2011年12月7日水曜日

道頓堀の回転寿司で観光気分を味わう

 道頓堀の回転寿司に一人で行くのが最近のちょっとした楽しみ。外国人向けの大阪ガイドブックに必ず載っているようで、いつ行っても半分以上の客が、韓国や中国からの観光客のようだ。キョロキョロしながら、お茶の入れ方を模索していたり、カメラで寿司が流れているのを撮ったりしているのを見ていると、自分も観光しているような気分になって楽しい。

この前は、韓国のドラマに出てくるようなキレイなお姉さんの二人連れが来ていた。スマートフォンで、寿司と自分を一緒に撮ったりして楽しんでいた。韓国語のパネルメニューがあるので、指さしで注文できる。カニカママヨ軍艦を頼んだ。美味かったららしく、立て続けに3つくらい注文していた。カウンター内のおっさん店員は「はいよっ」と威勢よく言ったあと、空中に向かって「カニカマでっせ~。カニちゃいまっせ~。」とつぶやいていた。ホンマのカニと勘違いしているんじゃないかと可笑しかったが、案外ちゃんとわかっているんじゃないかな。ふつうにカニカマってうまいもんな。

最近、韓国語をかじっているので、韓国人旅行者に話しかけてみたくて仕方がない。もちろん、にぎやかな繁華街で、片言の韓国語で話しかけるおっさんなんて、どう考えても怪しすぎるから、ちらちら眺めているだけで終わるが。韓国に行ったとき、変なおっさんが近づいてきて「日本人ですかぁ~。ヨンサマ最高ねぇ。韓国、カン・ホドン、ナンバーワンね。」と話しかけられたことがあるが、あのおっさんも同じ心境だったのだろう。ただ、日本語で話してみたかっただけなのだ。(僕が今話せる韓国語も「韓国人ですかぁ~。カラ最高ねぇ。」くらいなものなので。)

寿司を握っているのは、大体、中年以上の日本男性のよう。雰囲気は職人っぽい。で、レジや注文の担当は、ほとんどが中国人の若者たち。留学生のバイトだろうか。通訳にもなっていいのだろう。注文が途切れた時、職人風店員が、中国人のバイトの子に正月の話をしていた。「わし、もう、おせちとかヤメいうてんねん。あれ、何日も続くとあきるやろ。昔と違って、正月も今は店あいてるからな。意味がないようなってるねん。」と、おそらく、全国中で100万回は繰り返されてるであろう、よくある「最近の正月雑感」話をしていた。が、相手が中国の人なのが、何か可笑しかった。

「中国はどうなん?」と国際的な雑談が続いていた。バイトの子がちょこちょこ応答したあと、「やっぱり中国は広いからなぁ。国をまとめるの難しいわな。せやから、一人っ子政策とかせなあかんねやなぁ。」というような、これもまた、よくある国家論に続いていった。

東京ではおそらく20年くらいは前から、京都ではもちろん別の意味でずっと前から見られるようになったであろう、こういう変化の波。大阪では、ここ10年くらいで起こったような気がする。今でも、大阪は、京都や奈良旅行の際の、関空との間にある単なる通過点ではあるが、観光スポットとして道頓堀のあたりも少し人気を集めてきているような。

外国人が多い場所にいると、何とも風通しのいい気分になる。ミナミなんて、昔から雑多な人が集う盛り場だったはずだが、今の景色から思うと信じられないくらい単色だったのではないか。原発事故の後、観光客が激減し、ミナミでもあまり見かけなくなった時期があるが、その時は、何とかまた戻ってきてもらえないか、と大阪観光協会の人みたいな気持ちにもなった。最近、少し戻ってきて、うれしい。

2011年11月22日火曜日

路傍の猫

 『ドラえもん』の道具にあった「石ころ帽子」はとても印象に残っている。被ると、路傍の石のように、人の目に入らなくなる、という秘密道具。透明人間になるのではない、見えるはずなのに見えなくなる、という仕掛けが、子供心に恐ろしいと思ったのだった。

石ころ的な意味で、見える人には見えるけど、見えない人には見えないものって結構ある。猫もそうかも。大学のキャンパスに住み着いた猫。阪大では、待兼山にちなんで、マチカネコと言っている。猫好きの学生は、ニコニコと眺めているが、9割9分の学生は、見えてない様子。「そういえば猫多いですね」と、そういう話になれば言うくらい。近所の猫好きのおじさん(この人ももちろん見えていない人には見えない)が、ほぼ毎日、餌をやりに来ている。餌代も馬鹿にならないはずだ。自費で去勢手術までやってらっしゃる。頭が下がる。そして、そういう面倒を見る人がいるため、捨てに来るアホも後を絶たないのだろう。猫の数は増えている。

野良猫が住み着けるキャンパスって、人間的でいいな、と思うのだけど、公共の環境を損なうとかなんとかいうようなやつも、それで事務に文句を言いに行く学生なんかもあらわれてしまうかもしれない。





あまりにかわいすぎて写真を撮る。右耳、ちょっとカットされている。去勢されている印だろう。キャンパスの猫たちに幸多かれ。

2011年11月15日火曜日

「野党」の残骸



 近鉄河内小阪駅近くのガード下に捨てられていた、昔の社会党のタテカン。旧社会党の大物が選挙応援に来たときの。

「社会党の勝利で国政の革新」
「政治の流れをかえよう」

 字体の雰囲気などもちょっと味わい深い。ずっとほっておかれている感じも。

 すぐ横には、今の大阪市長選挙の「維新の会」のポスターもあった。

 確かに、政治の「流れは」変わったなぁ。この頃とくらべて。
 で、流れって、なんでしょね。

2011年11月8日火曜日

プロレスオタク誕生と終わり:雑考

 関西大学のプロレス研究会(KWA)が実質的に活動中止になった。学生時代このクラブに入り、バカで素敵な友達に出会え、面白い時間を過ごすことができた。思い出の場所がなくなってしまうのはさみしいが、時代の趨勢だろう。

 ただ端っこで参加していただけだし、偉そうに何か言えるような立場ではないのだけど、もう「終わる」っていうなら、覚えていることを記録として書いておいてもいいかなという気にもなってくる。
(ちなみに、プロレス研究会は、プロレスを「研究」する会ではありません。学祭にプロレスごっこ[学生プロレス]をするサークルです。全国どこもだいたいそう。)

 思い出話はまたということにして、プロ研の「歴史」を、この間のサブカル、大衆文化情況の歴史として考えたとき気づいたことを、ちょっとメモしておきたい。

 わがプロ研は、30年目を迎える直前に、その歴史を終わることになりそうだ。私が、大学に入ったのは、平成元年=1989年。当時、プロ研は創立十周年を迎えるくらいで、記念イベントの計画で盛り上がっていた。会長だったKさんの企画で「東京遠征」なんてこともやったりした。原宿のホコ天に行って、興行をするだけだが、皆で車に分乗して出かけていったのは楽しい思い出だ。早稲田や、立命館など大きな私大にはだいたいプロ研があって、どこも学祭の花形みたいになっていた。バブルがはじける直前の時期だった。

 学生のプロレスごっこにお金を出してくれる企業(バカな大人たち)も結構いた。後楽園ホールで、学生プロレスの全国大会なんてイベントもあった。うちだけでなく、たぶん、全国的に学生プロレスの全盛期だったはずだ。

 では、当時のプロレスは、日本社会の中でどんな位置をしめていたか。プロレスの全盛期は、言うまでもなく、力道山時代だ。敗戦後の社会の中でテレビという新しいメディアにぴったりのコンテンツとして爆発的人気を博した後、緩やかに下降線をたどっていく。プロレス人気を、ファン数というデータだけで言えば、そんな感じになるだろう。

 ただ、猪木や馬場のようなスターも排出し、梶原一騎のような才能や、あるいは、いろんなメディア戦略によって、「国民的人気スポーツ」の地位を失いながらも、マニア向けのポピュラーカルチャーとして独自のファン世界を作ってきたのがプロレスだった。

 80年代の終わりには、プロレス中継はゴールデンタイムを離れた。一方で、月刊『プロレス』は、83年に週刊誌となり、以降、『週刊ゴング』『週刊ファイト』と、ジャンルの専門週刊雑誌が3つも出るほどの、活字プロレスの時代がやってきた。

 90年代の初頭は、プロレスオタクが一番多かった時代ではないかと思う。同級生は誰でも、長州力や藤波辰巳、ジャンボ鶴田、スタン・ハンセンなどの名前を知っていた。女子だって、名前くらいはみんな知っていた。それくらい、メジャーだったのだ。だけど、大人になっても見ている人は、それほどいなかった。プロレスは、「昔よう見たわ」というジャンルだった。子供の頃、熱中して、大人になったら卒業する。そういうコースだったのだが、この頃、卒業できない大人=オタク的な人たちがあらわれはじめた。プロレスがゴールデンタイムから外れ、サブカルチャー化していったことが逆に、そういうファンを生んだのだと思う。

 相撲を「取る」。野球を「する」。なのに、プロレスは、プロレスごっこをする、になる。私などは、今考えると相当アホだったのだけど、高校時代くらいまでプロレスを真剣勝負と思ってみていたのだが、それでも、プロレスは「ごっこ」を付けるジャンルだということは分かっていた。子供同士で、相撲を取るように、プロレスはできないと。このあたり、突き詰めて考えていなかったのだが、あえて言えば、プロレスラーは「超人」だと思っていたのだろう。

 人気のあったころのプロレスは、やはり、超人たち、異人たちの戦いという見世物だったと思う。ものすごくデカい、あるいは見るからに恐ろしい、圧倒的な存在同士がぶつかるという。
全共闘世代は、右手に『朝日ジャーナル』左手に『週刊マガジン』と言われた。70年頃の、マンガを読む大学生の登場から、10年くらいで、プロレスごっこをやる大学生がちょっとだけ各地の大学に登場したのだろう。学生の幼児化のあらわれ、ではあるだろうけど、プロレスに対する畏怖の念が薄れた結果、ともいえるかもしれない。

 先日、OB会があって、そこで気づいたのは、今や50歳くらいになる創設者世代の人たちは、オタクというよりも、マニアっぽいイメージなのだ。オタクっぽいのは、45歳くらいから下、私の世代くらいまで。オタクとマニアの違いは、何かうまく説明できる言葉が見つからないのだけど、なんとなく、肌感覚で違うのだ(※)。で、35歳くらいから下の後輩たちは、何と言うか、「リア充」っぽいものも多くなっている。学祭で、面白い馬鹿なことがやれる、明るい人たちというノリで、彼女なんかも普通にいるような。僕らの時は少数派だったけど。

 10年くらい前から、週に一回、関大で非常勤の授業をするようになり、学祭の時期なんかに、「実は学生時代にプロ研に入ってました」というのを、ネタとしてしゃべったりしてきた。へーっという反応が最初の頃はあったのだけど、徐々に、何の反応もなくなっていった。今は、オタクのイメージすらないだろうな。仕方ないとはいえ、やっぱりさみしい。

(※)ただ、好きなものに熱中しているのがマニア。そのため、仕事や家庭や恋愛やなどに割くべきとされるエネルギーが小さくなってしまう。ただ、好きなだけ、というイメージ。オタクは、もっと自意識の病っぽいところがあって、好きなものに熱中している自分を、社会は、異性は、どう見てるのか、ということを過剰に意識して、あらかじめ防衛している、とか、そんなイメージかなぁ。ベタなステレオタイプで、すごく古い感覚かもしれないけど。

 そういえば、私が関大生だったころには、新左翼の解放派がちょっとだけ活動しにきていた。2人くらいかな。何するかというと、入学ガイダンスで、ちょっとアジ演説するくらい。関大生ではなく、明治大学からきていると噂だった。関学には、そんな左翼なんて来ないのに、関大はこんなのが来るからダサいって言われるんだ、なんて文句いっている学生もいた。私なんかは、そういうヘルメット姿をみたら、まるで「大学みたいだなぁ」とテンションがあがったが、数年後、そういう影さえなくなった。今は、タテカンなどまったくない、「クリーン」な大学になっている。
 関係ない話だけど、ちょっと関係あるかな。

2011年11月2日水曜日

「やっと忘れた歌を突然聴」いても・・

 最近、過去のことが懐かしくなくなってきた。これも老化の一種かしらん。

 この前のこと。近くの研究室で働いている女性が高校の同窓生であることを知った。通学時期も重なっていた。文化祭の花形、軽音楽部だったそう。顧問の先生は、私の2年次の担任だった。
 この社会科教師には、私もとても影響を受けた。授業時に副教材としていろんな文章を配ってくれた。その中には、見田宗介のものもあって、私が最初に触れた社会学的なテキストだったかもしれない。諸星大二郎のマンガも貸してもらったりした。まだ、借りっぱなしかも。

 こうこうこんな先生でしたね。先生とはこんな話もしましたよ。そういえば、あの校舎は、こんな風でしたね。文化祭は、こうこうでしたね。
 ひとしきり高校話で盛り上がった。

 彼女は、高校時代が本当に楽しい時期だったそう。
 で、私は、と聞かれると、どうも答えにくい。それほど嫌な思い出があるわけではないけど、楽しかった~、ということもない。少なくとも、戻りたいとは思わないな。同窓会があっても行かないだろうし。

 これは、まぁ、私がイケてない高校時代を送っていたってだけかもしれない。でも、少し前だったら、こんな思い出話をしていると、懐かしい、という気分になったような気がするのだが、それが全くないのだ。こんなことがあった、ああだった、という事実は覚えているのだけど、どうも、実感が伴わない。まるで本で知った知識みたいな記憶になってしまっている。

 そんなものなのかな。30くらいから、物覚えは悪くなり、記憶を呼び起こす機能も明らかに鈍化するようになった。それは、どうもみんな似たようなものらしい。が、最近のことは覚えられなくても、若い時の記憶は鮮明に覚えている、というようなイメージが、一般的な「老化」にはあったけど、そうでもないのかも。

* * *

 ちなみに、「サランヘヨ・ハングンマル」のブログによれば、韓国には、「懐かしい」という表現がない、らしい。「懐メロ」は、単に「古い歌」だ、というのだが、本当かしらん。http://t.co/wcf6jRmO (「恨」というのは、あくまでも、未来志向の感情なのだ。過去をどう内面で処理するか、その方向の違いだというのが、ブログの説明。)

 韓国の歌番組、アイドルが出てくるようなのは新しいのを見尽くしたので、最近は、演歌番組とか、のど自慢とかも見たりしているのだけど、結構「懐かしの」って感じの特集、たとえば民主化運動時代(たぶん)のフォーク特集、みたいな感じのものをやっていて、懐かしそうに歌っているように見えるけどなぁ。(今度、留学生に聞いてみよう。)

 このブログの記事を読んで、最近、韓流にハマっているから、その影響で、過去が懐かしくなくなったのかな、とちょっと思ったが、関係なさそう。
 大分前から、こんな感じだし、内なる「恨」もか弱いものだし。

2011年11月1日火曜日

プロレス研究会

 所属していた関西大学プロレス研究会が部員不足のため解散の危機だという。7月に、現在関わっているプロジェクトでライターの斎藤文彦さんのセミナーを企画した時、非常勤の授業に行ったついでにボックスを探してチラシを置きにいったのだけど、誰もいない様子で、その後何の反応もなかった。そろそろ危ないのかなと思ってはいた。

 毎年、今頃の学祭の時期になるといろいろ思い出したりしたのでさみしいけど。まぁ、これだけプロレスが下火なら仕方がないか。

(社)現代風俗研究会の年報『現代風俗・プロレス文化』 に、「90年代のプロレス」というエッセーを載せてもらった。プロレスは急激に枯れたジャンルになったというようなことを最後に書いたのだけど、この原稿ではまだプロレス研究会の現在の興行の様子に触れていたのだった。

 今週末、OB会があるというので行ってみることに。終わるなら終わるでそれも清々しい気もしないでもない。

 最近の関大の学祭は、3つくらいの団体が別々に吉本芸人によるライブショーを開催している。そんなにプロに任せる必要ないだろうと思うけどねぇ。プロがみたけりゃ、NGKに行けばいいんだし。それに、どうせ呼ぶなら、人力舎とかも呼べばいいのに。まぁ、どこもこんな感じなので、仕方がないかな。

2011年10月25日火曜日

大阪の一番熱い日

日曜日。ツイッターで、KARAが大阪に来るという情報が流れた。ソウルの空港から出国したという記事が、昼前にはすでに韓国のニュースサイトに出ていた。

ツイッターや2chのウワサでは、新世界でロケをするとのことだった。その後、よしもと新喜劇にも出るという情報も。

ソースもないし、本当かなと思いつつも、わざわざソウルまで見に行ったKARAが、大阪に、目と鼻の先に来ているのだと考えると、なんとなくソワソワしてくる。

でも、そんな不確かな情報で、新世界まで行って追っかけるのもなぁ、と思って、家で洗濯などしていると、昼ごろには、「新世界にカラ登場」というツイッター情報が流れた。「目の前を通った、チョーかわいかった」みたいな。

ああ、行けばよかった。なんでもたもたしてたのだ。激しく後悔の念にとらわれた。
行って、見て、それで、何になるのかって話だが、そして、バカバカしいのは分かっているのだが、とにかく、見たくて仕方がないのだ。

時間は二時を回っていた。新世界なら、串カツ屋のロケなどだろう。2時間くらい撮ったら、すぐ移動だろう。新世界まで、40分くらいで行けるが、もう間に合わない。
でも、家にじっとしていられない。

新喜劇に出る、というあやふやな情報をもとに、とりあえず、ミナミまで行ってみることにした。
運がよければ見られるかもしれないし、まぁ、ダメなら本屋でもよって帰ってこよう、と。

なんばグランド花月の周辺に到着。しかし、普段の日曜のこのあたりと変わらない。超若手芸人たちが、劇場前にたむろするお笑いファンの女の子たちに、ライブのチケットを売ろうとしている姿を見かける。たこ焼きを頬張る観光客もちらほら。

もし、本当に、新喜劇に出るとしたら、3回興行の三回目かなと思いダメもとで劇場に入ってみるかと思ったが、チケットは完売だった。もちろん、「特別ゲストKARA」というような表示は全くなかった。
ちらっとジュンク堂を見て、劇場のまわりをウロチョロする。


松竹座のまわりにも行ってみる。KARAのリーダー・ギュリが現在出演しているミュージカルをやっている。法善寺横丁とかも。グリコのマークのところとかも。KARAには出会えず。まるむし商店の磯部っちが歩いているのを見たくらい。うーん、違いすぎる。


 (戎橋に来ると、大阪に来たって感じがする、のだろうな。路上アイドルがパフォーマンスをやっていた。)


(水かけ不動。最近、カワイイ野良猫が住み着いています。)
折角だからところどころで写真を撮ったりしながら。大阪観光ごっこ。仕方がないのであきらめて、大阪城公園に行ってみることにする。

この日は、「ワンコリアフェスティバル」が開催されているのだ。
これは、大阪の在日コリアンの人たちのイベントで、南北の分断を乗り越えて、という意味を込めた祭りだ。屋台とかも出るみたいだし、韓国の雰囲気を味わいたいなと思って、行ってみた。
在日のオトモダチSさんに行かないかって誘ったのだが、前に行ってあんまりおもろなかったから、行きたないわ、と言われたのだった。

道頓堀から、大阪城へ。まさに、大阪観光のベタベタコースだ。

大阪城公園に来るなんて、10年以上ぶりだなと思いながら、森ノ宮駅から公園内を歩く。
野外音楽堂が大変な盛り上がりだった。こっちは、琉球フェスティバルだった。同じ日に、在阪マイノリティの集まりが、近くで行われているのね。
しばらく行くと、かなりの大きさの広場に到着。韓国料理や物産の屋台が取り囲み、正面に舞台が組まれている。

舞台の上では、なぜか、山本太郎が登場して、脱原発を訴えていた。
(舞台上の山本太郎。右は朴保。)
前日の土曜、よみうりテレビでは久しぶりに『ミナミの帝王』の再放送をやっていた。山本も出ていた。山城新吾も元気に登場していた回だったので、だいぶ昔のものなのだな、と思ったものだった。

私も、原発はなくしたほうがいいと思っているし、テレビタレントもどんどん自分の意見を言えばいいし、そういう意味で山本太郎には頑張ってほしい、のだが、妙な「シンボル」みたいにさせられている姿は、少し見てられないような気分にも襲われた。

とか、なんとか、いうよりも、「ワンコリア」とぜんぜん関係ないがな。

このイベントが、相当な苦労の歴史の中で作られたものだということは分かるし、イベントを担ってきた人たちが反体制的な立ち位置になるのは必然的だということも分かる。
で、みな、反橋下だろうし、反ネオリベラリズムだろう。
で、反石原であり、反ブッシュ。
ということは、反格差社会に違いない。ってことは、当然、反原発なのだろう。

とはいえ、なんだかなぁ。
ここでの山本太郎は、とってつけたような、リベラルっぽさ演出にしか見えないものだった。

もう最後の時間なので、トリのパクポーのライブが始まった。パクポーは、在日のアングラミュージシャン。
何年か前に、東京でのイベントで初めて見たときには、メジャーでないところで地道に活躍している姿に感動を覚えたし、十三の映画館に来たときにはお金を払って見に行ったりもしたのだが、何だか、この日は白けた気分になってしまった。

広島、というタイトルの歌。ただただストレートな、反核のメッセージ。広島、長崎、チェルノブイリ、フクシマ、などとキーワードを並列で叫びあげる、というような。ストレートなものは、伝わるときには伝わるけど・・。

芸人マキタ・スポーツのネタで、「歌がうまい歌」というのがある。ミュージシャンって人たちは、結局、「俺は歌がうまい」っていうのを言いたいだけなのよ、というパロディネタ。この日のパクポーは、歌声は、そんな感じに聞こえてしまった。もちろん、受け手の心理の問題ではあるだろうけど。なんてったって、こちとら、韓流アイドルの追っかけのついでに立ち寄ってるのだからな。

天気が悪かったのもあって、イベントの参加者自体少なかった、300人くらいはいたかどうか。町内会に動員をかけられる区民祭りくらいの規模かな。
パクポーのライブを聞きながら、周りの様子を見る。おそらく、何年か前のこのイベントにはなかったであろう屋台として、韓流グッズを売るテントがあった。
テレビ大阪でやっていた『恋するコリア』に出いてた、美女の方も来ていた。

(記念撮影に応じる、ミュージシャンのSORAさん。)
そして、新大久保発の韓流(?)男性グループも来ていた。
聞いたことがないグループだったが、それなりに、カッコいい雰囲気で、参加者のうち若い女の子などが写真やサインを求めて人だかりになっていた。

(プログラムによれば「SEED」というグループらしい。日本発の韓流グループって・・。)
隣のステージでは、パクポーが反核のメッセージ。すぐ隣では、韓流(?)アイドル(もどき)。
主催者が、そのグループの人たちを、パクポーステージの前に行くように促していた。周りに集まった女子たちを、パクポーライブに巻き込むため。

パクポー氏は、ちょっと神がかったルックスをしている。
喜納昌吉のような、あるいは、ギリヤーク尼ケ崎的な。とういことは、ちょっと麻原的な。

そんなパクポーが、『イムジン河』を韓国語で歌いだした。まさに、魂で歌っている、という感じ。
その前で、金髪を撫で付けるスタイルでキレイに着飾った、韓流アイドルが手拍子をする。とてつもない違和感。まわりでは、目をつぶって聞いている人もいる。アイドルについてきた人たちは、なんとなくつき合いでステージを眺めている。遠くで、知り合いとマッコリを飲みながら、ぼんやりしている人たちもいる。

2番は、日本語だった。飛びゆく鳥よ、自由の使者よ。いつも『イムジン河』を聞くと、心が震えるような気分になる、のだ、けど、目の前の様子があまりにシュールすぎて、この歌さえ耳を通り抜けてしまったのだった。

先ほど、難波にいたとき、妹に電話をしていたのでコールバックがあった。難波が職場なので、飯でも食わないかと誘うつもりだったのだ。KARAに偶然出会う望みを捨てきれず、もう一度、ミナミへ戻ることにする。

パクポーの歌声が響きわたる中、地下鉄の駅へ。
フェスティバル会場のすぐ北には、大阪城ホールがある。

この日は、ホンモノの韓流スター、チャン・グンソクのコンサートなのだ。
当日の立見券を求める、長蛇の列。会場前の広場には、ひとひとひと。99.5%くらいは女性、という感じだった。年齢層は幅広い。ダフ屋も出ていた。

3年前、大学のイベントで朴一さんを呼んだ時、「韓流は在日を飛び越えている」という話をしていたが、しみじみとそれを思わせる落差だった。

ミナミで妹に合流。普段あまり会わないので仕事のことなどをきく。
何でミナミに来てるのと聞かれ、「いゃぁ、KARAがね、ちょっとね、あれでね」というような話をする。

「KARAとか好きなん?意外やなぁ。そう言えば、今日、新喜劇出るねんで」と言う妹。
「えーっ!??それ、やっぱりホンマやったんや!」と前のめりに答える私。

二日ほど前、職場のファックスに連絡があったらしい。彼女は、今、広い意味でよしもと関係者なのだ。公にはしていないけど、関係者には当然告知があったのね。

「兄ちゃん、もしかして、行きたかった?言ってくれたら入れたのに。」
う、、、、。惜しいところで、「カンケーシャ」の家族の特権を行使できなかったのだった。

「じゃぁ、今度来たら、連絡したげるわ。」
あ、ありがとう、よろしく、と答えつつ、あー、もう二度とKARAはNGKには来ないだろうな、大阪にも当分来ることもないだろう、本当に惜しい機会を逸したのだなぁという思いで、ガックリ来てしまったのだった。

こんな思いするくらいなら、いっそのこと韓国に移住したい。いつでも見に行けるとなると、すぐ、慣れて、醒めるだろうし。すぐどうでもよくなるに違いないから。

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2011年9月25日日曜日

夏休み日記(お笑い学校)


夏休みの思い出もう一つ。久しぶりに、Jさんが大阪に来た。文化人類学者で、大阪のお笑い文化をフィールドにしている。僕がまだ大学院の修士課程のころ、研究生としてフィールドワークに来たときに、彼のチューターをして以来の付き合いだ。大阪人だし、お笑い好きでしょう、ということで。15年以上の付きあいになる。今は、奥さんの実家である台湾で大学の先生をしている。彼が博士論文の取材でNSCに行っていた時、生徒だったのが、ブラマヨとかチュートリアルの徳井氏とかだったので、ほんとに当たりの時に行っていたのだが、その後の彼らの活躍をJさんは見ることがなく、あまりピンと来ていないようだった。で、十年以上ぶりに、NSCに行ってみようということで、僕もついていった。


 

一組二分ずつの「ネタ見せ」。終わったあと、先生が「どこが一番面白いと思ってんの」「もっとゆっくりしゃべれ」などとコメントをしていく。最後に、「44点」などと、点数をつける。先生曰く、70点くらいならM-1三回戦突破できる、というレベルなのだという。10年ぶりくらいに、NSCの講義を見たJさんは、全体の雰囲気や生徒たちが真面目になっていると驚いていた。お笑いの学校なのに、と。あいさつや先生への態度は、まさに体育会的なノリであった。「てっぺん」(島田紳介用語)に立てば、何億円も稼げる商売への入り口なんだもの、そりゃ真面目にもなるわ。熱心に先生の言うことをノートにとる学生さん。大学での講義では決して見られない風景かも。ただ、ここから本当に面白い芸人さんが生まれるような気がしないのは、どうしてなのだろう。
 


Jさんが泊まっていた、ホテル。新今宮の、かつての「ドヤ」を、バックパッカーなど向けに改築したもの。ネット環境も整って、シャワー付きで3000円は安い。彼が、大学院に来ていたころは、日本橋の電器店街のはずれにあった、風呂なしコーポに下宿していた。僕も何度も遊びに行った、懐かしい場所だが、何年か前に壊されて更地になっていた。

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2011年9月18日日曜日

最終日(2011・9・9)


9時半にソウル発のKTXに。立ち席券しかなく、連休前の帰郷ラッシュという話だったので、ギュウギュウ詰を覚悟したのだが、立ち席もそれほど出しているわけではないみたい。各デッキには、補助席が二つずつあって、それに座ることができた。昼前に釜山に。


釜山駅について、駅のフードコートで石焼ビビンパを食べる。ビビンパは食べてなかったのだ。駅の案内所で、空港行きのバスの時間を聞き、すぐに乗って釜山空港へ。こじんまりとした空港。帰国してからやらなければならないことを考え、気が重くてしかたがなかった。韓国にまた来たい。けど、ただうろつくだけというのもなぁ。何か用事を作って来るしかないのだけど。

釜山空港では、軍用機の離着陸練習を何度もやっていた。
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蚕室ロッテマートからソウル大学(2011・9・8-3)

競艇場から無料バスに乗る。同じ駅に帰るのも面白くないので、ロッテワールドなんかがある蚕室行に乗る。中途半端なレースで帰ったので、バスは僕一人の独占だった。かつては、競輪場もここにあったのだが、今は、光明というところに移っている。

  ロッテマート。一眼レフのカメラを持っている若者が本当に多いので、安いのかなと思ったら、日本より高いくらい。安い、韓日日韓電子辞書を買ってくるように、連れに言われていたので探すが、あんまり安くない。
 
 
大型スーパーは大賑わい。旧盆の連休に田舎に帰る人たちが故郷へのお土産を買い付けるので繁盛しているようだった。お土産に、お菓子と、自分用に「ダシダ」を購入。韓国の「ほんだし」みたいなメジャー調味料。韓国料理っぽいもの、は、いつも家で作っているが、これを入れると本格的に、なる、らしい。(cookpad情報)。

かえってダシダでわかめスープを作ったら、確かに、韓国の味になった。十三の李朝園(安い韓国料理屋)のオマケスープの味そのままだった。 
 
ロッテワールドという遊園地。ドラマとかバラエティのロケでよく使われえいる。ホントは入ってジェットコースター的なものに乗りたかった。子供の時以来乗ってないのだけど、絶叫マシーン、好きなのだ。が、遊園地は、一人で行けないよなぁ。
 
 
で、次にどこに行こうか。もう行く場所もない。ヘトヘトだし。とは言え、まぁ、最後の日なのだし、どこでもいいから行ったことないとこに行くことに。前日、Jさんに「どこがいい」と相談したとき、「ソウル大でも行ってみますか」と言っていたので、それもいいかな、と。
写真は、正門。ソウル大入口という地下鉄の駅からバスに乗って到着。地下鉄と違って、市バスは初心者にはハードルが高い。どこ行きか、とか、車体の脇にハングルで書いているだけなので、判別が難しいのだ。料金は、1000Wで、100円弱。
 
 
広大な敷地だった。行くあてもないので案内板を見て、文系の校舎のあたりまで散歩することにする。写真は、キャンパスにいた、カッチ(カササギ)。カッチは韓国のそこらじゅうにいる。可愛いデザインと鳥だ。よく見ると、標識が付けられている。理系の研究室で生態調査とかされてるのかな。 
 
グラウンドでは、女子サッカー部が練習中だった。 

 
三四郎池的な池と噴水があった。 
 
学費値上げ反対闘争などが大規模で行われているが、キャンパス内は、基本的に統制されている感じだった。政治色はあまりないように見えた。自治会の掲示板かな、これくらいが少し雰囲気がうかがわれる。
学食みたいなところに入って、日替わり定食を食べた。ソルロンタン的なスープとおかず。ごはんとキムチはお替りし放題。3000Wの格安。観光客はいるはずもなく、少々緊張した。日本の大学は、学食も高いなぁ、とあらためて。味は、まぁまぁだったけど、お替りできるから、貧乏な人も腹は満たせる。

生協の本やなどをちらっと覗いて、帰る。

基本的に、これで韓国の予定は終了。


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予想紙の写真

 
競艇場で買った、予想紙。300円くらいだったか。何冊も出ていて、「最高、人気ある、ください」と言って出してくれたものを買った。「競艇・マリンス」。マリンスポーツの意味かな。予想通り買っても、当然、当たらなかったけど。 
 
これは、無料の出走表。8ページもあって、ちゃんと綴じてある立派なもの。
下にあるのが、一レースの出走表。この日のレースは、進入固定だったみたい。コース別の勝率なども出ている。
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ミサリ競艇場へ








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次の日。地下鉄5号線、サンイルトン(上一洞)駅へ。競艇に行くため。公営ギャンブルをテーマにした研究者なので、一応。韓国は、競輪・競艇という日本起源の公営競技を、システムごと輸入して実施している、世界唯一の国なのだ。競輪場は三か所、競艇は一か所あり、国家のスポーツ事業団みたいなところが運営している。韓国語がもっと読めれば、もっといろいろ詳しく調べられるのに、恥ずかしながらほとんど分かっていない。競輪は、2月に見に行った。今回も、実は二日目は釜山の競輪場に行く予定だったのだが、よく調べると、開催していないようで、あきらめたのだった。金・土・日は開催のはずなのに、他の二か所はやっていたのに、釜山だけなぜやっていなかったのかは、よくわからない。で、今日は、日本国外唯一の競艇場・ミサリ競艇場へ。日本人の訪問記のブログなどを参照して、最寄駅に向かう。市場みたいなものもあったが、なんとなく殺風景な景色。場末というのとも違うが。そんな地下鉄の終着駅で、道行く人に、「ボート行き、バス、乗り場、どこ?」という片言で聞きながらバス乗り場を発見。乗り場と言っても、何の標識もなく、1人だけ予想紙を売っているおばさんがいて、周りにおっさんが集まっているだけの場所。しばらくすると、結構立派なリムジンバスがやってきて、流れに任せて乗り込む。20分くらいかな、走ると、大きな人口池が見えてきた。

競艇場は、作りは尼崎競艇に似ている、と誰かがブログに書いていたが、構造はそうかも。とにかく、ソウル市の郊外で、パーッと視界が広がる開放的な空間であった。大きな人口プールを区切って、選手の練習場、レース場、そして、漕艇競技などのための練習池に区分けされて使っているよう。韓国競艇は歴史が浅いので当然だが、施設もものすごくきれいで立派だった。瞑想室なんてのも用意されている。これは、競輪の見学に行ったとき、関係者に教えてもらったのだが、ギャンブルに熱くなった自分をクールダウンさせるためのメンタルヘルスのための装置なのだ。読書室なんて似つかわしくないものもあった。共に、使っている人がいたのが、また面白い。客層は、住之江競艇、尼崎競艇同様、中高年のおじさんが中心ではあるのだが、若い人、あるいは女性もちらほら見える。家族連れの姿も。

日本の公営ギャンブルファンに比べると、かなり上品に見えた。もちろん、ソウルの都心部で見る人たちに比べると、圧倒的にガラがわるいのだが。食堂もキレイ。ジャージャーメンを食べたが、外国人は全くいない雰囲気だったので、なんとなく、バレたくない気持ちになり、記念撮影はやめた。レースは、日本の競艇と、まったく同じ。競輪はちょっと違う。つき合いで二つくらいのレースを賭けてみる。1000円程度だが、情報もよくわからないし当たるはずもない。もっとも、日本でも競艇で勝つことはめったいないのだけど。平日水曜日の日中に関わらず、結構な人出だった。1万くらい入っているような。韓国には、カジノがあるけど、韓国人は入れないことになっているらしい。外国人と、在外同胞は入れる。パチンコは禁止。合法的なギャンブルは、競馬・競輪・競艇のみで、日程をそれで調整して設定しているので、ギャンブルファンの取り合いになっていないのが、活気の原因なのかも。一つのレースで大本命の選手が飛んで、大穴があいたみたい。そしたら、意味は分からないけど、そうとう酷い言葉らしい罵声を何人ものおっさんが浴びせていた。まぁ、日本の競輪場よりは、ましな感じはした。

ここにいる男性はみんな、あるいは昨日のカラオタクの彼も、誰も彼も、兵役に行ったか、あるいはこれから行くかするんだなぁ、と思うと、不思議な気持ちになる。ギャンブル場が、日本よりは、まだ、上品っぽいことの理由には、そういう社会統制の強さがあるのは確からしく思われる。うーん、どう評価したらいいのか。




村上なんとか張りの現代アートオブジェが。弁当を広げながら、予想紙をひろげるお母さん。


現在のソウルは、各所で、現代アート的な作品が見られる。デザインソウルとか、そういう政府主導の運動の一環か。


入口。2~3レースだけ見て、まぁ、いいやと帰ることにする。決勝は7時くらいのナイターでやるらしい。

大学路(テハンノ)へ

 
生KARAを見る、という、これ以上はないくらい「あー韓国来て良かった」経験をしてしまった以上、あとの日程は、もうオマケという気分になってしまった。イベント後、バンに乗り込み他の仕事へ向かうメンバーを見たあと、バンダナ君と、ギュリファンの女の子に、カムサハムニダと別れを告げ、地下鉄の駅に向かう。もう一人なので、一人で飯が食べられるところはどこかなとメモを見る。ネットで、「ソウル・1人・ご飯」みたいな検索をかけて、載っていたところを書いてあったのだ。折角だから、行ったことない街に行こうと、大学路(テハンノ)へ向かう。 
(写真は地下鉄の駅の、コ・ヒョンジョンの広告。)
 
地下鉄の主要駅には、大きなタッチパネル式のモニターがあって、daumの地図・航空写真が見ることができ、簡単な検索なんかもできる。IT、ネット環境などは、断然、韓国が便利。 
 
一人向けの定食もあるとの情報で、エハンノの食堂へ。しかし、食べたかった料理は、二人前からだった。味噌汁定食って感じのにする。美味かったが、汗かきのため、トウガラシ入りの味噌汁を飲みながら、大量の汗が。一人で飯食う時、一番困るのは汗だったりする。誰かいれば、突っ込んでもらったりして、単に汗かきにすぎないということを、なんとなく店員、他の客に伝えたりできるが、一人でももくもく食べながら、汗をダラダラ流していると、辛いのがつらいのか、しんどいのか、という風に見えてしまうので。辛いのが嫌いなのでも、つらいのでもない。暑いのでもない。ただ、汗が出てるだけ、なのに。
おかずはいくらでもお替り可能、とのことだった。 
 
韓国は、圧倒的に犬派が多い。猫へのまなざしは大変厳しい。近年、ちょっと変わってきたそうだが。野良猫も、大阪にくらべたら少ない。宿の近くで、一匹見たが、通りがかったおばあさんが「おらっ!!かーぅっ、けっ!!」というような?吐き捨てるような言葉を投げつけて、追い払っていた。しかし、テハンノでは、少し可愛がられている野良もみられた。食堂のおばさんが、「もご、もご!(さぁ、お食べ!)」と言って、何かあげていたし。若者の町には、猫好きも少し多いのかも。 
 
テハンノは小劇場の町。小屋のポスターが一堂に。芝居に興味はないけど、お笑いのライブくらい調べておいて見てもよかったかな、と今になって思うが、さっとまわって、宿へ帰る。 
 
韓国はクリスチャンが多いので、教会もそこらじゅうに。チョンノ3ガのあたりだったか。
このあたりで、韓国人の中年女性2人組に道を聞かれた。右手の手首に左手を添え胸のところにくんで、頭を下げる、という丁寧なあいさつで。「あー、すんません、イルボンです」とあわてて謝る。ソウル駅でも道を聞かれたし、すぐに日本人とばれないのは、ちょっとうれしい。10年前に香港に行ったときは、道をあるけば、日本語で「ニセモノドケー、アルヨ」と声をかけられて、そんなに日本丸出しなんだな、と恥ずかしかったので。カメラと地図を手放せば、そこそこばれずにすむような気もする。ただ、明洞みたいな日本人観光客が多いところでは、客引きの目が肥えているから、すぐばれるけど。僕自身も、日本人観光客は、すぐに識別できる。何をもって認識できているんだろうな。

コンビニで、マッコリかって宿に帰り、テレビを見て飲みながら寝る。
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