものがあるのかも分からないが、とにかく、私は、彼の選択に、とても興奮した。いったい、どんなレースになるのだろう。どんな思いで決断したのだろう。挑まれた武田はどんな気持ちになっただろう。これから、他のレースで同乗しても、ギクシャクすることになるだろう。他の選手にも、不文律を破る奴だと見られるようになるかもしれない。それを分かって、木暮は選択したのだな。ここに至るまで、どんな経緯があったのだろうか。どれほどの決意だったのだろう。とにかく、これは、ぜひぜひ生で見なければ…。
 昔、プロレスのタイトルマッチをワクワクした思いで待ったような、そんな気分になれた。ビッグレースの決勝は、いつも楽しみではあるが、今回の期待感は、予想とはまた別の、何か競輪の歴史に関わる場面が見られるんじゃないかというような、そういう種類のものであった。競輪がただのスポーツではなく、かといってただのギャンブルでもない、人間関係のしがらみを意識しながら個人が仕事として戦い続ける、独特の性質を持つものだということを、改めて感じさせるものだった。
 結果は、結束した近畿ラインの思い通りのレースになった。武田と木暮の二人は競りに消耗し、下位に終わった。ただ、しこりだけが残ったと言えるのかもしれない。しかし、「競りになる」という情報が流れてから、レースが終わるまで、十分に楽しませてもらった。木暮選手のこれからには、目が離せないな、と思って競輪場を後にした、そんな自分の目の前に、その木暮選手が現れたのだから、テンションがあがってしまったのだ。
 
 「握手してください!」とミーハー丸出しで声をかけた。よく考えたら、良いオッサンが、一回り以上も年下の男性に言うセリフではないが、ほんとに握手して欲しかったのだ。
 木暮選手は、あ、ハイハイという感じで、応じてくれた。その雰囲気に、優しいものを感じたので、「競りのレース、面白かったです!ああいうレース見たかったんです!」と「気持ち」を伝えたら、「あ、ほんとですか!それなら良かった!ああいうレースもたまには良いですよね?」と嬉しそうに相手をしてくれたのだ。オッサンのハートは一瞬で鷲掴みされた。イメージと違って、なんとさわやかなんだ。今回の自分の選択にファンの一人が喜んでいる、ということを、彼が喜んでいるということが、何とも嬉しかった。いやぁ、良い選手だなぁ、と改めて感じた。「がんばってください!応援してます!」と木暮選手を見送った。
 
 彼も、ここで環状線に乗り換えるようだった。訳の分からないファンに付きまとわれたら迷惑だろうと、しばらく待って距離をとってから、自分も環状線の方に向かった。すると、背の高い彼の姿がまだ改札の前に見えた。どうやら、乗り換えに戸惑っているらしい。それならば、と「新大阪行くんですか、ならこっちですよ」と案内することにした。聞くと、ユニバーサルスタジオ方面に行きたいのだという。家族が来ていて合流する約束らしい。なるほど、G1の次の日は、家族サービスなのか、とほほえましく思い、迷惑でなければ自分も同じ方面だから乗り換えの駅まで連れて行きますよ、と伝えた。「いやぁ、大阪の人は親切ですねぇ、すみません」と笑いながら一緒に環状線ホームに向かった。ホームにいた、ちょっと年かさのおじさんが「あ、ヤスヨシ!」と木暮選手に気づいて声をかけた。東京から来て旅うちしているというボートと競輪ファンの人だった。「東京からですか!すごいですね」と普通に会話しながら、まるで前から知り合い同士みたいな感じで、三人一緒に電車に乗った。
 折角だから、今回の「選択」について、おそるおそる気になることを聞いてみたら、拍子抜けするくらい率直に、自分の考えを話してくれた。「武田選手と気まずくなりませんか?」と聞いたら、「どうですかね。自分は、挨拶はするつもりですけどね」と答えてくれたり。もちろん、一ファンに語ってもいいのはどんな話か、考えてのことだろうけど。
 「親切にしてくれたお礼に」と私と、もうひとりのおじさんに、特製Quoカードまで手渡してくれた。「木暮、クソって思った時には、500円使ってください」と笑いながら。おじさんがサインペンを持っていたので、私も便乗でサインしてもらった。
 
 ということで、これから私は、木暮選手の出るレースは、彼の頭から応援車券を買うことにします。こんなことがあったら、皆さんでも、たぶんそうなるでしょう。
 業界を騒がせた掟破りの癖の強い競輪選手、木暮安由は、とにかく、めちゃくちゃナイスガイでした。

 ⇒木暮選手の情報はこちら

2018年6月19日火曜日

滝沢正光校長にご挨拶

 土日、岸和田競輪場にG1高松宮杯を見に行ってきた。レースも面白かったが、それとは別に、個人的に嬉しい事があったので書いておきたい。決勝の日曜は、お世話になっている大ベテラン記者の井上和巳さんがいらしていた。お久しぶりにお会いしたので『月刊競輪WEB』のお礼など、立ち話をしていたら、近くを滝沢正光さん(元「怪物」、現日本競輪学校校長、競輪ファンには説明不要ですが詳しくはこちら⇒Wikipedia)が通りがかった。井上さんに促され、挨拶するため名前をつげると、滝沢さんはすぐ「立派な本、ありがとうございました!」と満面の笑みで応じてくださった。
 滝沢さんとは初対面ではない。7年前、女子競輪が復活する時に競輪学校の見学をさせてもらったのだが、その時にちょっとだけお話はさせてもらった。「僕は今、滝沢選手と喋っているんだなぁ、不思議だなぁ」と感じながら。
 それもあって、競輪学校宛てで拙著を一冊送らせていただいてはいたのだが、まさか、読んでもらえるとは期待していなかった。競輪ファンならご存じの通り、滝沢さんは大変腰が低く、どんなファンにも「神対応」の人だから、誠意のこもった社交辞令であるとは思いながらも、“ーー勉強のためにいつも机の近くに置いている”、”ーーお書きになられたような過去から我々は学ばなければいけないと思う”、などと言っていただき、「うれしみ」に溺れそうになった。本を書いて良かったなぁ、とシミジミ感じた。「滝沢が読んでくれるんだから、頑張れよ」と若き日の自分に発破をかけに行きたいくらい。
 「いつでも来てください!案内します!」と校長先生から直々のお墨付きをもらった以上、競輪学校の取材には、ぜひもう一回行かねばならない。

2018年5月31日木曜日

若者あたり

午前中だけで終わりの曜日がある。真っ直ぐ帰ったらいいのだけど、今日はぐずぐずしてしまった。とりあえず、昼飯を食べようと、非常勤先の学食のひとつに行く。次回の用意などしていたため、ピーク時からちょっとずれたが、それでも賑やかだ。他の勤務先である「小さい大学」の学生がこの様子を見たら驚くだろうな、とか余計なことを考える。勉強の環境はしらないが、キャンパス経験という意味では、マンモス私大は恵まれているような気はする。総じて楽しそうだし。あくまでも、全体としてはだから、時に暗い顔をして歩いている学生の姿もよく見かけはするが。そういう目で見ると。ここは自分の出身大学だが、非常勤で来るようになって10年以上経過している。学生ではないが、ちゃんとした職員でもない、という中途半端な立場で週にちょっとだけの時間を過ごしながら、懐かしい思い出の上に、少しずつつつまらない色の絵の具で上塗りしていっているようなものだ。それでも、時には、ふと何か思い出したりするが、一瞬で過ぎ去ってしまう。フェイスブックなどをやるようになって、当時の知り合いや友達たちとも、実際にはほとんど会ってないのに、薄いつながりがあったりもして、そこで小出しに伝達したりすることで、追憶の情も薄くなっているような気もする。男女グループも多い。夏休みの計画や、海外旅行のことなんかを、元気に話している。自分が学生の頃は、男女一緒に楽しそうに喋ったり、あまりしなかったような気がする。まぁ、でも、当時からイケているサークルの学生は同じようなものだったのかもしれない。講義なんかをし始めた頃は、今の学生はなんと勉強しないものか、と驚いたり、文句を言ったりしていたが、最近はあまりそう感じなくなった。学生が勉強をするようになった訳ではないが、自分の学生時代はもっとひどかったということを客観視できるようになったからだ。彼らに何か言ったり、ああしろこうしろという資格は、少なくとも自分にはない。仕事だから、役割として最低限のパフォーマンスはする。オッサンの常として偉そうに指導したいという潜在的欲求は常にあるから気を抜くと、最近の若者は…と言いはじめそうにもなるが。ちゃんと大人になれなかったということなのだろう。ただ老けただけで。こんなに成熟できないまま、全体として枯れていくのか、と思うと憂鬱になるが、幸いな点は、マイナスに向かう力も弱まっているということだ。お金持っている人たちに混ざると、自分が惨めになる。いたたまれず、早く帰りたくなる。若い人たちに混ざっても、同じ。惨めになり、早く帰りたくなる。でも、ここは我慢しなければ。前々回の記事で書いて以来、飲酒は控えているが、酒の誘惑を断ち切ると、甘い物が誘うよう。誘惑に負け、食後、アイスクリームを買ってしまう。舐めながら、キャンパス内をちょっとうろうろ。普段見ない、文化系クラブの告知ポスターを眺めたり。国文学研は、文学を読まないメンバーも歓迎します、と書いてあった。何するんだろう。中国語研は、昼休みに発音練習をするらしい。こういう所に入っていたら、どんな感じだったのだろうな、とかちょっとだけ妄想する。今のまま学生に戻ったら、韓国語のサークルに入りたいが、ただの妄想だ。自分が学生だった頃は、朝鮮語勉強するなんて、ほんとに少数派で、暗いイメージだったことを思うと隔世の感だ。このテーマ、いつかは真面目に考えたいなと思いながら、自分にはもう「いつか」なんてないのだから、やるなら今やるしかないと思うと、ならやめておこうか、となるのだった。アイスも食べたし、もう帰ってもいいが、折角だからと図書館に寄る。新しく入った本を何となくながめる。ネトウヨみたいなのが書いた本が並んでいて、こんなインチキな本を図書館に置くなよ、とひとりぶつぶつ言ったりする。何か借りようかと思ったが、借りていてまだ読んでない本があるから、それを返してからにしようと思い、何も借りずに帰路についた。外にいて、ちょっと暑くなってきたりすると、こんな気分の時は飲みに行ったら気分転換できるかな、という誘惑が頭をよぎるが、実際には別にそんなことはないのだ。もっと本質的な喜びを味わうことを、今からでも目指さないとな、と考える。やった方がいいことは沢山あるが、どれも、楽しみな部分が少ない作業のため、なかなか着手できないでいる。とにかく、若い人らは、眩しい。食あたり的な意味で、ちょっとあたるところもある。

2018年5月28日月曜日

ミニシアターで革命を夢見る

映画『マルクス・エンゲルス』を見てきた。映画館で映画見るなんて、いつ以来か、覚えていないくらい。だから、映画を見にいくという経験自体に、いろいろ感想を抱く。それが面倒くさくて、映画館にはなかなか足が向かない。1800円なんて、無産者階級には高すぎる、というのが一番の理由だが、「金があったらやりたい・行きたい」リストでも、あまり映画は上位にこない。本当にすきなら、DVD借りたりして、いろいろ見るだろう。

それなのになぜ見に行く気になったのか。講義でマルクスの話をちょっとする関係で、予告編を見て、面白そうだったからだ。自分は、マルクス主義者ではない。だいたいこんな思想だろう、という知識はあるが、社会学をやっている人の常識としてまぁ少し勉強したというくらい。ただ、マルクスとエンゲルスの二人の関係については、かなり気になっている。岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年―自嘲生涯記』1983を以前に読んで、ここに載っていた二人の書簡と、そこから見える関係性に興味があったから。天才で人間的には問題だらけそうなマルクスと、ええとこの子で、人間味のあるエンゲルスとの関係が、どんな風に描かれているか。

実際の「革命」は、どう評価していいか分からないが、今ではない別の社会へ向けて、人々が動き出そうとする瞬間には、やはりロマンを感じる。感傷的な左翼風味趣味にすぎないかもしれない。映画はどうだったか。画面がきれいだった。「映画」が久しぶりだったから、そう見えたのかもしれない。彼らが活躍した当時のヨーロッパの風景がうまく再現されているように感じた。もっとも大した知識もないから、本当の再現度はわからない。

違和感があったのは、女性の活躍がちょっと現代風すぎたところ。二人のパートナーが、強烈な個性の革命闘志として描かれているが、この頃は、当然、もっと男性中心の運動だったろう。その辺はつっこまなくていいのかもしれないが。

弾圧されたり、追放されたり、激しい日々だが、実際には、彼ら二人とも、ほとんどの時間、原稿を描きつづけていたんだな、なんてことも思った。つけペンを使って、ノートをとりながら、プルードンの『貧困の哲学』を読み、批判本を書くシーンが印象に残った。ペンで書いて、インク押さえ(ブロッターっていうんですね)で乾かしながら、どんどん紙を張り付けて修正していくように原稿を書いていた。なるほど、あんな感じで書いていたのだろうな、と興味深く感じた。

あとは、二人が出会うシーンは、やっぱりよかった。突っ張り合いながらも、お互いを認めあった瞬間は、キュンキュンしてちょっと恥ずかしくなった。

まぁ、映画っていうものは、多くの人が関わって作っているもんだな、と今さら思いました。高層ビルのようだ。その大層さが、どうも苦手なのかもしれない、と思った。本なんて、編集の人入れても数人で作っているから、触れるのも気楽な気がする。

平日の昼に行った。スカイビルのミニシアターだった。100何人か入るくらいのところ。客席は、ポツポツ。ガラガラってほどではないくらい。ひとり若者っぽいのがいたが、大半が自分より年上のようだった。年齢層だけでいうと、競輪場と同じだ。年齢層は同じでも、競輪場と違い、プロレタリアートっぽくない感じの上品な人たちが中心。かつて革命の夢を見たような世代だろうか。元学校の先生っぽい感じの人も多いように見えた。今から革命が起こっても、もう、関係ないだろう、というような人たちが、若きマルクス、エンゲルスの青春に何を見るのだろうか。「もう関係ないだろう」自分は、上に書いたようなことを、見た。1800円はきつかったが、後悔はしなかった。年に一本くらい映画を見にいくのも悪くないかも。

予告編はこちら

2018年5月10日木曜日

酒よ

アルコール依存症らしい人の話を聞くと、胸が痛い。そして怖い。自分だって、たぶん依存症だからだ。たぶん、とか付けるのは、直視していないごまかしの態度のあらわれだ。ただ、依存症についての本などに出てくる「底つき」までは行ったことはない。歯止めが効かなくなるまで飲み続けて、もうだめだ、と痛感するような体験のことだ。そこまでいくと、もう断酒しかないという。ひと口飲んだら、また底まで行ってしまうことになる。TOKIOの人の話とか聞くと、退院後にひとり酒を始めて、とめどなく、という報道されている流れが本当なら、間違いなく依存症なのだろう。自分は、そこまでは行っていないが、飲み始めたら、ずっと飲みたくなってしまうのは間違いない。条件が整えば、幾らでも飲み続けると思う。そういう自分の症状を自覚して、3年くらい前に、意識的に禁酒した。(前に書いたと思うが気にせず続ける。)その頃、将来の希望がない、という状況に耐えきれず、酒に逃避するようになった。もともとだらしない酒飲みだったが、ひどさが明らかに増していた。非常勤講師の仕事に行く。仕事の前はさすがに飲まなかったが、終わったら、すぐに飲みたくなった。帰りの駅のホームで缶ビールをあける、なんてことも結構あった。一度やると、飲まないと物足りなくなる。ミナミの立ち飲みに一人で出かけた。夜中に酒がなくなると、コンビニまで行って、安い日本酒のパックを買ったりもした。同居人は基本的に酒を飲まず、酔っ払いを嫌悪している。だから歯どめになってくれている。用事で彼女がいないとき、監視の目を盗むような気持ちでコソコソ飲み始めたりすることも多かった。飲めば手軽に気分を変えられる。ちょっとの間だけだが、それは確かだ。YouTubeで何か聞きながら、酒を飲んで、ツイッターでも見ていたら、楽しい気分にひと時はなれる。しかし、まやかしの快楽であることは明白だし、醒めたら後悔しか残らない。充実した仕事なりをやっていて、仕事終わりや休みの日に飲んだりするくらい、全然問題ないと思う。自分は違った。そんなスカッとした飲み方など、ほとんどしたことがなかった。逃避の為だけに飲んできたのだ。その頃は特にひどかったが。

これじゃだめだとさすがに思うようになった。かつて見た、アルコール依存症の互助グループのドキュメンタリーの映像や、中島らもの『今夜すべてのバーで』などの描写が、反面教師として助けてくれたようにも思う。そこまで行ったらもう大変だぞ、というような。ずっとほったらかしにしていた「本」の刊行にあらためて再挑戦することを決意し、書くためにも、酒はやめようと誓った。人と会う時は除外して、という甘いルールだったが、とにかく一人で飲むのだけはやめようと。任期付きの常勤仕事が終わり人と会う機会がグッと減っていたので、飲み会などもほとんどなかった。ただ、一年間で、一回か二回くらいはそういう機会があったかもしれないが、それまで週1回の休刊日さえ守れなかったことを思うと、なかなかのものだった。その後、ちょっと崩れはじめた。原稿を書き進んで、気持ちも緩んだのかもしれない。去年の春、熊本に調査をかねて旅行に行った時、ひとりでは飲まないという禁をやぶって夜行バスを待つ時間に飲み屋で大びんのビールをあけた。覚えている、ということは、まずいことをした、という気もあったのだろう。それでも大崩れはしなかったが、ぐっと飲酒習慣に近づいたことは間違いない。飲まなかった間は、スーパーの酒のコーナーとかを見て、「ああ昔はここで酒を買っていたんだなぁ」とか過去形の眼差しを向けていた。無駄遣いをしていたなぁ、なんて思っていたのだが、ちょっとずつ、飲みたい気持ちが復活してきた。酒を控えたおかげで、何とか、本も書けた。しかし、仕事が終わりに向かうと、生活の目標を見失うような気持ちにもなっていった。もともと自分は弱い人間なのだ。相当気合いを入れないと、自堕落に向かう。人と飲む機会もちょっと増えたり、家でも、同居人と安いワインを軽く一杯飲むということが増えた。昔の酔っ払い状態に比べたら、飲んでないようなもの、だが、でもやっぱり、酒は酒だ。たまにでいいや、という感覚から、毎日飲みたいという欲が湧くようになり、すきがあればズッと飲んでいたいという意識になってきた。やめた方がいいかな、と考えると、何だかとても寂しいような気がしてしまう。これは、依存症の症状だ。6年くらい前にタバコはやめた。タバコもやめる前は、一生やめられないような気がしていた。多くの人がそうだと思う。やめると考えるだけで、とても寂しい気持ちがする。何か大事なものとお別れするような気持ちになるのだ。だけどやめられた。

酒も同じだろう。安いワインが一本、飲みかけで冷蔵庫に残っているが、もう飲むのはやめよう。そう考えると、酒を飲まずして、何の楽しみがあるのか、なんて気持ちになる。酒にとらわれてしまっているのだ。だからこそ、やめた方が良い。ただ、断酒までは考えていない。人と会う機会には、飲む楽しみを残しておきたい。人と一緒の時だって飲まなくてもいいじゃないか、とも思う。本当はそう思っていないのだが、そう思うようにしたい、ということだ。とにかく、ひとりで、飲むために飲む、ということはもうやめよう。といいつつ、明日には、また飲もうとするかもしれない。そんなものだ。それならそれで、明後日また、やめることを決意すればいい。とにかく、毎日飲みたくなる、という心理状態から、自由になりたい。そのためには、依存症であることを自覚することがスタート地点だという気がする。これから先、楽しいことなど、ろくにないのは事実かもしれない。でも、飲んだって、そんなものはないのだ。まやかしだ。喜びは、自分で作っていかなければならないのだ。小さな喜びを作り出す努力がいるのだ。そのためにも、酒からは自由でいたいと思う。ずっと我慢するとか考えるからしんどいのだ。今日一日は飲まないように、を毎日続けることだ。そのためにも、あらたに目標を立て、建設的に生きることに努める必要がある。それと同時に、今日一日に意識をもってきて、先の不安を過剰に取り込んで、自分で自分を縛るようなことをやめるように心がけることだ。

ゴチャゴチャしたままでも、今の思いを文字にして書いておけば、生活の改善へ向けての、ちょっとした指針くらいにはなるだろう、と思い、書き殴ってさらしておくことにした。あまり重く考えずに、小さく決意しておこう。

(去年の春、と書いている熊本行きは、一昨年だった。どっちでもいいけど、自分のためにメモだけ。)

2018年5月6日日曜日

頭の中のケシゴム的な

記憶障害がひどい。同世代の友だちの多くも、「あるある」と言っているようだから、何てことないのかもしれないが、絶対知っているはずの言葉が出てこなくなるとさすがに焦る。講義をしていて、アドリブ的に脱線して事例を出そうとしている時に、固有名詞がでなくて、あの、あれ、あれがですね、になることもたびたび。年寄りに向かっているということなのだろう。

ただ、自分自身の頭脳の特性というか、欠陥もやっぱりあるのかなと思うことも。若い頃は、自己反省、自己省察を、今思うと全然していなかったので、全く気付かなかったのだけど、昔から「ストーリー」を記憶するのが苦手だった。今はあまり小説を読まないけど、若い時は、近代文学の名作とかは一応読んだ。読んで、面白いな、と思ったが、あとで筋を全然覚えていなかったりするのだ。同じのを読んだ妹に、あんな話やったな、と言われても、あ、そうだったかなという感じ。一回二回の話ではなく、よく考えたら、ストーリーのほとんどがそんな気がする。子ども頃に熱中したマンガなんかは、買って手元においたらだいたい数回は読み返したので、さすがにそんなことはないが、一回しか読まなかったものに関しては、まぁ、記憶に残っていないのだ。

パッと見て、ズッと覚えている、という能力者がいる一方で、反対もいる、ということで、自分は反対側なのだろう。細々と読書会をやったりしているが、一か月くらい期間が空くと、もう前回読んだところがどんな内容だったのか、付箋貼ってあっても思い出せなかったりする。読んでいる時は、それなりに、面白いな、と思ったりしているのだけど。何のために本など読むのだろう、と思う。同じ事をツイッターで何度もつぶやいているけど。

父親が何度か倒れて以降、記憶がどうも曖昧になっているよう。コミュニケーションをしていると、時間軸が狂ってきているのに気づく。昨日と2週間くらい前が切り分けられなかったり。それでも、田舎にいた頃のこととか、仕事をしていた頃のこととかは、それなりにハッキリ覚えているようで不思議に思ったりする。昔は顔も含め、あまり似ていないように思っていた親だが、この頃は、そのまんま受けついでしまっているな、と感じることがたびたびある。世話する立場で接すると、今までとは違って客観的に見えるからかも。自分もやがて、脳内がもっとぼんやりしていくのだろう。その時、どんなことを繰り返し語ることになるのか。父親とちがって自分には子どもがおらんから、そんな頃には、話し相手になってくれる人もいないだろうし、存在しない相手に迷惑をかけるかもとか心配する必要はない。ただ、文章を書いたりするから、今よりも恥ずかしい何かを、ネットの虚空に向けて書き散らかしたりすることになるかもしれないな、とは思う。もうなっているとも言えるが。

メモしたり、ノート書いたり、外部化しておけば、記憶力が衰えても「問題」はないのかもしれないが、そんなことしているから、余計に、記憶力が下がっているのかも。まぁ、よく分からないが、これからも、たぶん、同じことを何度も書くことになるだろう。

2018年4月26日木曜日

理解してくれるやつが1人いたんだ

野球は普段見ないので、深い所はよく知らないのだけど、たまに耳にする「いい話」には弱い。衣笠が亡くなったことに関して、江夏が記者に答えたインタビュー記事を読んで涙がちょちょぎれた。例の21球の時、ギリギリの場面で声をかけに来て、何かあったら一緒にやめてやるから勝負しろと言ってくれた、という話。

「あの苦しい場面で自分の気持ちを理解してくれるやつが1人いたんだということがうれしかった。」(日刊スポーツ Web記事 20180425付

ピンチの時、理解してくれる人が「1人」いるということが、どれだけ嬉しかったか。他人と分かりあうということのありがたみについて教えてくれるエピソード。

「ため息を繰り返した江夏氏は自身に納得させるように「いいヤツを友人に持った。俺の宝物だ。ワシもすぐ追いかけるんだから。次の世界でまた一緒に野球談議をするよ。それが楽しみだ」と話していた。」(同記事

「いいヤツを友人に持った。俺の宝物だ。」なんという心のこもった、真実の言葉なのだろう。江夏が、覚醒剤で逮捕された時も、裁判に来てくれたという。いいヤツのありがたさは、何度も失敗を経験しながら、くり返し確認したことなのだろう。

自分は、とても「いいヤツ」にはなれそうもない。でも、できれば、隣人に対して、大事な時に、分かった、共感している、ということを伝えられる人間になりたいと思う。「俺の宝物だ」なんて言ってくれる友人を持ったなんて、素晴らしい人生を生きたのだろうな、衣笠さんは、とあらためて思う。あんな大選手なんだから、素晴らしいに決まっているんだけど、そういうスターとしてだけではなく、まぁなんというか、人間としてという意味で。野球ファンでもなんでもないくせに、明日も、頑張ろうというような気持ちに、ちょっとなります。

2018年4月21日土曜日

貧乏くさいことを言うな

テレビを見ていて海外のどこかが映ったら、「ああ、こんな所、一生行かずに死ぬんだろうな」と思う。きれいだな、とか、楽しそうだな、とか、何かしらんが、まずはその場所についての感想が浮かぶべきなのに、すぐ自分のみじめな話に結び付けてしまうのは、よくない癖だ。思わず口にしてしまい、「辛気臭いからやめろ」と同居人に言われることも多い。確かに。自己愛にもとづく自己憐憫のようなものか。わからないが。何ですな、貧乏なのは仕方ないとしても、貧乏くさいのは避けた方が良いですな。と、まぁ、頭では理解していながらも、根が貧乏臭いのが好きなのだろう、すぐに憐れっぽい感情がわき、それを表明したくなるところがある。貧乏臭さの露出狂だ。改善すべき。もっと、スン、としていたい。第一、一生、ヨーロッパやアメリカに行けなくてもそれがなんなの。金持ちだって月には行けまい。とか、なんとか、すぐ言いたくなるのも、やめた方が良い。やめた方が良いことばかりだ。

2018年4月3日火曜日

ホームランバー

見舞いの帰り、扇町公園でぼうっとする。桜、ちょっと散りかけ。なかなかキレイなもの。春休みということで、子ども連れでにぎわっている。若い夫婦と元気なちびっ子たち、という、絵にかいたような幸せの図に、路上で生活している高齢者がただただ時間をつぶしている姿がまじる。春の暖かさを、しみじみ味わってはるのかもしれない。時間つぶしをしているのは、自分だ。今年度初のアイスを食った。ホームランバー。

2018年4月2日月曜日

予定変更、新年度あけまして

この週末、韓国競輪の取材に行く予定だったが、流れた。一緒に行く予定の人があてにしていた通訳兼コーディネーターの方の動きが悪く、取材の段取りがつかなかったためだった。普段はひとりで行動しているのだが、出版を機会に面白い出会いがあり、韓国取材に一緒に行こうと盛り上がったのだ。残念だが、結果として今回は行かないで正解だった。今、老父母が入院、施設預かりとなっている。半ば計画的なもので、韓国には、それを承知で行くつもりだったが、いざそうなってみると、いろいろ予想外の問題が発生し、取材していても気が気ではない状態だったろうと思う。

新学期に入ると忙しくもなり、家のバタバタもしばらくは続きそうだから、韓国行きは無期延期にせざるを得ない。韓国くらい、私の住んでいる大阪からは東京行くよりも安くつくくらいで、もっと気楽にパッと行けばいいのだが、できれば韓国の選手のインタビューをしたいと思っているのだ。アポをどうやってとるかというのもあるし、機会をもらっても自分の韓国語力では深い所は全然聞けないので、通訳の人が使えるらしい、という今回の取材計画は貴重なものだったのだ。

少ない生活費からさらに削って取材しているので、プロを雇うような余裕は全くない。研究費とか取材費を獲得するように何とか工夫するか、あるいは、もっと韓国語をのばして…これは現実味は薄いな。とにかく、何とか無い知恵をしぼって再チャレンジしよう。とはいえ、「いつか」「時間ができたら」などと言っていると、そんな機会はやってこないのも確か。できる時に、できる事をする、ということがいかに大事か。自分自身を振り返っても、周りの人を見ても、やはり強くそう思う。しかし、ちょっと時間的余裕ができると、やる気も減退し、ただただぼうっとして、今やるべきことを先延ばしにしてしまうクセは、なかなか直せない。ああだこうだ言ってないで、ちょっとでも動くことが大事だと、頭では分かっているのだが。今の不安、先の不安、自分自身への諦めなど、あるがままにして、とりあえず動いていこうと、自分に言い聞かせる。

新年度の始まりだが、組織外の存在のため、入学・卒業式のような公式イベントはもちろん、新歓や花見のようなものも全くないので、意識的に切り替えをしないと、泥沼のような気分でフレッシュな人たちに対峙することになってしまう。まぁ、何とかなるとは思うけど。毎年、同じような身体の重さを感じる季節ではあるし。とにかく、毎日を少しでもマシなものにしたい。老眼が進んでいるんだから、中二病をもうちょっと直したいと思う、今日この頃であります。

2018年3月31日土曜日

書くことを生活に組み込みたい

週に一回は更新しよう、と考えていたが、難しい。一日のうち、何にどう使うか、それを決めて、うまくコントロールできない。実はあと数日はまだ仕事がなく、何をやってもいい時間だ。普通に仕事をしている人なら、これだけの休み、とても貴重だから大事に使うだろう。ただゲームとかをして無為に過ごす人もいるかもしれないが。いや、ゲームをして無為に、という表現自体、間違っているか。楽しくゲームに時間を費やせるなら、いい自由の使い方だろう。自分の場合、今は収入は低いが休みは多い生活をしている。だから、時間の自由さに対するありがたみを感じにくくなっており、折角の長い休みを全く有効活用できていないのだ。仕事的なものにも、遊びにも。

何をしようとしても、それをするなら、これをすべき、という考えが頭に浮かび、身体がとまってしまう。それで結局、本当に何もせずに一日が終わり、こんなことなら、せめて遊ぶべきだったか、とか、本を読めばよかったな、とか考えるのだ。なら、何かそういう予定を次の日には入れようと思うのだが、いざ、これから何かをやろうという段になると、同じ気分のくり返しで、それをするなら、これを、これなら、あっちが、ということになる。何とかしないといけない。そうやって、ただただ歳をとっていくのだな、と考えると、絶望的な気分になってくる。

何の話だったか。ブログの話だ。ブログの記事を書く、というのは、今の所、やってもやらなくてもいいことだ。だから、やるべき、と少しは意識しないと、書く気も起こらないのだ。仕事でもないことを、ノルマのように思うのは馬鹿馬鹿しいに決まっている。だが、もっと定期的に更新して、生きたブログ(ブログでもnoteでも何でもいいが)にしたいという気持ちもある。訴えたいこと、伝えたいことが特別にあるわけではないが、日々、頭の中をすぎゆくモヤモヤを、テキストにしておきたい、他人に伝達可能な形式の何かに一応しておきたい、とは思っている。

それは、大げさだが、生きたいという欲望と結びついた何かだ。先のことを考えると、気が重くなる。生活のこと、とくに、来るべきバイト生活を思うと、絶望的な気持ちにもなる。おそらく、三年後には高年フリーターとして、フルタイムに近い形で最低賃金の仕事を何かしなければならないだろう。本当は、来年からそうなのだが、来年は、働かない(時間が余っても、その時間パートなどに行かないと言う意味)でおこうと決めている。しかし、次の年も、生きるつもりなら(もちろんそのつもりだが)おそらく、何かをしなければいけない。それを思うと、ただただ怖い。今よりも自分はもちろん、周りの人間も歳をとっていることを考えると余計に。

だけど、3年後を想像して、怖がって、今、やるべき何かをできないなら、どうしようもない。フリーターになるにしても、生きているということをちゃんと意識して生活したい。そのためには、書く、ということを活用するしかないのではないか。書くことによってバランスを保って、何とか生きていく気力を萎えさせないようにできるのでは、と何となく思っているのだ。となると、それは、今から始めるべきことだ。まだ余裕のある、今の時点から、書くクセをつけておかないと、もっと絶望的な状態になった時に、とてもじゃないが書く気力なんてわいてこないに決まっている。だから、生活に書くことを埋め込む必要がある。今すぐに。

で、初めに戻る。何をするか、を毎日、毎日、自由に決められる、恵まれた状態にある。だけど、何も決めていないのだ。それが焦燥感につながる。小さな決断が必要だ。決断してこそ、こんなものでも書けるというものだ。決めなければ、こうしなければ、ああしなければ…、どうして仕事でもないのに、義務感を抱かなければならないのか、と嫌になるが、それはやはり仕方ないのだ。まぁ、いい。とにかく、書くためには、時間がいる。時間をどうして確保するかというと、書くことによってだ。何事も、実行しながら、実行できるようにしていかなければいけないのと同じだ。何だか分からないが、こんな文章でも、書く前よりは思考が少しスッキリはした。このレベルの訳の分からないものでかまわないから、なんとか書くことを生活に組み込んで、前向きな意識を呼び起こすつもりで、書くことによって、書けるようにしていくことだ。と自分に言い聞かせる。

2018年3月23日金曜日

東京行ってきた

東京に行ってきた。何年ぶりかで学会発表をした。せっかく本を出したのだし、活動していることをPRしようと思った。これまでよりは面白い報告をできた気もするが、自己満足である。小さい学会の一般発表なんて10人くらいに聞いてもらうだけであり、言わば路上ミニライブ規模だ。締め切りギリギリまで準備できないクズなので、出発当日になってもまだもう少しパワポいじらないと、という感じだった。以前に比べたら、ずいぶんマシになったのですが、これでも。交通費をできるだけ安くしたかったのだが、結局、行きは新幹線を使わざるを得なかった。割引チケット屋で13000円也。下手したら韓国行って帰ってこれる額だ。高いな。早めに計画立てて、ぷらっとこだま(1万円)とか買っておくべきだったな、と後悔の念に襲われつつ、新幹線に乗る。(ぷらっとこだまは早めに買わないと買えないので。)決断の遅さが、常に問題なのだ。

新大阪に行くと、自分にとって贅沢なこの乗り物に平気な顔をして乗る人たちが山のようにいる。そのことにいつも圧倒される。自分も、さすがに「大人」だから平気な顔をしてはいるが、内心はそわそわしているので、疎外感を抱く。知人でも、高速バスを使って移動するのが当たり前、というような人たちは、皆「フリー」だ。新幹線には、遊びで乗っている人も多いが、多くは仕事のために「組織」の資金で乗っているのだ。遊びで乗っている人も、だいたいは、組織に属しているために得られる安定収入のおかげである。現代社会は組織で成り立っている、ということは、もちろん、ずっと「知っている」ことだが、でも、それを「しみじみ分かる」というのはまた別の話なのである。

組織に入るための努力を怠ってきた自分のアホさをあらためて嘆きながら、自由席の窓際の席に座る。去年、1万5千円で買った中古ノートPC(これは良い買い物だった)を広げて、パワポの整備をする。まるで出来るビジネスマンのよう。宿も決めておらず、どこかカプセルホテルにでも泊まろうと考えていた。出る前にチェックしていた、こましな感じの所に電話してみたが、満室と言われた。土曜だから、当然か。急に焦ってくる。前日、夜中まで準備していて、3時間しか寝ておらず、結構フラフラであった。発表は次の日の朝。少しは快適に寝られないと厳しい。スマホ持ってないから新幹線内で調べるわけもいかないので、東京駅に着いてから、他の候補を探す。JRの駅内は、フリーwifiが使える場合が多い。以前よく使った山谷のゲストハウスで、バックパッカー向けにドヤを改装した所も満室だった。去年の夏に泊まった、寝台列車の寝台を使ったゲストハウス北斗星にもかけてみたら、4500円と言われて却下。土曜だから高いのだ。面白い宿だったが、あの空間でそれは高すぎる。宿も決めずによく東京まで来たものだ、と自分の馬鹿さ加減に今さらおどろかされる。元気なら、そして明日も別にただ遊ぶのなら、ネットカフェでもかまわないのだけど、発表もあるし、せめて安眠はしたいなと。今さら知人の所に電話して泊めてもらおうかと思ったが、それならもっと早く言わないとな、それに準備がどうなるか分からない以上、ここはやっぱりカプセルホテルがベストだろうなとめぼしいのをリストアップする。そうこうしている内に時間が無くなり、会場の御茶ノ水近くの大学まで向かう。

いろいろ懐かしいお顔にあれしたり、あれこれ複雑な感情が湧き出してきたりもしたが、寝不足と疲労のため半分夢を見ているような感じで流れ去って行った。学会の雰囲気がどんなものかを確認し、一般発表だけ聞いて企画のシンポなどはパスすることにした。上野のカプセルに電話したら、予約するまでもなく空いていると言うので、とりあえずホッとする。神保町までちょっと歩き、古本を少し眺めて、そんなことしている場合じゃないや、とりあえずレジュメ作らないと、ということになる。USBメモリに入ったPDFをコンビニでプリントして、レジュメを作る。便利。でも、便利だからここまで引っ張ることになる。それでも、前日に出来上がったのは自分としては、ずいぶんマシだったりする。70枚用意しろとのことだったが、50で十分そうだった。A3裏表の一枚だが、20円×枚数なので50作ったら1000円も飛ぶのである。念のため多めに、とかいう贅沢はできない。実際、50でも大分余ったから間違いではなかった。宿に行き、近くのリンガーハットでチャンポンを食べ、宿の大浴場に入り、サウナでぼんやり映っているテレビをながめて、カプセルで寝た。つかれていたので朝まで眠れた。

次の日、朝一で会場に向かい、発表はつつがなく終え、さてどうしようということになった。最近、競輪場の取材に同行したJさんに連絡したら、ちょうど空いているというので、飲みに行くことに。自己満足の発表以外にもう一つ何か出来たのなら、交通費のもとも少しはとれたな、と嬉しくなる。午後の学会にも一応参加して、Jさんと会食に。これが無かったら、もう夜行バスで帰っていたかもしれない。宿は決めていなかったが、同じカプセルならいくらでも空きはありそうだったので、また泊まることにした。その後、どうしようか考える。別に急いで帰る必要はないのだ。もう一日くらい居ても構わない。この機会にどこか観光にでも行こうかと考えたのだが、しかし、どこにも行きたい場所がない。もちろん、お金に余裕があったら違うのだろうけど、わざわざ金を出してまで、と考えると、思考がストップしてしまうのだ。加齢による好奇心の減退というのもあるだろうな。残念ながら、競輪場もどこも開催していない。(本当は京王閣に取材に行こうかと思っていたのだけど、場外発売さえしない休業日だった。)とにかく、時間的自由があっても、金がなければ自由ではない、ということだ。

上野のカプセルホテル、二日目の夜は、隣の客のイビキに苦しめられ、全然寝付けなかった。疲れすぎ、解放感から興奮して喋りすぎ、その他いろいろ原因はあったのだろうが、とにかく苦しかった。せめてビジネスホテルに泊まれる旅行がしたいなと思うも、耳栓を持って来ればいいだけの話かもしれない。本当なら持ってくるのだけど、忘れてしまったのだ。あくる朝、Jさんと自転車文化センターに行く約束をしていたので、寝不足のまま待ち合わせ場所の目黒に。帰りは、昼行の高速バスに乗ることにした。3列シートで6500円くらいだ。最終が、東京駅14時過ぎだったのでそれを選ぶ。何年も前に一度だけお会いした学芸員のYさんと久しぶりにお話をして、資料を見せてもらう。面白いものがあったが体力的に限界で、また今度ということになる。本を書く前に見ておくべきものだったが、まぁ内容に影響があるものではなかったので、ちょっと安心する。Jさんと分かれて、東京駅に戻る。八重洲口近くの富士そばで朝昼兼用を食べる。富士そば、大阪にも出来てほしい。安くて美味い蕎麦(自分にはあれで十分)が食べられる店が欲しい。同居人からのリクエストのお菓子を探し、バスに乗って帰ってくる。9時間かかるが、うとうとしながらやりすごしたら、それほどしんどくはなかった。本を読む気力はなく、文庫本2冊も持ってきたけど無駄だったなと思った。肝心の学会のことやら、その他はまた今度。今度と言って、もう書けない事がほとんどなんだけど、とりあえず。

しかし、まぁ、何ですね。東京に行くと、社会ってデカいなと改めて思います。そして、自分の挫折の記憶みたいなものともちょっと結びついていたりもして、寂しい感情にも襲われるような、襲われる、なんて言ったら大分大げさなんだけど、まぁ、とにかく、すぐに「帰りたい」という気持ちが湧いて来たりして、嫌になります。帰っても、何の良い事もないのに。東京にしばらくは住んでみたかったなと思うけど、もう過ぎたこと。とにかく、金の心配をせずに、余裕をもった状態で、また遊びに来たいですな。

2018年3月8日木曜日

木の下に埋まっているのは

以前に住んでいた木造アパートの近くを通った。家賃、2万4千円で風呂なし・便所共同。不便と言えば不便だったが、街中にあり交通も便利で10年近く住みついていた。「昭和時代」の話ではなく、10年くらい前のこと。収入が無く、貧乏だったからだが、好みでこういう暮らしを選んでもいた。まぁ、また戻るかもしれないが。

アパートの近くに小学校があり、グラウンドは阪急京都線に面していて、何本か桜の木が植えられていた。線路の向こうから見える、踏切りを通り過ぎる電車越しの満開の桜、なんて図はなかなか絵になった。

アパート暮らしの初期は、本を書くことを最大の目標にしていた。しかし、一行も書けない状態が続いた。今となっては、ほんと何していたんだろうと思うが、まぁ要は遊んでいたのだろう。焦燥感だけは常に感じながら。「桜が咲くころまでには書く」と決意したことがあった。編集者に締切を設定してもらったからだったか、あるいは自分でそう考えただけだったか、もう忘れてしまったが、それでも結局全く書けず、暗い思いで満開の桜を見た記憶がある。その仕事には、その後蓋をしてしまい、メールの返事も出せなくなってしまった。普段はヘラヘラと暮らしていたのだが、桜の季節が近づくたびに挫折の記憶が思い出され、敗北感にじわじわやられるような気持ちになった。

長年、諦めてしまっていた仕事を、ようやく形にすることができた。これでようやく満開の桜も、スッキリした気分で眺められるかなと期待したいところだけど、どうもそう簡単にはいかないようだ。赤みを帯び始めた桜の木を見ると、やっぱり苦味がよみがえってくる。何ですかね。春って、そういう季節だってことなのかもしれないですな。

2018年2月25日日曜日

マスコミはやっぱりパワフルなんだな

最近、ツイッターとか自分の本の宣伝ばかりになってしまい、申し訳ないです。しかし、ここ数年、この本に「明日」を託してきた(って変ですが)ものですから、できるだけ多くの人に読んで貰いたいという気持ちがやっぱりあって、自分の使える告知手段はSNSしかなく、それでまぁ、こうなってしまうので勘弁してください。

発売から一か月経って、大学の時の友だちや、大学院関係の知り合い、競輪ファンでツイッター使っているような人の一部、くらいには「出しましたよ」情報が伝わったかなという感じだった。買って読んだとメッセージくれた方も何人かいらして。でも、それでもう頭打ちかもなと思っていた。アマゾンの売れ筋順位みたいなの見たら、私の本はおよそ「9万位」。どれだけ沢山の本があるんや…。しかし、紀伊国屋の梅田店にも何度か寄り、ギャンブルコーナーにひっそりおいてある自分の本を見て、これは確かに9万位だなとしみじみ思ったのでした。こないだ見たら、もう品切れで。実は、新刊書が出ると、最初は新刊コーナーに置かれるのだろうと何となく思っていましたが、それはとんだ勘違いでした。ビッグマン(待ち合わせスポットの大型ビジョン)横の入口のあそこにあるのは、全部売れることが予想される本だけなんですな。よく考えたら当たり前です。

そんな訳で、知り合い、SNSのつながりで買ってもらうのは、これで限界かなと思っていたところ、一昨日、日経新聞の夕刊に結構大きく取り上げてもらいました。非常勤先のある先生から時ならぬ電話がかかってきて、何だろう、仕事なくなるのかなと思って出たら「新聞に載っていたよ!★4つだったよ!」とのお知らせだった。さっそく、駅のコンビニまで新聞を買いに行き、読んでニヤニヤしました。そして次の日、アマゾンを見たら、2600位くらいにあがっていました。最初からそれくらいなら、本ってめちゃくちゃ多いんだなぁ。上に2000以上売れている本があるのか、とガッカリしたと思います。でもそれまで9万位だったから、序の口から、一気に十両くらいまで上がったような気分になりました。実際、何冊くらい売れたらそうなるのか分かりませんが、新聞離れだなんだって言っても、やっぱりマスコミってすごい力もっているんだなぁ、と今さらながら思いました。次の日からは1000位くらいずつ落ちてますが。でももう十分です。そろろそ「次」について考えていかないと…。

それぞれの人の貴重な時間を使って自分の本を読んでもらうということのありがたみを、初めて実感しています。他の人の仕事も丁寧に読まないとなということもあらためて。

2018年2月19日月曜日

スポーツに対する相反する思い

オリンピックをやっている。自分は、ほとんど見ない。興味ないから、というより、見るとワサワサとした感情がわくからだ。見たら、当然ながら、結構面白い。じゃぁ、面白いから見よう、とならない。ひっかかりは、ナショナリズム関連のものと、あとは、自分自身のスポーツへのコンプレックスもあるか、とにかく、よく分からないが、素直には楽しめないのだ。面白い所あるのに。自分は形ばかりとはいえ、スポーツ何とか学会に入っていたりする。そういう所にいる人は、全員がスポーツ好きだ。調べた訳ではないが、普通そうだ。近年、ポピュラー文化に関する研究とかも増えてきて、マンガ学会やポピュラー音楽学会などが生まれ、規模も大きくなっている。まさか、そんな学会に入っていて、例えば、マンガ嫌いや、音楽嫌いはいないだろう。趣味がいろいろで、こういうのは嫌だとか、うるさい人は多いだろうが、基本は、マンガ好き、音楽好きに決まっている。スポーツもそうだろうが、自分は苦手なのだ。じゃぁ、そんなものに関わらなければいいのだけど、気にはなるのだ。自分はなぜスポーツが気になるのか。それなのに嫌なのか。この辺り、これから真面目に考え直して、何か皆に共有できる形にしたいと思う。それにしても、一つの競技に人生かけて生きるってどんな感じなのだろう。何が見えるのだろう。何にも賭けずに生きてきた自分のようなものには、とても見えない何かなのだろうな。スポーツ苦手だが、スポーツ選手たちの姿が見える場所には居たい、と思ったりもする。

2018年2月15日木曜日

あけおめ他

あけましておめでとうございます。日本以外の東アジア圏では、明日あたりから陰暦の正月休みのようですが、この「あけおめ」は新暦のものです。11月から更新してませんでした。書きたいことはあるにはあったけど、どうしても優先順位は下になってしまっておりました。ツイッターは、暇つぶし、逃避、寂しさ紛らし、などなどの目的で毎日何かつぶやいてますが、ブログになるとちょっとは集中力が必要になり、やるべきことが他にある時は、なかなか手がつけられません。この間、ようやく本を出版できました。あれこれ20年かかりましたが、今回の本の原稿を実際に書きはじめたのは2015年くらいからです。このブログ、これまで無気力な記事を時に更新するだけでしたが、無事に出版できたあかつきには、宣伝したり、裏話を書いたり、あるいはテーマである競輪について情報発信したり、エッセーのようなものを書いたりするのに活用しよう、などと考えていました。自分には正規の仕事場もなく、積極的に関わっているアカデミックな集団もないので、「誰でも発信できるツール」を使って、直接、「読者」に届けるしかないだろうと。出版して3週間過ぎました。ツイッターは告知にちょっと活用して、全国で20人くらい(何となくの予想)には買ってもらったような気がします。ありがとうございました。出版を通して考えたこと、反省点なども、いずれ書きたいと思います。これまで、ツイッターは匿名で遊んでいました。知り合い等には隠してませんでしたが、知らない人には個人情報は隠したままでした。今回、本の宣伝をするために背に腹はかえられず実名垢(だいたいは)にしました。連動している、ここもそんな感じになっています。毎日、自分以外に一人のアクセスがあるかないかだったのが、10人以上くらいには増えたようにも思えます。全然更新していないのですが。本のことを知って、ついでにのぞいてくれている人もいるのでしょう。しかし、SNSというものは、顕名にすると書き込みに当って「こんなの書いてもいいのか?」という自分内編集者の声は、やはり強くなりますね。講義を受けてくれている学生さんに見つかって、不快な思いさせないかな、とか。政権の批判のようなものをつぶやいたら、これこれな人に、あれこれだと思われるんでは、とか。どう思われても別にいいけど、面倒くさくはあるな、とか。逆に、まじめに社会問題に取り組んでいる人とかに、競輪の話題とかめざわりかもな、とか。そういうものです。趣味用は趣味用。友だち用は友だち用。その他、自分が持っている顔毎にIDを使い分けてSNSをしている人がいるのを不思議におもっていましたが、分からなくもないではない。でも、ツイッターのタイムラインは、ごちゃまぜで色んな物が流れてくる方が、自分にとっては面白い、と今の所は思っています。あんまりアホすぎる差別的なものなんかは、ミュートするなどしていますが。とにかく、これしか手段がないから、SNSはしばらく使い続けます。ここも、もう少し頻繁に更新したいと思います。今年は。