2019年11月9日土曜日

何のために書いているのか

このブログは何のために書いているのか。自分でも分からない。そもそも、多くの人は何のために、と書こうとしてあまりにありきたりなことを書いているなと気づき、手が止まる。せっかくやるなら、定期的に更新したいと思いつつ、何も書くことが思いつかず、こういうことを書いている。パソコンで作文を書かせて出来たらメールで送らせるという授業を以前やっていた。毎回、お題を出す。紹介したい場所、印象に残った出来事、高校生の自分にあてた大学生活案内、などなど。あまり勉強が好きではない学生の多い大学だったが、それでもスラスラと書く者も結構いて、自分が若い時より、携帯のメッセージ的なものも含めた文字文化に親しんでいるからかなと思ったりした。もちろん中には「何を書いたらいいかわからん」というのもいて、そういう時には「最後の手段だけど、何を書いたらいいか分からない、と書きはじめてみたら」とアドバイスした。この最後の手段として教えたやり方を、自分も今ここでやっている。(自分のようなものが、作文を教えるなんてどう考えてもめちゃくちゃだが、文章表現を教えるというより書く機会を与え続けるという内容だったので、勘弁してください。)さて、何のためにブログを書いているのか。理由をあげるといろいろある気がする。文章の練習。備忘録。他者からの承認欲求をみたすため。どこかの誰かの目にとまり、何か素敵な仕事でも舞い込んでこないか、という淡い期待。頭の中の整理。具体的な知人を想定しての近況報告。こんなものか。とにかく、何も生み出さないで日々過ごすよりは、どんな下らないものでも「何か」を生み出した方がいい、という判断のもと、「駄文を…」と言い訳し、予防線を張りながら、できるだけ書くようにしようと思っている。が、なかなか更新する気になれず、それが焦りとなって精神的負担になってしまったりもしている。誰が待っているわけでもないのに、バカバカしい話だ。自分のためだけのノートに、できるだけ自分内編集者の声をおさえて、延々と文章を書き連ねるという作業は続けている。ほぼ毎日のように日記的な何かを書いてはいる。しかし、たかがブログでも他人に見せるということを意識して書く場合、最低限の「よそいき」的な装飾が必要になり、それが書けなくさせているのだ。正装とまではいかなくとも、近所のスーパーに買い物に行くときくらいの「外」に行ける格好にしなければならないという意識がある。もっとも、自分だけが読む日記ですら、書く時にパンツとシャツくらいは着ているのだ。本当に真っ裸の精神で書けたら、それはすごいのかもしれないが、自分のような凡人は、どんな時もパンツくらいはどうしても穿いておかないと不安で仕方がないのだ。誰にも見せないものだとしても。そもそも文章というのは他者が存在しないと書けないものだろうと思う。自分だけが読む日記は、後の自分が他者になる。自分という、自分のダメな部分をすべて知っている人間に対してさえ、パンツを穿かないといけないなんて、なんという臆病さだろうと思わなくもないが、そんな程度でいいという気もする。何の話だったか。そう、ブログを更新しようということだった。そんなわけで、数人しか見ないにしてもブログとなると、日記の何十倍も格好を気にしなくてはならなくなる。自分のためだけのノートは、本を書かなければならないのに、全然書き進められない間、自分の手を止めさせているものの正体をできるだけつかみ、その邪魔をさせない癖をつけるために書きはじめたものだった。効果はあったし、今もある。以前に比べたら、ずいぶん、筆は軽くなったと思う。それでもなお「何か書かなければ」という意識が連れてくる気分は重い。今自分に必要なことは、できるだけ自由な、自分のしたい格好をして街を歩く厚かましさを身に着けることかもしれない。書いて気に入らなければ捨てればいいのだ。何となく、ブログ的なものを書きはじめた頃のことを書こうかと思っていたが、もう飽きてきた。「はてな」から突然自動メールが来るようになって、放置していた前のブログに「星がつきました」みたいなことを知らせてきた。自動巡回の何かにひっかかっただけだとは思うが、何年ぶりかで「はてな」の日記を見たら、内容をほとんど忘れていた。何で書いていたのか。それを今読むことにはどんな意味があるのか。そのうち、また考えて書いてみようと思う。

2019年10月25日金曜日

人の悪口

非常勤帰り。電車で隣り合わせた女子学生二人組が教員の悪口を言い合っていた。「あのMのジジイ最悪」「Mやろ。あれは頭おかしいわ。あいつが学校行くべきやろ」「ほんまや」M先生、誰だか知らないけど、散々な言われよう。自分もこんな風に言われているかも、と思うとちょっと憂鬱になる。

だけど、その後、二人の会話はこう続いた。「まぁ、でも嫌いっていう訳ではないけどな」「まぁね」… あれだけボロクソに言っていて嫌いちゃうんかい!と声を出してつっこみたくなったが、ちょっとかわいいなと思った。M先生、厳しいけど憎めない人なんだろうな。厳しさの奥にある愛情みたいなものが伝わっている、ということか。


こういうことが昨日あった。今日になって別の可能性も頭に浮かんできた。もしかして、本当は本当に大嫌いだけど、友だちに対して「誰かを嫌っている」というメッセージを発することが禁忌というか、絶対だめなことと思われていて、最後にフォローしたのではないか…

そんな嫌な奴なら「大嫌い」でいいと思うよ。あるいはそれほどでもないなら、電車の中ではもう少しマイルドに批判しましょう。

2019年10月19日土曜日

父の話

 父は、1942年に北海道の美唄市で生まれた。八人兄弟の末っ子で、父の父は神主だった。家が神社だったわけではない。幾つかの小さな神社をかけもちで担当していたという。本土の神社とは違い、おそらく、開拓時に集落ごとに作ったような簡易的な社がほとんどだったのだろう。祭りや、棟上げ式など、イベントがある時に呼ばれてお金をいただく、というような商売だったのではないか。家は相当貧乏だったらしい。父以外の兄弟たちは、皆義務教育しか受けさせてもらっていない。父だけは、夜間の工業高校に通わせてもらった。歳の離れた兄姉が親代わりになって、その世話で何とかそれだけの余裕が家に出来たのだろう。とはいえ夜間なので、当然昼間は働いていた。自転車屋、新聞配達、岩見沢駅の機関区などでアルバイトをしたと聞いた。卒業後、大阪に出てきた。本土に渡ったのは兄弟でただ一人だった。どうして大阪だったのか。北海道の人が本土に行くというと、普通は東京になるだろう。父によれば、仲の良かったHさんという友人が先に大阪に来ていて、お前も来いと誘われたのだという。同じ高校の昼間部に通っていたHさんは一年早く卒業して大阪に来ていたのだ。父の来阪は、1961年のはず。Hさんの名前は、父の口から何度も何度も聞いた。つい半年ほど前にも「俺の友だちにHっていうのがいてね」と始まったから、「何べんも聞いたよ」とついつっこんでしまった。くり返しの話でも、また聞きなおしておけば良かったと思う。父は機械科で、Hさんは建築科だった。Hさんは一級建築士かになり、PLの塔や、札幌の大きなスポーツ競技場の設計なんかを担当したと聞いた。会社のそういう部署にいたということだろうが、父にとって華々しい活躍をするまぶしい友人だったようだ。Hさんは20年くらい前に、亡くなってしまった。大阪に来るときは、当然、汽車と青函連絡船を利用した。東京経由で来たと言っていた気もする。大阪で最初に就職したのは、T鉄鋼という大きな鉄鋼会社だった。どういう伝手だったのか、聞いたが忘れた。住みこみの工員で、一部屋に何人も寝泊りするような寮生活だったらしい。その後、工員仲間からの情報などで、待遇が良い所を求めて、いくつかの勤め先を転々とした。正確な順番は分からないが、西区の九条あたり、寝屋川、生野の桃谷近くなど、大阪近郊のいろんなところに住んだと言っていた。私が実家を出てひとり暮らしをはじめたのは、淀川区木川のアパートだった。車で引越しを手伝ってもらったが、アパート近くに来て「このあたりにも住んでいた」と話していた。細かいことは忘れたと言っていたが、あまり思い出したくなかったのかもしれない。職場は次々に移ったようだが、機械系の知識が生かせて経験も積める、少しでも面白い仕事が出来るようなところを探してのことだったらしい。転々時代のエピソードで何度か聞いたのは、職場で親切にしてくれた兄貴分みたいな人が熱心な創価学会の信者で、しつこく勧誘されて本当に嫌だったという話だ。この頃は、学会の拡大期だったから、いろんな所であった話だろう。この時、父が折伏されていたら、自分は生まれていなかったかもしれない。しばらくして、旧財閥系の大手の農機メーカーに入った。おそらく待遇はぐんとよくなったはずだ。中之島の西側あたりに会社があって、独身寮もその敷地内か近くだったそう。この時期に、一年間夜間の専門学校みたいなところに通わせてもらったらしい。さすが大手企業だと思う。江之子島あたりにあった技術訓練校(正式名称は忘れた)で、大阪府かどこか公的な機関だった。油圧などの専門知識を学べたという。工業高校で製図は学んでいたそうだが、おそらくこの時に仕事で使えるものになったのではないか。「阪大の先生とかが来て教えてくれたのだ」というのが自慢だった。この時に勉強した教科書はずっと持っていた。農機会社では、仕事で全国をまわったらしい。四国に行き、みかん畑に水を撒く装置の売り込みと説明に行った時の話は、何度か聞いた。仕事は面白かったようだ。しばらくして会社の独身寮が西宮にかわった。金持ちがやっていた素人下宿屋みたいなところと会社が契約したという感じだったろうか。この頃、人に紹介されて母と知り合い結婚することになった。ひとつ年下の母は、福井から出てきて大阪の広告代理店でOLをしていた。下宿が同じ西宮だった。結婚式は西宮戎神社でふたりだけであげた。元日に申し込んですぐにやってくれたらしい。今ならそうはいかんやろうな、という話は母から何度も何度も聞いた。以来、西宮戎はひいき神社になり、毎年のように初詣に出かけるようになった。新婚生活は、尼崎の園田近くの文化住宅ではじまった。風呂はなく、汲み取り便所の二間だけの小さい部屋だった。そこで私と妹が生まれた。結婚した頃に一流農機メーカーはやめ、道路機械の会社に移った。今は大証二部に上場するくらいの規模の会社になったが、その頃はまだ社長を中心に何人かで立ち上げたばかりの頃だった。自分の技術が生かせて、大きい役割をまかせてもらえる会社だと考えてのことだった。道路を舗装する機械を設計する仕事を担当し、中間管理職になるまではずっと図面を書いていた。設計士としての現役最後の頃はCADの時代になり、慣れないパソコンに悪戦苦闘していたが、若い頃はずっと手書きだった。文化住宅の狭い部屋にも製図台をおいていた。きらきら光る真っ白な表面の製図台、可動式の定規、太い鉛筆の芯を削る道具、小学校で使うものの何倍もの大きさのコンパス、消しゴムかすを払う鳥の羽根のブラシ、計算尺、カラス口。父の持っている道具は、なかなか素敵なものに見えた。それらの道具をかりて、自分は、ドラえもんとか、宇宙戦艦ヤマトの絵を描いたりしていた。80年代に入ると、風呂なしの部屋を出て、大阪市内のマンションに引っ越した。会社の近くにマンションが建ったのでローンを組んで買ったのだ。当時の、地方出身労働者にとってよくあるパターンではあっただろう。工場地帯の何でもないマンションだが、それまでに比べたら、部屋は広く、風呂もあり、ベランダからの眺めもまずまずの新しい我が家を手に入れて、父はさぞかし嬉しかったことだろうと想像する。小学生だった自分は、ただただ友だちと分かれるのが寂しく、銭湯に行かなくなるのも何となく物足りないような気持ちになったくらいだったが。父は基本的に真面目だったと思う。園田に住んでいた頃、同級生のお父さんたちには、競馬好きも多かったが、父は全く興味がないようだった。パチンコや麻雀も遊びで何度かしたことはあるという程度だったのではないか。ただ、酒のみで、酒癖はあまりよろしくなかった。正月には、朝から出来上がっていることも多く、酔っ払いの父に絡まれるのが嫌で、正月自体があまり好きじゃないくらいだった。ちなみに、神主だった爺さんも酒好きで、金もない中、祖母に酒を買ってこいと命じたりしているのを見て、父は「将来酒は絶対に飲むまい」と誓っていたのだという。誓い虚しく酒飲みになった。自分も、父の酔っ払う姿を見て同じことを誓ったが、結局、酒飲みになってしまったから、そういうものなのだろう。一時期、会社でうまくいかず、家でも不機嫌が続いたことがあった。その頃の酒癖は特に悪く、帰って来て酒を飲み始めるのがちょっと恐怖だった。とはいえ、今振り返ってみると大した荒れ方ではなかったと思う。会社生活の中で、そりゃ働くのが嫌になるような時期はあるに決まっている。あれくらいの程度しか、家族にだめな所を見せずに定年まで勤め上げて立派だったんだな、と今では思う。手先は器用だった。絵も上手だった。美術的センスがあるというより、技術屋らしく、見たままを書く能力が高かったのだと思う。幼稚園の時には、お手本を見て座布団にスポーツカーの絵を描いてくれたりした。日曜大工や自転車のパンク直しなども上手だった。机の上の本棚や、押入れの衣装ケースなんかも自作してくれた。自分が大学院に行きはじめ本が溢れるようになると、大きな書棚作りに協力してくれた。あの世代の男性だから、性別役割分業は疑いもせず家事は全部母にまかせっきりだったが、基本的には、母にも、子どもらにも優しかったと思う。お金のかかる海外旅行や温泉旅行なんかには連れて行ってもらったことはなかったが、動物園、水族館、近場の六甲山や甲山などにはよく連れて行ってくれた。出歩くのは好きだった。若い頃は、頻繁に出張させられていた。自分が設計に関わった製品の説明に行ったり、トラブルの対応に行ったりだったのだろう。余裕のある仕事の時は、お土産も買ってきてくれた。地理には詳しく興味もあった。そのあたりは自分も影響をうけた。私は子どもの頃は鉄道が好きだったので、お土産以外に鉄道のチケットなんかも持って帰ってくれた。野球を見るのが好きだった。大阪生活がどれだけ長くなっても、ずっと巨人ファンだった。昭和の地方出身者の多くはそうだったはず。今なら北海道の人ならファイターズファンになるだろうが、円山球場に年に数回来てくれる巨人は絶対の存在だったようだ。男の子が生まれて、キャッチボールをしたりするのが楽しみだったと思うが、肝心の息子は運動が大の苦手のインドア人間になってしまった。キャッチボールの何が面白いのか、自分にはさっぱり分からないのだが、母方のいとこの兄ちゃんは、盆正月なんかにうちの父とキャッチボールしたことを今でも美しい思い出として語ってくれている。高校では野球部にいった兄さんだが、彼の父は今でいうオタクの走りみたいなインドア人間だったため「お父さんとのキャッチボール」が夢だったらしい。組み合わせはうまくいかないものだ。父は、若い時には会社の野球チームに参加したり、ゴルフなんかもやっていたが、どうやら運動神経はいま一つだったようだ。そう考えると、自分が運動音痴になったのも、自然の流れのようにも見える。とはいえ、プロ野球の話ができて、工学部か工専なんかに進学して機械系の仕事につき、普通に結婚して…という息子になれていれば、父はさぞかし嬉しかったことだろうと思うが、文化系、運動嫌い、やがては社会学なんて訳の分からないものを勉強したりするようになって、息子は期待を裏切り続けた。それでも、その道でちゃんとやれていれば、それはそれだったろうが、自分でも訳の分からない状況になり、まぁ、なんというか、申し訳ない気持ちでいっぱいだが、自分は自分の人生だから仕方がない。父とは三十近くまで一緒にくらした。大学院に入ったあたりから、どんどん話はかみ合わなくなり、表面的な会話しかしなくなった。向こうとしては息子が何をしているかさっぱり分からなかっただろう。自分だって分からないんだから、分かるはずがない。何しているかよく分からんが大学だけでなく大学院まで行ったのだから自分よりは出世するはずだ、というような期待はあっただろう。それを思うと、やっぱり、ほんとに申し訳ない。が、今さら何を言っても仕方がない。仕方がない。仕方がない。父の話に戻す。自分が家を出て7~8年後には妹も家を出た。それ以来、夫婦二人暮らしになった。会社では、60代の半ば頃まで働いた。定年後も、嘱託みたいな形で会社の仕事をしたり、社史を作るのを手伝ったりしていた。定年までは、ほとんど休まずに働いていた。会社は自転車で通う距離だったが、帰宅するのはだいたい8時をまわっていたと思う。フルタイムで働かなくなると、母とよく出かけるようになった。近場の山とか、川とか、公園とかに車で出かけて散歩してくるというような感じだった。高校野球も好きだったので、毎年夏には甲子園にも行っていた。北海道の高校が出ると必ず応援に行った。自分など母校が出たとしても何の感慨もわかないと思うが、父は素直な愛郷精神の持ち主だった。そういえば、マー君とハンカチ王子の伝説の一戦も見に行っていた。つき合わされて母も行っていたが、この時ばかりは歴史の証人になれて満足そうだった。一時期、紙飛行機にも凝っていた。万博公園で趣味の人たちが飛ばしているのを見て、やってみることになったらしい。働き続けた後、ようやく得られた自由な時間は長く続かなかった。70を越えてしばらくすると、大病に何度も襲われるようになった。そういえば、その頃、自分は車の免許をとった。車なんて興味がなく、若い時に取る気もなかったのだが、父がそろそろ廃車するかもというので、じゃぁ自家用車があるうちに自分も免許を取っておくかと思い立ったのだ。40を越えて通った自動車学校では、運動神経の鈍さから卒業検定に落第するなど苦労したが、なんとかとれた。そして、父のナビで何度か運転練習をした。一番遠くに行ったのは、向日町競輪場だった。その時は高速にも乗ったりしたが、まっすぐは走れても、どれだけ練習しても駐車がうまくできず、乗るのはすぐにあきらめてしまった。高い金を払って取った免許もただの証明書になってしまったが、この時、父と運転の練習をする時間を持てたのは良かったかもしれない。循環器は若い時からちょっと悪かったみたいだが、ペースメーカーを入れなければいけなくなった。その後、脳梗塞にもなった。救急車で運ばれ命は助かったが、しばらく失語症になった。それは回復したが、後遺症は残り、嚥下力が下がってしまった。今から三年前、初めて誤嚥性肺炎で入院する。かなりの重症だった。あまり薬が効かず難しいかもみたいにも言われて、家族で病院に泊まって付き添ったりもした。自分が横についていた時、大変苦しそうな状態になり、本人も「こりゃ明日までもたんな」とか言っていて、本人が言うんだからそうなのかも、と思ったりした。何とか回復したが、それ以降は、まともにご飯が食べられなくなった。刻んでとろみをつけたご飯を母親が介助して食べさせなければいけなくなった。水もとろみがないと飲むことができなくなり、ここで酒とも縁が切れた。車などとても乗れるような状態でなく、廃車にして、免許も返上した。介護認定を受けて、リハビリの人や、デイサービスの世話になるようになった。家での介護は母にまかせっきりになった。何度か入退院を繰り返した後、去年などは比較的おちついた状態が続いていたが、今年の春頃から、目に見えて衰えてきたようだった。自分は、父が倒れて以降は、それまでよりは頻繁に実家に帰るようになった。ふたりで腹をわって話をする、というよりは、ケアするされるの関係の中で、無理やり話題を作って話すような感じだったが、ここに書いてきたような話も、この間に改めて確認したものが多い。この八月には、かなりいけない状態になり、入院となり一旦は退院となったものの、すぐに再入院になってしまい、十月、そのまま家には帰れなくなってしまった。病気について、最後の最後での「家族の選択」については、他の方の参考にもなるかもしれないから稿を改めて別のテーマとしていつか書きたい。最後の数日は、苦しそうでもあり、どうみても元気になる目は無さそうであり、もし回復しても、いつまた悪くなるか不安なだけだったので、病院から亡くなったと知らせを受けた時は、正直、ちょっと安堵した。楽にさせてあげたい、という気持ちが強かった。七十七歳だった。平均寿命よりは若干若いかもしれないが、本人も「俺は長生きした」と言っていたから、まずまずだったのではないか。他と比べても仕方がない。ただ、平均寿命が八十だと言っても、健康寿命となると七十代前半とかになるそうだから、父もだいたい平均的だったのかもな、とも思ったりもする。葬儀は、母と、妹と妹の連れ合いさんと私とで簡素に送る形にした。家族全体の希望でもあるし、本人も不服はないと思う。会社の人たちと離れて時間も経っているし、送ってほしいような知人もいないようだった。最初に書いたように、宗旨は神道ということになるので、形式的にも坊さんを呼ぶ必要がないのはありがたかった。お経、線香という、いかにもな葬式アイテムを外すことで、陰気くさくない送り方にできた。戒名もなく、名前の下に「命」をつけたらいい、というので自分が既に用意してあるお墓に入れる時には、そのように彫ってあげようということになった。病気以降は不自由な生活が続いたが、トータルでは幸せな人生だったのではないかと思う。そうであってほしい。私が子ども時代を過ごした大阪の下町では、同級生の父親の多くは世代的に高卒・中卒が当たり前だったが、それなりに進学校だった高校や、大学院で出会った友人たちには、大卒の親が当たり前で、大学教授の息子なんてのも少なくなかった。変な世界に迷い込んでしまった後には「何でもない普通の庶民的な父親」の子どもであることに、引け目を感じることもなくはなかった。しかし、もう少しちゃんと世の中を見渡せるようになると、まじめに働き続けてくれて、常識的で、かつ子供には自由にさせてくれる父親の子であったことが、どれほど幸運なことであったかに気づくようになった。借金もない。残した母親も、贅沢をしなければなんとなか暮らしてはいけそうだ。本当に幸運なことである。遺体に対面しても、斎場に向かう時も、骨を拾う時にも、あまり悲しいとは思わなかった。ここ数年、ずっとお別れをしてきたような感覚もあった。けれども、送り終わった後、上記のキャッチボールの記憶を大事にしてくれている兄さんをふくめ何人か縁のあった人たちに電話で報告したときには、とても悲しくなり泣けてきた。今もそうだ。経験するだけでなく、それを語ってみるということは、感情に働きかける作業なのだろう。質素な式だったが、全体としてよいお別れの仕方だったと思う。ただ、父の社会的な側面を残った人に振り返ってもらう機会は作れなかった。その埋め合わせとして、ごくごく簡単に、どこかの誰かに向けて父がどんな人だったかを紹介して説明しておこうと思い、この文章を書きはじめた。父が倒れて、介護の手伝いに行くようになってから、ノートを開いて昔話を聞き書きしておこうか、と何度か考えたがやめておいた。あくまでも息子の視点から、これまでの関係の中で普通に聞いた話から、自分にとっての父の像は構成しておけばいいかと思ったのだ。どっちが良かったのかは分からない。倒れてからの父は、基本的にずっと飄々としていた。真面目だ、と書いたが、看護士さんや介護の人にしょうもない冗談を言ったりしていた。その辺は、お喋りな母の影響のような気がする。今、思い出したのはこれくらい。近頃は私もとても忘れっぽいので、父が言った冗談の具体例もパッと出てこない。ここに書いたこともそのうち忘れてしまうだろう。逆に、何かのきっかけで今忘れている記憶を思い出すことがあるかもしれない。その時は、また、何か書こうと思う。

2019年9月21日土曜日

無目的な韓国旅行

韓国旅行してきた。備忘録的にちょっとだけ(と思って書きはじめたらめちゃくちゃ長くなった)。目的は別にない。7~8年前から韓国語を勉強を始めた。集中力・忍耐力がないため全然上達しないが、旅行での会話くらいは何とかなるようになったから、できれば定期的に本場に行きたい、という気持ちがある。旅費も国内旅行するより安いくらいだし。というわけで、折を見て出かけようと常に思っているのだけど、去年は一度も行けなかった。安い、と言っても、自分の経済状況が厳しいためそれなりに覚悟がいる。何か用事がないとなかなか腰が重くなる。今年は、競輪の日韓交流戦が行われる予定だったので、それを楽しみにしていたのだが、この度の日韓関係の悪化でどうも流れることになった(本決まりだったわけではないから中止という決定もなされていない)ため、なら無目的に出かけるか、ということになった。関係悪化を憂う気持ちがありつつ、今なら安いんじゃないか、というセコイ考えもあり、夏休みの最後にでかけることに。これまでは、ひとりで行くことが多かったが、今回は久しぶりに同居人と一緒に。往復の航空券はコミコミでひとり分13000円ちょっと。これまでの経験の中では最安値に近いが、直前に買ったりしたら9000円位でも行けたよう。貧乏人にとって一番心配なのは宿代だが、今回は、初めてairbnbで民泊を探して行ってみた。二人別の部屋がいいから二部屋以上あるところを見たが、一泊あたり4000円強くらいのを見つけた。もちろん二人分で。いつもは一人3000円くらいの最低ランクのゲストハウスに泊まることが多いけど、比較にならない快適さだった。これからはずっとこれを使おう。人気になったら嫌だし泊まった部屋は秘密です。セコくてすみません。

日本の大手メディアの最近の大本営発表ぶりは目も当てられないレベルで「日韓関係」関係のニュースは一ミリも信用できないのだが、それでも、不買運動もあるだろうし、今までとはちょっと違う風景も見られるかなと期待もあったが、結果として、今までと何も変わらないというか、全体として韓国社会の雰囲気はこれまでより穏やかなように見えるくらいだった。秋の始まりで、気候が特に良かったからかもしれないが。

関空からインチョンへ。関空自体、めったに来ない。来るだけで、テンションはあがる。ああ、もっと頻繁に旅行に行きたい。出国の際、パスポートが電子化された云々で、ハンコが廃止になっていた。希望者には押してくれるというので、一応押してもらう。スタンプラリーみたいな扱いになっている。帰りはお願いし忘れた。韓国にしか行ったことのないパスポートだが、一応見返すと記録になっていたのだけど、これからはその役にも立たなくなるだろう。

インチョンから市内へは空港鉄道で。バスの方が荷物の面で楽だが、倍の値段がするから電車にする。約500円。数年前に買った交通カード、イコカみたいなやつにお金を補充して乗る。これ一枚でバスも地下鉄も乗れる。ソウル市内では、どちらも一回100円ちょっと。食べ物なんかは大阪よりもずっと高くなっているのに、交通費だけは半額くらいだ。公共サービスは住民のためのもの、という意識があって反映されているように思われる。それに対して、日本は… (公共政策、経済などに関してはど素人のため何か間違っているのかもしれないが)インチョンからソウル市内って、関空から大阪市内と似たようなものか、もうちょっと遠いかくらい。JRなら1000円超えるんだから、韓国は安い。

宿はホンデのあたり。ホンイク(弘益)大学の近所で、若者の街としてしられる。渋谷みたいなものか。渋谷もよく知らないけど。まずは宿に向かうことにする。今、タピオカ黒糖ミルクが大ブームだと同居人が調べていた。タピオカミルクティーブームの後に来たみたい。ふた昔前は、日本の流行が遅れて韓国へ、という形だったが、最近は逆で、二年前に韓国で流行っていた携帯扇風機が今日本で流行する、みたいになっている。黒糖ミルクも流行るかもしれない。200円弱という安いのがあったので買う。食券買う機械で外国人らしくモタモタしていたら、イケメンの店員さんが「カード、すぐに入れてください」と日本語で指示してくれた。若いイケメンの日本語可能率は高い、気がする。もしかしてアイドルの練習生だったんじゃないか(というくらいイケメンだったらしい。同居人談。自分はあまり見てなかった)。

宿にたどりつき、満足し、ミョンドンのあたりに行ってみることに。これまでに何度も来たミョンドンは、通りをあるけば日本人だらけという感じだったが、ちらほらとは居たけど、中国人、その他、東南アジア系の人の方が多いくらいに見えた。ホンデは若者の街すぎて落ち着かないが、ミョンドンは、韓国人でも地方の人がソウル旅行で立ち寄ったというような、お上りさん的な人が多く、雑多さ、年齢層の高さが、何となく落ち着く。新宿とかそんな感じか。何度か行った、ビビンパ屋に行く。観光地の有名店で、田舎者御用達という雰囲気だが、美味しい。案内されたら隣は日本人の高年夫婦で、後から来た、日本人の若い女の子二人組も近くに座らされた。日本人同士、固めているのか。美味しくいただき、地下鉄で帰る。

次の日は、韓国人の友だちに聞いたおススメのテジクッパ屋に行った。探すのに苦労した。近くまで行くと、日本人の一人旅女性が「日本人ですか?」と声をかけてきた。どうやら同じ店に行こうとして発見できないよう。彼女は韓国語全く分からないというので近くのコンビニに入ってそこのおじさんに聞くと、「すぐそこやで」みたいな感じで無愛想に教えてくれた。韓国の人はだいたい無愛想だけど、だいたい頼んだことはきいてくれる。昼前だったが、店の前に人が並んでいた。近くの会社のサラリーマンと日本人観光客が半々という感じ。おしゃれなカウンターだけの店で、超あっさりスープで上品な味だった。どことなく日本風味もあり。こういうのが人気なんだな。店員の一人が、やはり背の高いイケメンで、日本語がペラペラだった。合流した一人旅女性によれば店員に日本語が通じると情報があったらしい。なるほど。美味しかったけど、韓国らしさはあまり感じられない気もした。その後、ソウルの中心地に行き、歩いたりする。夕方は、民芸品街のインサドン。世界中から観光客が来ているが、日本人率は低めではあった。

晩飯は有名な参鶏湯屋、土俗村に行く。景福宮の西隣にある。辛くない韓国料理の代表で、美味しいのは間違いないから来るたびに参鶏湯は食べている。土俗村も自分は二回目、同居人は三回目だった。が、毎回、ものすごい値上げをしていて、今回は一人前1800円だった。日本にいたら、そんな高級な晩飯絶対食べないが、折角だからと食べることに。前回来た時は、たぶん1200円くらいだったはず。その時でも「ちょっと前は700円とかだったよ」という話をしていた。中国人、西洋人の観光客が目立った。美味い。けど、高すぎだな。これが1000円位なら素直に美味いと思えるけど、こんな値段なら、うーん、という所。次はもうないかも。さようなら、参鶏湯…


韓国の飯は量が多い。あっさりテジクッパに、参鶏湯という、おじや系のメニューが続いたが腹は一杯になって二日目は終わる。

3日目は、昼ごろ出た。二人で一緒に行動する時間が長くなるとどうしてもケンカになったりもして、朝から計画してどこか行こう、という風にできなかった。とりあえず冷麺でも食べるか、と持って行った古いi-padで近所の冷麺屋を検索して探してみる。近くに人気店があり行ってみたら行列ができていて、しかもお上品すぎる感じで「美味しくないだろう」という同居人の判断に従い、ホンデの駅近くでもう一件あったグーグルで★4つついていたところに行ってみる。地図の指示通りに行くと、駅前にあるけどとても古いビルの地下で、まるで従業員社員食堂のような、何とも昭和な雰囲気の漂うフードコートがあった。バシバシ写真を撮りたかったが、それもはばかられるような雰囲気。そこに出している一軒の店が、情報にあったピョンヤン冷麺の店だった。南北会談、韓国の芸能人らがピョンヤンを訪問したとき食べていた冷麺がおいしそうだったというので、去年は韓国でピョンヤン冷麺のブームがあったらしい。でも、ここはそんなお客さんが押し寄せたような感じの店ではなかったが、何とも雰囲気がよかった。穏やかそうなおじさん二人がやっていた。超あっさりスープで食べたことがないような味だった。美味しいけどちょっと味が薄すぎる気もする。付けあわせは水キムチと大根の浅漬け。とても美味かった。が、これもあっさり。同居人が「キムチとかないですか」と聞いたら赤いのを出してきてくれた。大根の葉と、蕪か何かのキムチ。美味かった。が、これも珍しい味付けだった。もしかして、北の人じゃないかな、というのが同居人の推理だった。ソウルで飯屋をやっている人にしては、なんとも穏やかで、地方の人というのともちょっと違う雰囲気だったのは間違いない。脱北してきて、ここでピョンヤン冷麺を売っているんだなぁ、と勝手に妄想をする。会計する時、店員に「もしかして韓国の方では…」と聞かれたので「日本から来ましたよ」と答えると、嬉しそうな顔をしてくれた。「(外国のお客さんが)何でわざわざうちの店に?」「ネットで調べたんです。美味しいって書いてましたよ」とやりとり。あんまり観光客は来ないみたい。超穴場な雰囲気で面白かった。基本の冷麺一杯、900円。日本で言ったら、ざるそば一杯って感じだとすると、あの雰囲気からしてもやっぱりかなり高い。物価はめちゃくちゃあがっているのだ。日本が安すぎる、という人もいるけど、どうなのだろうか。
「フードコート」の一角。雑然とした雰囲気。

そんな「フードコート」で食べたピョンヤン冷麺

道路の真ん中に路面電車みたいに停車場が整備されている
その後、バスで、ヨイドの方に行ってみる。ソウル市内はバスが蜘蛛の巣のように走っている。幹線道路は、バスレーンが整備されていて便数も多くとても便利。ただ、全体に案内は不親切で、もたもたしていたら乗せてくれない、降りられないという危険性もあり、何ともいえない「激しさ」があるので、最初はハードルが高い。前回の訪韓くらいから何とかバスに乗れるようになって、韓国初心者から中級に上がったような気持ちになった。地下鉄よりは景色が見えるし楽しい。

ヨイドは、漢江の中州で、国会議事堂やNHKにあたるKBSがあったり、大きな銀行の本社が並んでいたりする、韓国政治の中心地だ。漢江公園を散歩してみようと出かけた。平日の昼間だと言うのに、大勢の人がテントを張ったり、ビニールシートを敷いたりして、くつろいでいた。パソコン持ってきて勉強している若者、ベタベタしているカップル、家族連れ、中年女性の集団など色々だった。貸テント屋も出ていたが、基本、時間を過ごすのはタダだ。

ソウルの街中には、いたるところにベンチがあり、こういう大型の公園もある。日本では、外で時間を過ごすには必ず金がいることを思うと、なんという違いだろうと思う。日本よりある面では激しい競争社会で、物乞いをしている人もチラチラ見かけはするが、鉄道料金の安さといい、こういう公園のあり方といい、公共サービスという点では大きな違いがある。街中には無料の携帯充電サービスも結構あった。自分はガラケーで、今回はもうギャザリングサービスもなくなったので持ち歩いていなかったが、スマホの人には便利だろう。日本だったら、金儲けを圧迫するからと絶対やれないはずだ。公園で飲んでいる人らも多いが、飲み屋もにぎやかだった。当然だが、商売と公共サービスは共存できるのだ。(と、思う。)

漢江クルーズに乗って見ようかと思ったが、ザ・観光客という人しか乗っていないようで、しかもそのあたりをちょろっと回るだけで1800円とかだったので、つまらないだろう、と判断してやめた。道頓堀クルーズみたいなものだろう。そっちの方が面白いかもしれない。あれも、自分は一生乗る事ないだろうけど。広大な公園を歩いて、国会議事堂の方に行ってみる。デモらしいことをしていたのは、労働組合系だった。何を主張しているのかはわからず。そういえば、前日は光化門広場の前で、韓国の右派グループがデモしていた。「ムン大統領辞任しろ!ジョグクは辞めろ!」を連呼して、韓国国旗と星条旗を振って行進していた。日本の報道ではムンジェイン、ジョグクが悪者で、こういうデモ隊が「民意」として紹介されている。本当にめちゃくちゃだが、どうめちゃくちゃか、何の知識もない人に説明するのはとても面倒くさい。それをいい事に好きなように報道しているのだからたまったものではない。その件は、また、別に書こう。

今回目撃した唯一の「NO日本」
「日本製品は買わない!」みたいな横断幕、街中で少しは見かけるかと思ったが、ほとんどなかった。目を皿のようにして探ればどこかに発見はできただろうけど、普通にしていたら分からないレベルだった。そんな中、国会議事堂前で初めてその手の横断幕を発見。自分の語彙力では見ただけでは意味が分からなかったが帰って調べると「NO日本 伴侶文化 OUT」と書いていて、出したのは「大韓育犬協会」だった。犬食について反対意見も高まっている中で、食用犬文化を守ろうという保守系の団体のよう。韓国では、ペット用品を含め、ペット文化の先進国として日本を捉える視点があるよう。人間のための家畜という考えから、人生の伴侶として動物を飼う、という考え方に変ってきていることに対し犬肉愛好家たちが危機感を持っているらしい。なかなか複雑だ。とにかく、今回見た「No日本」はこの一本だけだった。ひと月くらい前なら、もう少し発見できたのかもしれないが、わからない。

そこからワールドカップ記念公園へ行って、大型公園めぐりをしようと思ってバスに乗ったが、方向を間違えてしまい、目的地を変えざるをえなかった。やはりまだ「入門」段階だったよう。宿のサービスでポケットワイファイがついていたので、グーグルマップで今、どこを走っているのか確認しながら降りる場所を考える。とりあえず、終点方面の光化門近くまで行き、そこがバス路線のハブになっているので、乗りかえることにする。乗り換えは30分以内なら無料のため降りてコンビニで飲み物などを買って次の方向へ。金持ちの街カンナムに行ったことがない、と同居人が言うからとりあえず行ってみる事に。(自分は、6年くらい前に行ったことがある。KARAのイベントがあって、のぞきに行ったのだ。あと、韓国人の友だちとランチを食いに行ったこともあった。)このバスはかなり混んでいた。漢江より北はバスレーンの整備が進んでいるが、橋を渡って南下するとかなりの混み方になってなかなか進まなかったりした。自動車の数はものすごく多い。カンナムで降りるも、周りを見て、別に行きたい店もないので「見た」ということで、すぐに移動する。乗継無料だし。ちょっと戻ってシンサドンに。「シンサドンのあの人」という有名な演歌のヒット曲がある街。カロスキル(街路樹街)という有名なところを一応目指すも、オシャレな店が並んでいるだけで自分らには関係がない街だった。ただ歩くだけになった。カンナムは地形的にかなり凸凹していて、雰囲気としては神戸の山の手みたいなところもある。小高い丘を越えてアックジョンへ。ここは、整形外科銀座として有名なところで、いたるところに整形外科の看板がかかったビルが立ち並んでいる。中国語の看板も目立つので、中国人もターゲットになっているのだろう。日本人もここでやってもらっている人、少なくないはず。

梨泰院の山の上からソウルタワーを眺める
その後、梨泰院方面に行く。ここは、米軍基地に近く、外国人が遊ぶ街としても有名。知らないけど六本木みたいな感じか。それよりは、沖縄のコザとかの方が近いか。コザも一度ちらっと行っただけでよくはしらないけど。ここも北側が山になっていて、歩いて散歩してみる。同居人は酒も飲まないし、共に金もないので店には入らずただただ歩いた。大金持ちのお城みたいな邸宅が並んでいた。あとは、外国の大使館なども。多国籍な雰囲気は楽しい。

遅くなって、ホンデの方に戻る。晩飯は、自分が以前ひとりで来た時に良かった「キサ食堂」に。キサ(技士)は、タクシー運転手のこと。彼らが仕事途中に一人で食べに行ける店ということで、一つのジャンルを形成している。韓国は最近まで一人でご飯を食べるという習慣がなかった。だから、一人客を想定していない店も多かった。そんな中、「一人飯」という文化が、ちょっとだけ広がりを見せ始めているらしい。自分は前に来た時に、それを表す「ホンパプ」でネット検索して、探したのがここだった。一人飯の普及の中、一人飯を想定して営業してきた運転手食堂が一般人に発見された、という感じか。前来た時に安くて美味かったのでまた来たかったのだ。9時過ぎに着いたが、かなりの人でにぎわっていた。よく見たら、次長課長河本、森三中黒沢がロケに来た時の写真が大きく掲げられていた。それくらいの有名店ではあるようだ。豚焼肉定食、牛焼肉定食をたのむ。他に、鯖定、チゲ定など。まぁ、松屋みたいなもの、と言えなくもない。辛いイカ炒めがあるのが韓国らしさか。あと、松屋との違いは、キムチ、ニンニク、サニーレタス、ご飯はセルフで追加し放題ということ。それにミニそうめんと目玉焼きひとつとモヤシのナムルがついている。普通といえば、普通なんだけど、その普通さが良い。ご飯も炊きたてで美味しかった。同居人も「今回の旅行一の食事かもな…」と言っていた。豚定900円、牛定1000円は高いか、安いか。満足度は高いけど、値段に関しては、やよい軒より高いって結構なものだな、というのが貧乏日本人の感想だった。
運転手食堂の豚定・牛定(2人分)

テレビがあって、日本のニュースが流れていた。東京で韓国学園の女子生徒が、日本人の50代女性に「うるさい」と言われてドアにぶつけられる暴力を振るわれ病院に行った、という内容だった。とうとうそういう事が起こってきたかと暗い気持ちになる。隣に座っていた、職場の先輩後輩という感じの男性二人組はテレビをぼんやりながめて、ボソボソと感想を漏らし合って、また食事に戻っただけだった。このニュース、さすがに、日本でも大きくなっているだろう、ネトウヨは捏造とか騒いでいるんだろうな、と思って帰って来たら、ニュースにすらなっていなくて呆れた。想像の遥か上を行っている。今の日本の報道は。私人同士の小競り合いくらいがニュースになるか、というなら、日本人の女の子がソウルでナンパされて断わって暴力を振るわれたニュースだって同じだろう。あの時はあれだけ大騒ぎしながら、ニュースにもしないなんて、被害の歴史は記憶し、加害の歴史はすぐ忘れる「日本」そのままだ。

初日、ミョンドンのマートでマッコリを買った。一リットルで120円。マッコリは非常に安い。韓国で安い酒といえば焼酎だが、あれは正直全然美味しいと思えない。人工的な味付けで。マッコリも普通のは人工甘味料が入っているが、ここで見つけたのは無アスセルファムをうたっているものだった。これはいいと思って買って二日かけて飲んだ。カルピスみたいな味で美味かった。最後の夜にもう一本飲みたいなと思って近所のコンビニで探すも、人工甘味料入りばかりしかなかった。ちなみに、宿近くのコンビニでは日本製ビールが売っていなかった。他ではちょくちょく見かけたので、ここは不買運動に参加しているんだと分かった。韓国で日本ビールってかなりのブランドで、割高なのに人気があったのだ。ただ、近年は韓国のビールメーカーも頑張って負けないものを作って人気を高めている所だった。そこにこの不買運動。本当に日本政府はバカだ。折角のお客さんを…。ならこの店は、日本製品は一切置いていないかというと全然そうではなかった。ベビースターラーメンもあったし、日本酒の「まる」なんかもおいてあった。ビールはシンボルということなのだろうな。それだけ人気があったことの裏返しだろう。周りを見ると、寿司屋だったらしい所が看板を外していたり、内装工事をして商売替えしているように見えるところは何カ所かあった。6月位まで、飲食店で「日本イメージ」はプラスの記号で、それを添えて商売している所は沢山あったのだ。今でも営業している日本食屋もあるし、ダイソー、ユニクロなんかも、まぁ普通に営業していた(でも確実に売上げの低下はあったと思う)が、「日本」がマイナスのイメージに変ったことは確実だろう。世界でこれほど「日本的なものが好き」だった国、他にないだろう。(ちょっと幻想を持ちすぎている位に。)なのに、まぁ、ほんとに、政府自ら率先して常連客を逃す方向に動いているんだから、どうしようもない。

というわけで、最後の夜はマッコリを我慢して寝る。

最後の日は、インチョンに昼過ぎにはつかないといけなかった。前日に行けなかったワールドカップ記念公園にバスで行ってみることに。ホンデの観光案内所のお姉さんに聞いたら、とにかくデカいとのことだったが、確かにめちゃくちゃデカかった。万博記念公園の何倍かという感じか。ロッカーのある所を通ればよかったが残念ながら無かったので重い荷物を持って散歩することに。ただただだだっ広い公園であった。前回ひとりで訪韓したときに、蚕室のオリンピック記念公園に行った。ここは、元競輪場があったところで、その面影を探しにと寄ったのだが、思いのほか良い場所だった。それで公園は悪くないと思って、今回のワールドカップ公園になったのだが、オリンピック公園よりさらに広く、何もないっちゃ何もない場所だった。とにかく、ソウルの住民には、散歩したり、ぼうっと時間をすごしたり、イベントしたりする場所が身近に一杯あることが分かった。飛行機の時間が危なくなってきた。地下鉄の駅の方向が分からなくなったので、歩いていたおじさんにきいてみると、駅方向まで自分も行くから連れて行ってくれるという。なんという親切。日本から来たのかと聞くのでそうだというと、自分も昨日東京に行ってきたとのことだった。野村証券と取引している大手投資銀行で働いていてビジネスでよく東京に行くという。よく見たら、確かに金持ちっぽい。近所を散歩しているただのオッサンだと思ったのだけど。日本語は「こんにちわ」「お元気ですか」しか知らないそう。お元気ですか、は、韓国人の誰もが知っている日本語なのだ。岩井俊二のおかげで。自分は映画見たことないけど。「近頃、ニュースがやかましいでしょ」と笑うおじさん。「そうですね」と答えると、「あんなのは政治的な奴らが騒いでいるだけだから、普通の韓国人はそんなことないからね、私は、隣人だと思ってますよ」みたいなことをおっしゃっていた。どっちかというと「政治的な奴ら」かもしれない自分としては、騒ぐにはそれなりの理由はあるだろうなと思ったりもするが、まぁ、韓国のある種の「普通」の人の態度なのかもしれない。

韓国といえばカササギ(カッチ)
本当にカワイイ
鳴き声はあまりカワイくない…
「あそこに一番の入口が見えるでしょ。あれですよ。空港に行くなら、一駅だけ乗って、デジタルメディアシティで乗り換えですよ」と丁寧に教えてくれて、さようならする。予定よりだいぶ遅くなってしまい、インチョンに着いたら、出発の一時間ちょっと前位だった。航空会社の窓口に行くと、窓口のお姉さんが何かちょっと説明をした。その時は何のことか理解できなかったが、乗ってみて非常口席だったということが分かった。子どもはダメとか色々条件があるらしい。その説明だったか。朝飯も昼飯も食うタイミングがなく、空港で食べる時間もなく、お腹が空いていたが、搭乗エリアではちょっとしたパンもバカ高く、関空まで我慢することにする。チェジュエアとかエアプサンとかLCCでも軽食が出たこともあるが、今回のイースタージェットは完全オプションということで水も出ない。安いのでいいのだけど、今回はおにぎりひとつでも食べたいなという所だった。

非常口席に座ると、CAさんが来てこれ読んでおけと説明書の一部を指さされた。非常時には率先して他の客を誘導せよ、とかそういう事が書いてあった。非常口ルールで、小さな手荷物も上の荷物入れにしまわなければいけないかった。隣に座った日本人の女の子、大学生くらいだろうか、本当に常識のない感じで、同行の仲間とぺちゃくちゃ喋っていて、CAさんの指示にも「はぁ?」という態度だった。イライラしてはいけない、見ないようにしなければ、と自分に言い聞かせた。離陸する前に、いきなり持ってきたパンを食べ始めた。美味そうだった。彼女らは、韓国で何を見てどんな思い出を抱えて日本に帰るのだろうな。

関空についたらもう夕方。エアロプラザにあった松屋で焼肉定食を食べた。美味かった。タイかベトナムの人だろうか、若い観光客のグループが隣で食っていた。肉ダブル定食に生ビールまでつけていた。自分らよりかなりお金を持ってそうな若者たちだった。いいな、今から海外旅行なんだな。と、一応海外から帰ってきたばっかりなのに、もはや羨ましい気持ちになった。

また行きたいですな。できるだけ早く。仕事で行ったりもしてみたいな。そんな機会なさそうだけど。

というわけで終ります。


2019年5月10日金曜日

あなたは右に、わたしは左に

右翼・左翼って聞いた事ありますよね。でも意味、あんまり知らないでしょ。この言葉、いつから始まったものか知ってますか?フランス革命後の議会からですよ。その時、革命を進めようという人たちが左側の席に座り、反対に革命をおしとどめようという人たちが右側に座ったのでそう言うようになったのです。左翼は、社会を進歩させていこうと考えているから進歩派、右翼は従来の社会や昔の方が良かったと考えるから保守派、進歩派からは反動勢力なんて言われたりもしますよ。


講義の流れでこんな話をした。

すごく興味をもったらしい学生が次の週に質問しにきた。

「右翼・左翼の話、すごく興味ありました。そんな意味だったんですね!」

面白かったのなら良かったです。


「で、質問なんですが、この間、中核派が選挙通りましたよね。革命的って言っているからあれは左ですか?」

まぁ、そうですね。極端だから、極左なんていいますね。

「なるほど!じゃぁ、自民党はどうですか。調べたら保守派って書いてたんですが…」

まぁ、保守派ですね。

「でも、憲法改正しようとか、先へ進めようとしているじゃないですか?」

まぁ、何と言いますかね、ほら、昔の憲法みたいに戻して、戦争ができるようにしよう、という考えなんで、そのへんでまぁ保守ですよね。

「うーん… 他にもカジノをやろうとか、新しい事をやろうとしているじゃないですか?それでも保守なんですか?」

まぁ、何と言いますかね、進歩ってそういうのとはまた違う感じなんですよね。

「うー、なんか難しいですね」

まぁ、ね。難しいですね…。


色んな知らないことを知った、という喜びにあふれた顔をしていた彼。ネトウヨ的なのにコロッといきそうで心配だが、興味を持つってことは良い事、なんでしょう、たぶん。「ネットの変な情報に騙されないようにね。本で勉強してね」と注意したけど、本にもいろいろありますからね。

「若者」に「自民党が支持される理由」が何となく見えてきたような気がしましたね。

2019年5月4日土曜日

97年のメモ帳

連休最大のイベントが部屋の片付けになった。わけあって同居人と部屋を交換することになったためで、結構な労力がかかった。今日も競輪のダービーをちらりと見たりしながら整理を続行。明日から仕事なので、作業が出来る状態までには戻さなければいけない。書類や本などちゃんと見てしまうとそれだけで時間がかかってしまうから、できるだけ機械的に作業しようとはしていたのだけど20年前の「取材メモ」と書いたメモ帳が出てきて、つい見てしまった。

1997年3月13日 松本インタビュー とあった。
自分の下手な字でメモしてあるのをそのまま書き写すとこんな感じ。

「信頼」関係ではない(言葉ではいうが、違うものだ)利益供与にすぎない(生活のための)「グランプリ」に乗る選手とそうでない選手。S級とA級、B級でクビがかかっている選手と、それぞれ視点が違うのだ。他のプロスポーツの一流選手とのちがい。自分の納得のいくレースと他のものおしのけても勝つということが違う。番手捲りをうたれる選手は弱いからだ。ただ、それだけなのである。中野と井上の戦いがすごかった。まわりの関係を切っていく努力もいる。「他のスポーツと違って、いらん力をつかわんといかんのです。」

昔すぎて、かつ、当時の自分が子どもすぎて(って27歳にもなっていたのですが)あまりハッキリ覚えていないのだけど、この前年に競輪をテーマに修士論文を書いて、取材というか、フィールドワークというか、何かそういう真似事をしていたのだった。この時、話を聞いたのは、当時、京都地区のボス的存在だった松本整選手。確か、ふるさとダービー4連覇を達成しての祝勝会だったと思うが、当時つきあいのあった日刊スポーツの記者さんの口利きで参加させてもらったのだった。現在、タイトルをいくつも獲りレジェンド的選手になっている村上義弘選手ほか、京都の選手も多く参加していたと思う。「あ、村上だ」と思った、というぼんやりとした記憶はあるが、そのほかは本当に何も覚えていない。(記者さんと一緒に、関西棋院所属の囲碁棋士Hさんという方も来ていて、帰りにいろいろ話を聞いたことはちょっと覚えている。帰り道は緊張感が解けて気楽な気分だったのだろう。それ以来お会いしていないがお元気にされているだろうか。)だから、この時、松本さんにどんな風に話を聞いたのかなんてさっぱり覚えていないのだが、上記のようなメモが残っているということは、こういう事を僕に向かって話してくれたのだろう。競輪ファンならご存知の通り、厳しい雰囲気がガンガンに漂う方で、実際に自分もオロオロしていたはずだが、何も分かっていない大学院生の質問にまじめに答えてくれていたんだなぁ、ということは今このメモを見ると分かる。

この時、お願いして単独インタビューを後にさせてもらうことになった。これは松本さん経営のスポーツジムで話を伺ったものだ。人間は背中に大きなゼンマイ仕掛けを背負っていて、いったん動き始めたらもう巻き戻せないのだ、というようなことを仰っていたことは何となく覚えている。その後、競輪についてちゃんとしたものを書くのに20年くらいかかってしまい、この時のお話は直接には生かすことができなかった。当時、せっかくいろんな方に協力してもらったのに、中途半端になってしまい申し訳ないという後悔はありつつも、まぁ仕方が無いか未熟だったのだから、と他者化して見られるような余裕もようやく生まれてきたような気もする。とはいえ、ジムで聞いたインタビューは、カセットテープに取っているはずだが恥ずかしさと怖さで、とても聞き返せない。

この97年の手帳を見たら、3月に岸和田競輪場で競輪ダービーが行われていて、大学時代のプロレス研究会仲間の「桂輪太郎」(仮)くんと見に行っている。3日目の24日。11時半新今宮待ち合わせ、と手帳にあった。27日の決勝は一人で見に行ったのか。浜口優勝とメモしてあるがレース内容はまったく覚えていない。今日のダービーは、この所次元の違う強さで競輪界を席巻している脇本選手が相変わらずすさまじい勝ち方をした。自分は忘れっぽい人間だ。このレースも何年かしたら忘れてしまうのだろう。仕方が無いとあきらめているが、文字で記録に残しておくのは、それなりに意味があるな、とちょっと思ったのでメモしておくことにした。メモを久々に見てしみじみした、という記憶と共に。

2019年3月14日木曜日

紙の辞書を買った。20年以上ぶり、だろう。

紙の韓日辞典を買った。韓国語をだらだら勉強し始めて7、8年経つが、最初から電子辞書を買ったので紙の辞書を使うのは初めてだ。辞書を引くには、母音と子音の順番(カナダラ順という)、日本語の「あかさたな」みたいなのを覚えなければいけない。昔の韓国語学習なら一番初めに学ぶもので、私も一応はならったけど覚えてはいなかった。辞書を引く時以外必要ないものだからだ。代わりにキーボードでハングルを入力する練習はしていた。紙の辞書はどんなものでもある程度練習がいる。ハングルは特にそれが必要とされる、ように思う。子音の順、母音の順の組み合わせだけど、母音は結構複雑で21種類もある。それに習熟する練習なんて今どき必要ないだろう。紙の辞書がいい、なんてアナクロニズムだ、と考えてきたのだけど、ここに来てちょっと使ってみたくなったのだ。

きっかけは、紙の辞書を使う効能がテーマのネット記事だった。英語学習に関するもので、引いた言葉にラインを引いたりして何度も繰り返し引けば記憶に定着しやすい、というような事が書いてあった。よく聞く意見だが、確かにそうかもと思ったのだ。長年、勉強らしきことはしているが、基本的な単語もかなりおぼつかない状態が続いている。紙の辞書を使ってみたら、ちょっと変わるかも、と。それに、いくら電子辞書時代とはいえ、紙の辞書は引き方も全く分からない、というのはアカンのじゃないか、なんてことも頭をよぎった。ほんとにアカンのかどうかは知らないが、オートマに乗るにしても、マニュアル車も運転できるようにした方がいいのでは、みたいな発想か。(わたしの免許はオートマ限定で、しかもオートマ車すら怖くて乗れない完全ペーパーなのだけど。)

すぐに使わなくなるだろう、ということも見越して、古本でコンサイスを買った。送料込で700円くらいなら、無駄に終わってもそれほどもったいなくないだろう。実際に使ってみると、確かに面倒くさいものだった。ひとつの単語を引くのに、何度もページをいったりきたりする。初めて英語の辞書使った時とかは、こんなものだったのかもしれないが。ただ、面倒くさいのだが、わざわざ面倒くさく引くために買ったものではあるので、なかなか楽しいような気もする。当たり前だが、電子辞書って便利なものだなぁという思いも新たにした。何日か使っていると、カナダラ順にもある程度慣れてきた。ある程度学習してきたからだろう。ほんと、当たり前すぎる話だけど、入門でいきなり使い始めていたら、もっと手こずったと思う。

紙の辞書の最大の難点は、字が小さいことだろうな。私の場合、数年前に老眼が始まって、ゆっくりと進行している最中だ。古本の通販で買うつもりだったが、現物を見とかないとだめだろうと本屋で手にとって一度チェックはしてあった。なんとか読めるというレベルだったが、デカい辞書は高いし、デカいのだって老眼が進んだら同じだろうと小型のコンサイスを選んだ。ハングルの場合、チョボが棒の上下、左右どちらについているかを判別しなければいけないが、小さい活字だとこれが特に見づらい。今のところ何とかなっているが、あと何年かで読むこと自体、無理になりそうではある。そういう意味でも、「若いうちにしか味わえない楽しみ」として紙の辞書引きをするのも悪くないかもしれない。


今回の買い物で残念な点が一つだけあった。アマゾンのマーケットプレイスで買い、安く済んで良かったけど、書き込みが一カ所あったのだ。基本単語のひとつに蛍光マーカーのラインが引かれていた。出品者は「書き込みなし」としてあったはずなのにな、というのもあるのだけど、「何で一カ所だけやねん…」ということが、余計に引っかかってしまった。よーし、韓国語始めるぞ、と意気込んで、いきなり最初に引いた単語にバーンと消せないラインを引き、二つめの単語を引く前に勉強をやめてしまった、ということなのだろうか。そんな間抜けな人が使った後の本を使うなんて、こっちまで間抜けになりそうだ。返品をちょっと考えたが、面倒くさいのでやめておくことにした。自分のような間抜けな人間に、お似合いの「お古」かもしれない。あと何日か使ったら、やっぱ電子辞書でいいや、となるような気がするが、とりあえずもうしばらく遊んでみようと思う。

2019年3月2日土曜日

広告に間取り図が流れる日々

転居を考えはじめ、ちらほら近くの不動産屋をまわっている。家賃の安い郊外のURとかもちょっと検討したが、実家のこともあるし、やっぱ近場を中心に見てみることにした。にぎやかな所に自転車で行ける地域に住み続けたいという思いもあったりして。にぎやかな所に行ったところで、ほんとにただ行くだけなのだが。だらだらと長く続いた大学院生活の間、ずっと実家にいた。形式的に卒業しても仕事はなく、学生同様の生活が続き、さすがに居づらくなって実家を出て、自転車で30分くらい離れた町の木造風呂なしアパートで暮らし始めた。中年の入口に入ってからの貧乏暮らしだった。今回、過去の引越しメモを見て確認したら、そこに居たのは6年間だった。10年くらい住んでいたような気がしていたが。陽も当らないボロアパートだったが、住み心地は悪くなく、ずっとここでもいいかななんて思ってもいた。(その頃の日記は、まだmixiに残っている。)短期間、ちゃんとした収入が得られる状態になり、風呂のある所に引越して長い間つき合ってきた相手と同居することにした。十三駅のすぐ近くの面白い場所だった。しばらくしたら仕事の契約期間が終わり収入が激減したので、長期的に住めるようもっと家賃の安い所を探し、その後、何度か越して今に至る。ボロアパートを出てから、もう丸10年経ったらしい。今回確認してちょっとおどろいた。この10年、記憶は、ぼんやりしている。より遠い過去であり、実際には期間も短かったアパート時代の方が、どんなことがあったか、部屋の作りはどうだったか、周りにどんな人が住んでいたか、などの記憶はかなり鮮明だ。揉め事の絶えない二人暮らしを続けるうちに、無意識に、新しい経験を記憶しないようにしているのかもしれない。まぁ、単なる老化だろうが。

そんなこんなで、不動産屋めぐりをするのは約8年ぶりだ。今回、久しぶりに不動産屋めぐりをして以前と大分変ったなと感じる。スーモなどのサイトであたりをつけて、情報提供先としてある不動産屋に連絡して内覧するというパターンで探してるが、以前に比べてネットで得られる情報量が大幅に増えている。不動産屋が持っている情報と、ネットに出ているものにそれほど違いがないみたいだ。以前なら、ネット情報は一種の看板にすぎず、よさげな物件情報でひっぱって、向こうに都合の良い所に押し込めるという商売をしているところが多かったような気がするが。それと関連するのだろうが、営業の人がしつこくなくなったのも、大きく変わった点だ。以前は、内覧して「うーん」と迷っていたら、「何が気に入らないのですか」「どこが良ければいいですか」「ならもっと条件あげてください」などと畳み掛けてきて「早く決めろ」というプレッシャーがすごかった。事務所では、個人情報も詳しく書かされ、電話も何度もかかってきたものだ。しかし、今回行った所はどこも、とてもあっさりしている。最初は担当の人がたまたま感じの良い人なのかと思ったが、3件回って、それぞれキャラクターは違いながらも、押し付け感の無さは共通していた。ネットの普及で、お客も情報をある程度もって来るようになってきたため、あまり無茶はできなくなっているのじゃないか。もう少し深く付き合ったらどうなのかはまだわからないけれども、多分、最近の傾向なんだろうと思う。

わたしは「何かしなければならない事がある」という状態自体、大変苦手で、こういう作業はとても気が重いのだけれども、内覧に行って、そこでの暮らしについてしばらく想像をめぐらしたりするのは、ちょっと楽しくはある。これから、経済的により厳しくなるので、今よりも安いところを探したいのだが、なかなか難しい。内覧して「想像」するも、現状よりさらに侘しい日常しか浮かび上がってこない。こっちの気分の問題もあるのだろうが。しかし、東京ならおそらく狭いワンルームも借りられないような予算でも、幾つかの難を我慢できれば、二人で余裕をもって暮らせるくらいの広さの部屋も探せないわけではない。ただ、ファミリー向けの部屋は、このあたりでは今不足気味なのだときいた。ワンルームはだぶついているらしいのだが。春の引っ越しシーズンは、法人契約の客が迷わずに次々に決めていくらしい。法人契約というのは、転勤の社員のために企業が契約する形式らしく、部屋探し自体は居住者がするのだが、会社が援助をするので負担も軽くパッパと決める人が多いらしいのだ。サラリーマンは定収入がある上に、家賃補助なんかも受けられるんだな。なるほど、組織に属す、というのは強いことなんだな、というとても当たり前のことを、ようやく分かってきた今日この頃である。もうすぐ50歳。どうなるか分からないが、とりあえずあとしばらく探してみるつもりだ。自分の年齢と同じ位の築年数の古いマンションとか、掘り出しものが見つかるかもしれない。

2019年2月13日水曜日

さようなら ドンキホーテ(十三店)

もうすぐ、十三のドンキホーテが閉店する。とても寂しい。残念だ。近くのホテルに泊まっている外国人観光客も流れてきていて、いつも客であふれていて儲かっているはずなのに、なぜ?十三という雑多でごみごみした下町的繁華街の雰囲気にもぴったりだったのに。近所のヤンキーたちにも愛されていたのに。店が出来たのは、15年前。自分は隣町の木造アパートにいた頃だと思う。ドンキというチェーン自体、関西にはまだ少なくて、ニュースで耳にしたくらいだった。圧縮陳列とかそういうので有名で、ちょっと前に、大きな火事を出して問題になっていたのだったか。関東出身の知人が「下品で嫌い」と言っていた。ふーん、と思った。十三に出来て、ちょくちょく行くようになって、すっかり気に入った。お菓子から、電化製品、アダルトグッズまで何でも売っている。バカバカしい雰囲気が漂っていながら、結構、役にも立つ。まったく気取っていないところも自分の肌にあっていた。出来た当初は、まだ、外国人観光客が増える前だったが、ガラの悪い若者で最初から賑わっていた。買うものといって、お菓子くらいだったのだけど。あと、まだ家で酒を飲んでいた頃は、安いウィスキーを買ったりもしたかな。あ、あとは、辛ラーメンとか。そういえば、湯たんぽもここで買ったか。結構いろいろ買っているな。猫がまだ生きていた頃は、たまに猫砂を買ったりもした。ふらっと寄ってこういう買い物ができなくなるのは、本当に寂しい。夜中までやっていたことが、嬉しかった。今住んでいる家は、十三まで歩いて15分くらいにある。夜に、ちょっと散歩するか、少し出かけるか、という時の「行先」にドンキ(十三店)は、ぴったりだったのだ。下町的繁華街に好んで暮らしてはいるのだが、十三の飲み屋に行くことはほとんどないし、日々の食材を買う商店街以外、立ち寄れる場所は実はあまりないのだ。何も買わなくても、行けばとりあえず人がいて、何となく楽しいドンキ(十三店)は、大変ありがたい場所だった。ああ、ドンキ(十三店)、なぜあなたは閉店してしまうの?儲かっているじゃないのよ。閉店まであと十日ほどになった。今は、在庫セールをやっていて、引越し直前みたいな「終わっていく」雰囲気になっている。とても寂しい。「思いたったらいつだって、ドンキホーテで待ち合わせ」と歌っていたくせに、もう待ち合わせなんかできないじゃない。ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 日々、少しずついろんな事が変化し続けている。仕方がない。仕方がないけど、寂しいです。ドンキ(十三店)があった頃、が過去の一時期として遠ざかって行くのだな。ああ、ドンキ(十三店)。さようなら、ドンキ(十三店)。

2019年2月7日木曜日

初めての体験はドキドキするもの。幾つになっても。

南海の関空急行に乗って、岸和田競輪からの帰り。いつものように外国人観光客が沢山乗っていた。ああ、海外旅行に自分も行きたいなぁと思いながら、吊革につかまっていたら、前に座っていた東南アジア系の可愛らしい若い女性が、僕の顔をじっとみて、あわてて立ち上がろうとした。あれどうしたんだろう、と一瞬意味が分からなかったが、すぐに「あ…、まさか」と気が付いた。彼女が座っていたのは、優先座席で、多国語でここがどういう座席かは説明されている。「いや、ちゃいます、あ、とにかく、どうぞどうぞ」とジェスチャーで、代わってもらう必要はないと伝えた。ああ、もう、そこまで、あれか。「若手ナントカ」とかつい最近まで言われていたのに、あれなのか。そんなに老けて見えるのか。いや、でも、向こうも外国の子だし、優先座席って書いているここに座って良いのかどうか、おどおどしている感じだったから、こっちと目があって「怒られるのか」とビビっただけ、だろう、うん、そうにちがいない、いや、でも、まぁ、うーん、ガラスに映る顔を見たら、もみあげなんか半分白いし、メガネ外さないと本も読めないし、そういえば、人生初の「老眼鏡」を日曜に買ったのだったな、ダイソーのやつだけどね、今の所持ち歩いてはいないけど、でもすぐに手放せなくなるのは間違いなさそうだしな、うーん、でも、そんなものを買ってしまったから、自分からそっちに向かっているのかもしれないぞ、まだまだだ、と言い聞かす意味でも捨ててしまうか、100円のオモチャだしな、でも、まぁ、それが、いったいなんだって言うんだ、いつかは譲られるのだ、譲らないやつらに「近頃の若者は」とか言うようになるに決まっているんだ、だから、まぁ、一回目が早く来ただけ、と思えば良いじゃないか、まぁ、ほんと、勘違いって可能性もまだあるし… 気まずさを隠すため、そそくさと隣の車両にうつり、メガネをはずして文庫本を開いて灘波まで帰ったが、内容がぜんぜん頭に入らなかった。

2019年2月1日金曜日

もう少し頻繁に更新したい

(上の写真は、5日に行った石上神社)
正月の小旅行日記、あと一回分書くつもりだったが、気が付くと2月になってしまった。ブログ記事、適当に書き飛ばしているから、そんなに時間はかかっていないけれど、それでもツイッターでつぶやくよりはエネルギーが必要だ。頻繁に更新出来ている人は、他のことでも生産性が高い人なのだろうな。時間があけばあくほど、書こうという気力も減退する。実際には来ない「また」今度、ということになってしまう。

1月は、正月明けに体調を崩した。去年の秋から年末にかけて、2回も風邪をひいた。別に、健康自慢というわけではなかったが、風邪をひくのはだいたい年に一回弱くらいのペースだった。歳をとって免疫力が下がったのかと心配になる。そんな中、新年早々またかよ、という感じだった。正月休み中は、近場ばかりだが、いろいろ遊びに出かけていたので、講義が再開したらすぐに体調不良なんて、ちょっと申し訳ないような感じもあった。何とか出勤したが、10日くらいには無理な雰囲気になってきた。皮膚がヒリヒリ痛むという症状があった。ずっと昔にも経験したもので、その時は病院でもらった薬の副作用だと思っていた。今回は、葛根湯を飲んだくらいで、病院にも行ってない。これ、病気の症状だったのだな、と気づいた。

今さらながら、ネットは便利だ。検索したら、体験談が出てくる。同居人は「風邪でそんなの聞いた事ないで」と言っていたが、高熱が出る前にこういうことになる、と書いている人がいたりした。熱を測ると、37度程度の微熱だったが、たまらず休講にした11日には、39度になった。こんな熱は記憶にないくらい久しぶりだった。これは、インフルエンザというやつだな、と自己診断し、とりあえず寝続けることにした。病院に行っても、仕方がないと考えた。ネットで、「風邪・インフルで、子どもや高齢者以外は病院にいかなくていい」と書いている医者がいたので、何となく説得されてそうしたのだ。高熱は、身体が病原菌をやっつけようとしているのだから、無理に下げる必要はない。しんどすぎて眠れないとかなら頓服をもらうべきかもしれないが。インフルエンザの薬と言っても、3日で治るのが、2日で治る、という程度のもので、風邪同様特効薬はない。結局、寝て治すしかない、という話だ。まぁ、この日は、病院まで出かける体力すら無かったのだが。ピークは一日で、その後、二、三日で回復した。皮膚が痛くなって体調不良になってから「治った」という気分になるまで一週間はかかった。14日は、月曜の祝日で、私学の多くは月曜の祝日は授業が通例だけど、成人の日はさすがに休みだった。この連休が挟まっていたおかげで、休講は一日ですんだ。正月ちょこちょこおでかけ、インフルエンザ、回復でダラダラ、という感じで終わった1月だった。

この間、重い腰をあげて久しぶりに「聞き取り調査」に行ったりしたが、まだ整理できていない。その他、テストなど授業後の後始末作業が残っていて、宿題の山にうんざりして、なかなか手をつけられずに時間を無駄にすごしている感じ。生活上の不安や面倒なこともちょこちょこあり、あまり何も考えたくない、という気持ちで日々やりすごしている。ということを書いていても仕方がないのだが、どうしようもない時には「どうしようもない」と書くことで、ちょっと前に進むきっかけにできる、ということもたまにはあるので、書いておくことにする。

何のために生きているのだろう、というようなことをぼんやり思う日々。そして、「何勿体ないこと、甘えたこと言っているんだ、バカ」というツッコミをするもうひとりの自分もいたりして、この調子なら、生きている限り中二病は続くのかとうんざりしたりする。金も未来もない中で「自由に生きる」ということは、こういうことなのかもしれない。とにかくいろんなことをあきらめて、あきらめきって、その上で、できることに取り組まなくては。

2019年1月20日日曜日

園田競馬で初当り(年末年始③)

正月4日は、誘われて園田競馬に。家から最寄りの公営ギャンブル場がここだが、来たのは人生で4回目くらいか。某所で競馬の歴史について講義したりしているのだが、遊びとしての競馬の知識はほとんどない。人生の綾で、公営ギャンブルが研究テーマになり、ファンの視点を持っていたいので関心のある競輪だけは車券買って遊ぶが、他のギャンブルはほとんどやらないのだ。パチンコなんて、人生でトータル2時間くらいしかやってないと思う。でも、まぁ嫌いという訳ではないので、誘われたらついていく。

同行したのは、大学のプロレス研究会仲間で、ツイッターの競輪クラスタでも知られる競輪病患者の桂輪太郎さん。彼の「世を忍ぶ仮の職場」である一流スポーツ新聞社で園田競馬を担当している「プロ」が一緒だというので、これは勉強になるだろうと行くことにした。他に職場の女性スタッフも一緒だった。桂輪さんの誕生日ということで、園田競馬の「プロ」氏がケーキなどを用意していて、競馬場の寒空の下で場違いなパーティが決行された。職場の後輩に慕われている桂輪さんの様子を、うらやましく(職場の仲間などというものが私には存在しないため)眺めていたが、本人は、競馬の予想もそっちのけでスマホで今日の競輪の結果が気になる様子だった。「プロ」氏のおすすめ馬を参考に、素人らしくワイド馬券などをちょこちょこ買う。すると、おすすめ馬が、本当に来る。さすがの予想だった。この流れなら内枠が有利だとか、この中ならこの逃げ馬がペースでいける、というような「基本中の基本」の話を簡単に教えてもらったが、何せ結果が出るので説得力があった。自身も10万を超える馬券を取って、先輩の誕生日イベントを盛り上げられて喜んでいる様子だった。


私も乗せてもらって、そこそこのあたり。そんなに買ってないが、4000円くらい浮いて自分としては十二分だった。ひとの予想に乗って当ったのに、今度は自分で買っても当てられるんじゃないか、とか勘違いしてしまいそうになるが、そんなことはないのである。公営ギャンブルは、25%も寺銭を取るから、統計的にその割合で負ける。だから自分としては、一万円使って、結果2500円負けたなら、まぁそんなものと捉えている。一日遊んで、3000円くらい使うなら許容範囲だろう、ということで。そして、たまにもう少し浮いたり損したりの波を楽しむ、ということだ。もっとも、これは「理屈」の話。ギャンブルが魔力を持っているのは事実で「100円の馬券で4000円儲かったってことは、1000円買えば4万だったんだな…」という思考にすぐに移行する。で、結局損をして、それを取り返そうとして…と悪循環になる。自分の場合は、貧乏が歯どめになっているので助かっているが、普通のサラリーマン並みの収入があったら、もう少しハマっているんじゃないかと思う。そもそも意志が弱い人間なので、依存症のリスクはとても高い。ということを忘れないでおきたい。

園田競馬場、以前は、地方競馬場らしい鄙びた雰囲気だったが、最近施設を改修したらしく、とても綺麗だった。競輪場とは段違いだな、と思った。やっぱ、馬という生き物が走っているのは、見た目にも魅力があるのは間違いない。たまに来てもいいな、と改めて思った。まぁ、浮いたから、だろうけど。厩舎を見学するバックヤードツアーもあるらしいので、今度はそれに参加してみたい。


実は、小学校の低学年まで、園田の近くに住んでいたので、ここに来ると、何となく懐かしい気持ちにもなるのだ。今の自分よりずっと若かった母ちゃんと、弁当を食べに来た公園(多分、何でもない日に、外でお昼食べようか、と散歩に来たのだと思う)が、駅のすぐ近くにあったりして。同じアパートに住んでいた同級生のお宅は、親戚が皆競馬関係だという話だった。期待されていたのに「悪さ」をしてクビになった若い子の話など、そのお宅から母ちゃんが聞いてきて受け売りで話してくれたりした。今になっても覚えているんだから、子ども心に印象に残ったのだろう。子どもの頃の自分には、難しい話だったはずだが。そのまま、この町に住み続けていたらどうなっていただろう。この辺りの普通のオッサンの1人として、園田競馬のファンになっていたかもしれない。

2019年1月19日土曜日

日帰りで名古屋(年末年始②)


 2日は、18きっぷで名古屋に行った。特に目的はなかった。とりあえず、到着したら名物を食べることにする。正月2日から、街が空いているかちょっと心配だったが、杞憂だった。元日はかなり休みも多いみたいだが、2日以降は、にぎやかな所は普段通り、というのが最近の傾向らしい。以前、学会か何かで来た時に寄った駅地下の食堂街に名物が多かった気がしたので、案内所で確認してそちらに向かう。ひつまぶし屋も並んでいた。3000円とか。そんな金は無いので、味噌カツの一択だった。有名店の矢場とんの支店に行くと、長蛇の列だったが40分くらいだというので並ぶ。なかなか効率的にさばいていて、ストレスは余りなかった。一番安い味噌カツを食うが、想定の3倍くらい美味くて驚く。普段、どれだけちゃんとしたもの食っていないか、ということかもしれない。あとからかけてくれる味噌ソース、それだけ買って帰りたいくらいだった。難波の松竹座近くにもあるらしいから、お金ができたらまた行こう。そこから、名古屋城をとりあえずの目標に歩いてみる。名駅の近くを離れると、さすがに正月の雰囲気で寂しい感じではあった。道をひとつ間違えて、かなり遠回りしてしまう。本当に地理感覚が弱くなっているのを感じる。40分くらい歩いて到着。入場料、500円もとるというので躊躇するも、折角だしと払うが、後から振り返ると入る必要はなかった。中の展示場の入場が90分待ちとか訳の分からない状態だったのだ。有料エリアは、大阪城公園の無料スペースと変わらないような感じで、こんな公園散歩するだけに500円もとるのか、とだまされたような気持ちになった。お城は、大阪城みたいなものだった。金は払わず、遠くからみるだけでよかったと思う。忍者ショーみたいな子供だましのイベントが始まった。クルッと回ったりするのかと思ってちょっと見たら、本当にちびっ子を集めて、客いじりをするだけの子供だましだった。地図を見て、名古屋の中心地、栄の方に向かう。セントラルパーク、テレビ塔、デパートなどを見る。見た、という感じ。街中はにぎやかであった。折角だから熱田神宮に寄ってみる計画だった。日のあるうちに行きたい、と連れ合いが言うが、大須観音にも寄りたかったので、そちら方面まで歩いた。この辺り、ちょっとバスか地下鉄に乗るべきだった。大須観音のあたりの浅草っぽさは悪くない。お正月らしいすごい人出だった。観音は、初詣の列がすごい長さになっていた。並んでまで拝む必要ないな、とスルーする。「正式な拝み方は云々」みたいなことを、神社本庁というクソ右翼団体が言い始めたからか、上から言われたことをすぐに信じる素直なみなさんがちんたら拝むようになって、どこも初詣は大変になっているときいた。アホちゃうか。この観音さま、なんて、寺か神社かよくわからない習合モノだから、余計に下らない。




そこから名駅まで歩く。これは、大変だった。自動車中心につくられている名古屋の殺風景な自動車道路を延々と歩くことになり、ヘトヘトになった。途中、小さな神社にも寄った。なんだかんだ文句を言っておきながら、とりあえず、神仏スポットを立ち寄り場所として選んでいるあたり、自分らもかなりスピッているのである。賽銭もいれないし、拝みもしないのだけど。名古屋駅で、高いパンをおやつ代わりに買って、JRで熱田まで。18きっぷを持っているので、できるだけJRを利用したかったから乗ったが、便利なのは名鉄の駅の方だ。神社の近くに来たら、もう日が暮れてしまっていた。神社は、もともと森とセットで作られている。古い神社になれば鎮守の森もなかなか古く、その雰囲気は確かによい。熱田神宮は、歴史があるだけにさすがの森だった。「ああ、もっと明るいうちに来たかった。こんなにちゃんとしているなら」と相方に文句を言われる。二日の夕方という中途半端な時間でも、相当な初詣客がいた。皆さん、信心深いことだ。



最近の夜店で面白かったのは、韓国フードの「ハットグ」がすごく沢山あったこと。中には、ハングルで「本場韓国の味」なんて打ち出していたりして、右傾化し参拝者が増えている状況と、神社にハングルというミスマッチとの対比がなかなか面白いなと思った。ぐるぐる回って、終わり。とりあえず、名古屋方面に戻り、同じ地下街で晩飯を食うことに。名古屋名物なんでも屋、みたいなところに入ったが、これは大失敗だった。1000円以上も出してきしめんと何かの定食を食べたが、中途半端なものだった。これなら、もう一回矢場とんを食ったら良かった。きしめんは、駅構内の店が美味そうだったのだが、すごい人であきらめたのだった。11時前くらいに、大阪に帰った。大阪と名古屋は近い。しかし、文化圏は全然違うのでたまに行ってみるとなかなか楽しいのだが、18きっぷ期間でなければ、そこそこ金もかかるから、わざわざ来ることはないのである。

ガラケーの万歩計を見たら2万歩以上歩いていた。そりゃヘトヘトになるはずだ。この日の疲れが、後にまで尾をひいて、結局、インフルエンザになって寝込むことつながった。気がする。翌3日は、家でダラダラしていた。年賀状いただいた方に、返事の代わりに電話をしてみたり。競輪関係でお世話になった方。いろいろ状況の変化があったそうで、いろいろ考える。翌、4日は、大学時代の友人と園田競馬に行く。また、改めて。

2019年1月18日金曜日

日帰りで静岡(年末年始①)

年末年始にちょこちょこと出かけた。例年12月30日に開催される競輪グランプリという、競輪界最高のレースが去年は静岡で実施された。グランプリは岸和田で行われた時に一度見たきりで、通常は関東地区ばかりなのでなかなかチャンスがなかった。ツイッターでファンの方が、大阪から18きっぷで行くというのを知り、日帰りできるなら行ってみようということになった。大阪梅田の駅前ビル地下にチケット屋街があり、そこでちょっと安く購入した。ただ、冬の18きっぷは1月10日までしか有効期間がない。使いたいのはこの一回だけで、残りは売るつもりだったが、うまく売れるか心配で躊躇したが、なんとかなるだろうと買うことにしたのだった。結局、ヤフオクでも高い値段で売れそうもなく、残りは同居人とどこかに行くことになった。

30日、気合いを入れるなら5時位に出発するところだが、8時位の遅い出発となった。お目当てのグランプリは、午後4時半くらいで、その一本さえ見られたらいいやというくらいの気持ちだった。何冊か持って行った本を読んでいるうちに、すぐに滋賀県あたりに。近江富士が見えると、昔やっていた「びわこボート」のCMを思い出す。蛭子さんが出てるやつで、他の客が「近江富士が見えるから2-4」と喋っているのを聞いて、「富士で2-4か…」とつぶやき「ほんとに、来たよ。だからやめられないびわ湖ボート」と言う、というローカルなコマーシャルだ。近江八幡あたりから、雪景色だった。この冬、大阪ではパラパラと降るのを見ただけだったので、ちょっと離れるだけでこんなに違うんだなと思った。びわ湖の向こうに見える比良山なども綺麗に雪をかぶっていた。米原で乗り換え。18きっぷシーズンらしく、ほとんどの乗客が大垣方面に乗り換えの様子だった。他の人にあわせて少し走り気味で跨線橋を渡ると、駅員がメガホンをもって「走らないでください」とアナウンスしていた。ここ、そんな雰囲気だったな、と思い出す。浜松までは、新快速で座席もすわり心地がよいが、以東は、ロングシートの各駅停車になる。東京方面に行くときの、最大の難所だ。ただ、今回は静岡までなので、それほど苦痛ではなかった。何せ、一年前には、福島県のいわき平まで18きっぷで行っているんだから、それにくらべたら屁みたいなものだ。ただ、今日、帰るんだなと思うとちょっとうんざりはしたが。14時半くらいについて、駅から競輪場行きのファンバスに乗った。観光バスをチャーターしたもので、満員だった。補助席に座り、テレビにうつる昨日のレースを見る。静岡駅、下車するのは初めてだった。泊まりが出来るなら、市街地を散歩したりしたいところだが、今日は競輪場に行くだけだ。競輪場に到着すると、すごい人だった。2万人を越える観客だったという。競馬なら10万とかざらだから、2万なんて大した数じゃないが、普段閑古鳥が鳴いている関西の競輪場を見慣れている身からすると、「こんなに競輪ファンって存在しているのか!」と心から驚くくらいの衝撃的な風景だ。あとから聞くと、静岡は、競馬や競艇など他のライバル公営ギャンブルがないという事情もあるそう。施設も綺麗で、子ども連れや、若い男女の姿も見かけ、まるで「普通のレジャー施設」のようであった。昼飯を食べそこなっていたので、何かを食べようと思うも、食堂はどこも長蛇の列だった。比較的列が短かった富士宮焼きそばの屋台に並ぶ。期待せずに食べたが、なかなか美味くてこれも驚いた。



twitterで知り合った競輪ファンのOさんに挨拶しようと持って行ったタブレットで連絡を試みる。ゴール前で拙著を手に持って応援している、と返事が来て、探し出して初めてのご挨拶。ホントに手に持ってらして、うれしくも恥ずかしい。何回も読み返しているんですよ、と言ってくださる。この2万人の観客のうち、10人に1人買ってくれたら、増刷するんだけどなぁと思いつつも、これだけファンがいるならもう少し広報活動しなければなと考えたりする。場内で、女子競輪の取材以来、何度もお話をしている石井寛子ファンのIさんとも遭遇。近況をうかがったりする。グランプリ前の、前座試合決勝戦とグランプリと車券を買うも、全然当らなかった。穴目で期待した、平原選手は、村上選手と接触して落車する始末。まぁ、しゃあないかと帰ることに。Oさんどうするのかなと探すも、客がごった返して接触できなかった。6時過ぎに静岡を出発しないと、今日中に帰りつけない。あんまりのんびりできないぞ、と帰ろうとするも、駅前での無料バス乗り場は長蛇の列で、いつまでかかるか分からない。それならば、と歩いて帰ってみることにする。最初は、隣の東静岡駅をめざすつもりだった。警備の女性に聞いたら歩ける距離のようだったから。フリーワイファイがなければ何の役にもたたないタブレットがあるだけで、ガラケーしかないので、歩いている途中でこれで大丈夫なのか不安になってきた。簡単に地図をプリントアウトして持ってきてはいたのだけど、暗くなってくるし、寒いし、もしかして歩くなんて無謀なのかもしれないと。何度かバス停をみかけてバスに乗ろうかと考えるも、それが駅に向かうのかもよく分からず、だんだん泣きたくなってきた。タクシーに乗ったりしたら、旅費をケチってきているのが台無しになるから絶対さけたかった。若い時、方向音痴だという人が信じられなかった。大体、地図で方向を見定めたら、何となく道や街並みの雰囲気でたどりつける自信があったが、最近その勘がめちゃくちゃ崩れてきて、道に迷うことも増えてきた。これも、老化なのだろうか。そうこうしているうちに、標識も現れてきて、方向は間違っていないことがわかり安心する。だいたい40分くらい歩いて到着する。電車の中で食べるつもりで、小さい弁当と、若干のお土産を買って、予定の電車に乗る。駅で20分くらいはうろうろする余裕があった。普段飲まないのだが、疲れと、解放感で、缶ハイボールも一本買った。しかし、ここから乗る電車は、ロングシートの通勤用で、弁当が食べられたりするような雰囲気ではなく、浜松あたりまで我慢する。浜松で乗り換えると、大阪に帰るOさん一行と遭遇した。やはり同じ便だったよう。いつも一緒に競輪遠征に行かれる方と、競輪には関心がない鉄道マニアの職場の後輩の方と3人で来られたそう。ツイッターでいつも万車券を当てているOさんに、車券術を伝授してもらったり、競輪や、その他、いろんなマニアックなハウツーについて聞いている間に、あっという間に京都までたどりついた。最寄り駅からは車だというOさんの横で、ひとりハイボールと弁当をかっ込んで簡単な晩飯にした。12時前には家にたどりついた。

大晦日は、親戚がちょっと来るからと実家に顔を出す。父が要介護になってから、酒を飲んだり、おせちを食べたりできなくなったので、実家の方の正月はただデイサービスが休みというだけの期間になってしまっている。遠路親戚に来てもらっても、お茶飲んでちょっと話すだけしかできないが、ちょっとした非日常にはなってありがたかった。家に戻り、twiceが出ているところだけ、紅白を見て、後はただパソコンを眺めて普段通り、日が変わったくらいには寝た。

年明け。今年は年賀状を一枚も出さなかった。起きて、納豆とキャベツという毎日食べている糖尿病予防食を食べ、パソコンでツイッターを眺める。ネット動画で、何かお笑い番組を見たかもしれない。正解は一年後、とか。

2日。18きっぷの残り、一応ヤフオクに出していたが全然つかない。それなら使うことにしようと、相方と出かけることにした。18きっぷ旅行としては、10年以上前に、山陰線ルートで、餘部鉄橋を見に行く、というのと、香川にうどんを食いに行く、というのをやっている。また一年位前に、明石、姫路、倉敷、というのをやった。これはなかなか良かった。今回は、名古屋に行ってみることにした。自分は何度か行ったことがあるが、相方はないというので。結局、2万歩以上歩きまわるかなりの行程になった。長くなったので、続きは、またあらためて。