2019年3月14日木曜日

紙の辞書を買った。20年以上ぶり、だろう。

紙の韓日辞典を買った。韓国語をだらだら勉強し始めて7、8年経つが、最初から電子辞書を買ったので紙の辞書を使うのは初めてだ。辞書を引くには、母音と子音の順番(カナダラ順という)、日本語の「あかさたな」みたいなのを覚えなければいけない。昔の韓国語学習なら一番初めに学ぶもので、私も一応はならったけど覚えてはいなかった。辞書を引く時以外必要ないものだからだ。代わりにキーボードでハングルを入力する練習はしていた。紙の辞書はどんなものでもある程度練習がいる。ハングルは特にそれが必要とされる、ように思う。子音の順、母音の順の組み合わせだけど、母音は結構複雑で21種類もある。それに習熟する練習なんて今どき必要ないだろう。紙の辞書がいい、なんてアナクロニズムだ、と考えてきたのだけど、ここに来てちょっと使ってみたくなったのだ。

きっかけは、紙の辞書を使う効能がテーマのネット記事だった。英語学習に関するもので、引いた言葉にラインを引いたりして何度も繰り返し引けば記憶に定着しやすい、というような事が書いてあった。よく聞く意見だが、確かにそうかもと思ったのだ。長年、勉強らしきことはしているが、基本的な単語もかなりおぼつかない状態が続いている。紙の辞書を使ってみたら、ちょっと変わるかも、と。それに、いくら電子辞書時代とはいえ、紙の辞書は引き方も全く分からない、というのはアカンのじゃないか、なんてことも頭をよぎった。ほんとにアカンのかどうかは知らないが、オートマに乗るにしても、マニュアル車も運転できるようにした方がいいのでは、みたいな発想か。(わたしの免許はオートマ限定で、しかもオートマ車すら怖くて乗れない完全ペーパーなのだけど。)

すぐに使わなくなるだろう、ということも見越して、古本でコンサイスを買った。送料込で700円くらいなら、無駄に終わってもそれほどもったいなくないだろう。実際に使ってみると、確かに面倒くさいものだった。ひとつの単語を引くのに、何度もページをいったりきたりする。初めて英語の辞書使った時とかは、こんなものだったのかもしれないが。ただ、面倒くさいのだが、わざわざ面倒くさく引くために買ったものではあるので、なかなか楽しいような気もする。当たり前だが、電子辞書って便利なものだなぁという思いも新たにした。何日か使っていると、カナダラ順にもある程度慣れてきた。ある程度学習してきたからだろう。ほんと、当たり前すぎる話だけど、入門でいきなり使い始めていたら、もっと手こずったと思う。

紙の辞書の最大の難点は、字が小さいことだろうな。私の場合、数年前に老眼が始まって、ゆっくりと進行している最中だ。古本の通販で買うつもりだったが、現物を見とかないとだめだろうと本屋で手にとって一度チェックはしてあった。なんとか読めるというレベルだったが、デカい辞書は高いし、デカいのだって老眼が進んだら同じだろうと小型のコンサイスを選んだ。ハングルの場合、チョボが棒の上下、左右どちらについているかを判別しなければいけないが、小さい活字だとこれが特に見づらい。今のところ何とかなっているが、あと何年かで読むこと自体、無理になりそうではある。そういう意味でも、「若いうちにしか味わえない楽しみ」として紙の辞書引きをするのも悪くないかもしれない。


今回の買い物で残念な点が一つだけあった。アマゾンのマーケットプレイスで買い、安く済んで良かったけど、書き込みが一カ所あったのだ。基本単語のひとつに蛍光マーカーのラインが引かれていた。出品者は「書き込みなし」としてあったはずなのにな、というのもあるのだけど、「何で一カ所だけやねん…」ということが、余計に引っかかってしまった。よーし、韓国語始めるぞ、と意気込んで、いきなり最初に引いた単語にバーンと消せないラインを引き、二つめの単語を引く前に勉強をやめてしまった、ということなのだろうか。そんな間抜けな人が使った後の本を使うなんて、こっちまで間抜けになりそうだ。返品をちょっと考えたが、面倒くさいのでやめておくことにした。自分のような間抜けな人間に、お似合いの「お古」かもしれない。あと何日か使ったら、やっぱ電子辞書でいいや、となるような気がするが、とりあえずもうしばらく遊んでみようと思う。

2019年3月2日土曜日

広告に間取り図が流れる日々

転居を考えはじめ、ちらほら近くの不動産屋をまわっている。家賃の安い郊外のURとかもちょっと検討したが、実家のこともあるし、やっぱ近場を中心に見てみることにした。にぎやかな所に自転車で行ける地域に住み続けたいという思いもあったりして。にぎやかな所に行ったところで、ほんとにただ行くだけなのだが。だらだらと長く続いた大学院生活の間、ずっと実家にいた。形式的に卒業しても仕事はなく、学生同様の生活が続き、さすがに居づらくなって実家を出て、自転車で30分くらい離れた町の木造風呂なしアパートで暮らし始めた。中年の入口に入ってからの貧乏暮らしだった。今回、過去の引越しメモを見て確認したら、そこに居たのは6年間だった。10年くらい住んでいたような気がしていたが。陽も当らないボロアパートだったが、住み心地は悪くなく、ずっとここでもいいかななんて思ってもいた。(その頃の日記は、まだmixiに残っている。)短期間、ちゃんとした収入が得られる状態になり、風呂のある所に引越して長い間つき合ってきた相手と同居することにした。十三駅のすぐ近くの面白い場所だった。しばらくしたら仕事の契約期間が終わり収入が激減したので、長期的に住めるようもっと家賃の安い所を探し、その後、何度か越して今に至る。ボロアパートを出てから、もう丸10年経ったらしい。今回確認してちょっとおどろいた。この10年、記憶は、ぼんやりしている。より遠い過去であり、実際には期間も短かったアパート時代の方が、どんなことがあったか、部屋の作りはどうだったか、周りにどんな人が住んでいたか、などの記憶はかなり鮮明だ。揉め事の絶えない二人暮らしを続けるうちに、無意識に、新しい経験を記憶しないようにしているのかもしれない。まぁ、単なる老化だろうが。

そんなこんなで、不動産屋めぐりをするのは約8年ぶりだ。今回、久しぶりに不動産屋めぐりをして以前と大分変ったなと感じる。スーモなどのサイトであたりをつけて、情報提供先としてある不動産屋に連絡して内覧するというパターンで探してるが、以前に比べてネットで得られる情報量が大幅に増えている。不動産屋が持っている情報と、ネットに出ているものにそれほど違いがないみたいだ。以前なら、ネット情報は一種の看板にすぎず、よさげな物件情報でひっぱって、向こうに都合の良い所に押し込めるという商売をしているところが多かったような気がするが。それと関連するのだろうが、営業の人がしつこくなくなったのも、大きく変わった点だ。以前は、内覧して「うーん」と迷っていたら、「何が気に入らないのですか」「どこが良ければいいですか」「ならもっと条件あげてください」などと畳み掛けてきて「早く決めろ」というプレッシャーがすごかった。事務所では、個人情報も詳しく書かされ、電話も何度もかかってきたものだ。しかし、今回行った所はどこも、とてもあっさりしている。最初は担当の人がたまたま感じの良い人なのかと思ったが、3件回って、それぞれキャラクターは違いながらも、押し付け感の無さは共通していた。ネットの普及で、お客も情報をある程度もって来るようになってきたため、あまり無茶はできなくなっているのじゃないか。もう少し深く付き合ったらどうなのかはまだわからないけれども、多分、最近の傾向なんだろうと思う。

わたしは「何かしなければならない事がある」という状態自体、大変苦手で、こういう作業はとても気が重いのだけれども、内覧に行って、そこでの暮らしについてしばらく想像をめぐらしたりするのは、ちょっと楽しくはある。これから、経済的により厳しくなるので、今よりも安いところを探したいのだが、なかなか難しい。内覧して「想像」するも、現状よりさらに侘しい日常しか浮かび上がってこない。こっちの気分の問題もあるのだろうが。しかし、東京ならおそらく狭いワンルームも借りられないような予算でも、幾つかの難を我慢できれば、二人で余裕をもって暮らせるくらいの広さの部屋も探せないわけではない。ただ、ファミリー向けの部屋は、このあたりでは今不足気味なのだときいた。ワンルームはだぶついているらしいのだが。春の引っ越しシーズンは、法人契約の客が迷わずに次々に決めていくらしい。法人契約というのは、転勤の社員のために企業が契約する形式らしく、部屋探し自体は居住者がするのだが、会社が援助をするので負担も軽くパッパと決める人が多いらしいのだ。サラリーマンは定収入がある上に、家賃補助なんかも受けられるんだな。なるほど、組織に属す、というのは強いことなんだな、というとても当たり前のことを、ようやく分かってきた今日この頃である。もうすぐ50歳。どうなるか分からないが、とりあえずあとしばらく探してみるつもりだ。自分の年齢と同じ位の築年数の古いマンションとか、掘り出しものが見つかるかもしれない。