2020年2月7日金曜日

淀川にちかい町、から

 先日、引越した。ハンドルネームの由来である淀川の側から離れることになった。「よどがわ」を使い始めたのは、mixiで日記を書きはじめてからだ。その頃は、西中島南方近くの風呂なし共同トイレのアパートでひとり暮らしをしていた。淀川区だし、本名に近いし、子どもの頃からハゼ釣りなんかをして遊んだ愛着のある川だし、ということで使い始めた。たまに遠くから帰って来て、淀川が見えてくると故郷に帰った感を抱いたりもする。任期付きだがまともな給料をもらえる仕事につけることになり、それを機会に長く付き合ってきた現同居人と二人暮らしをすることにした。2万円の木造アパートから、十三駅すぐそばの高層階のマンションに移った。にぎやかで楽しい場所だったが、そこでの生活は何せ初めて他人と暮らすことになったというのもあり、お互いに色々うまくいかないことが続いたりして、諍いばかりであった気がする。そんなに昔ではないのに、とにかく記憶は曖昧だ。この頃から、心身の老化も実感するようになり、記憶力が弱くなってしまったというのもある、かもしれない。条件の良い仕事の期限が迫り、どうやらその後はただただ貧乏な未来にむけて進んでいくだけ、という「展望」が見えてきた。月8万近くの家賃は到底払えなくなるから、出るしかなかった。

 とりあえず、経費削減のため格安の家賃だった千里ニュータウンの外れにあった官舎(任期付き教員にも権利があった)へ入ってみたが、諸条件が精神的に合わず一か月で出て淀川区に戻った。どんなに長くても一年半ほどで出なければいけない所だったが、それすら二人とも耐えられなかった。今度は淀川のすぐそばで、阪急十三駅からは少し離れたがJRの塚本駅も使えるなかなか便利な所だった。老々介護状態でほったらかしにしていた実家の様子も自転車で覗きにいけた。細かく「良さ」を描いたらすぐにどこか分かってしまうからはぶくが、場所も部屋も、なかなか気に入っていた。十三駅そばのマンションよりは、家賃も少し減らせた。途中、同じ集合住宅内で引越しをした。ベランダから淀川が直接見わたせる部屋にかわったのだ。合わせて約10年その地域に住んだ。この間は、ツイッター依存が深刻化した期間でもあるからツィート検索をすれば色々思い出せるはずだ。良いことも少しはあった。人生の重い宿題になってしまっていた単著の執筆も何とかできたし。

 生活上の難がいろいろ出てきて、そろそろ他に替ろうということになってきたのは、二年ほど前から。父親が要介護で、かなり危ないという状態が続いている間は、引越しのタイミングが無かったが、去年の秋にあの世にいってしまったので、それをきっかけに、という訳でもないが、何となく動き易くはなったため、本腰を入れて探すことにした。仕事先が幾つかにわかれているから、阪急とJRが共に使える前の家の交通環境は大変ありがたかった。梅田なら自転車で15分もかからずに行けたし。これまで同様、大阪市内の便利で賑やかな下町に住み続けたいという希望はあったが、家賃を考えると難しかった。いろいろ探しまわり、尼崎の「競馬場のある町」に落ち着いた。東京では「こじゃれた3畳間」さえ借りられない程の家賃で、3部屋以上ある家を見つけることができた。初期費用もあまりかからずに助かった。前に住んでいたのと同じく築年数の大変古い集合住宅で、前はあったエレベーターがなく、毎朝、足腰を無理やり鍛えさせられる、という難はあるが、駅までも辛うじて徒歩圏だし、住み心地は今のところ悪くはない気がする。

 この「競馬場のある町」は、実は10歳まで住んでいた文化住宅のすぐ近くでもある。最初はそんな所に戻ってくることは全く考えていなかったのだが、仕事、家賃、実家との距離などを総合して考えると、一番条件にあった町だった。希望としては同じ尼崎市でも、開発が進んで大変便利で賑やかになっているJR尼崎駅近所に住みたかったのだが、家賃が高かった。阪神沿線は庶民的でいかにも「アマ」という感じで、一度は住んでみたいという気持ちもありつつ、自分にとっては通勤のアクセスが悪い。ということで阪急沿線に、となると、高級住宅地のイメージもある武庫之荘、急行の停まる塚口に比べて、「競馬場のある町」は、普通電車しか止まらず「比較的、お手頃になっております」(不動産屋談)とのこと。近くに川もあって、案外、環境もいい。別に静かさを望んでいたわけではないが、落ち着いていること自体は悪くはない。かといって寂し過ぎて堪らない、という程でもなさそう。というわけで、40年ぶりに尼崎市民に戻ることになった。公営ギャンブルをテーマに研究してはいるが、専門の競輪以外は、ほとんどギャンブルをやらない(収入がないからだろうが)から、競馬場をめざして来た訳ではないけれど、空間としての競馬場は好きだし散歩で行けるのはちょっと楽しみである。

(写真は、地方競馬の人気があった頃に使ったであろう臨時ホーム。今は全く使われてないよう。)



 人生は旅のようなもの、などと言うが、自分の旅は「散歩」みたいなものだ。子どもの頃は、将来は「東京」か、どこか遠くに住むことになるに違いない、と思い込んでいた。しかし、実際の人生は、地球儀で見たら、一本の針で刺した範囲内でしか動いていない。色んな所に住む経験をしている友人、知人達が本当に羨ましい。ずっと「地元」近くにいるのに、いわゆる地元の友だちは1人もいないし、コミュニティ的なものにも一切参加していない。ただただ、動いていないだけなのだ。これまでもそうだったが、今回の引越しの「振り出しに戻る」感は、笑ってしまうほどだ。たまたまこのあたりが安く、良い物件があった、という風に思っているが、ここまでになると、潜在的に「戻ろう」という意識があり、それが作動したということなのかもしれない。なぜ、そうなのかは分からない。父が死んで、両親が結婚して住み始めた町のすぐ近くでもう一度生活しようだなんて、どれだけ親に縛られているのか、と思わなくもない。が、よく分からないから、まあ、いいか。古巣だと言っても、子どもの頃遊んだ幼なじみでつき合いのある人は1人もいない。まだこのあたりに住んでいるかもしれないが探す気はない。

 ※ ※ ※

 というわけで、引越しをして、ちょっと気分は変わりはしました。「よどがわ」というハンドルネームは愛着があって使い続ける予定ですが、これからは「競馬場の近く」に住み、競艇もある自治体なのに、なぜか競輪を研究している「よどがわ」ということで、ややこしいですがよろしくお願いします。どうしても引越し祝いを送りたい、という人には住所を教えますので、DM下さい^^;

2019年11月9日土曜日

何のために書いているのか

このブログは何のために書いているのか。自分でも分からない。そもそも、多くの人は何のために、と書こうとしてあまりにありきたりなことを書いているなと気づき、手が止まる。せっかくやるなら、定期的に更新したいと思いつつ、何も書くことが思いつかず、こういうことを書いている。パソコンで作文を書かせて出来たらメールで送らせるという授業を以前やっていた。毎回、お題を出す。紹介したい場所、印象に残った出来事、高校生の自分にあてた大学生活案内、などなど。あまり勉強が好きではない学生の多い大学だったが、それでもスラスラと書く者も結構いて、自分が若い時より、携帯のメッセージ的なものも含めた文字文化に親しんでいるからかなと思ったりした。もちろん中には「何を書いたらいいかわからん」というのもいて、そういう時には「最後の手段だけど、何を書いたらいいか分からない、と書きはじめてみたら」とアドバイスした。この最後の手段として教えたやり方を、自分も今ここでやっている。(自分のようなものが、作文を教えるなんてどう考えてもめちゃくちゃだが、文章表現を教えるというより書く機会を与え続けるという内容だったので、勘弁してください。)さて、何のためにブログを書いているのか。理由をあげるといろいろある気がする。文章の練習。備忘録。他者からの承認欲求をみたすため。どこかの誰かの目にとまり、何か素敵な仕事でも舞い込んでこないか、という淡い期待。頭の中の整理。具体的な知人を想定しての近況報告。こんなものか。とにかく、何も生み出さないで日々過ごすよりは、どんな下らないものでも「何か」を生み出した方がいい、という判断のもと、「駄文を…」と言い訳し、予防線を張りながら、できるだけ書くようにしようと思っている。が、なかなか更新する気になれず、それが焦りとなって精神的負担になってしまったりもしている。誰が待っているわけでもないのに、バカバカしい話だ。自分のためだけのノートに、できるだけ自分内編集者の声をおさえて、延々と文章を書き連ねるという作業は続けている。ほぼ毎日のように日記的な何かを書いてはいる。しかし、たかがブログでも他人に見せるということを意識して書く場合、最低限の「よそいき」的な装飾が必要になり、それが書けなくさせているのだ。正装とまではいかなくとも、近所のスーパーに買い物に行くときくらいの「外」に行ける格好にしなければならないという意識がある。もっとも、自分だけが読む日記ですら、書く時にパンツとシャツくらいは着ているのだ。本当に真っ裸の精神で書けたら、それはすごいのかもしれないが、自分のような凡人は、どんな時もパンツくらいはどうしても穿いておかないと不安で仕方がないのだ。誰にも見せないものだとしても。そもそも文章というのは他者が存在しないと書けないものだろうと思う。自分だけが読む日記は、後の自分が他者になる。自分という、自分のダメな部分をすべて知っている人間に対してさえ、パンツを穿かないといけないなんて、なんという臆病さだろうと思わなくもないが、そんな程度でいいという気もする。何の話だったか。そう、ブログを更新しようということだった。そんなわけで、数人しか見ないにしてもブログとなると、日記の何十倍も格好を気にしなくてはならなくなる。自分のためだけのノートは、本を書かなければならないのに、全然書き進められない間、自分の手を止めさせているものの正体をできるだけつかみ、その邪魔をさせない癖をつけるために書きはじめたものだった。効果はあったし、今もある。以前に比べたら、ずいぶん、筆は軽くなったと思う。それでもなお「何か書かなければ」という意識が連れてくる気分は重い。今自分に必要なことは、できるだけ自由な、自分のしたい格好をして街を歩く厚かましさを身に着けることかもしれない。書いて気に入らなければ捨てればいいのだ。何となく、ブログ的なものを書きはじめた頃のことを書こうかと思っていたが、もう飽きてきた。「はてな」から突然自動メールが来るようになって、放置していた前のブログに「星がつきました」みたいなことを知らせてきた。自動巡回の何かにひっかかっただけだとは思うが、何年ぶりかで「はてな」の日記を見たら、内容をほとんど忘れていた。何で書いていたのか。それを今読むことにはどんな意味があるのか。そのうち、また考えて書いてみようと思う。

2019年10月25日金曜日

人の悪口

非常勤帰り。電車で隣り合わせた女子学生二人組が教員の悪口を言い合っていた。「あのMのジジイ最悪」「Mやろ。あれは頭おかしいわ。あいつが学校行くべきやろ」「ほんまや」M先生、誰だか知らないけど、散々な言われよう。自分もこんな風に言われているかも、と思うとちょっと憂鬱になる。

だけど、その後、二人の会話はこう続いた。「まぁ、でも嫌いっていう訳ではないけどな」「まぁね」… あれだけボロクソに言っていて嫌いちゃうんかい!と声を出してつっこみたくなったが、ちょっとかわいいなと思った。M先生、厳しいけど憎めない人なんだろうな。厳しさの奥にある愛情みたいなものが伝わっている、ということか。

…
こういうことが昨日あった。今日になって別の可能性も頭に浮かんできた。もしかして、本当は本当に大嫌いだけど、友だちに対して「誰かを嫌っている」というメッセージを発することが禁忌というか、絶対だめなことと思われていて、最後にフォローしたのではないか…

そんな嫌な奴なら「大嫌い」でいいと思うよ。あるいはそれほどでもないなら、電車の中ではもう少しマイルドに批判しましょう。

2019年10月19日土曜日

父の話

 父は、1942年に北海道の美唄市で生まれた。八人兄弟の末っ子で、父の父は神主だった。家が神社だったわけではない。幾つかの小さな神社をかけもちで担当していたという。本土の神社とは違い、おそらく、開拓時に集落ごとに作ったような簡易的な社がほとんどだったのだろう。祭りや、棟上げ式など、イベントがある時に呼ばれてお金をいただく、というような商売だったのではないか。家は相当貧乏だったらしい。父以外の兄弟たちは、皆義務教育しか受けさせてもらっていない。父だけは、夜間の工業高校に通わせてもらった。歳の離れた兄姉が親代わりになって、その世話で何とかそれだけの余裕が家に出来たのだろう。とはいえ夜間なので、当然昼間は働いていた。自転車屋、新聞配達、岩見沢駅の機関区などでアルバイトをしたと聞いた。卒業後、大阪に出てきた。本土に渡ったのは兄弟でただ一人だった。どうして大阪だったのか。北海道の人が本土に行くというと、普通は東京になるだろう。父によれば、仲の良かったHさんという友人が先に大阪に来ていて、お前も来いと誘われたのだという。同じ高校の昼間部に通っていたHさんは一年早く卒業して大阪に来ていたのだ。父の来阪は、1961年のはず。Hさんの名前は、父の口から何度も何度も聞いた。つい半年ほど前にも「俺の友だちにHっていうのがいてね」と始まったから、「何べんも聞いたよ」とついつっこんでしまった。くり返しの話でも、また聞きなおしておけば良かったと思う。父は機械科で、Hさんは建築科だった。Hさんは一級建築士かになり、PLの塔や、札幌の大きなスポーツ競技場の設計なんかを担当したと聞いた。会社のそういう部署にいたということだろうが、父にとって華々しい活躍をするまぶしい友人だったようだ。Hさんは20年くらい前に、亡くなってしまった。大阪に来るときは、当然、汽車と青函連絡船を利用した。東京経由で来たと言っていた気もする。大阪で最初に就職したのは、T鉄鋼という大きな鉄鋼会社だった。どういう伝手だったのか、聞いたが忘れた。住みこみの工員で、一部屋に何人も寝泊りするような寮生活だったらしい。その後、工員仲間からの情報などで、待遇が良い所を求めて、いくつかの勤め先を転々とした。正確な順番は分からないが、西区の九条あたり、寝屋川、生野の桃谷近くなど、大阪近郊のいろんなところに住んだと言っていた。私が実家を出てひとり暮らしをはじめたのは、淀川区木川のアパートだった。車で引越しを手伝ってもらったが、アパート近くに来て「このあたりにも住んでいた」と話していた。細かいことは忘れたと言っていたが、あまり思い出したくなかったのかもしれない。職場は次々に移ったようだが、機械系の知識が生かせて経験も積める、少しでも面白い仕事が出来るようなところを探してのことだったらしい。転々時代のエピソードで何度か聞いたのは、職場で親切にしてくれた兄貴分みたいな人が熱心な創価学会の信者で、しつこく勧誘されて本当に嫌だったという話だ。この頃は、学会の拡大期だったから、いろんな所であった話だろう。この時、父が折伏されていたら、自分は生まれていなかったかもしれない。しばらくして、旧財閥系の大手の農機メーカーに入った。おそらく待遇はぐんとよくなったはずだ。中之島の西側あたりに会社があって、独身寮もその敷地内か近くだったそう。この時期に、一年間夜間の専門学校みたいなところに通わせてもらったらしい。さすが大手企業だと思う。江之子島あたりにあった技術訓練校(正式名称は忘れた)で、大阪府かどこか公的な機関だった。油圧などの専門知識を学べたという。工業高校で製図は学んでいたそうだが、おそらくこの時に仕事で使えるものになったのではないか。「阪大の先生とかが来て教えてくれたのだ」というのが自慢だった。この時に勉強した教科書はずっと持っていた。農機会社では、仕事で全国をまわったらしい。四国に行き、みかん畑に水を撒く装置の売り込みと説明に行った時の話は、何度か聞いた。仕事は面白かったようだ。しばらくして会社の独身寮が西宮にかわった。金持ちがやっていた素人下宿屋みたいなところと会社が契約したという感じだったろうか。この頃、人に紹介されて母と知り合い結婚することになった。ひとつ年下の母は、福井から出てきて大阪の広告代理店でOLをしていた。下宿が同じ西宮だった。結婚式は西宮戎神社でふたりだけであげた。元日に申し込んですぐにやってくれたらしい。今ならそうはいかんやろうな、という話は母から何度も何度も聞いた。以来、西宮戎はひいき神社になり、毎年のように初詣に出かけるようになった。新婚生活は、尼崎の園田近くの文化住宅ではじまった。風呂はなく、汲み取り便所の二間だけの小さい部屋だった。そこで私と妹が生まれた。結婚した頃に一流農機メーカーはやめ、道路機械の会社に移った。今は大証二部に上場するくらいの規模の会社になったが、その頃はまだ社長を中心に何人かで立ち上げたばかりの頃だった。自分の技術が生かせて、大きい役割をまかせてもらえる会社だと考えてのことだった。道路を舗装する機械を設計する仕事を担当し、中間管理職になるまではずっと図面を書いていた。設計士としての現役最後の頃はCADの時代になり、慣れないパソコンに悪戦苦闘していたが、若い頃はずっと手書きだった。文化住宅の狭い部屋にも製図台をおいていた。きらきら光る真っ白な表面の製図台、可動式の定規、太い鉛筆の芯を削る道具、小学校で使うものの何倍もの大きさのコンパス、消しゴムかすを払う鳥の羽根のブラシ、計算尺、カラス口。父の持っている道具は、なかなか素敵なものに見えた。それらの道具をかりて、自分は、ドラえもんとか、宇宙戦艦ヤマトの絵を描いたりしていた。80年代に入ると、風呂なしの部屋を出て、大阪市内のマンションに引っ越した。会社の近くにマンションが建ったのでローンを組んで買ったのだ。当時の、地方出身労働者にとってよくあるパターンではあっただろう。工場地帯の何でもないマンションだが、それまでに比べたら、部屋は広く、風呂もあり、ベランダからの眺めもまずまずの新しい我が家を手に入れて、父はさぞかし嬉しかったことだろうと想像する。小学生だった自分は、ただただ友だちと分かれるのが寂しく、銭湯に行かなくなるのも何となく物足りないような気持ちになったくらいだったが。父は基本的に真面目だったと思う。園田に住んでいた頃、同級生のお父さんたちには、競馬好きも多かったが、父は全く興味がないようだった。パチンコや麻雀も遊びで何度かしたことはあるという程度だったのではないか。ただ、酒のみで、酒癖はあまりよろしくなかった。正月には、朝から出来上がっていることも多く、酔っ払いの父に絡まれるのが嫌で、正月自体があまり好きじゃないくらいだった。ちなみに、神主だった爺さんも酒好きで、金もない中、祖母に酒を買ってこいと命じたりしているのを見て、父は「将来酒は絶対に飲むまい」と誓っていたのだという。誓い虚しく酒飲みになった。自分も、父の酔っ払う姿を見て同じことを誓ったが、結局、酒飲みになってしまったから、そういうものなのだろう。一時期、会社でうまくいかず、家でも不機嫌が続いたことがあった。その頃の酒癖は特に悪く、帰って来て酒を飲み始めるのがちょっと恐怖だった。とはいえ、今振り返ってみると大した荒れ方ではなかったと思う。会社生活の中で、そりゃ働くのが嫌になるような時期はあるに決まっている。あれくらいの程度しか、家族にだめな所を見せずに定年まで勤め上げて立派だったんだな、と今では思う。手先は器用だった。絵も上手だった。美術的センスがあるというより、技術屋らしく、見たままを書く能力が高かったのだと思う。幼稚園の時には、お手本を見て座布団にスポーツカーの絵を描いてくれたりした。日曜大工や自転車のパンク直しなども上手だった。机の上の本棚や、押入れの衣装ケースなんかも自作してくれた。自分が大学院に行きはじめ本が溢れるようになると、大きな書棚作りに協力してくれた。あの世代の男性だから、性別役割分業は疑いもせず家事は全部母にまかせっきりだったが、基本的には、母にも、子どもらにも優しかったと思う。お金のかかる海外旅行や温泉旅行なんかには連れて行ってもらったことはなかったが、動物園、水族館、近場の六甲山や甲山などにはよく連れて行ってくれた。出歩くのは好きだった。若い頃は、頻繁に出張させられていた。自分が設計に関わった製品の説明に行ったり、トラブルの対応に行ったりだったのだろう。余裕のある仕事の時は、お土産も買ってきてくれた。地理には詳しく興味もあった。そのあたりは自分も影響をうけた。私は子どもの頃は鉄道が好きだったので、お土産以外に鉄道のチケットなんかも持って帰ってくれた。野球を見るのが好きだった。大阪生活がどれだけ長くなっても、ずっと巨人ファンだった。昭和の地方出身者の多くはそうだったはず。今なら北海道の人ならファイターズファンになるだろうが、円山球場に年に数回来てくれる巨人は絶対の存在だったようだ。男の子が生まれて、キャッチボールをしたりするのが楽しみだったと思うが、肝心の息子は運動が大の苦手のインドア人間になってしまった。キャッチボールの何が面白いのか、自分にはさっぱり分からないのだが、母方のいとこの兄ちゃんは、盆正月なんかにうちの父とキャッチボールしたことを今でも美しい思い出として語ってくれている。高校では野球部にいった兄さんだが、彼の父は今でいうオタクの走りみたいなインドア人間だったため「お父さんとのキャッチボール」が夢だったらしい。組み合わせはうまくいかないものだ。父は、若い時には会社の野球チームに参加したり、ゴルフなんかもやっていたが、どうやら運動神経はいま一つだったようだ。そう考えると、自分が運動音痴になったのも、自然の流れのようにも見える。とはいえ、プロ野球の話ができて、工学部か工専なんかに進学して機械系の仕事につき、普通に結婚して…という息子になれていれば、父はさぞかし嬉しかったことだろうと思うが、文化系、運動嫌い、やがては社会学なんて訳の分からないものを勉強したりするようになって、息子は期待を裏切り続けた。それでも、その道でちゃんとやれていれば、それはそれだったろうが、自分でも訳の分からない状況になり、まぁ、なんというか、申し訳ない気持ちでいっぱいだが、自分は自分の人生だから仕方がない。父とは三十近くまで一緒にくらした。大学院に入ったあたりから、どんどん話はかみ合わなくなり、表面的な会話しかしなくなった。向こうとしては息子が何をしているかさっぱり分からなかっただろう。自分だって分からないんだから、分かるはずがない。何しているかよく分からんが大学だけでなく大学院まで行ったのだから自分よりは出世するはずだ、というような期待はあっただろう。それを思うと、やっぱり、ほんとに申し訳ない。が、今さら何を言っても仕方がない。仕方がない。仕方がない。父の話に戻す。自分が家を出て7~8年後には妹も家を出た。それ以来、夫婦二人暮らしになった。会社では、60代の半ば頃まで働いた。定年後も、嘱託みたいな形で会社の仕事をしたり、社史を作るのを手伝ったりしていた。定年までは、ほとんど休まずに働いていた。会社は自転車で通う距離だったが、帰宅するのはだいたい8時をまわっていたと思う。フルタイムで働かなくなると、母とよく出かけるようになった。近場の山とか、川とか、公園とかに車で出かけて散歩してくるというような感じだった。高校野球も好きだったので、毎年夏には甲子園にも行っていた。北海道の高校が出ると必ず応援に行った。自分など母校が出たとしても何の感慨もわかないと思うが、父は素直な愛郷精神の持ち主だった。そういえば、マー君とハンカチ王子の伝説の一戦も見に行っていた。つき合わされて母も行っていたが、この時ばかりは歴史の証人になれて満足そうだった。一時期、紙飛行機にも凝っていた。万博公園で趣味の人たちが飛ばしているのを見て、やってみることになったらしい。働き続けた後、ようやく得られた自由な時間は長く続かなかった。70を越えてしばらくすると、大病に何度も襲われるようになった。そういえば、その頃、自分は車の免許をとった。車なんて興味がなく、若い時に取る気もなかったのだが、父がそろそろ廃車するかもというので、じゃぁ自家用車があるうちに自分も免許を取っておくかと思い立ったのだ。40を越えて通った自動車学校では、運動神経の鈍さから卒業検定に落第するなど苦労したが、なんとかとれた。そして、父のナビで何度か運転練習をした。一番遠くに行ったのは、向日町競輪場だった。その時は高速にも乗ったりしたが、まっすぐは走れても、どれだけ練習しても駐車がうまくできず、乗るのはすぐにあきらめてしまった。高い金を払って取った免許もただの証明書になってしまったが、この時、父と運転の練習をする時間を持てたのは良かったかもしれない。循環器は若い時からちょっと悪かったみたいだが、ペースメーカーを入れなければいけなくなった。その後、脳梗塞にもなった。救急車で運ばれ命は助かったが、しばらく失語症になった。それは回復したが、後遺症は残り、嚥下力が下がってしまった。今から三年前、初めて誤嚥性肺炎で入院する。かなりの重症だった。あまり薬が効かず難しいかもみたいにも言われて、家族で病院に泊まって付き添ったりもした。自分が横についていた時、大変苦しそうな状態になり、本人も「こりゃ明日までもたんな」とか言っていて、本人が言うんだからそうなのかも、と思ったりした。何とか回復したが、それ以降は、まともにご飯が食べられなくなった。刻んでとろみをつけたご飯を母親が介助して食べさせなければいけなくなった。水もとろみがないと飲むことができなくなり、ここで酒とも縁が切れた。車などとても乗れるような状態でなく、廃車にして、免許も返上した。介護認定を受けて、リハビリの人や、デイサービスの世話になるようになった。家での介護は母にまかせっきりになった。何度か入退院を繰り返した後、去年などは比較的おちついた状態が続いていたが、今年の春頃から、目に見えて衰えてきたようだった。自分は、父が倒れて以降は、それまでよりは頻繁に実家に帰るようになった。ふたりで腹をわって話をする、というよりは、ケアするされるの関係の中で、無理やり話題を作って話すような感じだったが、ここに書いてきたような話も、この間に改めて確認したものが多い。この八月には、かなりいけない状態になり、入院となり一旦は退院となったものの、すぐに再入院になってしまい、十月、そのまま家には帰れなくなってしまった。病気について、最後の最後での「家族の選択」については、他の方の参考にもなるかもしれないから稿を改めて別のテーマとしていつか書きたい。最後の数日は、苦しそうでもあり、どうみても元気になる目は無さそうであり、もし回復しても、いつまた悪くなるか不安なだけだったので、病院から亡くなったと知らせを受けた時は、正直、ちょっと安堵した。楽にさせてあげたい、という気持ちが強かった。七十七歳だった。平均寿命よりは若干若いかもしれないが、本人も「俺は長生きした」と言っていたから、まずまずだったのではないか。他と比べても仕方がない。ただ、平均寿命が八十だと言っても、健康寿命となると七十代前半とかになるそうだから、父もだいたい平均的だったのかもな、とも思ったりもする。葬儀は、母と、妹と妹の連れ合いさんと私とで簡素に送る形にした。家族全体の希望でもあるし、本人も不服はないと思う。会社の人たちと離れて時間も経っているし、送ってほしいような知人もいないようだった。最初に書いたように、宗旨は神道ということになるので、形式的にも坊さんを呼ぶ必要がないのはありがたかった。お経、線香という、いかにもな葬式アイテムを外すことで、陰気くさくない送り方にできた。戒名もなく、名前の下に「命」をつけたらいい、というので自分が既に用意してあるお墓に入れる時には、そのように彫ってあげようということになった。病気以降は不自由な生活が続いたが、トータルでは幸せな人生だったのではないかと思う。そうであってほしい。私が子ども時代を過ごした大阪の下町では、同級生の父親の多くは世代的に高卒・中卒が当たり前だったが、それなりに進学校だった高校や、大学院で出会った友人たちには、大卒の親が当たり前で、大学教授の息子なんてのも少なくなかった。変な世界に迷い込んでしまった後には「何でもない普通の庶民的な父親」の子どもであることに、引け目を感じることもなくはなかった。しかし、もう少しちゃんと世の中を見渡せるようになると、まじめに働き続けてくれて、常識的で、かつ子供には自由にさせてくれる父親の子であったことが、どれほど幸運なことであったかに気づくようになった。借金もない。残した母親も、贅沢をしなければなんとなか暮らしてはいけそうだ。本当に幸運なことである。遺体に対面しても、斎場に向かう時も、骨を拾う時にも、あまり悲しいとは思わなかった。ここ数年、ずっとお別れをしてきたような感覚もあった。けれども、送り終わった後、上記のキャッチボールの記憶を大事にしてくれている兄さんをふくめ何人か縁のあった人たちに電話で報告したときには、とても悲しくなり泣けてきた。今もそうだ。経験するだけでなく、それを語ってみるということは、感情に働きかける作業なのだろう。質素な式だったが、全体としてよいお別れの仕方だったと思う。ただ、父の社会的な側面を残った人に振り返ってもらう機会は作れなかった。その埋め合わせとして、ごくごく簡単に、どこかの誰かに向けて父がどんな人だったかを紹介して説明しておこうと思い、この文章を書きはじめた。父が倒れて、介護の手伝いに行くようになってから、ノートを開いて昔話を聞き書きしておこうか、と何度か考えたがやめておいた。あくまでも息子の視点から、これまでの関係の中で普通に聞いた話から、自分にとっての父の像は構成しておけばいいかと思ったのだ。どっちが良かったのかは分からない。倒れてからの父は、基本的にずっと飄々としていた。真面目だ、と書いたが、看護士さんや介護の人にしょうもない冗談を言ったりしていた。その辺は、お喋りな母の影響のような気がする。今、思い出したのはこれくらい。近頃は私もとても忘れっぽいので、父が言った冗談の具体例もパッと出てこない。ここに書いたこともそのうち忘れてしまうだろう。逆に、何かのきっかけで今忘れている記憶を思い出すことがあるかもしれない。その時は、また、何か書こうと思う。

2019年9月21日土曜日

無目的な韓国旅行

韓国旅行してきた。備忘録的にちょっとだけ(と思って書きはじめたらめちゃくちゃ長くなった)。目的は別にない。7~8年前から韓国語を勉強を始めた。集中力・忍耐力がないため全然上達しないが、旅行での会話くらいは何とかなるようになったから、できれば定期的に本場に行きたい、という気持ちがある。旅費も国内旅行するより安いくらいだし。というわけで、折を見て出かけようと常に思っているのだけど、去年は一度も行けなかった。安い、と言っても、自分の経済状況が厳しいためそれなりに覚悟がいる。何か用事がないとなかなか腰が重くなる。今年は、競輪の日韓交流戦が行われる予定だったので、それを楽しみにしていたのだが、この度の日韓関係の悪化でどうも流れることになった(本決まりだったわけではないから中止という決定もなされていない)ため、なら無目的に出かけるか、ということになった。関係悪化を憂う気持ちがありつつ、今なら安いんじゃないか、というセコイ考えもあり、夏休みの最後にでかけることに。これまでは、ひとりで行くことが多かったが、今回は久しぶりに同居人と一緒に。往復の航空券はコミコミでひとり分13000円ちょっと。これまでの経験の中では最安値に近いが、直前に買ったりしたら9000円位でも行けたよう。貧乏人にとって一番心配なのは宿代だが、今回は、初めてairbnbで民泊を探して行ってみた。二人別の部屋がいいから二部屋以上あるところを見たが、一泊あたり4000円強くらいのを見つけた。もちろん二人分で。いつもは一人3000円くらいの最低ランクのゲストハウスに泊まることが多いけど、比較にならない快適さだった。これからはずっとこれを使おう。人気になったら嫌だし泊まった部屋は秘密です。セコくてすみません。

日本の大手メディアの最近の大本営発表ぶりは目も当てられないレベルで「日韓関係」関係のニュースは一ミリも信用できないのだが、それでも、不買運動もあるだろうし、今までとはちょっと違う風景も見られるかなと期待もあったが、結果として、今までと何も変わらないというか、全体として韓国社会の雰囲気はこれまでより穏やかなように見えるくらいだった。秋の始まりで、気候が特に良かったからかもしれないが。

関空からインチョンへ。関空自体、めったに来ない。来るだけで、テンションはあがる。ああ、もっと頻繁に旅行に行きたい。出国の際、パスポートが電子化された云々で、ハンコが廃止になっていた。希望者には押してくれるというので、一応押してもらう。スタンプラリーみたいな扱いになっている。帰りはお願いし忘れた。韓国にしか行ったことのないパスポートだが、一応見返すと記録になっていたのだけど、これからはその役にも立たなくなるだろう。

インチョンから市内へは空港鉄道で。バスの方が荷物の面で楽だが、倍の値段がするから電車にする。約500円。数年前に買った交通カード、イコカみたいなやつにお金を補充して乗る。これ一枚でバスも地下鉄も乗れる。ソウル市内では、どちらも一回100円ちょっと。食べ物なんかは大阪よりもずっと高くなっているのに、交通費だけは半額くらいだ。公共サービスは住民のためのもの、という意識があって反映されているように思われる。それに対して、日本は… (公共政策、経済などに関してはど素人のため何か間違っているのかもしれないが)インチョンからソウル市内って、関空から大阪市内と似たようなものか、もうちょっと遠いかくらい。JRなら1000円超えるんだから、韓国は安い。

宿はホンデのあたり。ホンイク(弘益)大学の近所で、若者の街としてしられる。渋谷みたいなものか。渋谷もよく知らないけど。まずは宿に向かうことにする。今、タピオカ黒糖ミルクが大ブームだと同居人が調べていた。タピオカミルクティーブームの後に来たみたい。ふた昔前は、日本の流行が遅れて韓国へ、という形だったが、最近は逆で、二年前に韓国で流行っていた携帯扇風機が今日本で流行する、みたいになっている。黒糖ミルクも流行るかもしれない。200円弱という安いのがあったので買う。食券買う機械で外国人らしくモタモタしていたら、イケメンの店員さんが「カード、すぐに入れてください」と日本語で指示してくれた。若いイケメンの日本語可能率は高い、気がする。もしかしてアイドルの練習生だったんじゃないか(というくらいイケメンだったらしい。同居人談。自分はあまり見てなかった)。

宿にたどりつき、満足し、ミョンドンのあたりに行ってみることに。これまでに何度も来たミョンドンは、通りをあるけば日本人だらけという感じだったが、ちらほらとは居たけど、中国人、その他、東南アジア系の人の方が多いくらいに見えた。ホンデは若者の街すぎて落ち着かないが、ミョンドンは、韓国人でも地方の人がソウル旅行で立ち寄ったというような、お上りさん的な人が多く、雑多さ、年齢層の高さが、何となく落ち着く。新宿とかそんな感じか。何度か行った、ビビンパ屋に行く。観光地の有名店で、田舎者御用達という雰囲気だが、美味しい。案内されたら隣は日本人の高年夫婦で、後から来た、日本人の若い女の子二人組も近くに座らされた。日本人同士、固めているのか。美味しくいただき、地下鉄で帰る。

次の日は、韓国人の友だちに聞いたおススメのテジクッパ屋に行った。探すのに苦労した。近くまで行くと、日本人の一人旅女性が「日本人ですか?」と声をかけてきた。どうやら同じ店に行こうとして発見できないよう。彼女は韓国語全く分からないというので近くのコンビニに入ってそこのおじさんに聞くと、「すぐそこやで」みたいな感じで無愛想に教えてくれた。韓国の人はだいたい無愛想だけど、だいたい頼んだことはきいてくれる。昼前だったが、店の前に人が並んでいた。近くの会社のサラリーマンと日本人観光客が半々という感じ。おしゃれなカウンターだけの店で、超あっさりスープで上品な味だった。どことなく日本風味もあり。こういうのが人気なんだな。店員の一人が、やはり背の高いイケメンで、日本語がペラペラだった。合流した一人旅女性によれば店員に日本語が通じると情報があったらしい。なるほど。美味しかったけど、韓国らしさはあまり感じられない気もした。その後、ソウルの中心地に行き、歩いたりする。夕方は、民芸品街のインサドン。世界中から観光客が来ているが、日本人率は低めではあった。

晩飯は有名な参鶏湯屋、土俗村に行く。景福宮の西隣にある。辛くない韓国料理の代表で、美味しいのは間違いないから来るたびに参鶏湯は食べている。土俗村も自分は二回目、同居人は三回目だった。が、毎回、ものすごい値上げをしていて、今回は一人前1800円だった。日本にいたら、そんな高級な晩飯絶対食べないが、折角だからと食べることに。前回来た時は、たぶん1200円くらいだったはず。その時でも「ちょっと前は700円とかだったよ」という話をしていた。中国人、西洋人の観光客が目立った。美味い。けど、高すぎだな。これが1000円位なら素直に美味いと思えるけど、こんな値段なら、うーん、という所。次はもうないかも。さようなら、参鶏湯…


韓国の飯は量が多い。あっさりテジクッパに、参鶏湯という、おじや系のメニューが続いたが腹は一杯になって二日目は終わる。

3日目は、昼ごろ出た。二人で一緒に行動する時間が長くなるとどうしてもケンカになったりもして、朝から計画してどこか行こう、という風にできなかった。とりあえず冷麺でも食べるか、と持って行った古いi-padで近所の冷麺屋を検索して探してみる。近くに人気店があり行ってみたら行列ができていて、しかもお上品すぎる感じで「美味しくないだろう」という同居人の判断に従い、ホンデの駅近くでもう一件あったグーグルで★4つついていたところに行ってみる。地図の指示通りに行くと、駅前にあるけどとても古いビルの地下で、まるで従業員社員食堂のような、何とも昭和な雰囲気の漂うフードコートがあった。バシバシ写真を撮りたかったが、それもはばかられるような雰囲気。そこに出している一軒の店が、情報にあったピョンヤン冷麺の店だった。南北会談、韓国の芸能人らがピョンヤンを訪問したとき食べていた冷麺がおいしそうだったというので、去年は韓国でピョンヤン冷麺のブームがあったらしい。でも、ここはそんなお客さんが押し寄せたような感じの店ではなかったが、何とも雰囲気がよかった。穏やかそうなおじさん二人がやっていた。超あっさりスープで食べたことがないような味だった。美味しいけどちょっと味が薄すぎる気もする。付けあわせは水キムチと大根の浅漬け。とても美味かった。が、これもあっさり。同居人が「キムチとかないですか」と聞いたら赤いのを出してきてくれた。大根の葉と、蕪か何かのキムチ。美味かった。が、これも珍しい味付けだった。もしかして、北の人じゃないかな、というのが同居人の推理だった。ソウルで飯屋をやっている人にしては、なんとも穏やかで、地方の人というのともちょっと違う雰囲気だったのは間違いない。脱北してきて、ここでピョンヤン冷麺を売っているんだなぁ、と勝手に妄想をする。会計する時、店員に「もしかして韓国の方では…」と聞かれたので「日本から来ましたよ」と答えると、嬉しそうな顔をしてくれた。「(外国のお客さんが)何でわざわざうちの店に?」「ネットで調べたんです。美味しいって書いてましたよ」とやりとり。あんまり観光客は来ないみたい。超穴場な雰囲気で面白かった。基本の冷麺一杯、900円。日本で言ったら、ざるそば一杯って感じだとすると、あの雰囲気からしてもやっぱりかなり高い。物価はめちゃくちゃあがっているのだ。日本が安すぎる、という人もいるけど、どうなのだろうか。
「フードコート」の一角。雑然とした雰囲気。

そんな「フードコート」で食べたピョンヤン冷麺

道路の真ん中に路面電車みたいに停車場が整備されている
その後、バスで、ヨイドの方に行ってみる。ソウル市内はバスが蜘蛛の巣のように走っている。幹線道路は、バスレーンが整備されていて便数も多くとても便利。ただ、全体に案内は不親切で、もたもたしていたら乗せてくれない、降りられないという危険性もあり、何ともいえない「激しさ」があるので、最初はハードルが高い。前回の訪韓くらいから何とかバスに乗れるようになって、韓国初心者から中級に上がったような気持ちになった。地下鉄よりは景色が見えるし楽しい。

ヨイドは、漢江の中州で、国会議事堂やNHKにあたるKBSがあったり、大きな銀行の本社が並んでいたりする、韓国政治の中心地だ。漢江公園を散歩してみようと出かけた。平日の昼間だと言うのに、大勢の人がテントを張ったり、ビニールシートを敷いたりして、くつろいでいた。パソコン持ってきて勉強している若者、ベタベタしているカップル、家族連れ、中年女性の集団など色々だった。貸テント屋も出ていたが、基本、時間を過ごすのはタダだ。

ソウルの街中には、いたるところにベンチがあり、こういう大型の公園もある。日本では、外で時間を過ごすには必ず金がいることを思うと、なんという違いだろうと思う。日本よりある面では激しい競争社会で、物乞いをしている人もチラチラ見かけはするが、鉄道料金の安さといい、こういう公園のあり方といい、公共サービスという点では大きな違いがある。街中には無料の携帯充電サービスも結構あった。自分はガラケーで、今回はもうギャザリングサービスもなくなったので持ち歩いていなかったが、スマホの人には便利だろう。日本だったら、金儲けを圧迫するからと絶対やれないはずだ。公園で飲んでいる人らも多いが、飲み屋もにぎやかだった。当然だが、商売と公共サービスは共存できるのだ。(と、思う。)

漢江クルーズに乗って見ようかと思ったが、ザ・観光客という人しか乗っていないようで、しかもそのあたりをちょろっと回るだけで1800円とかだったので、つまらないだろう、と判断してやめた。道頓堀クルーズみたいなものだろう。そっちの方が面白いかもしれない。あれも、自分は一生乗る事ないだろうけど。広大な公園を歩いて、国会議事堂の方に行ってみる。デモらしいことをしていたのは、労働組合系だった。何を主張しているのかはわからず。そういえば、前日は光化門広場の前で、韓国の右派グループがデモしていた。「ムン大統領辞任しろ!ジョグクは辞めろ!」を連呼して、韓国国旗と星条旗を振って行進していた。日本の報道ではムンジェイン、ジョグクが悪者で、こういうデモ隊が「民意」として紹介されている。本当にめちゃくちゃだが、どうめちゃくちゃか、何の知識もない人に説明するのはとても面倒くさい。それをいい事に好きなように報道しているのだからたまったものではない。その件は、また、別に書こう。

今回目撃した唯一の「NO日本」
「日本製品は買わない!」みたいな横断幕、街中で少しは見かけるかと思ったが、ほとんどなかった。目を皿のようにして探ればどこかに発見はできただろうけど、普通にしていたら分からないレベルだった。そんな中、国会議事堂前で初めてその手の横断幕を発見。自分の語彙力では見ただけでは意味が分からなかったが帰って調べると「NO日本 伴侶文化 OUT」と書いていて、出したのは「大韓育犬協会」だった。犬食について反対意見も高まっている中で、食用犬文化を守ろうという保守系の団体のよう。韓国では、ペット用品を含め、ペット文化の先進国として日本を捉える視点があるよう。人間のための家畜という考えから、人生の伴侶として動物を飼う、という考え方に変ってきていることに対し犬肉愛好家たちが危機感を持っているらしい。なかなか複雑だ。とにかく、今回見た「No日本」はこの一本だけだった。ひと月くらい前なら、もう少し発見できたのかもしれないが、わからない。

そこからワールドカップ記念公園へ行って、大型公園めぐりをしようと思ってバスに乗ったが、方向を間違えてしまい、目的地を変えざるをえなかった。やはりまだ「入門」段階だったよう。宿のサービスでポケットワイファイがついていたので、グーグルマップで今、どこを走っているのか確認しながら降りる場所を考える。とりあえず、終点方面の光化門近くまで行き、そこがバス路線のハブになっているので、乗りかえることにする。乗り換えは30分以内なら無料のため降りてコンビニで飲み物などを買って次の方向へ。金持ちの街カンナムに行ったことがない、と同居人が言うからとりあえず行ってみる事に。(自分は、6年くらい前に行ったことがある。KARAのイベントがあって、のぞきに行ったのだ。あと、韓国人の友だちとランチを食いに行ったこともあった。)このバスはかなり混んでいた。漢江より北はバスレーンの整備が進んでいるが、橋を渡って南下するとかなりの混み方になってなかなか進まなかったりした。自動車の数はものすごく多い。カンナムで降りるも、周りを見て、別に行きたい店もないので「見た」ということで、すぐに移動する。乗継無料だし。ちょっと戻ってシンサドンに。「シンサドンのあの人」という有名な演歌のヒット曲がある街。カロスキル(街路樹街)という有名なところを一応目指すも、オシャレな店が並んでいるだけで自分らには関係がない街だった。ただ歩くだけになった。カンナムは地形的にかなり凸凹していて、雰囲気としては神戸の山の手みたいなところもある。小高い丘を越えてアックジョンへ。ここは、整形外科銀座として有名なところで、いたるところに整形外科の看板がかかったビルが立ち並んでいる。中国語の看板も目立つので、中国人もターゲットになっているのだろう。日本人もここでやってもらっている人、少なくないはず。

梨泰院の山の上からソウルタワーを眺める
その後、梨泰院方面に行く。ここは、米軍基地に近く、外国人が遊ぶ街としても有名。知らないけど六本木みたいな感じか。それよりは、沖縄のコザとかの方が近いか。コザも一度ちらっと行っただけでよくはしらないけど。ここも北側が山になっていて、歩いて散歩してみる。同居人は酒も飲まないし、共に金もないので店には入らずただただ歩いた。大金持ちのお城みたいな邸宅が並んでいた。あとは、外国の大使館なども。多国籍な雰囲気は楽しい。

遅くなって、ホンデの方に戻る。晩飯は、自分が以前ひとりで来た時に良かった「キサ食堂」に。キサ(技士)は、タクシー運転手のこと。彼らが仕事途中に一人で食べに行ける店ということで、一つのジャンルを形成している。韓国は最近まで一人でご飯を食べるという習慣がなかった。だから、一人客を想定していない店も多かった。そんな中、「一人飯」という文化が、ちょっとだけ広がりを見せ始めているらしい。自分は前に来た時に、それを表す「ホンパプ」でネット検索して、探したのがここだった。一人飯の普及の中、一人飯を想定して営業してきた運転手食堂が一般人に発見された、という感じか。前来た時に安くて美味かったのでまた来たかったのだ。9時過ぎに着いたが、かなりの人でにぎわっていた。よく見たら、次長課長河本、森三中黒沢がロケに来た時の写真が大きく掲げられていた。それくらいの有名店ではあるようだ。豚焼肉定食、牛焼肉定食をたのむ。他に、鯖定、チゲ定など。まぁ、松屋みたいなもの、と言えなくもない。辛いイカ炒めがあるのが韓国らしさか。あと、松屋との違いは、キムチ、ニンニク、サニーレタス、ご飯はセルフで追加し放題ということ。それにミニそうめんと目玉焼きひとつとモヤシのナムルがついている。普通といえば、普通なんだけど、その普通さが良い。ご飯も炊きたてで美味しかった。同居人も「今回の旅行一の食事かもな…」と言っていた。豚定900円、牛定1000円は高いか、安いか。満足度は高いけど、値段に関しては、やよい軒より高いって結構なものだな、というのが貧乏日本人の感想だった。
運転手食堂の豚定・牛定(2人分)

テレビがあって、日本のニュースが流れていた。東京で韓国学園の女子生徒が、日本人の50代女性に「うるさい」と言われてドアにぶつけられる暴力を振るわれ病院に行った、という内容だった。とうとうそういう事が起こってきたかと暗い気持ちになる。隣に座っていた、職場の先輩後輩という感じの男性二人組はテレビをぼんやりながめて、ボソボソと感想を漏らし合って、また食事に戻っただけだった。このニュース、さすがに、日本でも大きくなっているだろう、ネトウヨは捏造とか騒いでいるんだろうな、と思って帰って来たら、ニュースにすらなっていなくて呆れた。想像の遥か上を行っている。今の日本の報道は。私人同士の小競り合いくらいがニュースになるか、というなら、日本人の女の子がソウルでナンパされて断わって暴力を振るわれたニュースだって同じだろう。あの時はあれだけ大騒ぎしながら、ニュースにもしないなんて、被害の歴史は記憶し、加害の歴史はすぐ忘れる「日本」そのままだ。

初日、ミョンドンのマートでマッコリを買った。一リットルで120円。マッコリは非常に安い。韓国で安い酒といえば焼酎だが、あれは正直全然美味しいと思えない。人工的な味付けで。マッコリも普通のは人工甘味料が入っているが、ここで見つけたのは無アスセルファムをうたっているものだった。これはいいと思って買って二日かけて飲んだ。カルピスみたいな味で美味かった。最後の夜にもう一本飲みたいなと思って近所のコンビニで探すも、人工甘味料入りばかりしかなかった。ちなみに、宿近くのコンビニでは日本製ビールが売っていなかった。他ではちょくちょく見かけたので、ここは不買運動に参加しているんだと分かった。韓国で日本ビールってかなりのブランドで、割高なのに人気があったのだ。ただ、近年は韓国のビールメーカーも頑張って負けないものを作って人気を高めている所だった。そこにこの不買運動。本当に日本政府はバカだ。折角のお客さんを…。ならこの店は、日本製品は一切置いていないかというと全然そうではなかった。ベビースターラーメンもあったし、日本酒の「まる」なんかもおいてあった。ビールはシンボルということなのだろうな。それだけ人気があったことの裏返しだろう。周りを見ると、寿司屋だったらしい所が看板を外していたり、内装工事をして商売替えしているように見えるところは何カ所かあった。6月位まで、飲食店で「日本イメージ」はプラスの記号で、それを添えて商売している所は沢山あったのだ。今でも営業している日本食屋もあるし、ダイソー、ユニクロなんかも、まぁ普通に営業していた(でも確実に売上げの低下はあったと思う)が、「日本」がマイナスのイメージに変ったことは確実だろう。世界でこれほど「日本的なものが好き」だった国、他にないだろう。(ちょっと幻想を持ちすぎている位に。)なのに、まぁ、ほんとに、政府自ら率先して常連客を逃す方向に動いているんだから、どうしようもない。

というわけで、最後の夜はマッコリを我慢して寝る。

最後の日は、インチョンに昼過ぎにはつかないといけなかった。前日に行けなかったワールドカップ記念公園にバスで行ってみることに。ホンデの観光案内所のお姉さんに聞いたら、とにかくデカいとのことだったが、確かにめちゃくちゃデカかった。万博記念公園の何倍かという感じか。ロッカーのある所を通ればよかったが残念ながら無かったので重い荷物を持って散歩することに。ただただだだっ広い公園であった。前回ひとりで訪韓したときに、蚕室のオリンピック記念公園に行った。ここは、元競輪場があったところで、その面影を探しにと寄ったのだが、思いのほか良い場所だった。それで公園は悪くないと思って、今回のワールドカップ公園になったのだが、オリンピック公園よりさらに広く、何もないっちゃ何もない場所だった。とにかく、ソウルの住民には、散歩したり、ぼうっと時間をすごしたり、イベントしたりする場所が身近に一杯あることが分かった。飛行機の時間が危なくなってきた。地下鉄の駅の方向が分からなくなったので、歩いていたおじさんにきいてみると、駅方向まで自分も行くから連れて行ってくれるという。なんという親切。日本から来たのかと聞くのでそうだというと、自分も昨日東京に行ってきたとのことだった。野村証券と取引している大手投資銀行で働いていてビジネスでよく東京に行くという。よく見たら、確かに金持ちっぽい。近所を散歩しているただのオッサンだと思ったのだけど。日本語は「こんにちわ」「お元気ですか」しか知らないそう。お元気ですか、は、韓国人の誰もが知っている日本語なのだ。岩井俊二のおかげで。自分は映画見たことないけど。「近頃、ニュースがやかましいでしょ」と笑うおじさん。「そうですね」と答えると、「あんなのは政治的な奴らが騒いでいるだけだから、普通の韓国人はそんなことないからね、私は、隣人だと思ってますよ」みたいなことをおっしゃっていた。どっちかというと「政治的な奴ら」かもしれない自分としては、騒ぐにはそれなりの理由はあるだろうなと思ったりもするが、まぁ、韓国のある種の「普通」の人の態度なのかもしれない。

韓国といえばカササギ(カッチ)
本当にカワイイ
鳴き声はあまりカワイくない…
「あそこに一番の入口が見えるでしょ。あれですよ。空港に行くなら、一駅だけ乗って、デジタルメディアシティで乗り換えですよ」と丁寧に教えてくれて、さようならする。予定よりだいぶ遅くなってしまい、インチョンに着いたら、出発の一時間ちょっと前位だった。航空会社の窓口に行くと、窓口のお姉さんが何かちょっと説明をした。その時は何のことか理解できなかったが、乗ってみて非常口席だったということが分かった。子どもはダメとか色々条件があるらしい。その説明だったか。朝飯も昼飯も食うタイミングがなく、空港で食べる時間もなく、お腹が空いていたが、搭乗エリアではちょっとしたパンもバカ高く、関空まで我慢することにする。チェジュエアとかエアプサンとかLCCでも軽食が出たこともあるが、今回のイースタージェットは完全オプションということで水も出ない。安いのでいいのだけど、今回はおにぎりひとつでも食べたいなという所だった。

非常口席に座ると、CAさんが来てこれ読んでおけと説明書の一部を指さされた。非常時には率先して他の客を誘導せよ、とかそういう事が書いてあった。非常口ルールで、小さな手荷物も上の荷物入れにしまわなければいけないかった。隣に座った日本人の女の子、大学生くらいだろうか、本当に常識のない感じで、同行の仲間とぺちゃくちゃ喋っていて、CAさんの指示にも「はぁ?」という態度だった。イライラしてはいけない、見ないようにしなければ、と自分に言い聞かせた。離陸する前に、いきなり持ってきたパンを食べ始めた。美味そうだった。彼女らは、韓国で何を見てどんな思い出を抱えて日本に帰るのだろうな。

関空についたらもう夕方。エアロプラザにあった松屋で焼肉定食を食べた。美味かった。タイかベトナムの人だろうか、若い観光客のグループが隣で食っていた。肉ダブル定食に生ビールまでつけていた。自分らよりかなりお金を持ってそうな若者たちだった。いいな、今から海外旅行なんだな。と、一応海外から帰ってきたばっかりなのに、もはや羨ましい気持ちになった。

また行きたいですな。できるだけ早く。仕事で行ったりもしてみたいな。そんな機会なさそうだけど。

というわけで終ります。


2019年5月10日金曜日

あなたは右に、わたしは左に

右翼・左翼って聞いた事ありますよね。でも意味、あんまり知らないでしょ。この言葉、いつから始まったものか知ってますか?フランス革命後の議会からですよ。その時、革命を進めようという人たちが左側の席に座り、反対に革命をおしとどめようという人たちが右側に座ったのでそう言うようになったのです。左翼は、社会を進歩させていこうと考えているから進歩派、右翼は従来の社会や昔の方が良かったと考えるから保守派、進歩派からは反動勢力なんて言われたりもしますよ。


講義の流れでこんな話をした。

すごく興味をもったらしい学生が次の週に質問しにきた。

「右翼・左翼の話、すごく興味ありました。そんな意味だったんですね!」

面白かったのなら良かったです。


「で、質問なんですが、この間、中核派が選挙通りましたよね。革命的って言っているからあれは左ですか?」

まぁ、そうですね。極端だから、極左なんていいますね。

「なるほど!じゃぁ、自民党はどうですか。調べたら保守派って書いてたんですが…」

まぁ、保守派ですね。

「でも、憲法改正しようとか、先へ進めようとしているじゃないですか?」

まぁ、何と言いますかね、ほら、昔の憲法みたいに戻して、戦争ができるようにしよう、という考えなんで、そのへんでまぁ保守ですよね。

「うーん… 他にもカジノをやろうとか、新しい事をやろうとしているじゃないですか?それでも保守なんですか?」

まぁ、何と言いますかね、進歩ってそういうのとはまた違う感じなんですよね。

「うー、なんか難しいですね」

まぁ、ね。難しいですね…。


色んな知らないことを知った、という喜びにあふれた顔をしていた彼。ネトウヨ的なのにコロッといきそうで心配だが、興味を持つってことは良い事、なんでしょう、たぶん。「ネットの変な情報に騙されないようにね。本で勉強してね」と注意したけど、本にもいろいろありますからね。

「若者」に「自民党が支持される理由」が何となく見えてきたような気がしましたね。

2019年5月4日土曜日

97年のメモ帳

連休最大のイベントが部屋の片付けになった。わけあって同居人と部屋を交換することになったためで、結構な労力がかかった。今日も競輪のダービーをちらりと見たりしながら整理を続行。明日から仕事なので、作業が出来る状態までには戻さなければいけない。書類や本などちゃんと見てしまうとそれだけで時間がかかってしまうから、できるだけ機械的に作業しようとはしていたのだけど20年前の「取材メモ」と書いたメモ帳が出てきて、つい見てしまった。

1997年3月13日 松本インタビュー とあった。
自分の下手な字でメモしてあるのをそのまま書き写すとこんな感じ。

「信頼」関係ではない(言葉ではいうが、違うものだ)利益供与にすぎない(生活のための)「グランプリ」に乗る選手とそうでない選手。S級とA級、B級でクビがかかっている選手と、それぞれ視点が違うのだ。他のプロスポーツの一流選手とのちがい。自分の納得のいくレースと他のものおしのけても勝つということが違う。番手捲りをうたれる選手は弱いからだ。ただ、それだけなのである。中野と井上の戦いがすごかった。まわりの関係を切っていく努力もいる。「他のスポーツと違って、いらん力をつかわんといかんのです。」

昔すぎて、かつ、当時の自分が子どもすぎて(って27歳にもなっていたのですが)あまりハッキリ覚えていないのだけど、この前年に競輪をテーマに修士論文を書いて、取材というか、フィールドワークというか、何かそういう真似事をしていたのだった。この時、話を聞いたのは、当時、京都地区のボス的存在だった松本整選手。確か、ふるさとダービー4連覇を達成しての祝勝会だったと思うが、当時つきあいのあった日刊スポーツの記者さんの口利きで参加させてもらったのだった。現在、タイトルをいくつも獲りレジェンド的選手になっている村上義弘選手ほか、京都の選手も多く参加していたと思う。「あ、村上だ」と思った、というぼんやりとした記憶はあるが、そのほかは本当に何も覚えていない。(記者さんと一緒に、関西棋院所属の囲碁棋士Hさんという方も来ていて、帰りにいろいろ話を聞いたことはちょっと覚えている。帰り道は緊張感が解けて気楽な気分だったのだろう。それ以来お会いしていないがお元気にされているだろうか。)だから、この時、松本さんにどんな風に話を聞いたのかなんてさっぱり覚えていないのだが、上記のようなメモが残っているということは、こういう事を僕に向かって話してくれたのだろう。競輪ファンならご存知の通り、厳しい雰囲気がガンガンに漂う方で、実際に自分もオロオロしていたはずだが、何も分かっていない大学院生の質問にまじめに答えてくれていたんだなぁ、ということは今このメモを見ると分かる。

この時、お願いして単独インタビューを後にさせてもらうことになった。これは松本さん経営のスポーツジムで話を伺ったものだ。人間は背中に大きなゼンマイ仕掛けを背負っていて、いったん動き始めたらもう巻き戻せないのだ、というようなことを仰っていたことは何となく覚えている。その後、競輪についてちゃんとしたものを書くのに20年くらいかかってしまい、この時のお話は直接には生かすことができなかった。当時、せっかくいろんな方に協力してもらったのに、中途半端になってしまい申し訳ないという後悔はありつつも、まぁ仕方が無いか未熟だったのだから、と他者化して見られるような余裕もようやく生まれてきたような気もする。とはいえ、ジムで聞いたインタビューは、カセットテープに取っているはずだが恥ずかしさと怖さで、とても聞き返せない。

この97年の手帳を見たら、3月に岸和田競輪場で競輪ダービーが行われていて、大学時代のプロレス研究会仲間の「桂輪太郎」(仮)くんと見に行っている。3日目の24日。11時半新今宮待ち合わせ、と手帳にあった。27日の決勝は一人で見に行ったのか。浜口優勝とメモしてあるがレース内容はまったく覚えていない。今日のダービーは、この所次元の違う強さで競輪界を席巻している脇本選手が相変わらずすさまじい勝ち方をした。自分は忘れっぽい人間だ。このレースも何年かしたら忘れてしまうのだろう。仕方が無いとあきらめているが、文字で記録に残しておくのは、それなりに意味があるな、とちょっと思ったのでメモしておくことにした。メモを久々に見てしみじみした、という記憶と共に。