2011年11月22日火曜日

路傍の猫

 『ドラえもん』の道具にあった「石ころ帽子」はとても印象に残っている。被ると、路傍の石のように、人の目に入らなくなる、という秘密道具。透明人間になるのではない、見えるはずなのに見えなくなる、という仕掛けが、子供心に恐ろしいと思ったのだった。

石ころ的な意味で、見える人には見えるけど、見えない人には見えないものって結構ある。猫もそうかも。大学のキャンパスに住み着いた猫。阪大では、待兼山にちなんで、マチカネコと言っている。猫好きの学生は、ニコニコと眺めているが、9割9分の学生は、見えてない様子。「そういえば猫多いですね」と、そういう話になれば言うくらい。近所の猫好きのおじさん(この人ももちろん見えていない人には見えない)が、ほぼ毎日、餌をやりに来ている。餌代も馬鹿にならないはずだ。自費で去勢手術までやってらっしゃる。頭が下がる。そして、そういう面倒を見る人がいるため、捨てに来るアホも後を絶たないのだろう。猫の数は増えている。

野良猫が住み着けるキャンパスって、人間的でいいな、と思うのだけど、公共の環境を損なうとかなんとかいうようなやつも、それで事務に文句を言いに行く学生なんかもあらわれてしまうかもしれない。





あまりにかわいすぎて写真を撮る。右耳、ちょっとカットされている。去勢されている印だろう。キャンパスの猫たちに幸多かれ。

2011年11月15日火曜日

「野党」の残骸



 近鉄河内小阪駅近くのガード下に捨てられていた、昔の社会党のタテカン。旧社会党の大物が選挙応援に来たときの。

「社会党の勝利で国政の革新」
「政治の流れをかえよう」

 字体の雰囲気などもちょっと味わい深い。ずっとほっておかれている感じも。

 すぐ横には、今の大阪市長選挙の「維新の会」のポスターもあった。

 確かに、政治の「流れは」変わったなぁ。この頃とくらべて。
 で、流れって、なんでしょね。

2011年11月8日火曜日

プロレスオタク誕生と終わり:雑考

 関西大学のプロレス研究会(KWA)が実質的に活動中止になった。学生時代このクラブに入り、バカで素敵な友達に出会え、面白い時間を過ごすことができた。思い出の場所がなくなってしまうのはさみしいが、時代の趨勢だろう。

 ただ端っこで参加していただけだし、偉そうに何か言えるような立場ではないのだけど、もう「終わる」っていうなら、覚えていることを記録として書いておいてもいいかなという気にもなってくる。
(ちなみに、プロレス研究会は、プロレスを「研究」する会ではありません。学祭にプロレスごっこ[学生プロレス]をするサークルです。全国どこもだいたいそう。)

 思い出話はまたということにして、プロ研の「歴史」を、この間のサブカル、大衆文化情況の歴史として考えたとき気づいたことを、ちょっとメモしておきたい。

 わがプロ研は、30年目を迎える直前に、その歴史を終わることになりそうだ。私が、大学に入ったのは、平成元年=1989年。当時、プロ研は創立十周年を迎えるくらいで、記念イベントの計画で盛り上がっていた。会長だったKさんの企画で「東京遠征」なんてこともやったりした。原宿のホコ天に行って、興行をするだけだが、皆で車に分乗して出かけていったのは楽しい思い出だ。早稲田や、立命館など大きな私大にはだいたいプロ研があって、どこも学祭の花形みたいになっていた。バブルがはじける直前の時期だった。

 学生のプロレスごっこにお金を出してくれる企業(バカな大人たち)も結構いた。後楽園ホールで、学生プロレスの全国大会なんてイベントもあった。うちだけでなく、たぶん、全国的に学生プロレスの全盛期だったはずだ。

 では、当時のプロレスは、日本社会の中でどんな位置をしめていたか。プロレスの全盛期は、言うまでもなく、力道山時代だ。敗戦後の社会の中でテレビという新しいメディアにぴったりのコンテンツとして爆発的人気を博した後、緩やかに下降線をたどっていく。プロレス人気を、ファン数というデータだけで言えば、そんな感じになるだろう。

 ただ、猪木や馬場のようなスターも排出し、梶原一騎のような才能や、あるいは、いろんなメディア戦略によって、「国民的人気スポーツ」の地位を失いながらも、マニア向けのポピュラーカルチャーとして独自のファン世界を作ってきたのがプロレスだった。

 80年代の終わりには、プロレス中継はゴールデンタイムを離れた。一方で、月刊『プロレス』は、83年に週刊誌となり、以降、『週刊ゴング』『週刊ファイト』と、ジャンルの専門週刊雑誌が3つも出るほどの、活字プロレスの時代がやってきた。

 90年代の初頭は、プロレスオタクが一番多かった時代ではないかと思う。同級生は誰でも、長州力や藤波辰巳、ジャンボ鶴田、スタン・ハンセンなどの名前を知っていた。女子だって、名前くらいはみんな知っていた。それくらい、メジャーだったのだ。だけど、大人になっても見ている人は、それほどいなかった。プロレスは、「昔よう見たわ」というジャンルだった。子供の頃、熱中して、大人になったら卒業する。そういうコースだったのだが、この頃、卒業できない大人=オタク的な人たちがあらわれはじめた。プロレスがゴールデンタイムから外れ、サブカルチャー化していったことが逆に、そういうファンを生んだのだと思う。

 相撲を「取る」。野球を「する」。なのに、プロレスは、プロレスごっこをする、になる。私などは、今考えると相当アホだったのだけど、高校時代くらいまでプロレスを真剣勝負と思ってみていたのだが、それでも、プロレスは「ごっこ」を付けるジャンルだということは分かっていた。子供同士で、相撲を取るように、プロレスはできないと。このあたり、突き詰めて考えていなかったのだが、あえて言えば、プロレスラーは「超人」だと思っていたのだろう。

 人気のあったころのプロレスは、やはり、超人たち、異人たちの戦いという見世物だったと思う。ものすごくデカい、あるいは見るからに恐ろしい、圧倒的な存在同士がぶつかるという。
全共闘世代は、右手に『朝日ジャーナル』左手に『週刊マガジン』と言われた。70年頃の、マンガを読む大学生の登場から、10年くらいで、プロレスごっこをやる大学生がちょっとだけ各地の大学に登場したのだろう。学生の幼児化のあらわれ、ではあるだろうけど、プロレスに対する畏怖の念が薄れた結果、ともいえるかもしれない。

 先日、OB会があって、そこで気づいたのは、今や50歳くらいになる創設者世代の人たちは、オタクというよりも、マニアっぽいイメージなのだ。オタクっぽいのは、45歳くらいから下、私の世代くらいまで。オタクとマニアの違いは、何かうまく説明できる言葉が見つからないのだけど、なんとなく、肌感覚で違うのだ(※)。で、35歳くらいから下の後輩たちは、何と言うか、「リア充」っぽいものも多くなっている。学祭で、面白い馬鹿なことがやれる、明るい人たちというノリで、彼女なんかも普通にいるような。僕らの時は少数派だったけど。

 10年くらい前から、週に一回、関大で非常勤の授業をするようになり、学祭の時期なんかに、「実は学生時代にプロ研に入ってました」というのを、ネタとしてしゃべったりしてきた。へーっという反応が最初の頃はあったのだけど、徐々に、何の反応もなくなっていった。今は、オタクのイメージすらないだろうな。仕方ないとはいえ、やっぱりさみしい。

(※)ただ、好きなものに熱中しているのがマニア。そのため、仕事や家庭や恋愛やなどに割くべきとされるエネルギーが小さくなってしまう。ただ、好きなだけ、というイメージ。オタクは、もっと自意識の病っぽいところがあって、好きなものに熱中している自分を、社会は、異性は、どう見てるのか、ということを過剰に意識して、あらかじめ防衛している、とか、そんなイメージかなぁ。ベタなステレオタイプで、すごく古い感覚かもしれないけど。

 そういえば、私が関大生だったころには、新左翼の解放派がちょっとだけ活動しにきていた。2人くらいかな。何するかというと、入学ガイダンスで、ちょっとアジ演説するくらい。関大生ではなく、明治大学からきていると噂だった。関学には、そんな左翼なんて来ないのに、関大はこんなのが来るからダサいって言われるんだ、なんて文句いっている学生もいた。私なんかは、そういうヘルメット姿をみたら、まるで「大学みたいだなぁ」とテンションがあがったが、数年後、そういう影さえなくなった。今は、タテカンなどまったくない、「クリーン」な大学になっている。
 関係ない話だけど、ちょっと関係あるかな。

2011年11月2日水曜日

「やっと忘れた歌を突然聴」いても・・

 最近、過去のことが懐かしくなくなってきた。これも老化の一種かしらん。

 この前のこと。近くの研究室で働いている女性が高校の同窓生であることを知った。通学時期も重なっていた。文化祭の花形、軽音楽部だったそう。顧問の先生は、私の2年次の担任だった。
 この社会科教師には、私もとても影響を受けた。授業時に副教材としていろんな文章を配ってくれた。その中には、見田宗介のものもあって、私が最初に触れた社会学的なテキストだったかもしれない。諸星大二郎のマンガも貸してもらったりした。まだ、借りっぱなしかも。

 こうこうこんな先生でしたね。先生とはこんな話もしましたよ。そういえば、あの校舎は、こんな風でしたね。文化祭は、こうこうでしたね。
 ひとしきり高校話で盛り上がった。

 彼女は、高校時代が本当に楽しい時期だったそう。
 で、私は、と聞かれると、どうも答えにくい。それほど嫌な思い出があるわけではないけど、楽しかった~、ということもない。少なくとも、戻りたいとは思わないな。同窓会があっても行かないだろうし。

 これは、まぁ、私がイケてない高校時代を送っていたってだけかもしれない。でも、少し前だったら、こんな思い出話をしていると、懐かしい、という気分になったような気がするのだが、それが全くないのだ。こんなことがあった、ああだった、という事実は覚えているのだけど、どうも、実感が伴わない。まるで本で知った知識みたいな記憶になってしまっている。

 そんなものなのかな。30くらいから、物覚えは悪くなり、記憶を呼び起こす機能も明らかに鈍化するようになった。それは、どうもみんな似たようなものらしい。が、最近のことは覚えられなくても、若い時の記憶は鮮明に覚えている、というようなイメージが、一般的な「老化」にはあったけど、そうでもないのかも。

* * *

 ちなみに、「サランヘヨ・ハングンマル」のブログによれば、韓国には、「懐かしい」という表現がない、らしい。「懐メロ」は、単に「古い歌」だ、というのだが、本当かしらん。http://t.co/wcf6jRmO (「恨」というのは、あくまでも、未来志向の感情なのだ。過去をどう内面で処理するか、その方向の違いだというのが、ブログの説明。)

 韓国の歌番組、アイドルが出てくるようなのは新しいのを見尽くしたので、最近は、演歌番組とか、のど自慢とかも見たりしているのだけど、結構「懐かしの」って感じの特集、たとえば民主化運動時代(たぶん)のフォーク特集、みたいな感じのものをやっていて、懐かしそうに歌っているように見えるけどなぁ。(今度、留学生に聞いてみよう。)

 このブログの記事を読んで、最近、韓流にハマっているから、その影響で、過去が懐かしくなくなったのかな、とちょっと思ったが、関係なさそう。
 大分前から、こんな感じだし、内なる「恨」もか弱いものだし。

2011年11月1日火曜日

プロレス研究会

 所属していた関西大学プロレス研究会が部員不足のため解散の危機だという。7月に、現在関わっているプロジェクトでライターの斎藤文彦さんのセミナーを企画した時、非常勤の授業に行ったついでにボックスを探してチラシを置きにいったのだけど、誰もいない様子で、その後何の反応もなかった。そろそろ危ないのかなと思ってはいた。

 毎年、今頃の学祭の時期になるといろいろ思い出したりしたのでさみしいけど。まぁ、これだけプロレスが下火なら仕方がないか。

(社)現代風俗研究会の年報『現代風俗・プロレス文化』 に、「90年代のプロレス」というエッセーを載せてもらった。プロレスは急激に枯れたジャンルになったというようなことを最後に書いたのだけど、この原稿ではまだプロレス研究会の現在の興行の様子に触れていたのだった。

 今週末、OB会があるというので行ってみることに。終わるなら終わるでそれも清々しい気もしないでもない。

 最近の関大の学祭は、3つくらいの団体が別々に吉本芸人によるライブショーを開催している。そんなにプロに任せる必要ないだろうと思うけどねぇ。プロがみたけりゃ、NGKに行けばいいんだし。それに、どうせ呼ぶなら、人力舎とかも呼べばいいのに。まぁ、どこもこんな感じなので、仕方がないかな。