2018年12月1日土曜日

ツイ禁、三日坊主

ツイッター依存が深刻化しているかもしれない、と思い、しばらく辞めてみることにした。3週前くらいの話。きっかけは、防弾少年団のMステからドタキャンされ事件だった。最初、怒りにまかせていろいろつぶやいたりしていたが、しばらくして、色んな意見が目に入り「それは違うだろ」「何言ってんだこれ」「ああそんなことも分からんのか」などとイライラしっぱなしになってしまった。ネットから離れても、頭の中に「反論」が浮かんでは消えたり、気になる文言があらわれたり。ネトウヨの戯言だけなら、いつもの事だなって感じなのだが、今回のは、ネタ的に、いろいろ意見が分かれるところもある出来事だったので、普段は近い意見の人の声の方が、よりひっかかったりした。何とも情けない話だが、わたしは、自分と違う意見にすぐに反発を覚えるくせに、自分の考えに確かな自信など全然ないのだ。いろいろこねくり回しているうちに、自分が間違っているような気もしてくるし、あれこれ頭が動き、とにかくどんどん疲れていった。これは、まずい。そうこうしているうちに、こんな貧乏人が、あんなに大儲けしている人ら(防弾少年団の皆さん他)を何でこんなに一生懸命擁護せなあかんねん、という「我に返る」瞬間もたびたびあったりした。韓国の大衆文化についての自分の「思い」みたいなものは、そのうち整理して書いてみたいなとは思っているが、それはともかく、こんなことしてたらアホになるわ、ツイッター辞めた方がいいんじゃないか、ということになったのだ。

自分のツイッター依存については、去年くらいから気になってはいた。一日一定の時間、ツイッターを見たらつながらなくするアプリを入れたりしてみたが、すぐにオーバーして邪魔になり外した。制限はできない。減らすには、やめるしかない、と思った。タバコと一緒だな、と。ただ、今年の頭に初めての本が出る予定だったので、ここで辞めてしまうのはもったいない。人脈の弱い自分にとって、数少ない宣伝ツールになるだろうし、本が出るまではやっておこうと思った。以前は知り合い以外には匿名だったが、今年からは、こういう訳で、晒し気味で使ってみることにして、しばらくして不具合あったら辞めようと思っていた。しかし、個人情報をある程度出して以降の方が、社会生活が広がったような勘違いもできてより楽しくなってきた。そういうわけで「節度をもって楽しみ続けることにしよう」という方針だったのだが、上に書いたよう次第で、これはおかしくなるぞ、あるいは、とっくになっているな、と改めて危機感をもったのだ。

依存を断つには、アカウント削除しかない、と思った。でも、ここでしかつながっていない人もいるしな、リアルで会ったことはないけど、「つき合い」が長くなって、自分の生活世界の登場人物化している人も少なくなかったり、などという執着もあり、惜しい気持ちがあったが、「ツイッター辞める」とかでググってみると、削除しても一か月以内には復帰できるとあり、それなら一度、やってみようと決行した。過去ツイートをダウンロードして一応保存しておく、なんてこともして。無駄なテキストの山だが、完全に消えてしまったら寂しい気もした。

とりあえず、一日我慢してみよう、と思った。自分は、20代の真ん中くらいから40頃までタバコを吸っていた。最後の方は、何度もやめようと思ったが、禁煙を決意して数時間で挫折する、というのを何度も繰り返していた。初めて一日我慢できた時が、最後のチャレンジに(今の所)なった。タバコを吸っていて、止めなきゃな、という考えが浮かび始めた頃は、禁煙をイメージするだけでゾッとするような感じがあった。タバコを辞めて、どうやって時間に区切りをつけるのか。のっぺりした永遠が続くのなんて、とても考えられないぞ。朝起きて一服。飯食って一服。仕事前に、風呂前に、後に、一服。たどりついたら一服、休憩で一服、毎日の時間に句読点をうつのに、タバコは確かに快適なものだった。句読点などそもそもいらなかったのだ、と、やめた今になっては思うが、乗り越えるのが大変な壁に見えたのは確かだ。ツイッターも全く同じだ。起きたら、チェック。ひと段落ついたら、チェック。作業がつまったらチェック。何もなくてもチェック。そして、何かが浮かんだら、あ、これ今度つぶやこう、と意識するようになっていた。ツイッターを主にパソコンでやっているので、外出中は、手書きのメモ帳に、つぶやくネタをメモしてみたり。ツイッターをやめるとなると、この日々の、ちょっとした発見をどうしたらいいのか。人を捕まえてわざわざ話すほどの内容ではないけど、でも、誰かに伝えたい、このコレを、どうすれば。

辞めてみると、やはり、タバコと同じだった。削除した当日は、辛かった。あ、ここでタイムラインのチェックできないんだ、あ、この気分、伝える場所無いんだ、の繰り返しだった。これは今後めちゃくちゃ虚しい日々が永遠に続きそうだぞ、なんて思いが頭の中をぐるぐるしていたが、一日経ったら、それなりに慣れてはきた。タイムライン見る必要なんて、全くなかった、ということにあらためて気づいた。しかし、何ともいえず寂しかった。このままやめ続ける方がいいのか、については、タバコほどの健康面での実害はないような気もするし、と揺れ続けた。結局、5日目くらいに再ログインして、禁ツイ生活は終わった。とりあえず、一日、まぁ、三日続けばいいかな、という感じでもあったので想定内の結果ではあった。タバコの時は、断煙するつもりだったが、今回は、一か月後には復活させようと初めから思っていたというので、そもそも違いはあったが、どんな禁断症状が出るのかについては、ちょっと分かった所はあった。

タバコ以上につらいと思ったのは、時間の流れがなくなって見えたことだ。人の声がリアルタイムで次々に流れている(ように見える)これに慣れていると、ネットニュースの更新スピードなんて止まっているようなものだし、とにかく世界が動きをやめてしまったように感じられたのだ。個人的なメールなどがほとんど来ないので、特にそうなのかもしれないが。ベルクソンが時間を空間的に考えるのは間違っているみたいなことを言っていて(たぶん)なるほどな、と思っていたが、時間と視覚を切り離せないなんて、そういう謬見の最たるものなのかもしれない。脳みそが一番ツイッターに侵されている部分なのだと思う。

そんなわけで、自分は、いつでもツイッターをやめられる、なんてとても言えません。やめて、静かに読書するのだ、なんてことも。でも、そろそろやり始めて10年。今回気づいた以上の「害」はやっぱいろいろあるだろうし、どこかで、考え直さないといけないのかもしれない、とは思っております。