2021年1月3日日曜日

2021年、正月の日記


2021年の正月になった。去年の正月頃は、まだコロナという名前も知らなかった。新型肺炎が中国で、という、対岸の火事のような状態だった。自分の状況としては、何年も住んできた大阪市内から尼崎の今の部屋に引越すことが決まっていて、その準備をしていたのだったか。引越しの日は一月の終わりごろだった。ずっと以前のような、ついこの間のような。


大晦日は、ひとり暮らしの母親がいる実家に行った。自転車で20分の里帰りだ。自分も活発に活動していたら、コロナをうつしてしまう心配があるが、あまり出かける機会もなく相対的に危険度は低い暮らしをしていると思うから、まぁいいやというところ。一昨年、父親が亡くなり、長引いた介護生活から解放されたという面もあるが、母親には交流している友達など全くおらず、たまに近所の人と会話するくらいで、基本寂しい暮らしをしているようだ。年齢相応、いろいろ不調なところはあるが、まだ元気なので、カルチャーセンターにでも行ったりしてくれたらいいのだが、何か探そうにもコロナで中止になっているところもあり、これまで全く縁がなかったものに、この状況でリスクをおかしてまで、ということもあって、ずっと家にいるだけの生活のよう。一日中誰とも口をきかなかった、というような言葉を聞くとさすがにつらい。こちらの生活の問題もあり、どうしたら良いのか、分からない。頻繁に電話をかけて話し相手になること、折をみて顔を出すことくらいしかできていない。


母親は料理好きだった。父が元気だったころは、お節料理的なものも作っていたが、最後の方は嚥下障害で食事介助が必要だったので、そういうお正月らしいお正月はできなくなっていた。スーパーなどで迎春準備の食材なんかが並ぶのを見て、そこに参加できないことをとても寂しがっていた。私も妹も子供がいないので、こういう折に孫の顔を見せることができない。それなりに人が集まって賑やかに正月を迎えているらしい近所のお宅のことが、とても眩しく見えているはずだ。


家族ベースで祝うこととされている祝日は、「普通」から離れた生活をしているものには、普段以上に寂しさを感じさせるものだ。それは今に始まったことではないだろう。しかし、未婚者がこれだけ増えて、多様なスタイルで暮らしている人が増えている中、もう少し何とか中和されないか、と思わなくもない。多くの「普通」から離れた人たちはどうやって凌いでいるのだろう。


母親は、まだ、自分や妹がたまに訪ねてきているけど、自分が彼女くらいの歳になったら、もっと寂しいかもしれないなということも思う。今のままでは、ずっとtwitter的なものをやり続けて、寂しさをこぼしてみたり、しょうもないことを言って受けたいと思ったり、テレビなどへのツッコミを流してみたりするだけの日々が待っているのかもしれない。私の場合、将来について予想したことはだいたい外れて、まったく意外な現実が待っている(どちらかというと悪い意味で)ことが多いので、まぁ、その時のことはその時考えるようにしよう。


懐メロ番組と紅白とを適当に行ったり来たりしながら、酒飲みだった父ちゃんの代わりに酒を飲み、訳の分からない歌が流行っているんだな、などと、酔っぱらった父ちゃんが言っていたようなセリフを口にしたりして、年越しらしい時間を二人ですごす。家では、あまりテレビを見なくなっているので、実家でテレビを見ていると、いろいろ浦島太郎的な感想が浮かんできたりもする。


元日は、少し二日酔い気味だった。膝のリハビリのため、普段、母親は毎日のように自転車で出かけているらしい。元日は寒波襲来の予報とはちがい、寒さはましで、とてもいい天気だった。初詣も密だからやめた方が良いだろう、ということで、自転車乗りに一緒に行こう、ということになった。近所に自転車道として整備されている5キロほどの道があり、普段はその終点まで行って帰って来るというので、終点から先に足を延ばして海まで行くことにする。元日に老母と二人チャリンコでツーリング。父ちゃんなんて70代に入ってしばらくしたら、急に弱くなったのに、同い年の母親は比較にならないくらい元気だ。帰りに、元日から営業していたショッピングセンターのスパゲティ屋によって昼飯を食べた。父ちゃんが元気だったころにはありえないような元日の過ごし方だった。倒れる前の父ちゃんは正月はずっと酒を飲んでいて、母親はその用意をせざるを得なかったから。


夕方前に、家に帰った。もっとゆっくりして来たらいいのに、と同居人に言われる。一緒にいるといろいろもめるだけだから、ひとりでいる方が気楽なのだろう。晩飯は、大晦日に一応買い出ししてあった材料で豚キムチを作った。餅を買ってあったので、切って放り込む。枝元なほみのレシピを参考にして。枝元さんは、西原のことを本当はどう思っているのだろう、なんてことをちらっと考えたりしつつ。


二日は、ただツィッターを見て過ごした。同居人が郵便局に用事があり遠くの集配局まで行くというのでついていった。二日続けてチャリンコツーリングになった。タイヤがすり減っていつパンクになるか分からない状態で、油もさせていないため、ペダルが重たかった。帰りに、吉野家で牛すき鍋定食を食べた。前に住んでいた家の近くに吉野家があり、よく食べたが、引っ越した先には近所にない。「前の町、思い出すな」などと言いながら。


前に住んでいた町の方が、にぎやかで町らしかった。今は、少しだけ田舎になり、やはりちょっと寂しく、前の町のあたりをたまに通ると、また帰ってきたいな、という気もちになる。なじみの店にまた気楽に行きたい。吉野家なのだけど。


さて、三が日が済んだ。4日からは、遠隔授業がポツポツ始まるので、今日から準備しなければいけない。なかなかやる気が起きないから、こういうものを書いている。コロナによる世界的な閉塞感と、自分自身の生活上のそれと。コロナが去っても、自分には何も良いことが起きない気がして、「皆」が閉塞した状況が続いている方が、まだマシなんじゃないか、というとてもマイナスな考えが頭にうかび、いやいや、この状況が長引き、もっと仕事を切られたりする人が増えたら、真っ先に苦しむのは、底辺に近い人間なんやぞ、良くならないとどうしようもないじゃないか、と脳内で弱く反論する。


今年は、何か良いことないかな。これだけ歳をとって、「良いこと」など、自分で作らないと絶対にやってこないのだ、と嫌というほどわかっているはずでも、そういう他力本願的なことを考えてしまうのだった。神さま的なものには全く祈らなくなったけれども。明日からはもう少し前向きなことを考えよう。


***

こういう所とは別に自分だけのための日記も書いてはいる。毎日のように書いている時期と、途切れがちになる時期がある。バイオリズムなんて似非科学を信じるわけではないが、好不調の波のようなものはやはりあって、日記やブログの更新頻度などを後から確認したら、沢山書いている時期と、なかなか書くことに向かい合えない時期があってそれが分かる。誰に求められているわけでもなく書いているものなど、書きたくない時には書かなければいいのだが、気分の波に流されないためにも、コンスタントに書き続ける訓練はしたいような気もするのだ。


あれを書こう、これを書こう、と考えている材料はあるが、それを文章の形でまとめるための集中力が維持しづらい精神状態が続いている。精神状態なんて大げさか。とにかく、普段以上に、意識があちこちに飛んで疲れてしまい、ただただ受け身の快楽で時間をつぶすだけの日々が続いている。何を書こうと思ったか。そう、正月の日記みたいなものを書いて、助走をつけようと思ったのだ。文章を書くのは集中力を要するのは間違いないのだけど、書き始めると書けるもので、書き始めるということが一番難しい。というようなこともよく言われるが、自分もそう思う。書くことがない、書こうと思うことが書けない時には、内容のことなどあまり気にせずに、書くということを実行しておいて、あとから修正したりして、とにかく文章を書くことが慣れた状態を作りだすことを優先すると、書けるようになるという話だ。


とここまで助走を書いてから、上の方の日記部分を書いた。後から、前後を入れ替えた。15年くらい前のmixiの日記を見直す機会があって、正月っていつも何か書いてたなと思い出し、とりとめもない事でも、とりあえず書いておこうと思った。mixiの日記、ダウンロードして保存しておきたいのだけど、簡単にできる方法、ないかな。

0 件のコメント:

コメントを投稿