2021年1月21日木曜日

おじさんのためのファンタジー~韓国ドラマ『私のおじさん』私論


 韓国ドラマ『私のおじさん』(2018)の感想文です。邦題は『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん』
http://mydearmister.jp/ですが、原題(나의 아저씨)を直訳した副題だけで何の問題もないので、変な邦題は無視します。すでに見終わった人と感想を共有しよう、という意図で書いたもので、ネタバレは全く気にしていませんし、見ていないと何のことか分からない点も多々あると思います。その点、あらかじめお断りしておきます。

 

〇設定に対する警戒心

 最初に『私のおじさん』というタイトルを目にし、中年男性と若い女性の物語だと知って、なかなか見始める気になれなかった。おっさんが年下の女性に好かれる、などという設定は、おっさんのためのファンタジー以外の何物でもない。男女平等が強く意識されるようになった時代に、こんな手あかのついた設定は、さすがに古臭すぎるのでは、という懸念があった。最近、私がはまった韓国ドラマ『椿の花咲く頃』は、『私のおじさん』の翌年放映されたものだが、中年の子持ち女性に年下の独身男性がベタぼれする、という設定で、男女関係のそれまでのステレオタイプからの逸脱が現代性を表している。
 私もおっさんだが、おっさんのためのファンタジーで喜ぶほどのおっさんではない、つもりでいた。そうありたいと思っていた。だから、この設定に対しては、まずは警戒感を抱いた。
 また、ヒロインを演じるのがIUというのも、引っ掛かりがあった。私は、K-popファンなのでIUには強烈なイメージを持っている。歌も上手で、曲作りの才能も評価され、何でもできて、利口で、多くのアイドルが「尊敬する先輩」として名前をあげる彼女。いわば、若き大御所とでもいうような存在感がすでにあったのだ。そんな大スターがヒロインをやるのか、大スターがおじさんを好きになるなんて、なんだその夢物語は…。
 で、実際に見てみると、想像していたようなものとは全く違っていた。とにかく、とても手の込んだ設定になっていて、どんどん世界に引き込まれていった。若い美女がおじさんを好きになる話、というのは間違いなくその通りだったのだが、おじさんの方は全く靡かないままだった。意外だった。
 が、それでも、やはり「おっさんのためのファンタジーだ」という見立ては、それほど大きく外れていなかった、とも思う。

〇大まかな舞台設定とスジ


 詳しいストーリーや、設定は、他のまともな紹介記事を読んで欲しい。しかし、全く説明しないままでは、話をすすめられないので、最低限のことだけ書いておきたい。
 イ・ソンギュン演じる「おじさん」パク・ドンフンは、40代後半の大手建設会社のエリートサラリーマン。建築構造エンジニアで、仕事の能力は高く、穏やかで誠実な性格のため部下たちにも慕われている。ただ、世渡りはあまり上手ではなく、能力の割に出世はしていない、という設定だ。敵役は、この建設会社の若き新社長。彼は、ドンフンの大学での後輩にあたる。同じサークルに所属していたが、ドンフンは学生の頃から彼の不実な人間性を嫌悪していた。そんな人物が、出世できない自分を飛び越えて、落下傘的な形で(だったと思う)社長としてやってきた。新社長は、ドンフンに対し、表面的には親しげに接するが、地味な部署に異動させたりして出世の道をふさぎ、自ら退社するように画策しているようだ。ドンフンもそれを薄々感じている。
 創業者であり人格者の会長(この手のドラマでは会長はなぜかだいたい人格者…)は、高齢のため引退を準備している。そんな中、会社では、新社長に取り入って、出世をめざす者たちと、それを不快に思う旧来の役員たちとの間で、派閥闘争が起こっている。
 ヒロインのIU扮するイ・ジアンは、ドンフンの部署で働く派遣社員。コピーや資料整理、郵便物の整理などが任務だ。とても暗い性格で、いつも不愛想な態度を貫いている。そのため、職場の人たちからは不気味がられ、避けられている。まだ20歳だが化粧もせず、地味な恰好で通勤している。ちなみに、IUは、俳優業の時は本名のイ・ジウンを名乗っている。イ・ジアンという役名は、それを意識してあえて寄せたものだろう。暗くて地味なイ・ジアンは、輝ける大スター、イ・ジウンの裏面のキャラクターだ。そんな大スター、イ・ジウンが劇中では、暗くて地味な人物にちゃんと見えるのだから、演技力は凄い物だと思う。冷静で聡明な役柄は、IUのイメージとも微妙に重なっており、それも何らかの効果を発揮しているのかもしれない。
「おじさん」ドンフンは、男三兄弟の真ん中である。兄も弟も人生がうまくいっていない。兄は頼りないダメ人間で、会社もやめ、妻にも別居されている。弟は、短気な性格で、かつては若い映画監督として才能が評価されたりしていたが、その後は鳴かず飛ばず、今はすっかり夢をあきらめている。ドラマの途中で、二人は一緒に清掃会社を立ち上げ前向きに生きては行くのだが、エリートサラリーマンのドンフンに比べると収入は低く、実家の母親の世話になって暮らさざるを得ない状態だ。
 母親は嘆く。「良い大学までいかして、このザマだ…」3兄弟とも若い時は勉強ができたようだ。「大卒の貧乏」という設定は、おそらく韓国の現在を表すものでもあるのだろう。(もちろん、韓国に限った話ではないだろう。母親の嘆きは、私の耳にも痛かった。)
 このような家族関係の中で、大企業のサラリーマンであるドンフンにかかる家族からの期待は大きい。子どもの頃から、あまり感情を爆発させず心優しい性格だった彼は、そのように頼られる存在であることを、静かに受け入れているように見える。
 彼には、美しい妻とひとり息子がいる。息子は、カナダ(だったか)に留学中だ。韓国の豊かな世帯ではよくある例だろう。妻は優秀な弁護士で、独立して事務所を持っている。表面的に、ドンフンの生活は順風満帆に見える。
 だが、この妻は一年ほど前から、あの嫌な悪役の新社長と浮気をしているのだ。彼女も、ドンフン、新社長と同じ大学サークル出身で、新社長からすれば、学生時代から狙っていた先輩の彼女を奪い取った、という形だ。愛情ゆえにではなく、ドンフンへの嫌がらせの一環だったことが、視聴者には分かるようになっている。
 弁護士の仕事が忙しい、ということを利用して、高級ホテルでがっつり浮気を楽しむドンフンの妻。ドンフンみたいな良い夫がいながら、なんであんなしょうもない奴にメロメロになってるんだ、この女は…と見ていてイライラさせられる、そういうシーンが最初の方では繰り返される。
 ヒロイン、イ・ジアンの生活は極貧だ。非正規雇用とはいえ、最低限の収入はあるはずだが、夜はレストランの洗い場で別のバイトをして、残り物をこっそり持って帰り、晩飯にして凌いでいるほどだ。建設会社の給湯室から、韓国名物のミックスコーヒーのスティックも大量にかっぱらってきて、それを飲むのが唯一の癒しというような様子。見るからに貧しそうな部屋で、耳の聞こえない寝たきりの祖母と二人で暮らしている。祖母は施設に入っていたのだが、費用が払えず、無理やり連れて帰ってきたことが途中で描かれている。
 ジアンは、闇金業者から追われているのだ。親が残した借金の利子が膨れ上がり、すべての収入を闇金に搾り取られている。ジアンと同世代の若い借金取りは、彼女の居所を探し出すと、おもいきり暴力を振るう。「人殺しめ、おまえの人生をめちゃくちゃにしてやる」とののしりながら。ジアンには、人を殺してしまった過去があった。親にえげつない追い込みをかけていた借金取りを刺してしまったのだ。その借金取りの息子が、この若い闇金業者で、彼女の過去をゆすりの材料にすることで、彼女の自由と希望を奪い続けてきたのだった。
 こんな地獄のような生活をしてきたジアンは、人生に何の期待も抱かず、人間に対しても不信感しか持っていない。生きるために、悪事もそれなりにやってきたという風にも見える。学歴社会の韓国で中学しか出ていないのだが、頭は切れる。他者に期待をしないからこそ、醒めた目で自分をとりまく状況を見通せる力があるようだ。
 そんな、貧しく暗く、しかし聡明な派遣社員イ・ジアンが、新社長とドンフンの妻との浮気の事実をつかみ、物語は動き出す。借金返済のため大金が必要な彼女は、会社の派閥抗争を背景に、浮気をネタにして新社長から金を引き出す算段をするのだ。反社長派は、出世欲はないが能力も高く人望もあついドンフンを常務に取り立て、役員会の実権を掌握して、新社長の手から会社を取り戻そうとしている。
 ジアンは、新社長に話をもちかける。あんたの敵を追い出すのに、協力する、と。
 彼女には天才的ハッカーの友達がいる。彼の協力でドンフンのスマホに、盗聴アプリを仕込む。このアプリはスマホがオフの時も常時周囲の音を拾い、ジアンはそれを自分のスマホで聴くことができる。(正直、このあたりは、かなり無理のある設定だと思ったが…。)盗聴でドンフン、および反社長派の動向を把握し、そのネタを社長に売って金を引っ張ろうともくろむ。


〇メインテーマ・人間的な優しさが誰かの希望になっていく物語


 このままでは、全部説明してしまいそうだ。後は、これがどんなお話なのか、自分なりに無理やりザックリまとめながら書いていこう。
 まずは、このドラマのメインテーマについて。分かりやすく抜き出すと、人間の優しさを希望として描いた物語、ということになるか。不遇な生い立ちゆえに心を閉ざした女性が、誠実な大人の人間的な優しさに触れて心を開いていく。その感化の力は一方通行のものではなく、大人の側の生きる希望にもつながっていく。人間同士が相手を尊重し相互理解することは素晴らしいことだ、ということを伝えようとしたドラマだ、とひとまずは言えそうだ。
 ジアンが、ドンフンに飯や酒をたかりはじめる、といういびつな形で二人の直接の交流が始まる。最初は、ドンフンをハメよう、という狙いもあった。ドンフンは、いろんな事件に巻き込まれながら、ジアンがどれほど厳しい暮らしをしているのかを知り、ほっておけないという意識をもつようになる。
 二人共、「フゲ」という町に住み、地下鉄の同じ駅から会社まで通っている。ドンフンは、ちゃんとしたマンションに、ジアンは坂の上の方にある貧しい借家に。ふとしたことから、彼女の住まいまで行くことになったドンフンは、ジアンが、介護の必要なお婆さんを抱えて暮らしていることを知る。彼は、ジアンに生活保護の申請をすすめ、手続きをすれば福祉施設を無料で利用できるはずだと教え、手配も手伝ってくれる。そんなドンフンの親切に対して、ジアンは「余裕のある生活をしている人は、慈善も気楽にできるものだ…」と、裏切られて傷つくのを予防するため、期待を持たないように心の距離を取ろうとする。
 観察眼のするどいジアンは、ドンフンが善人であること、一方、新社長がクズ人間であることはすぐに見抜くのだが、金のために、ドンフン(らの派閥)を陥れる工作に邁進する。しかし、時に触れる、ドンフンの驚くほど誠実な人間性に、徐々に心動かされていくのだった。
 ジアンがお婆さんの面倒を見ていることを初めて知った日、ドンフンは別れ際に彼女を褒めた。「良い子だな」という簡単な言葉で。これは、孤独に生きてきたジアンにとって、初めて他者から受けた肯定の言葉だった。彼が何気なく発したこのような「言葉」は、厳しく寂しい生活を送る彼女の心のよりどころとなっていく。
 

〇「盗聴」の物語


 二人が相互理解を深める、その過程に介在するのが「盗聴」という仕掛けだった。ジアンは、ドンフンの日常を盗聴し続けた。最初は監視をして新社長に売る材料を探すためだったが、次第に、彼の声を聴くこと自体が目的になっていく。夜の皿洗いのバイト中も、寂しい家で過ごす間も、スマホをつけっぱなしでドンフンの声を聴き続けるジアン。彼の低くて優しい声を盗聴することは、完全に彼女の生き甲斐になってしまう。そして、どんどん好きになっていく。
 ドンフンは、ジアンの人間性を理解し、心の交流が生まれるのだが、彼女の好意に気づくと、あえて距離をとるようにふるまう。恋心は一方的なものだ。自分には、妻も子どももいる。相手は、二回りも年下の、まだ子どもである。常識が彼の振る舞いをしっかりと枠づけており、親しい部下という以上の態度は示さない。
 しかし、ドラマの中で唯一と言っていいドンフンからジアンへの好意の表現シーンがある。静かで劇的なシーンだった。これは、盗聴という仕掛けを通して実現したものだ。
 ジアンを探し出す必要があり、前日二人で飲んだ店を訪れたドンフンは店員に「昨日私と一緒だった女の子、来てないか」と尋ねる。
 
 「寒いのにひどく薄着の子。かわいい顔をした子」と。
 
 この言葉を盗聴で耳にしたジアンは、雷にうたれたような感激を味わう。ドンフンが、私のことをかわいいと思ってくれている。喜びを静かにかみしめる彼女の様子は、とても感動的だった。
 そりゃ嬉しいよねぇ、ジアンさん、良かったねぇ、うんうん…
 暗い穴倉のような部屋の片隅で、盗聴によってドンフンの温かさに触れ、何とか生きる力を獲得していくジアン。その様子を、暗い部屋のパソコン画面を通して覗き見ているおじさん視聴者も、涙を垂れ流しながら、何となく生きる力が湧いてくるような気がするのだった。
 彼女は、その後も、盗聴を通してドンフンの素敵な姿を何度も「目撃」する。
 ジアンを不法に追い詰める闇金業者に話をつけに乗り込んで、喧嘩までしてくれた様子。彼の家族のためにも、身体を張って行動している姿。部下に対しても、できるだけ相手を信頼し誠実に対応しようとする態度。
 ドンフンがどれほど立派な人間であるかを、盗聴しているジアンに、そして視聴者に、強烈に伝えることになった圧巻は、会社の役員昇進面接のシーンだ。昇進が決まる最後の段階で、反対派の役員によって、ジアンの「過去」が問題として取りざたされた。ジアンを派遣社員として選抜したのはドンフンだった。
「殺人者を会社に入れるなんて何ごとか」と嫌らしく難詰する悪役。大変なピンチだ。しかし、ドンフンは、正々堂々と反論を展開した。「それだけの事情があったのだ。自分が彼女の立場だったら同じことをしていただろう。そのため裁判所も正当防衛だとして罪に問わなかったのに、なぜ、この場でもう一度裁こうとするのか」と。
 これは、正しいことを言葉によって堂々と主張することが、どれほど素晴らしいことなのかを思い知らされるシーンでもあった。今思い出してもしみじみ感動が蘇ってくる。それだけ、現実では体験しにくいことだからなのかもしれないが、こういうことをリアルに描けることは、フィクションの素晴らしさだろう。
 見ているものの心も揺さぶる演説だったのだから、自分を守るための言葉として受け取ったジアンの心は、どれほどの感動だったのだろう。(と想像して、見ているおじさんの涙はまたあふれ出すのだった。)
  
 この場面は、クライマックスに近いものだが、もっと前の段階でドンフンの人間的な素晴らしさは繰り返し描かれる。どんどん心惹かれていくジアン。見ている方も、そりゃ、好きになるわな、と思わざるを得ない展開が続いた。
 ただしそれは、ドンフンが素晴らしい人だから、というだけではなかった。ジアンは「盗聴」によって、彼が順風満帆な生活を送っているように見えながら、私生活では寂しさを抱えて暮らしていることを知るようになる。そして「私と似た孤独な人間なのだ」という同類意識を抱くようになるのだ。また、ドンフンの妻の不倫は、ジアンの方しか知らない事実でもあった。穏やかで優しいドンフンが、妻の裏切りを知ったら、どれほど傷つくだろうか。しかし、もしかして離婚となれば、自分にも機会が訪れるかもしれない、と少しは考えてしまったりもする。そのような葛藤も、彼女のドンフンへの想いに拍車をかけた。
 おじさんと若い女性の恋愛関係物語としては、この程度の段階でおしまいだった。上述の通り、おじさん側から距離を置く態度は最後まで貫かれた。妻の浮気が明らかになっても、結局、離婚という道は選ばなかった。内面の葛藤は大変なものであったが。

 とにかく、ドンフンの優しさに感化され、ジアンが、少しずつ心を開いていく姿、希望を得ていく姿は、とても感動的だった。不愛想極まりない態度をとり続けていた彼女が、はじめて「カムサハムニダ」という言葉を口にするシーンは、通常のラブストーリーにおける「サランヘヨ」以上の重みがあった。
 そしてまた、ドンフンにとってジアンがただの部下以上の気になる存在になっていたのも確かだ。浮気が発覚する以前から、夫婦関係はすれ違い続きであった。自分の私生活の寂しさを、酒を飲むことで紛らわす日々が続いていた。そんな中、ジアンに慕われていること、自分が彼女にとって意味のある存在だと実感できること、自分が価値ある存在だと認めてくれる人が確実にいることに、彼自信、生きる希望を見出してもいたのだ。
 お互いが理解を深めていくと、ジアンにとっては自分が手を染めてきた悪事、そして現に行っている「盗聴」が、どんどん重くのしかかってくるようになる。盗聴だけが喜びの日々。盗聴を通して、ドンフンが自分のことを信頼してくれていると分かれば分かるほど、この行為がばれる時は、全てが終わってしまうのだ、その前に、自分は姿を消さなければいけないのだ、という覚悟を固めていくしかないジアン。
 そんな姿を描きながら、視聴者は、これらのややこしい展開を、どうやって「まとめる」んだろう… という興味で、最後まで物語に引きずり込まれていく。


〇藤沢周平的サラリーマンファンタジー


 このように、涙を流して感動した一方で、それでもやはり「おじさんのためのファンタジーだな」という感想も頭から離れなかった。見ている間、ずっと頭に浮かんでいたのは、藤沢周平の時代小説に似ているな、ということだった。
 剣術の腕は立つが、出世の才に乏しく、地味な生活を送っている下級武士を主人公にした人気作品(「たそがれ清兵衛」「三屋清左衛門残日録」など)が思い起こされた。江戸時代の誠実な武士を描き、現代のサラリーマン男性の人気を集めた藤沢周平。サラリーマンだった私の父親も、普段はあまり本を読まなかったが、藤沢周平だけはたくさん読んでいた。どこかで自分を投影し、慰めを得られる部分があったのだろう。
 ドンフンは、普段は穏やかな性格だが、仕事は出来て、いざという時には大変頼りになる。しかし、人の良さ、不器用さで、損をすることも多い。そして、妻は、その素晴らしさにちゃんと気づいていない…。こうしてみると、とても、サラリーマン受けする主人公という気がする。
 私生活はパッとしないかもしれない、普段は妻の尻にひかれているかもしれない、嫌な上司には自分の価値が伝わっていないかもしれない、けれども、まともな仕事仲間にはちゃんと評価されるはずだ、そうあって欲しい、と願って生きるようなサラリーマンに。

 ドンフンは、結構モテる。これも、藤沢作品の武士と似ている。
 学生の頃には、おそらくサークルで一番美人だった現妻と付き合えた。悪役の新社長は、そのことを今でも妬んでいたりもする。会社の女子社員たちも、ドンフンのことを「素敵だ」と噂している。若く、聡明なジアンには、心から好きになられる。普通に考えたら、大変恵まれた、羨ましいキャラクターだ。それでも、しかし生活の寂しさは抱えている。その点も、「うんうん分かる、みんなしんどいよね」という共感を得やすいだろう。「寂しさ」を抱えていないような人など、いないのだから。
 さらに、ドンフンは運動神経はかなりいい。サッカーも上手だ、という設定だし、若いチンピラ相手との喧嘩からも逃げないほど、腕力にもそれなりに自信がある。勝てなくても、かかっていけるだけで、十分「強い」だろう。
 仕事ができて、強くて、やさしい、でも「不器用」。理想の「男らしさ」を体現しているキャラクターである。だから、モテる。
 盗聴という仕掛けは、とてもよく考えられたものだと思う。おっさんが、二回りも年下の女の子に「好意」を示す、それも嫌らしくなく、下心なく、というのは現実には無理だ。「そんな意味ではないから」などといくら言い訳をしても、おっさんのねっとりとした下心が、相手には伝わってしまうのだ。「好意」に「そんな意味」が入っているのは、残念ながら間違いないし。
 というわけで、相手にそのように受け取られる危険性をゼロにして示す唯一の方法は「意図しないのに聞かれてしまった」だけだ。
 生活に余裕のある男性が、自身の力によって、弱い立場で迷っている若い女性を導く。おっさんが持ってしまう「あしながおじさんになりたい願望」を体現した、そんな理想的キャラクターだとも言えるだろう。IU演じる二十歳のイ・ジアンにとっての理想的大人として描いているが、彼女のような女性の理想となっているという「おじさん」にとっての理想の側面の方がより強い気がする。
 
 物語のクライマックス、ジアンの盗聴がドンフンにバレるとどうなるか、という展開は、特に引き込まれる目が離せないところだ。ジアンは、盗聴の事実がばれたら、さすがのドンフンも自分を嫌うだろう、もうこれで終わりだ、と追い込まれ、逃亡を図る。しかし、ドンフンは彼女を救うためにも、必死で探し出す。
 盗聴する、されるの関係が明らかになって初めて対峙するところも名シーンだった。おびえて無理に悪びれる態度のジアンに対し、ドンフンは礼を言う。
「くそみたいな自分の生活を知った上で、自分の味方になってくれてありがとう」と。
 あー、なんて人格者なんだ、ドンフン。ここまでされても怒らないなんて、とまたウルウルしつつも、でも、そりゃ、本心でそうかもな、とも思うのだった。
 よく考えれば、自分の惨めな姿、人知れずの苦悩を、誰かが聞いてくれている、って嬉しいことでもあるに違いない。
 
 ツィッター依存が激しくなってきたおっさんである私が、そこで漏らしているのは、自分の「惨めさ」と「誠実さ」のアピールばかりだ。それなりに工夫して書いているつもりでも、結局、それだ。私は、こんなにダメなのだ。私は、こんなに真面目なのだ。振り返ってみると、そんな気がするのだ。
 自分のことを見て欲しい、聴いていて欲しい、できればIUみたいな感じの人に…。もちろん、本当の本当に盗聴され続けたりなんかしら、とても他人には見せられない場面が一杯で、たまったもんじゃないだろう。しかし、ドラマ世界でのあんなレベルの「惨めさ」「寂しさ」は、誰かに知ってもらえたら、そして、共感の涙を流してもらったりしたら、どう考えても「救い」の効果の方が大きそうだ。
 日常生活の一部なら、誰かに、見ていて欲しい、聴いて欲しい、そんな欲望が自分にもあるな、とこのドラマをみて再認識したのであった。まぁ、神様を求めている、ということなのでしょうね。


〇地域共同体への幻想と現実


 おじさんと若い女性が相互に理解しあっていく物語――。それだけだったら、本当にオッサンの夢物語で終わっていたかもしれない。しかし、本作には、ドンフン=ジアンの男女関係の他に、重要な人間関係の筋が描かれていて、それが深みを生み出している。血縁と地縁の関係だ。
 ドンフンは、男三兄弟である。兄弟間の絆は、とても強い。頻繁に集まって、酒を酌み交わす仲だ。三兄弟の性格の違いや、織りなす関係性も、ドラマの見せどころのひとつである。そして、母親との関係も濃密である。この血縁関係は、物語の重要な要素になっている。
 地縁とは、「町内」の人間関係。今日の一般的な都市生活から見ると、ちょっとありえないレベルの濃密な関係が描かれている。
 ドンフンは、良い大学を出て一流企業に就職したのに、生まれ育った町の近くに暮らしている。「フゲ」という、ソウルのどこかにある町に。架空の町だが、おそらくソウルの住民なら、モデルにした地域がすぐに思い浮かぶような場所なのではないか。地下鉄の駅があり、大企業のオフィスがある都心へのアクセスは悪くはない。駅前には、飲み屋などもそれなりにある。しかし、都会というほどでもない。韓国国鉄の貨物線か何かの線路と踏切があり、かつては町工場などがあったような、ソウルの場末なのだろうと思わせる。貧しいジアンもこの町の外れに落ち着いている。住んでいるのは「学校の裏のあたり」だ。小高い丘になっていて、比較的貧しい住居が多い地域のようだ。ドンフン夫妻が住むような、安定層のサラリーマン向け高層マンションも増えてはいるが、開発に取り残された地域もある、そういう町だ。
 ドンフンは、今でも、毎週のように町内のサッカーチームの練習に参加している。メンバーは、幼馴染ばかり。練習後には、これも幼馴染の女性がやっている飲み屋で、飲むのが定番のコースのよう。飲み仲間は、ドンフン以外、彼の兄弟含めて皆、これまでの人生に失敗があったと感じている人たちばかりだ。ここでの人間的なつながりが、彼らの慰めになり、生きる希望になっている。
 酔っぱらったドンフンの兄のセリフが面白かった。「おれは来年50歳になる。50年の間、わが大韓民国は、こんなに発展したのに、自分は何だ。食って、クソして、食って、クソして、ただそれだけの繰り返しじゃないか。」
 ジョンヒの店、というこの飲み屋は、ドラマのメインステージのひとつだった。こんなしょうもない愚痴を言う場所がある、満ち足りない思いを分かち合えるような仲間がいる。そんな人間関係の豊かさが描かれていた、のだと思う。
 最後の方で、ジアンもここにちょっと関わる。孤独に生きてきた彼女から見ると、自分には得られなった友情のある場所、優しさが支配する場所として、輝かしい場所に感じられたはずだ。「今度生まれ変わったらこの町に生まれたい」と彼女が語るシーンもある。
 
 だがしかし、このような血縁・地縁関係に対する、両義的な視線がこの作品にはあるのだ。もしかしたら、作り手たちは、あくまでも「良き関係」として描こうとしたのだが、現代社会のリアリティがそれを許さなかったのかもしれない。
 鍵になるのは、ドンフンの妻だ。
 彼女は、ドンフンのような「良い人」がいながら、軽薄で下衆な新社長にそそのかされて、高級ホテルでの逢瀬に熱を上げてきたのだった。最後の方で、ジアンは、彼女に問い詰める。「あんなに良い人がいるのに、なぜ浮気などしたのか」と。妻は、「なぜかと聞かれたらいくらでも理由らしきものをあげることはできる」と曖昧に答えた。大人にはいろいろあるのだ、というような、はぐらかしの答えだった。
 しかし、「外」から覗いていた視聴者には、何となく、彼女が夫を嫌になった理由は、分かるように描かれてもいた。
 彼女は、弁護士。インテリの超エリートだ。夫よりも、社会的に成功している。ドンフンの母親は、善人であり、息子を信頼し、息子の幸せを願っているから、彼の選択に異議を唱えることはなかっただろうが、どこかで息子の「嫁」がキャリアウーマンであること、息子よりも偉く見えることを面白くないと思っている。それは、直接口に出していわなくとも、他の家族に、そして「嫁」本人には、確実に伝わっている。
 最初の方に、ドンフンの妻の印象深いセリフがあった。
 
 「あなたは、朝鮮時代だったら、良かったと思っているのでしょうね。私が、嫁入りして、お義母さんと同居して、お世話をするのが当たり前な時代だったら…」
 
 ドンフンは、まともに取り合わなかった。肯定はしないが、否定もしない。
 彼は、男女平等時代の優しい夫だ。彼女の仕事を尊敬し、尊重し、晩飯の買い物や、飯の支度、掃除なども全部自主的にやっている。しかし、母親や兄弟との関係も、とても大事にしていて、妻が本当に望むことと、母親のそれとの間で引き裂かれていることも感じられる。
 結婚しても、妻が望むはずもない母親との同居はしなかった。仕事を邪魔する気はもちろんなく、支えようとしている。子どもを留学させよう、という提案は、たぶん、妻からのものだったはず。それもOKした。しかし、譲らなかった点もある。おそらく、妻は、もっと近代的な町で暮らしたかったはずだが、フゲの町から出ることは拒否したのだろう。サッカー同好会を始め、兄弟や幼馴染たちとの濃密な付き合いを続けることも、妻の好みに反する彼の意志だろう。
 妻にとって、一番大事な「家族」は、夫と自分と子どもで作っている家族だ。しかし、夫にとっては、自分の兄弟・母親との「いえ」の方が大事、なように見える。表面的には、妻との関係を大事にしていても、心の奥には、それがある。それが、妻との隙間となる。
 夫婦の会話は、無難な話だけにとどまる。対面して、意見をぶつけ合うことをドンフンは避けている。優しいから遠慮している、ように見える。だが、彼にとって譲れない部分は、絶対に譲れないのだ。それは強く主張はしない。そのかわり、真正面からのぶつかり合いを避けて、黙ったり、サッカーを見たり、酒に逃げたりしてごまかしている。
 兄弟の絆、竹馬の友たちとの関係が続く世界。「あしながおじさん」になることとまた違った、「おじさん」の夢、ともいえるだろう。
 
 あんなに兄弟が密だったら、連れ合いさんらは、たまったものじゃないだろう。あんなにしょっちゅう、友達と飲み会やられたら、そりゃうんざりするだろうな。わたしは、ドラマを見ていて、ちょっとだけ羨ましさを感じつつも、拒否感の方を強く持った。あまり、あのような関係性には入りたくない、という気がした。もちろん、入りたくても入れないのだけれども。
 このドラマは「酒を飲むドラマ」だともいえる。もちろん、韓国ドラマでは、酒は定番の小道具である。登場人物がヤケを起こして、金持ちならウィスキーを、貧乏人は緑の瓶の焼酎を無茶飲みし、暴れる、というシーンが必ずといっていいくらい挿入されている。しかし、本作の飲酒は、これら定番の域を越えている。
 何かといえば、集まって飲んでいる。また、貧しいヒロイン・ジアンも酒は強く、ドンフンに酒をたかって二人で飲むシーンが何度もある。会社の飲み会のシーンも。葬式で飲むシーンも。とにかく、皆、飲んでばかりだ。(IUは酒造メーカーのイメージキャラクターを長く務めているから、間接広告の一種なのかもしれない。)
 私自身、もともと酒飲みなので自戒を込めてだが、皆さんちょっとお控えになった方がいいんじゃないですかね、と言いたくなるほどだった。
 親・兄弟・地域の人間関係、そして、それをつなぐ酒。どれも基本的には肯定的に描かれてはいる。しかしながら、それらを誰もが「良きもの」と考えているわけではない。そういう時代に私たちが生きているということを、きっちり描いているところに、この物語の現代性がある、と思う。


〇ひとり泣く男、ドンフン


 ドラマの最後には、連続ドラマ定番の「あれから何年~」式の明るい未来シーンも入っている。すっかり明るくなり化粧もするようになったジアンは、そのままただのIUだった。耳の聞こえない祖母と会話するために身に着けた手話の講師などをして、前向きに生きている彼女。
 その「未来シーンの直前」に、謎めいたシーンが挿入されていて、それがとても印象深かった。ドンフンが、ひとり自分の部屋で飯を食いながら、号泣するというシーンだ。
 一連の事件が片付いた後、妻はどうやら留学している息子のもとに向かったらしい。一年以上も自分の一番嫌いな人間と浮気をして、会社から自分を追い出そうと画策までしていた妻を、ドンフンは表面的には「許した」のだろうが、温かい夫婦関係に戻ることは無かったようだ。離婚はしなかったが、気まずい対面時間を減らすため、妻はそういう選択をしたのだろう。一時的か、長期的かは説明されていない。
 テレビを見て、掃除をして、ひとり飯を作って食べるドンフン。いつも通り、という感じなのだが、突然、そこでひとり号泣するのだ。
 
 これは、何の涙か。全く説明されていないし、その後に「あれから何年」が続くので、本当に、視聴者の想像にお任せ、という感じなのだ。
 
 以下は、私の勝手な解釈(まぁこれまでもそうだけど)を書く。
 
 これは「ジアンの盗聴」を切望する涙だ。
 
 妻にも気をつかってきた。子どものためにも一生懸命働いてきた。それなのに、家族間に、自分が望んだような心のつながりがない。浮気の件だって、当然忘れられはしない。本当は、沢山の家族と友達と密な関係を持って、賑やかに飯を食う日々を送りたかったのに、ひとりで飯を食う日ばかり続くなんて、本当に寂しすぎる。ああ、自分の人生、どこで間違ったのだろう。
 ジアンに迫られたとき、手を出そうとは全くしなかった。あの時は、そんな気は、さらさら無かったのだ。自分には妻も子どももいるから、向こうはまだ子どもだから。
 だけど「おじさんは、良い人です」というあの言葉、あんな優しい言葉を受けたことは、実は自分も無かったのではないか。そういう目で見ないように努めていたが、思い起こせば、かわいくて、聡明な素敵な女性だった。あの機会にさっさと離婚して、ジアンと一緒になっていたら、どうだっただろう。きっと、自分の価値を全身で評価して、大事にしてくれたに違いない。例のたまり場で集まって、ワイワイ楽しく飲む機会も、もっと多かったのではないか。自分は、間違った選択をしたのではないか。
 今、ひとり寂しく飯を食って、大人のくせに、惨めに泣いている私。彼女は「盗聴アプリは削除した」と言っていたが、もしかして、今も聴いてくれてはいないか。そしたら、誠実に生きてきた自分が今どれほど寂しいか、分かってくれるのではないか。その時は、どんな言葉をかけてくれるだろう。
 あー、誰か、自分の真の姿を見ていてくれ、慰めてくれ。そういう叫びの「号泣」。
 
 ここに、携帯のメールが着信する。あ、ジアンからだ…
 というシーンは描かれていない。完全に私の妄想だが、そうなったら、どうなるだろう。
 
 最後の方には、ドンフン側に未練がある感じもちらっと描かれていたし、飲みに行く約束もしていたし…。
 もちろん、実際に手を出してしまったら、全てが台無しだ。ジアンにとって、手に届かない「月」みたいだからこそ、ドンフンは百点満点でカッコいいのだ。付き合ったら、あとは減点していくしかない。
 だから、「おじさん」は一人寂しく泣くしかないのだ。「誰か」に見てもらっているかもしれない、と妄想しながら。

 というわけで、これほど寂しさが繰り返し描かれていても、やっぱりドンフンがうらやましく感じるのだから、「私のおじさん」は、おっさん向けのファンタジーなんだろうな、というのが私の結論です。
 

2021年1月9日土曜日

業務用車両としてのUberのロードバイク

  


 戦後、競輪が誕生した初期には実用車によるレースも行われていた。新聞や牛乳の配達など、運搬の仕事に使われていたタイプの自転車での競走で、競走用の自転車よりそっちのレースが得意な選手もいたそう。スポーツとしての迫力は、当然、競走用の方があるから、しばらくしたら廃止となった。


 自転車競走には、形式的には、自動車レースと同じような、乗り物の性能競走という側面があり、実用車レースもその名残りだった。競馬も、乗り物としての馬の性能向上のための競走という側面があった。今は、競馬のための競馬として成立しているが。


 某所の授業で、競輪の歴史を語る場面がちょっとあり、その時、昔の実用車レースの話をしようとして、UberEATSのことが頭をよぎった。


 街で、Uberの自転車を見かける機会がとても増えた。ポツポツ目に付くようになったのは、一昨年くらいからだと思うが、コロナになって、もはや当たり前の存在になったようだ。


 昨年末、御堂筋を歩いて帰った時、途中でUberの事務所を淀屋橋のあたりで見かけた。「パートナーセンター」と書かれていた。あそこでは、配達員のことを「パートナー」と呼ぶのか。欺瞞だな。スーパーのバイトなどでも、そういう言い方を耳にしたこともあったけど、労働者・アルバイトとは呼ばず、まるで対等な仲間ででもあるように呼んで、実際は安い労働者として使うんだから、嫌らしいな、と思わずにいられなかった。


 今日も、松屋のテイクアウトを買いに出かけたら、Uberの人が、例のボックスに受け取った牛めしをしまい込んでいた。寒い中、大変な仕事だ。松屋のテイクアウトを、配送料を払ってまで注文するのはどんな人なんだろう、そして、この「パートナー」さんは、これでどれくらい収入があるのだろう、とちらっと想像しながら。


 Uberの人が乗っている自転車は、カッコいいロードバイクであることも多い。趣味としてロードバイクに乗る人も増え、そういう人に「趣味と実益を兼ねてやりませんか」と誘い、雇用調整の効く使いやすい労働者を集めるという戦略だ。自転車に乗るのが好きで、それに小遣いまで稼げたらありがたい、と思って乗っている人も、中にはいるのかもしれない。でも、これだけ多くの人が働いているのを見ると、生活のために仕方なく、というのが大半だろう。


 実用の乗り物として普及した自転車は、スポーツ・レジャーのための乗り物として発展をとげ、独自の文化を作っていった。その「遊び」道具が、再び「実用車」として活用される時代がやってきた。


 趣味でバイト代も稼げるんだから、一石二鳥でいいじゃないの?確かに、そうなのかもしれない。でもしかし…


 軽快に飛ばすUberのロードバイクを見ながら、「遊び」が搾取される、不幸な時代にいることを改めて感じ、暗い気持ちになった。

2021年1月3日日曜日

2021年、正月の日記


2021年の正月になった。去年の正月頃は、まだコロナという名前も知らなかった。新型肺炎が中国で、という、対岸の火事のような状態だった。自分の状況としては、何年も住んできた大阪市内から尼崎の今の部屋に引越すことが決まっていて、その準備をしていたのだったか。引越しの日は一月の終わりごろだった。ずっと以前のような、ついこの間のような。


大晦日は、ひとり暮らしの母親がいる実家に行った。自転車で20分の里帰りだ。自分も活発に活動していたら、コロナをうつしてしまう心配があるが、あまり出かける機会もなく相対的に危険度は低い暮らしをしていると思うから、まぁいいやというところ。一昨年、父親が亡くなり、長引いた介護生活から解放されたという面もあるが、母親には交流している友達など全くおらず、たまに近所の人と会話するくらいで、基本寂しい暮らしをしているようだ。年齢相応、いろいろ不調なところはあるが、まだ元気なので、カルチャーセンターにでも行ったりしてくれたらいいのだが、何か探そうにもコロナで中止になっているところもあり、これまで全く縁がなかったものに、この状況でリスクをおかしてまで、ということもあって、ずっと家にいるだけの生活のよう。一日中誰とも口をきかなかった、というような言葉を聞くとさすがにつらい。こちらの生活の問題もあり、どうしたら良いのか、分からない。頻繁に電話をかけて話し相手になること、折をみて顔を出すことくらいしかできていない。


母親は料理好きだった。父が元気だったころは、お節料理的なものも作っていたが、最後の方は嚥下障害で食事介助が必要だったので、そういうお正月らしいお正月はできなくなっていた。スーパーなどで迎春準備の食材なんかが並ぶのを見て、そこに参加できないことをとても寂しがっていた。私も妹も子供がいないので、こういう折に孫の顔を見せることができない。それなりに人が集まって賑やかに正月を迎えているらしい近所のお宅のことが、とても眩しく見えているはずだ。


家族ベースで祝うこととされている祝日は、「普通」から離れた生活をしているものには、普段以上に寂しさを感じさせるものだ。それは今に始まったことではないだろう。しかし、未婚者がこれだけ増えて、多様なスタイルで暮らしている人が増えている中、もう少し何とか中和されないか、と思わなくもない。多くの「普通」から離れた人たちはどうやって凌いでいるのだろう。


母親は、まだ、自分や妹がたまに訪ねてきているけど、自分が彼女くらいの歳になったら、もっと寂しいかもしれないなということも思う。今のままでは、ずっとtwitter的なものをやり続けて、寂しさをこぼしてみたり、しょうもないことを言って受けたいと思ったり、テレビなどへのツッコミを流してみたりするだけの日々が待っているのかもしれない。私の場合、将来について予想したことはだいたい外れて、まったく意外な現実が待っている(どちらかというと悪い意味で)ことが多いので、まぁ、その時のことはその時考えるようにしよう。


懐メロ番組と紅白とを適当に行ったり来たりしながら、酒飲みだった父ちゃんの代わりに酒を飲み、訳の分からない歌が流行っているんだな、などと、酔っぱらった父ちゃんが言っていたようなセリフを口にしたりして、年越しらしい時間を二人ですごす。家では、あまりテレビを見なくなっているので、実家でテレビを見ていると、いろいろ浦島太郎的な感想が浮かんできたりもする。


元日は、少し二日酔い気味だった。膝のリハビリのため、普段、母親は毎日のように自転車で出かけているらしい。元日は寒波襲来の予報とはちがい、寒さはましで、とてもいい天気だった。初詣も密だからやめた方が良いだろう、ということで、自転車乗りに一緒に行こう、ということになった。近所に自転車道として整備されている5キロほどの道があり、普段はその終点まで行って帰って来るというので、終点から先に足を延ばして海まで行くことにする。元日に老母と二人チャリンコでツーリング。父ちゃんなんて70代に入ってしばらくしたら、急に弱くなったのに、同い年の母親は比較にならないくらい元気だ。帰りに、元日から営業していたショッピングセンターのスパゲティ屋によって昼飯を食べた。父ちゃんが元気だったころにはありえないような元日の過ごし方だった。倒れる前の父ちゃんは正月はずっと酒を飲んでいて、母親はその用意をせざるを得なかったから。


夕方前に、家に帰った。もっとゆっくりして来たらいいのに、と同居人に言われる。一緒にいるといろいろもめるだけだから、ひとりでいる方が気楽なのだろう。晩飯は、大晦日に一応買い出ししてあった材料で豚キムチを作った。餅を買ってあったので、切って放り込む。枝元なほみのレシピを参考にして。枝元さんは、西原のことを本当はどう思っているのだろう、なんてことをちらっと考えたりしつつ。


二日は、ただツィッターを見て過ごした。同居人が郵便局に用事があり遠くの集配局まで行くというのでついていった。二日続けてチャリンコツーリングになった。タイヤがすり減っていつパンクになるか分からない状態で、油もさせていないため、ペダルが重たかった。帰りに、吉野家で牛すき鍋定食を食べた。前に住んでいた家の近くに吉野家があり、よく食べたが、引っ越した先には近所にない。「前の町、思い出すな」などと言いながら。


前に住んでいた町の方が、にぎやかで町らしかった。今は、少しだけ田舎になり、やはりちょっと寂しく、前の町のあたりをたまに通ると、また帰ってきたいな、という気もちになる。なじみの店にまた気楽に行きたい。吉野家なのだけど。


さて、三が日が済んだ。4日からは、遠隔授業がポツポツ始まるので、今日から準備しなければいけない。なかなかやる気が起きないから、こういうものを書いている。コロナによる世界的な閉塞感と、自分自身の生活上のそれと。コロナが去っても、自分には何も良いことが起きない気がして、「皆」が閉塞した状況が続いている方が、まだマシなんじゃないか、というとてもマイナスな考えが頭にうかび、いやいや、この状況が長引き、もっと仕事を切られたりする人が増えたら、真っ先に苦しむのは、底辺に近い人間なんやぞ、良くならないとどうしようもないじゃないか、と脳内で弱く反論する。


今年は、何か良いことないかな。これだけ歳をとって、「良いこと」など、自分で作らないと絶対にやってこないのだ、と嫌というほどわかっているはずでも、そういう他力本願的なことを考えてしまうのだった。神さま的なものには全く祈らなくなったけれども。明日からはもう少し前向きなことを考えよう。


***

こういう所とは別に自分だけのための日記も書いてはいる。毎日のように書いている時期と、途切れがちになる時期がある。バイオリズムなんて似非科学を信じるわけではないが、好不調の波のようなものはやはりあって、日記やブログの更新頻度などを後から確認したら、沢山書いている時期と、なかなか書くことに向かい合えない時期があってそれが分かる。誰に求められているわけでもなく書いているものなど、書きたくない時には書かなければいいのだが、気分の波に流されないためにも、コンスタントに書き続ける訓練はしたいような気もするのだ。


あれを書こう、これを書こう、と考えている材料はあるが、それを文章の形でまとめるための集中力が維持しづらい精神状態が続いている。精神状態なんて大げさか。とにかく、普段以上に、意識があちこちに飛んで疲れてしまい、ただただ受け身の快楽で時間をつぶすだけの日々が続いている。何を書こうと思ったか。そう、正月の日記みたいなものを書いて、助走をつけようと思ったのだ。文章を書くのは集中力を要するのは間違いないのだけど、書き始めると書けるもので、書き始めるということが一番難しい。というようなこともよく言われるが、自分もそう思う。書くことがない、書こうと思うことが書けない時には、内容のことなどあまり気にせずに、書くということを実行しておいて、あとから修正したりして、とにかく文章を書くことが慣れた状態を作りだすことを優先すると、書けるようになるという話だ。


とここまで助走を書いてから、上の方の日記部分を書いた。後から、前後を入れ替えた。15年くらい前のmixiの日記を見直す機会があって、正月っていつも何か書いてたなと思い出し、とりとめもない事でも、とりあえず書いておこうと思った。mixiの日記、ダウンロードして保存しておきたいのだけど、簡単にできる方法、ないかな。