2020年4月1日水曜日
新学期を迎えるにあたっての身辺雑記
2週ほど前、京都に行った。某先生が新しくウェブ雑誌を作ろうという計画を立てていて、自分も誘ってもらった。そのための打ち合わせだった。集まったのは、自分より一回り以上上の男の先生二人と、わたしと、韓国から研究員として滞在している女性研究者Aさんとの4人。全員旧知の仲なので、話し合い自体は一時間ほどで終わり、いつも通り「じゃぁ一杯飲みに」ということになった。あの時点で、警戒心を持っていたのは韓国人のAさんひとりだった。日本での研究で科研費をもらっている彼女は韓国に帰るわけにはいかない立場だけど、現在の事実上の往来禁止措置により、ちょっとした里帰りさえできない状況になっている。ネットを通して知る韓国の、あるいはイタリアやヨーロッパの(この時はまだアメリカはそれほどでもなかった)コロナの状況に大変な危機感を持っていた。「それにしても、日本のこの警戒心の無さは…」と、とても不安な様子だった。私も含め、日本のオッサン三人は、権力が作り出す「自粛ムード」への警戒感が先走り、どういう危険があるか、まともに心配していないような感じだった。ヨーロッパでこんなことがあったらしい、このウィルスはこういう特徴があるらしい、というAさんの熱心な語りを「あまり考えるとノイローゼになっちゃうよ、大丈夫だよ」というようなノンキな態度で受け流していた。上のお二人よりは、最近、韓国のニュースを毎日見ている私はまだ少しばかり警戒心はあったけど、まぁ、韓国と同程度だとして、韓国の場合は新興宗教が爆発させた部分があるし、それとは無関係らしいのは3割くらい(この時点で)、ということは感染者3000位か、日本は人口倍くらいだから既に6000はいるかな。発表されている数の100倍くらい(この時点で)だけど、まだまだ確率的に「自分」まで来るのは先だな、くらいな気持ちだった。もっとも、この排外主義的な日本という社会の中で、外国人としてこの病気に罹るかもしれない、という怖さは、マジョリティである自分とは比較にならないだろう、とは考えた。考えたが、「でも今日はうつらないだろうな」というくらいのお気楽さであった。良い天気だから、というので鴨川の河原にビールと惣菜の天ぷらを買って持って行き、しばらく喋る。例年なら、この季節のこんな良い天気の京都、観光客であふれていただろう。それと比較すると相当空いてはいたが、家族連れや、観光客の姿も、それなりにあった。その後、近くの居酒屋に行き、何時間かダラダラ飲んだ。少人数だし、お店も空いていたし、と言い訳をしながら。久しぶりに日本酒の熱燗などを飲み、適量が分からず飲みすぎてしまい帰りの記憶を失うほどだった。今は同居人以外と話す機会が少ないため、久しぶりのお喋りの機会にテンションがあがっていた。感染への警戒感など全くないような状態だった。大阪に向かう阪急電車も、自分のような上機嫌の客が普通にいた(と思う)。次の日は、当然のように二日酔いになり、この時点でちょっとばかり反省の意識が出てきた。酒の飲みすぎだけでなく、もし万一、自分がAさんにうつしてたりしたら、これは取り返しがつかないな、と。2月、3月と非常勤講師業の自分は例年通り長い春休み期間である。今年は1月に引越しをして、その片付けや、部屋の再調整などだけで二か月を無為に過ごしてしまった。そのおかげ(?)で、同居人と、たまに実家に寄った時にあった母親以外、ほとんど誰とも接触していない。同居人は基本引きこもりなので、自分よりもリスクは低め(だろう)。もちろん、毎日の買い物やチェーン店での外食などでも感染のリスクはゼロではないが、普通の勤め人に比べたらかなり低いんじゃないか、と思っている。しかし、多くの人がこうやって「自分は大丈夫」と理屈をつけて安心しているのだろうとは思う。自分は人ごみ避けている、外国行っていない、ナニナニはやっていない、とにかくいろいろ気を付けている、と。その後、オリンピックの延期が正式決定し、案の定、すぐに感染者の数字が増加していった。公表される数字が増えて行き、アメリカが危機的状況になっていることなどが知られるようになると、「世間」の反応も変ってきたように思う。それにつられて自分自身も、危機感がちょっとずつ増してきた。「自粛」を「要請する」という「空気」コントロールにより人々を動かそうとする権力の手口への違和感はずっと持ちながらも、他の国を見ていると、これは予想をはるかに超えて怖いことが進行しているんじゃないか、という気持ちになってきた。ミーハーで通俗人間丸出しだが、やはり子どもの頃から見てきた有名人の死に普通にショックを受けたりもして。「ああ、日本人…」と自分が嫌になるが、まぁ、自分なんてその程度のものなのだ。小学生の頃、『全員集合』を見て気が狂ったように笑っていたバカな小学生は、碌に成長せず50になろうとしているのだ。ニュースの日、「志村、死んだよ」と遅めに起きてきた同居人に伝えたら、「あんたも小学生時代卒業やな」と言われた。最初は、流石に「えーっ?そんなに悪かったん?」と驚いてはいたが。そうなのだ、自分は中二病だと思っていたが、中二はこれからようやく迎える所なのだ。新学期が始まる4月になった。例年なら、生産的なことが何もできなかったことを激しく後悔し、しかし、これからの仕事にそれなりに気が引き締まってはくる時期だが、今のところ、どの学校も20日以降に開講を遅らせるということだ。一カ所は、昨日HPを見ると、5月開講とさらに遅らせていた。今日も有名な人の感染のニュースが流れている。公表されている感染者数と比較して、有名人の割合が異様に多くないか、という素人くさい疑問は「有名人であろうが一般人であろうがひとりひとりの感染確率で言えば同じだ」というのが答えなのかもしれないが、どうなのだろうな。とにかく、4月になった、という「形式」を利用して、生活の組み立て直しをしたいとは思う。今の情勢からしたら、4月いっぱい遅らせた所で、大学に学生集めて授業なんて多分無理だろう。非常勤講師業という非正規職の抱える不安は、世の多くの自由業系の人たちと共通する部分もあるだろう。こういう立場だからこそ、分かることもある、かもしれないな、と前向きにとらえて、何とか生き延びよう。とか何とか考えて、身辺雑記を書いておくことにした。
2020年3月16日月曜日
前の時はどうだったか
世界が不安定になるとトイレットペーパーが無くなる、というのは日本の伝統芸能かと思っていたが、どうやら世界中のよう。紙製のマスクが主流だからというのだが、理屈云々ではなく「もしなくなったら大変だ」と感じさせる対象として、たいへん身近で適度に「軽い」存在であり、しかし実際に無かったら結構困るもの、として丁度ピッタリなのがトイレットペーパー、なのかもしれない。「日本特殊論には気をつけろ」と講義で言ったりしていたが、これもその例か。
「前の時」はどんな感じで終わったのだろう。母親に電話ついでに聞いてみたら、目端のきく叔父が入手して持ってきてくれて助かった、なんて話をしてくれた。妹を出産したすぐ後くらいの大変な時だったらしい。しかし、考えてみたら、その頃に住んでいた文化住宅は水洗トイレではなく「ぼっとん」だった。トイレットペーパーなんて現代風のものは使わず、四角のちり紙を使っていたはず。ニュース写真で見るオイルショックの時のパニックで買い求められているのは、あのロール状のやつだけだが、ちり紙(落し紙というのかな)も不足だったのだろうか。母親によれば、近所に住んでいた人がナントカ油脂という会社につとめていて、そのおかげで石鹸をわけてくれて助かったりもしたらしい。石鹸洗剤類も無かったのだな。それは石油価格の急騰が原因なのだから、理解はできる。
話を聞いていると、母親は「あの頃は、皆、遊んでいたからな」という。何のことかというと、近所の人の多くが専業主婦で、昼間は皆家に居たから、集まっていろんな話をしたりできていた。今は、仕事している人ばかりだから、大変だ、と。確かに、今回のコロナを受けての急な休校措置で、子育て世代は大変なことになっているだろう。高度経済成長の終わらせたオイルショックの頃は、専業主婦率はほぼピーク。その後、就労率がどんどん増えていく。うちの母親も、私ら兄妹が高学年になった頃から、パートで働きに行きはじめた。同世代の典型例だ。
「けど『遊んでた』ってことはないやろ。家事も大変やったやろうに」と言っても、若かった頃は楽しかったという思いもあって、受けつけないよう。今の女性みたいに、主婦友だち同士で遊びに行ったりなどは全くしていなかったし、父ちゃん抜きで外食したことなど結婚生活でほとんどなかったのじゃないか。父は、しょっちゅう酔っぱらって帰ってきたりしてたけど。それでも「遊んでた」になるのか。昔の話を聞くと、いろいろ曖昧になってはいる。トイレットペーパー騒動がどんな形で収拾したかは、あんまり覚えていないようだし。まぁ、自分もちょっと前の事すらいろいろ忘れるようになっているから、半世紀前のこと忘れていても無理はないだろう。
歴史は繰り返すだな。「次」の時は、母はもちろん、自分ももうこの世にはいないだろう。
「前の時」はどんな感じで終わったのだろう。母親に電話ついでに聞いてみたら、目端のきく叔父が入手して持ってきてくれて助かった、なんて話をしてくれた。妹を出産したすぐ後くらいの大変な時だったらしい。しかし、考えてみたら、その頃に住んでいた文化住宅は水洗トイレではなく「ぼっとん」だった。トイレットペーパーなんて現代風のものは使わず、四角のちり紙を使っていたはず。ニュース写真で見るオイルショックの時のパニックで買い求められているのは、あのロール状のやつだけだが、ちり紙(落し紙というのかな)も不足だったのだろうか。母親によれば、近所に住んでいた人がナントカ油脂という会社につとめていて、そのおかげで石鹸をわけてくれて助かったりもしたらしい。石鹸洗剤類も無かったのだな。それは石油価格の急騰が原因なのだから、理解はできる。
話を聞いていると、母親は「あの頃は、皆、遊んでいたからな」という。何のことかというと、近所の人の多くが専業主婦で、昼間は皆家に居たから、集まっていろんな話をしたりできていた。今は、仕事している人ばかりだから、大変だ、と。確かに、今回のコロナを受けての急な休校措置で、子育て世代は大変なことになっているだろう。高度経済成長の終わらせたオイルショックの頃は、専業主婦率はほぼピーク。その後、就労率がどんどん増えていく。うちの母親も、私ら兄妹が高学年になった頃から、パートで働きに行きはじめた。同世代の典型例だ。
「けど『遊んでた』ってことはないやろ。家事も大変やったやろうに」と言っても、若かった頃は楽しかったという思いもあって、受けつけないよう。今の女性みたいに、主婦友だち同士で遊びに行ったりなどは全くしていなかったし、父ちゃん抜きで外食したことなど結婚生活でほとんどなかったのじゃないか。父は、しょっちゅう酔っぱらって帰ってきたりしてたけど。それでも「遊んでた」になるのか。昔の話を聞くと、いろいろ曖昧になってはいる。トイレットペーパー騒動がどんな形で収拾したかは、あんまり覚えていないようだし。まぁ、自分もちょっと前の事すらいろいろ忘れるようになっているから、半世紀前のこと忘れていても無理はないだろう。
歴史は繰り返すだな。「次」の時は、母はもちろん、自分ももうこの世にはいないだろう。
2020年3月13日金曜日
池の近くに行った
池の近くに行った。池の前にはちょっと前まで大学があった。ここは、少子化と経営戦略の失敗で廃校になっている。40年ぶりにこのあたりに戻ってきて二ヶ月、買い物先の確認など必要な探索はだいたい終わったので、ただ何となく子どもの頃の記憶の片隅にある風景を確認してみようと自転車で回った。子どもの頃、殺人犯がこの池に死体を沈めたと供述して、池の水を全部抜く大掛かりな捜査があった。実際にどんな事件だったのか、被害者は見つかったのかはよく分からない。警察が来て大騒ぎになっている、という情景が、非日常でなんとも興奮する記憶として残っているだけだ。小学校低学年の記憶ならそんなものだろう。この池はため池で、当時から「危ない」の看板があり、つり禁止、水遊び禁止だった。河童が描かれた溺れた子どもの絵が描いてあって、子どもの頃から肝っ玉の小さかった自分は、それがとても怖かった。池の水を全部抜く、というテレビ番組を見るたびにこの池のことを思い出す。行ってみると、以前より頑丈なフェンスで囲ってあった。ため池としての役割なんてもはや果たしていないだろうに、何のために「池」としてあるのだろう。数羽の鴨と一羽のアオサギがいた。のんびりした風景だった。この池の北側に、かつて水源地公園というのがあった。工業用水の浄水場だったと思う。その横に大きな公園があって、子どもの頃習わされていた空手の寒稽古をそこでやったという記憶がある。正月に呼びつけられて寒い中、稽古して、その後、ぜんざいか何かを食べた。親としては、私があまりに運動嫌いでどんくさいから心配で習わしたのだろうが、それが裏目に出て私は余計に身体を動かすのが嫌いになった。他の子よりワンテンポ遅れてしか動けず、空手の試合では必ず初戦で負けた。全員が合格する8級か何かの試験にも落ちた。稽古中は、早く終わって家でテレビを見てごろごろしたいと思い続けた。嫌な記憶の残るその公園は、新設の高校になっていた。自分の記憶では、そのあたりに、牛舎があった。工業都市尼崎だが、北の端っこにあたるこの辺りでは、高度経済成長まではまだ田んぼが広がっており、自分の子どもの頃にはさすがに少なくなってはいたが、ところどころ畑や田んぼも残っていた。今でも若干残っている。川ひとつ隔てた大阪市内では、ほとんど見られないので、まだそうなのかと戻ってきてちょっと驚いた。田んぼはそれほど珍しくないが、牛舎は40年前でもさすがに珍しかった。ネットで検索してみたら「驚いたことに昔はこのあたりに牛舎があったそうです」という情報があって、やっぱり記憶違いじゃないのか、と安心した。そこは今どうなっているだろうと、少しうろうろしてみたが、それらしいものは見つからなかった。ただ、動物の糞の匂いがしてきたような気もしないでもなかったので、もしかしたら、まだ牛をかっているところがあるのかもしれない。途中でアイスクリームを買って、公園で食べた。子どもが沢山遊んでいた。コロナで休みだから暇なのだろう。スマホもったりせず、ただ走り回っていた。格好も「昭和」時代とあまり変わらない感じだった。公園の向こうには、風呂屋の煙突。本当は、いろいろ変わったのだろうが、何となくずっと変わらない景色みたいに思えた。
2020年2月7日金曜日
淀川にちかい町、から
先日、引越した。ハンドルネームの由来である淀川の側から離れることになった。「よどがわ」を使い始めたのは、mixiで日記を書きはじめてからだ。その頃は、西中島南方近くの風呂なし共同トイレのアパートでひとり暮らしをしていた。淀川区だし、本名に近いし、子どもの頃からハゼ釣りなんかをして遊んだ愛着のある川だし、ということで使い始めた。たまに遠くから帰って来て、淀川が見えてくると故郷に帰った感を抱いたりもする。任期付きだがまともな給料をもらえる仕事につけることになり、それを機会に長く付き合ってきた現同居人と二人暮らしをすることにした。2万円の木造アパートから、十三駅すぐそばの高層階のマンションに移った。にぎやかで楽しい場所だったが、そこでの生活は何せ初めて他人と暮らすことになったというのもあり、お互いに色々うまくいかないことが続いたりして、諍いばかりであった気がする。そんなに昔ではないのに、とにかく記憶は曖昧だ。この頃から、心身の老化も実感するようになり、記憶力が弱くなってしまったというのもある、かもしれない。条件の良い仕事の期限が迫り、どうやらその後はただただ貧乏な未来にむけて進んでいくだけ、という「展望」が見えてきた。月8万近くの家賃は到底払えなくなるから、出るしかなかった。
とりあえず、経費削減のため格安の家賃だった千里ニュータウンの外れにあった官舎(任期付き教員にも権利があった)へ入ってみたが、諸条件が精神的に合わず一か月で出て淀川区に戻った。どんなに長くても一年半ほどで出なければいけない所だったが、それすら二人とも耐えられなかった。今度は淀川のすぐそばで、阪急十三駅からは少し離れたがJRの塚本駅も使えるなかなか便利な所だった。老々介護状態でほったらかしにしていた実家の様子も自転車で覗きにいけた。細かく「良さ」を描いたらすぐにどこか分かってしまうからはぶくが、場所も部屋も、なかなか気に入っていた。十三駅そばのマンションよりは、家賃も少し減らせた。途中、同じ集合住宅内で引越しをした。ベランダから淀川が直接見わたせる部屋にかわったのだ。合わせて約10年その地域に住んだ。この間は、ツイッター依存が深刻化した期間でもあるからツィート検索をすれば色々思い出せるはずだ。良いことも少しはあった。人生の重い宿題になってしまっていた単著の執筆も何とかできたし。
生活上の難がいろいろ出てきて、そろそろ他に替ろうということになってきたのは、二年ほど前から。父親が要介護で、かなり危ないという状態が続いている間は、引越しのタイミングが無かったが、去年の秋にあの世にいってしまったので、それをきっかけに、という訳でもないが、何となく動き易くはなったため、本腰を入れて探すことにした。仕事先が幾つかにわかれているから、阪急とJRが共に使える前の家の交通環境は大変ありがたかった。梅田なら自転車で15分もかからずに行けたし。これまで同様、大阪市内の便利で賑やかな下町に住み続けたいという希望はあったが、家賃を考えると難しかった。いろいろ探しまわり、尼崎の「競馬場のある町」に落ち着いた。東京では「こじゃれた3畳間」さえ借りられない程の家賃で、3部屋以上ある家を見つけることができた。初期費用もあまりかからずに助かった。前に住んでいたのと同じく築年数の大変古い集合住宅で、前はあったエレベーターがなく、毎朝、足腰を無理やり鍛えさせられる、という難はあるが、駅までも辛うじて徒歩圏だし、住み心地は今のところ悪くはない気がする。
この「競馬場のある町」は、実は10歳まで住んでいた文化住宅のすぐ近くでもある。最初はそんな所に戻ってくることは全く考えていなかったのだが、仕事、家賃、実家との距離などを総合して考えると、一番条件にあった町だった。希望としては同じ尼崎市でも、開発が進んで大変便利で賑やかになっているJR尼崎駅近所に住みたかったのだが、家賃が高かった。阪神沿線は庶民的でいかにも「アマ」という感じで、一度は住んでみたいという気持ちもありつつ、自分にとっては通勤のアクセスが悪い。ということで阪急沿線に、となると、高級住宅地のイメージもある武庫之荘、急行の停まる塚口に比べて、「競馬場のある町」は、普通電車しか止まらず「比較的、お手頃になっております」(不動産屋談)とのこと。近くに川もあって、案外、環境もいい。別に静かさを望んでいたわけではないが、落ち着いていること自体は悪くはない。かといって寂し過ぎて堪らない、という程でもなさそう。というわけで、40年ぶりに尼崎市民に戻ることになった。公営ギャンブルをテーマに研究してはいるが、専門の競輪以外は、ほとんどギャンブルをやらない(収入がないからだろうが)から、競馬場をめざして来た訳ではないけれど、空間としての競馬場は好きだし散歩で行けるのはちょっと楽しみである。
人生は旅のようなもの、などと言うが、自分の旅は「散歩」みたいなものだ。子どもの頃は、将来は「東京」か、どこか遠くに住むことになるに違いない、と思い込んでいた。しかし、実際の人生は、地球儀で見たら、一本の針で刺した範囲内でしか動いていない。色んな所に住む経験をしている友人、知人達が本当に羨ましい。ずっと「地元」近くにいるのに、いわゆる地元の友だちは1人もいないし、コミュニティ的なものにも一切参加していない。ただただ、動いていないだけなのだ。これまでもそうだったが、今回の引越しの「振り出しに戻る」感は、笑ってしまうほどだ。たまたまこのあたりが安く、良い物件があった、という風に思っているが、ここまでになると、潜在的に「戻ろう」という意識があり、それが作動したということなのかもしれない。なぜ、そうなのかは分からない。父が死んで、両親が結婚して住み始めた町のすぐ近くでもう一度生活しようだなんて、どれだけ親に縛られているのか、と思わなくもない。が、よく分からないから、まあ、いいか。古巣だと言っても、子どもの頃遊んだ幼なじみでつき合いのある人は1人もいない。まだこのあたりに住んでいるかもしれないが探す気はない。
※ ※ ※
というわけで、引越しをして、ちょっと気分は変わりはしました。「よどがわ」というハンドルネームは愛着があって使い続ける予定ですが、これからは「競馬場の近く」に住み、競艇もある自治体なのに、なぜか競輪を研究している「よどがわ」ということで、ややこしいですがよろしくお願いします。どうしても引越し祝いを送りたい、という人には住所を教えますので、DM下さい^^;
とりあえず、経費削減のため格安の家賃だった千里ニュータウンの外れにあった官舎(任期付き教員にも権利があった)へ入ってみたが、諸条件が精神的に合わず一か月で出て淀川区に戻った。どんなに長くても一年半ほどで出なければいけない所だったが、それすら二人とも耐えられなかった。今度は淀川のすぐそばで、阪急十三駅からは少し離れたがJRの塚本駅も使えるなかなか便利な所だった。老々介護状態でほったらかしにしていた実家の様子も自転車で覗きにいけた。細かく「良さ」を描いたらすぐにどこか分かってしまうからはぶくが、場所も部屋も、なかなか気に入っていた。十三駅そばのマンションよりは、家賃も少し減らせた。途中、同じ集合住宅内で引越しをした。ベランダから淀川が直接見わたせる部屋にかわったのだ。合わせて約10年その地域に住んだ。この間は、ツイッター依存が深刻化した期間でもあるからツィート検索をすれば色々思い出せるはずだ。良いことも少しはあった。人生の重い宿題になってしまっていた単著の執筆も何とかできたし。
生活上の難がいろいろ出てきて、そろそろ他に替ろうということになってきたのは、二年ほど前から。父親が要介護で、かなり危ないという状態が続いている間は、引越しのタイミングが無かったが、去年の秋にあの世にいってしまったので、それをきっかけに、という訳でもないが、何となく動き易くはなったため、本腰を入れて探すことにした。仕事先が幾つかにわかれているから、阪急とJRが共に使える前の家の交通環境は大変ありがたかった。梅田なら自転車で15分もかからずに行けたし。これまで同様、大阪市内の便利で賑やかな下町に住み続けたいという希望はあったが、家賃を考えると難しかった。いろいろ探しまわり、尼崎の「競馬場のある町」に落ち着いた。東京では「こじゃれた3畳間」さえ借りられない程の家賃で、3部屋以上ある家を見つけることができた。初期費用もあまりかからずに助かった。前に住んでいたのと同じく築年数の大変古い集合住宅で、前はあったエレベーターがなく、毎朝、足腰を無理やり鍛えさせられる、という難はあるが、駅までも辛うじて徒歩圏だし、住み心地は今のところ悪くはない気がする。
この「競馬場のある町」は、実は10歳まで住んでいた文化住宅のすぐ近くでもある。最初はそんな所に戻ってくることは全く考えていなかったのだが、仕事、家賃、実家との距離などを総合して考えると、一番条件にあった町だった。希望としては同じ尼崎市でも、開発が進んで大変便利で賑やかになっているJR尼崎駅近所に住みたかったのだが、家賃が高かった。阪神沿線は庶民的でいかにも「アマ」という感じで、一度は住んでみたいという気持ちもありつつ、自分にとっては通勤のアクセスが悪い。ということで阪急沿線に、となると、高級住宅地のイメージもある武庫之荘、急行の停まる塚口に比べて、「競馬場のある町」は、普通電車しか止まらず「比較的、お手頃になっております」(不動産屋談)とのこと。近くに川もあって、案外、環境もいい。別に静かさを望んでいたわけではないが、落ち着いていること自体は悪くはない。かといって寂し過ぎて堪らない、という程でもなさそう。というわけで、40年ぶりに尼崎市民に戻ることになった。公営ギャンブルをテーマに研究してはいるが、専門の競輪以外は、ほとんどギャンブルをやらない(収入がないからだろうが)から、競馬場をめざして来た訳ではないけれど、空間としての競馬場は好きだし散歩で行けるのはちょっと楽しみである。
![]() |
| (写真は、地方競馬の人気があった頃に使ったであろう臨時ホーム。今は全く使われてないよう。) |
人生は旅のようなもの、などと言うが、自分の旅は「散歩」みたいなものだ。子どもの頃は、将来は「東京」か、どこか遠くに住むことになるに違いない、と思い込んでいた。しかし、実際の人生は、地球儀で見たら、一本の針で刺した範囲内でしか動いていない。色んな所に住む経験をしている友人、知人達が本当に羨ましい。ずっと「地元」近くにいるのに、いわゆる地元の友だちは1人もいないし、コミュニティ的なものにも一切参加していない。ただただ、動いていないだけなのだ。これまでもそうだったが、今回の引越しの「振り出しに戻る」感は、笑ってしまうほどだ。たまたまこのあたりが安く、良い物件があった、という風に思っているが、ここまでになると、潜在的に「戻ろう」という意識があり、それが作動したということなのかもしれない。なぜ、そうなのかは分からない。父が死んで、両親が結婚して住み始めた町のすぐ近くでもう一度生活しようだなんて、どれだけ親に縛られているのか、と思わなくもない。が、よく分からないから、まあ、いいか。古巣だと言っても、子どもの頃遊んだ幼なじみでつき合いのある人は1人もいない。まだこのあたりに住んでいるかもしれないが探す気はない。
※ ※ ※
というわけで、引越しをして、ちょっと気分は変わりはしました。「よどがわ」というハンドルネームは愛着があって使い続ける予定ですが、これからは「競馬場の近く」に住み、競艇もある自治体なのに、なぜか競輪を研究している「よどがわ」ということで、ややこしいですがよろしくお願いします。どうしても引越し祝いを送りたい、という人には住所を教えますので、DM下さい^^;
2019年11月9日土曜日
何のために書いているのか
このブログは何のために書いているのか。自分でも分からない。そもそも、多くの人は何のために、と書こうとしてあまりにありきたりなことを書いているなと気づき、手が止まる。せっかくやるなら、定期的に更新したいと思いつつ、何も書くことが思いつかず、こういうことを書いている。パソコンで作文を書かせて出来たらメールで送らせるという授業を以前やっていた。毎回、お題を出す。紹介したい場所、印象に残った出来事、高校生の自分にあてた大学生活案内、などなど。あまり勉強が好きではない学生の多い大学だったが、それでもスラスラと書く者も結構いて、自分が若い時より、携帯のメッセージ的なものも含めた文字文化に親しんでいるからかなと思ったりした。もちろん中には「何を書いたらいいかわからん」というのもいて、そういう時には「最後の手段だけど、何を書いたらいいか分からない、と書きはじめてみたら」とアドバイスした。この最後の手段として教えたやり方を、自分も今ここでやっている。(自分のようなものが、作文を教えるなんてどう考えてもめちゃくちゃだが、文章表現を教えるというより書く機会を与え続けるという内容だったので、勘弁してください。)さて、何のためにブログを書いているのか。理由をあげるといろいろある気がする。文章の練習。備忘録。他者からの承認欲求をみたすため。どこかの誰かの目にとまり、何か素敵な仕事でも舞い込んでこないか、という淡い期待。頭の中の整理。具体的な知人を想定しての近況報告。こんなものか。とにかく、何も生み出さないで日々過ごすよりは、どんな下らないものでも「何か」を生み出した方がいい、という判断のもと、「駄文を…」と言い訳し、予防線を張りながら、できるだけ書くようにしようと思っている。が、なかなか更新する気になれず、それが焦りとなって精神的負担になってしまったりもしている。誰が待っているわけでもないのに、バカバカしい話だ。自分のためだけのノートに、できるだけ自分内編集者の声をおさえて、延々と文章を書き連ねるという作業は続けている。ほぼ毎日のように日記的な何かを書いてはいる。しかし、たかがブログでも他人に見せるということを意識して書く場合、最低限の「よそいき」的な装飾が必要になり、それが書けなくさせているのだ。正装とまではいかなくとも、近所のスーパーに買い物に行くときくらいの「外」に行ける格好にしなければならないという意識がある。もっとも、自分だけが読む日記ですら、書く時にパンツとシャツくらいは着ているのだ。本当に真っ裸の精神で書けたら、それはすごいのかもしれないが、自分のような凡人は、どんな時もパンツくらいはどうしても穿いておかないと不安で仕方がないのだ。誰にも見せないものだとしても。そもそも文章というのは他者が存在しないと書けないものだろうと思う。自分だけが読む日記は、後の自分が他者になる。自分という、自分のダメな部分をすべて知っている人間に対してさえ、パンツを穿かないといけないなんて、なんという臆病さだろうと思わなくもないが、そんな程度でいいという気もする。何の話だったか。そう、ブログを更新しようということだった。そんなわけで、数人しか見ないにしてもブログとなると、日記の何十倍も格好を気にしなくてはならなくなる。自分のためだけのノートは、本を書かなければならないのに、全然書き進められない間、自分の手を止めさせているものの正体をできるだけつかみ、その邪魔をさせない癖をつけるために書きはじめたものだった。効果はあったし、今もある。以前に比べたら、ずいぶん、筆は軽くなったと思う。それでもなお「何か書かなければ」という意識が連れてくる気分は重い。今自分に必要なことは、できるだけ自由な、自分のしたい格好をして街を歩く厚かましさを身に着けることかもしれない。書いて気に入らなければ捨てればいいのだ。何となく、ブログ的なものを書きはじめた頃のことを書こうかと思っていたが、もう飽きてきた。「はてな」から突然自動メールが来るようになって、放置していた前のブログに「星がつきました」みたいなことを知らせてきた。自動巡回の何かにひっかかっただけだとは思うが、何年ぶりかで「はてな」の日記を見たら、内容をほとんど忘れていた。何で書いていたのか。それを今読むことにはどんな意味があるのか。そのうち、また考えて書いてみようと思う。
2019年10月25日金曜日
人の悪口
非常勤帰り。電車で隣り合わせた女子学生二人組が教員の悪口を言い合っていた。「あのMのジジイ最悪」「Mやろ。あれは頭おかしいわ。あいつが学校行くべきやろ」「ほんまや」M先生、誰だか知らないけど、散々な言われよう。自分もこんな風に言われているかも、と思うとちょっと憂鬱になる。
だけど、その後、二人の会話はこう続いた。「まぁ、でも嫌いっていう訳ではないけどな」「まぁね」… あれだけボロクソに言っていて嫌いちゃうんかい!と声を出してつっこみたくなったが、ちょっとかわいいなと思った。M先生、厳しいけど憎めない人なんだろうな。厳しさの奥にある愛情みたいなものが伝わっている、ということか。
…
こういうことが昨日あった。今日になって別の可能性も頭に浮かんできた。もしかして、本当は本当に大嫌いだけど、友だちに対して「誰かを嫌っている」というメッセージを発することが禁忌というか、絶対だめなことと思われていて、最後にフォローしたのではないか…
そんな嫌な奴なら「大嫌い」でいいと思うよ。あるいはそれほどでもないなら、電車の中ではもう少しマイルドに批判しましょう。
だけど、その後、二人の会話はこう続いた。「まぁ、でも嫌いっていう訳ではないけどな」「まぁね」… あれだけボロクソに言っていて嫌いちゃうんかい!と声を出してつっこみたくなったが、ちょっとかわいいなと思った。M先生、厳しいけど憎めない人なんだろうな。厳しさの奥にある愛情みたいなものが伝わっている、ということか。
…
こういうことが昨日あった。今日になって別の可能性も頭に浮かんできた。もしかして、本当は本当に大嫌いだけど、友だちに対して「誰かを嫌っている」というメッセージを発することが禁忌というか、絶対だめなことと思われていて、最後にフォローしたのではないか…
そんな嫌な奴なら「大嫌い」でいいと思うよ。あるいはそれほどでもないなら、電車の中ではもう少しマイルドに批判しましょう。
2019年10月19日土曜日
父の話
父は、1942年に北海道の美唄市で生まれた。八人兄弟の末っ子で、父の父は神主だった。家が神社だったわけではない。幾つかの小さな神社をかけもちで担当していたという。本土の神社とは違い、おそらく、開拓時に集落ごとに作ったような簡易的な社がほとんどだったのだろう。祭りや、棟上げ式など、イベントがある時に呼ばれてお金をいただく、というような商売だったのではないか。家は相当貧乏だったらしい。父以外の兄弟たちは、皆義務教育しか受けさせてもらっていない。父だけは、夜間の工業高校に通わせてもらった。歳の離れた兄姉が親代わりになって、その世話で何とかそれだけの余裕が家に出来たのだろう。とはいえ夜間なので、当然昼間は働いていた。自転車屋、新聞配達、岩見沢駅の機関区などでアルバイトをしたと聞いた。卒業後、大阪に出てきた。本土に渡ったのは兄弟でただ一人だった。どうして大阪だったのか。北海道の人が本土に行くというと、普通は東京になるだろう。父によれば、仲の良かったHさんという友人が先に大阪に来ていて、お前も来いと誘われたのだという。同じ高校の昼間部に通っていたHさんは一年早く卒業して大阪に来ていたのだ。父の来阪は、1961年のはず。Hさんの名前は、父の口から何度も何度も聞いた。つい半年ほど前にも「俺の友だちにHっていうのがいてね」と始まったから、「何べんも聞いたよ」とついつっこんでしまった。くり返しの話でも、また聞きなおしておけば良かったと思う。父は機械科で、Hさんは建築科だった。Hさんは一級建築士かになり、PLの塔や、札幌の大きなスポーツ競技場の設計なんかを担当したと聞いた。会社のそういう部署にいたということだろうが、父にとって華々しい活躍をするまぶしい友人だったようだ。Hさんは20年くらい前に、亡くなってしまった。大阪に来るときは、当然、汽車と青函連絡船を利用した。東京経由で来たと言っていた気もする。大阪で最初に就職したのは、T鉄鋼という大きな鉄鋼会社だった。どういう伝手だったのか、聞いたが忘れた。住みこみの工員で、一部屋に何人も寝泊りするような寮生活だったらしい。その後、工員仲間からの情報などで、待遇が良い所を求めて、いくつかの勤め先を転々とした。正確な順番は分からないが、西区の九条あたり、寝屋川、生野の桃谷近くなど、大阪近郊のいろんなところに住んだと言っていた。私が実家を出てひとり暮らしをはじめたのは、淀川区木川のアパートだった。車で引越しを手伝ってもらったが、アパート近くに来て「このあたりにも住んでいた」と話していた。細かいことは忘れたと言っていたが、あまり思い出したくなかったのかもしれない。職場は次々に移ったようだが、機械系の知識が生かせて経験も積める、少しでも面白い仕事が出来るようなところを探してのことだったらしい。転々時代のエピソードで何度か聞いたのは、職場で親切にしてくれた兄貴分みたいな人が熱心な創価学会の信者で、しつこく勧誘されて本当に嫌だったという話だ。この頃は、学会の拡大期だったから、いろんな所であった話だろう。この時、父が折伏されていたら、自分は生まれていなかったかもしれない。しばらくして、旧財閥系の大手の農機メーカーに入った。おそらく待遇はぐんとよくなったはずだ。中之島の西側あたりに会社があって、独身寮もその敷地内か近くだったそう。この時期に、一年間夜間の専門学校みたいなところに通わせてもらったらしい。さすが大手企業だと思う。江之子島あたりにあった技術訓練校(正式名称は忘れた)で、大阪府かどこか公的な機関だった。油圧などの専門知識を学べたという。工業高校で製図は学んでいたそうだが、おそらくこの時に仕事で使えるものになったのではないか。「阪大の先生とかが来て教えてくれたのだ」というのが自慢だった。この時に勉強した教科書はずっと持っていた。農機会社では、仕事で全国をまわったらしい。四国に行き、みかん畑に水を撒く装置の売り込みと説明に行った時の話は、何度か聞いた。仕事は面白かったようだ。しばらくして会社の独身寮が西宮にかわった。金持ちがやっていた素人下宿屋みたいなところと会社が契約したという感じだったろうか。この頃、人に紹介されて母と知り合い結婚することになった。ひとつ年下の母は、福井から出てきて大阪の広告代理店でOLをしていた。下宿が同じ西宮だった。結婚式は西宮戎神社でふたりだけであげた。元日に申し込んですぐにやってくれたらしい。今ならそうはいかんやろうな、という話は母から何度も何度も聞いた。以来、西宮戎はひいき神社になり、毎年のように初詣に出かけるようになった。新婚生活は、尼崎の園田近くの文化住宅ではじまった。風呂はなく、汲み取り便所の二間だけの小さい部屋だった。そこで私と妹が生まれた。結婚した頃に一流農機メーカーはやめ、道路機械の会社に移った。今は大証二部に上場するくらいの規模の会社になったが、その頃はまだ社長を中心に何人かで立ち上げたばかりの頃だった。自分の技術が生かせて、大きい役割をまかせてもらえる会社だと考えてのことだった。道路を舗装する機械を設計する仕事を担当し、中間管理職になるまではずっと図面を書いていた。設計士としての現役最後の頃はCADの時代になり、慣れないパソコンに悪戦苦闘していたが、若い頃はずっと手書きだった。文化住宅の狭い部屋にも製図台をおいていた。きらきら光る真っ白な表面の製図台、可動式の定規、太い鉛筆の芯を削る道具、小学校で使うものの何倍もの大きさのコンパス、消しゴムかすを払う鳥の羽根のブラシ、計算尺、カラス口。父の持っている道具は、なかなか素敵なものに見えた。それらの道具をかりて、自分は、ドラえもんとか、宇宙戦艦ヤマトの絵を描いたりしていた。80年代に入ると、風呂なしの部屋を出て、大阪市内のマンションに引っ越した。会社の近くにマンションが建ったのでローンを組んで買ったのだ。当時の、地方出身労働者にとってよくあるパターンではあっただろう。工場地帯の何でもないマンションだが、それまでに比べたら、部屋は広く、風呂もあり、ベランダからの眺めもまずまずの新しい我が家を手に入れて、父はさぞかし嬉しかったことだろうと想像する。小学生だった自分は、ただただ友だちと分かれるのが寂しく、銭湯に行かなくなるのも何となく物足りないような気持ちになったくらいだったが。父は基本的に真面目だったと思う。園田に住んでいた頃、同級生のお父さんたちには、競馬好きも多かったが、父は全く興味がないようだった。パチンコや麻雀も遊びで何度かしたことはあるという程度だったのではないか。ただ、酒のみで、酒癖はあまりよろしくなかった。正月には、朝から出来上がっていることも多く、酔っ払いの父に絡まれるのが嫌で、正月自体があまり好きじゃないくらいだった。ちなみに、神主だった爺さんも酒好きで、金もない中、祖母に酒を買ってこいと命じたりしているのを見て、父は「将来酒は絶対に飲むまい」と誓っていたのだという。誓い虚しく酒飲みになった。自分も、父の酔っ払う姿を見て同じことを誓ったが、結局、酒飲みになってしまったから、そういうものなのだろう。一時期、会社でうまくいかず、家でも不機嫌が続いたことがあった。その頃の酒癖は特に悪く、帰って来て酒を飲み始めるのがちょっと恐怖だった。とはいえ、今振り返ってみると大した荒れ方ではなかったと思う。会社生活の中で、そりゃ働くのが嫌になるような時期はあるに決まっている。あれくらいの程度しか、家族にだめな所を見せずに定年まで勤め上げて立派だったんだな、と今では思う。手先は器用だった。絵も上手だった。美術的センスがあるというより、技術屋らしく、見たままを書く能力が高かったのだと思う。幼稚園の時には、お手本を見て座布団にスポーツカーの絵を描いてくれたりした。日曜大工や自転車のパンク直しなども上手だった。机の上の本棚や、押入れの衣装ケースなんかも自作してくれた。自分が大学院に行きはじめ本が溢れるようになると、大きな書棚作りに協力してくれた。あの世代の男性だから、性別役割分業は疑いもせず家事は全部母にまかせっきりだったが、基本的には、母にも、子どもらにも優しかったと思う。お金のかかる海外旅行や温泉旅行なんかには連れて行ってもらったことはなかったが、動物園、水族館、近場の六甲山や甲山などにはよく連れて行ってくれた。出歩くのは好きだった。若い頃は、頻繁に出張させられていた。自分が設計に関わった製品の説明に行ったり、トラブルの対応に行ったりだったのだろう。余裕のある仕事の時は、お土産も買ってきてくれた。地理には詳しく興味もあった。そのあたりは自分も影響をうけた。私は子どもの頃は鉄道が好きだったので、お土産以外に鉄道のチケットなんかも持って帰ってくれた。野球を見るのが好きだった。大阪生活がどれだけ長くなっても、ずっと巨人ファンだった。昭和の地方出身者の多くはそうだったはず。今なら北海道の人ならファイターズファンになるだろうが、円山球場に年に数回来てくれる巨人は絶対の存在だったようだ。男の子が生まれて、キャッチボールをしたりするのが楽しみだったと思うが、肝心の息子は運動が大の苦手のインドア人間になってしまった。キャッチボールの何が面白いのか、自分にはさっぱり分からないのだが、母方のいとこの兄ちゃんは、盆正月なんかにうちの父とキャッチボールしたことを今でも美しい思い出として語ってくれている。高校では野球部にいった兄さんだが、彼の父は今でいうオタクの走りみたいなインドア人間だったため「お父さんとのキャッチボール」が夢だったらしい。組み合わせはうまくいかないものだ。父は、若い時には会社の野球チームに参加したり、ゴルフなんかもやっていたが、どうやら運動神経はいま一つだったようだ。そう考えると、自分が運動音痴になったのも、自然の流れのようにも見える。とはいえ、プロ野球の話ができて、工学部か工専なんかに進学して機械系の仕事につき、普通に結婚して…という息子になれていれば、父はさぞかし嬉しかったことだろうと思うが、文化系、運動嫌い、やがては社会学なんて訳の分からないものを勉強したりするようになって、息子は期待を裏切り続けた。それでも、その道でちゃんとやれていれば、それはそれだったろうが、自分でも訳の分からない状況になり、まぁ、なんというか、申し訳ない気持ちでいっぱいだが、自分は自分の人生だから仕方がない。父とは三十近くまで一緒にくらした。大学院に入ったあたりから、どんどん話はかみ合わなくなり、表面的な会話しかしなくなった。向こうとしては息子が何をしているかさっぱり分からなかっただろう。自分だって分からないんだから、分かるはずがない。何しているかよく分からんが大学だけでなく大学院まで行ったのだから自分よりは出世するはずだ、というような期待はあっただろう。それを思うと、やっぱり、ほんとに申し訳ない。が、今さら何を言っても仕方がない。仕方がない。仕方がない。父の話に戻す。自分が家を出て7~8年後には妹も家を出た。それ以来、夫婦二人暮らしになった。会社では、60代の半ば頃まで働いた。定年後も、嘱託みたいな形で会社の仕事をしたり、社史を作るのを手伝ったりしていた。定年までは、ほとんど休まずに働いていた。会社は自転車で通う距離だったが、帰宅するのはだいたい8時をまわっていたと思う。フルタイムで働かなくなると、母とよく出かけるようになった。近場の山とか、川とか、公園とかに車で出かけて散歩してくるというような感じだった。高校野球も好きだったので、毎年夏には甲子園にも行っていた。北海道の高校が出ると必ず応援に行った。自分など母校が出たとしても何の感慨もわかないと思うが、父は素直な愛郷精神の持ち主だった。そういえば、マー君とハンカチ王子の伝説の一戦も見に行っていた。つき合わされて母も行っていたが、この時ばかりは歴史の証人になれて満足そうだった。一時期、紙飛行機にも凝っていた。万博公園で趣味の人たちが飛ばしているのを見て、やってみることになったらしい。働き続けた後、ようやく得られた自由な時間は長く続かなかった。70を越えてしばらくすると、大病に何度も襲われるようになった。そういえば、その頃、自分は車の免許をとった。車なんて興味がなく、若い時に取る気もなかったのだが、父がそろそろ廃車するかもというので、じゃぁ自家用車があるうちに自分も免許を取っておくかと思い立ったのだ。40を越えて通った自動車学校では、運動神経の鈍さから卒業検定に落第するなど苦労したが、なんとかとれた。そして、父のナビで何度か運転練習をした。一番遠くに行ったのは、向日町競輪場だった。その時は高速にも乗ったりしたが、まっすぐは走れても、どれだけ練習しても駐車がうまくできず、乗るのはすぐにあきらめてしまった。高い金を払って取った免許もただの証明書になってしまったが、この時、父と運転の練習をする時間を持てたのは良かったかもしれない。循環器は若い時からちょっと悪かったみたいだが、ペースメーカーを入れなければいけなくなった。その後、脳梗塞にもなった。救急車で運ばれ命は助かったが、しばらく失語症になった。それは回復したが、後遺症は残り、嚥下力が下がってしまった。今から三年前、初めて誤嚥性肺炎で入院する。かなりの重症だった。あまり薬が効かず難しいかもみたいにも言われて、家族で病院に泊まって付き添ったりもした。自分が横についていた時、大変苦しそうな状態になり、本人も「こりゃ明日までもたんな」とか言っていて、本人が言うんだからそうなのかも、と思ったりした。何とか回復したが、それ以降は、まともにご飯が食べられなくなった。刻んでとろみをつけたご飯を母親が介助して食べさせなければいけなくなった。水もとろみがないと飲むことができなくなり、ここで酒とも縁が切れた。車などとても乗れるような状態でなく、廃車にして、免許も返上した。介護認定を受けて、リハビリの人や、デイサービスの世話になるようになった。家での介護は母にまかせっきりになった。何度か入退院を繰り返した後、去年などは比較的おちついた状態が続いていたが、今年の春頃から、目に見えて衰えてきたようだった。自分は、父が倒れて以降は、それまでよりは頻繁に実家に帰るようになった。ふたりで腹をわって話をする、というよりは、ケアするされるの関係の中で、無理やり話題を作って話すような感じだったが、ここに書いてきたような話も、この間に改めて確認したものが多い。この八月には、かなりいけない状態になり、入院となり一旦は退院となったものの、すぐに再入院になってしまい、十月、そのまま家には帰れなくなってしまった。病気について、最後の最後での「家族の選択」については、他の方の参考にもなるかもしれないから稿を改めて別のテーマとしていつか書きたい。最後の数日は、苦しそうでもあり、どうみても元気になる目は無さそうであり、もし回復しても、いつまた悪くなるか不安なだけだったので、病院から亡くなったと知らせを受けた時は、正直、ちょっと安堵した。楽にさせてあげたい、という気持ちが強かった。七十七歳だった。平均寿命よりは若干若いかもしれないが、本人も「俺は長生きした」と言っていたから、まずまずだったのではないか。他と比べても仕方がない。ただ、平均寿命が八十だと言っても、健康寿命となると七十代前半とかになるそうだから、父もだいたい平均的だったのかもな、とも思ったりもする。葬儀は、母と、妹と妹の連れ合いさんと私とで簡素に送る形にした。家族全体の希望でもあるし、本人も不服はないと思う。会社の人たちと離れて時間も経っているし、送ってほしいような知人もいないようだった。最初に書いたように、宗旨は神道ということになるので、形式的にも坊さんを呼ぶ必要がないのはありがたかった。お経、線香という、いかにもな葬式アイテムを外すことで、陰気くさくない送り方にできた。戒名もなく、名前の下に「命」をつけたらいい、というので自分が既に用意してあるお墓に入れる時には、そのように彫ってあげようということになった。病気以降は不自由な生活が続いたが、トータルでは幸せな人生だったのではないかと思う。そうであってほしい。私が子ども時代を過ごした大阪の下町では、同級生の父親の多くは世代的に高卒・中卒が当たり前だったが、それなりに進学校だった高校や、大学院で出会った友人たちには、大卒の親が当たり前で、大学教授の息子なんてのも少なくなかった。変な世界に迷い込んでしまった後には「何でもない普通の庶民的な父親」の子どもであることに、引け目を感じることもなくはなかった。しかし、もう少しちゃんと世の中を見渡せるようになると、まじめに働き続けてくれて、常識的で、かつ子供には自由にさせてくれる父親の子であったことが、どれほど幸運なことであったかに気づくようになった。借金もない。残した母親も、贅沢をしなければなんとなか暮らしてはいけそうだ。本当に幸運なことである。遺体に対面しても、斎場に向かう時も、骨を拾う時にも、あまり悲しいとは思わなかった。ここ数年、ずっとお別れをしてきたような感覚もあった。けれども、送り終わった後、上記のキャッチボールの記憶を大事にしてくれている兄さんをふくめ何人か縁のあった人たちに電話で報告したときには、とても悲しくなり泣けてきた。今もそうだ。経験するだけでなく、それを語ってみるということは、感情に働きかける作業なのだろう。質素な式だったが、全体としてよいお別れの仕方だったと思う。ただ、父の社会的な側面を残った人に振り返ってもらう機会は作れなかった。その埋め合わせとして、ごくごく簡単に、どこかの誰かに向けて父がどんな人だったかを紹介して説明しておこうと思い、この文章を書きはじめた。父が倒れて、介護の手伝いに行くようになってから、ノートを開いて昔話を聞き書きしておこうか、と何度か考えたがやめておいた。あくまでも息子の視点から、これまでの関係の中で普通に聞いた話から、自分にとっての父の像は構成しておけばいいかと思ったのだ。どっちが良かったのかは分からない。倒れてからの父は、基本的にずっと飄々としていた。真面目だ、と書いたが、看護士さんや介護の人にしょうもない冗談を言ったりしていた。その辺は、お喋りな母の影響のような気がする。今、思い出したのはこれくらい。近頃は私もとても忘れっぽいので、父が言った冗談の具体例もパッと出てこない。ここに書いたこともそのうち忘れてしまうだろう。逆に、何かのきっかけで今忘れている記憶を思い出すことがあるかもしれない。その時は、また、何か書こうと思う。
登録:
投稿 (Atom)
