2020年9月11日金曜日

『椿の花咲く頃』私論 ~韓ドラを見て頭がおかしくなったオッサンの話

  韓国ドラマ『椿の花咲く頃』を見終わった。自分でも信じられないくらいに夢中になってしまった。頭がおかしくなったのではないか、と疑うほどだった。見終わって丸2日以上経過しているが、感情の高ぶりは続いている。いくつかのシーンを思い出すと、今でも泣きそうになる。このままでは、正常な生活に戻れない。この異常な精神状態から脱出するには、文字にするしかない。頭の中に湧き上がってくる感情を言葉にして外部化し、何とか冷静さを取り戻すしかない。

 というわけで、感情の赴くままに、感想、思い出、言い訳、などなどを書き散らしてみることにした。

 私が韓流にはまったのは、2010年頃からだ。KARAや少女時代がブームになり、自分も彼女たち韓国のアイドルに魅了されてしまった。それまでにも韓国人留学生の親しい友達はいたし、同居人は先に韓国語の勉強をしていたりもいたのだけど、自分が韓国の大衆文化に関心を持つことは一切なかった。韓国への関心といえば、日本の近代史とか、在日コリアンへの差別問題とか、いわゆる真面目な問題へのそれだけだったのだ。90年代に、関川夏央の一連の韓国ものなどは読んだりしたが、韓国は、真面目に向き合わなければいけない、近くて遠い国、というイメージのままだった。コツコツと勉強しなければ成果のあがらない語学は、大の苦手だった。勉強するとしたら、まずは英語だろう、英語だって碌に使えないのに、他の言語なんかできるはずないな、というような認識だった。もっと言えば、外国自体にあまり関心のない、内向きな人間だったのだ。そんな自分が、韓流にはまり、韓国語を勉強しはじめた。自分にとっては、革命的な変化だった。

 関心の中心は、K-popだったが、韓国語の勉強にもなるかとドラマも何本かは見た。テレビで放送されていたものや、定番の『私の名前はキムサムソン』などをレンタル屋で借りて見たりした。日本のドラマと違って、各回が丸々60分以上あり、それが15回、30回と続いたりするから、見始めるとかなりの時間がとられる。面白いといえば面白いのだが、いろいろ見ているうちに、出生の秘密とか、偶然の立ち聞きとか、契約結婚とか、病気からの奇跡の回復とか、財閥の御曹司とチキン屋を営む貧乏なお父さんを助ける娘とか、あとは、都合のいい記憶喪失とか、「そんなわけあらへんやろ」というお約束が何度も出てきたりして、「時間の無駄」をつよく感じるようになり、いつしか観なくなってしまった。韓国語学習も、入門・初級の頃は、新しい世界が広がったような感動があり、ドラマでちょっとしたセリフが聞き取れたりするだけで、なんとも楽しかったのだが、中級以上に進んでくると、徐々に分からないところの方が気になりだしてきた。「いつか字幕無しで見られる日が来たら見よう」なんて言い訳したりして。当然、じっと待っていても「いつか」などやってこない。「いつか」を手繰り寄せるためにこそ、ドラマを見続けるべきだったのだが、根気がなかったのだ。情けない話だ。もともと、映画・ドラマなどのフィクションにはあまり関心がなかったということもあったりして、韓国ドラマからは縁遠くなっていた。

 そんな中、このコロナ禍で『愛の不時着』『梨泰院クラス』が日本でもめちゃくちゃ見られている、というニュースを耳にするようになった。右派で知られるような有名人が、それらの作品の話をしたり、まるで見ている方が普通であるかのような感じになっているようだった。日韓関係は最悪だ、ということが喧伝されている中で、どうなっているのだろう、と気になり始めた。動画サービスなどを利用したことはなかったのだが、半月ほど前、ネットフリックスに加入した。同居人も見たい作品があるようだったし、思っていたよりも全然安かったし。自分は専門として韓国文化を研究しているわけではないが、せっかくこれだけはまっているんだから、何か書いたりできるように努力した方がいいのではないか、という前向きな気持ちもちょっと生まれてきていたので、それも後押しとなった。よし、話題の韓国ドラマを見てみよう、と。

 しかし、加入してすぐ『不時着』『梨泰院』のどちらかを見るのは、何となく抵抗があった。これは、一種の中二病だ。流行りものに簡単に飛びつきたくない(結局、飛びついているのだが…)、せめてワンクッション置きたいという気持ち。じゃぁ何から見るか。最初の目的から離れて、全く関係ないインド映画をちょっと見てみたりもした後で、選んだのが、去年韓国KBSで放送された『椿の花咲く頃(동백꽃 필 무렵)』だったのだ。ネットフリックスの「日本で今見られているベスト10」に入っていた。それにしても、韓国ドラマはすごいですな。ベスト10の半分以上が韓国ドラマで、あとは日本のアニメ。そういえば、私は、アニメも大人になってからは全く見なくなってしまっている。高校生までの将来の夢はマンガ家だったりしたのだが、どこかの時点で、マンガもあまり読まなくなり、アニメは絵柄が全く受け付けなくなってしまったのだった。なんて話はどうでもいい。『椿の花咲く頃』の話だ。

 この作品が話題作だということは知ってはいた。去年、韓国で放映中、twiceのメンバーがファン向けのvliveという配信サービスで「今見ているドラマ」として話していたからだ。ドラマのセリフの中に、twiceメンバーの名前が出てきた、ということがニュースにもなっていた。その時に、そのシーンだけ動画を探して確認したりもした。主演女優は、コン・ヒョジン。彼女が主演の『プロデューサー』は視聴済みだった。テレビ局を舞台にしたドラマで、韓国人の友達に「まぁまぁ面白かった」と紹介してもらって見たのだ。芸能界好きのミーハーな私には向いているだろうと。詳しい内容は忘れたが、普通に楽しかった。コン・ヒョジン演じる主人公も大変魅力的だったので、後で、どんな女優か調べてみたが、作品のイメージと全く違って、ちょっと驚いたことを覚えている。左の肩にバッチリタトゥーを入れていたり。別に彫り物くらい好きに入れたらいいとは思うけど、俳優としていろんな役をやるだろうに、邪魔になると考えないのかな、理解できんな、という違和感はあった。でもまぁ、作品内では好印象だったし、今度のも悪くないんじゃないか、ということで見始めたのだ。 

 一応、簡単にストーリーと設定を説明しておく。コン・ヒョジン演じる主人公のトンベク(椿)さんは、未婚の母だ。小学生の男の子がいる。オンサンというカニで有名な日本海沿岸の田舎街に7年前にやってきて、カメリアという名前の居酒屋をやっている。30代半ばの美人。街の男は皆トンベクが好きだが、未婚の母であり、水商売的な仕事をしている女という偏見から、悪い噂を流す連中も沢山いる。ここに、正義感の固まりで、まっすぐな性格の男主人公ヨンシクが登場。オンサン出身で、子供の頃から自発的に悪い奴を捕まえたりしているうちに、公務員試験を受けずに警察官に抜擢されたという、さわやかで無鉄砲なお兄さんだ。ソウル勤務だったが問題をおこし左遷され、故郷オンサンの巡査となった。そこで、トンベクに出会い、彼女の美しさ、強さに惹かれ、猛アタックを開始する。子どもがいる、その父親は有名な野球選手で家庭もあるがトンベクとの思い出が忘れられず復縁を迫ってくる、トンベクにはこの野球選手と大恋愛の末に破局した過去が大きな傷となりもう恋愛など懲り懲りという意識がある、ヨンシクの母親は街の商店会のドン的存在で豪快な心優しい女性だが子持ちのトンベクと我が息子が結婚することにはどうしても許容できない気持ちがある、などなど、いろいろ障害がありつつも、ヨンシクのストレートな愛情にトンベクも次第に心惹かれていき、やがて結ばれる… というのが、大きな筋のひとつ。いろんな面白キャラが登場して、ギャグっぽいシーンも多い、いわゆるラブコメなのだが、ここに連続殺人事件という重たい設定が加わっている。どうやらトンベクも狙われているらしい。犯人は誰なのか、犯人とトンベクにはどんな因縁があるのか、ストーリー上はこのサスペンスが本線になっている。さらに、もう一つの筋として、親子関係物語もある。元気で時にけなげな8歳の息子ピルグとトンベク、ヨンシク、父親他との関係は、子役の演技力も加わって見どころの一つになってる。また、トンベクは7歳で母親に捨てられ、施設で育ったという設定になっていて、途中でこの母親が戻ってくるのだが、小さい時に受けた「捨てられた」というトラウマをどうやって回復していくのか、という筋もまた重要なテーマなのである。こうやって説明していくと、おかずが多すぎという気もするが、うまくまとめられていて、見ていてそれほどは違和感はない。

 私は、見始めて数回くらいで、この世界に引き込まれてしまった。たった20回で終わってしまうのか、終わったら絶対に喪失感があるだろうな、できるだけゆっくり楽しみたいな、一気に見るのはやめておこう、と思うほどだった。何がそれほど良かったのか。

 そのことについて、これから縷々述べていこうとしているのだが、まずは、主人公トンベクに惹かれた、ということはある。街のオッサンがことごとく好きになるんだから、見ているオッサンも好きになるようになっているに決まっているのだ。そして、ラブコメ要素の心地よさ。「いわゆるラブコメなのだが」なんてさっき書いたが、私は、ラブコメが大好きなのだ。というか、大好きだったのだ、ということを今回、強烈に思い出した。最近は、書いてきたように、ドラマも映画もマンガも見ておらず、面白そうなラブコメをわざわざ探して楽しみたい、なんて欲望は全くない。ただ、一旦その世界に入ってしまうと、抜けられないくらい心奪われる、ということがかつての自分には確かにあったのだ。見始めてすぐに、これは、まさに自分が好きな世界だ、見たかった「夢」だ、と感じた。

 若い頃、夢中で読んだ高橋留美子のマンガ『めぞん一刻』の記憶が蘇ってきた。『椿』と『めぞん』には、いろいろ共通点がある。『めぞん』は、ボロアパート一刻館のさえない下宿人大学生の五代くんが、若くて美人だが最愛の夫を亡くした未亡人である管理人・響子さんに恋をし、その思いが届くまでの過程を、やきもきさせながら楽しませる作品だ。面白キャラクターが数多く登場する、明るいコメディーだが、うっすら死の匂いもただよっている。響子さんは、過去を抱えて生きている。五代くんは、過去を抱えた彼女をそのまま受け入れようとし、響子さんにとっては、五代くんの思いを受け入れることが、過去との和解につながる、というストーリーになっている。この中心の構図など『椿』もそっくりだ。そして、一刻館の変な住民達にあたるのが、オンサンの町の変わった連中、ということになる。響子さんも、トンベクも、過去が影にはなっているけど、性格は結構明るくて、その上、強い。そこに、男がひかれているのも似ている。

 『めぞん』が連載されていた時、私は中高生だった。単行本の新刊が出るたびに、むさぼるように読んだ。次の巻が出るまで、何度も何度も繰り返し読んだ。マンガ家になりたかったくらいだから、当時は多くのマンガをそうやって読んだが『めぞん』は再読した回数が最も多い作品だった気がする。他にもいろいろラブコメの名作はあり、それなりに楽しみはしたが、徹底的にモテない思春期を過ごしていた私にとって、五代くんのさえなさ(実はよく読むと結構モテるのだけど)は自分を投影しやすかったのだろう。自分には経験できない「片思いが成就する過程」を、激しい憧れの気持ちでなぞり代理恋愛をして楽しんだ。響子さんも、五代くんのことが好きになり始めている、ということが分かってくるその雰囲気は、本当に甘美なものだった。社会学を学ぶようになって、ロマンティックラブイデオロギーの注入装置だったんだな、なんて振り返って思うけれども、時代によって恋愛の描き方は変わるし、そういう意味で『めぞん』は時代に合っていたのだろうし、なによりもちろん、高橋留美子さんが格別に上手だったのだろう。

 今回、『椿』を見ていて、あの頃感じていたいろんな感情が、頭の先から、つま先までプルプルと蘇ってくるような感覚になった。はたしてトンベクは、ヨンシクの愛情を受け入れるのだろうか。そりゃドラマなんだから、うまくいくに決まっているのだけど、連続殺人事件とか、自分を捨てた母親とか、その他、先に触れてないものとして、ヒャンミ(薔薇)さんという最初はただのバカな女の子かと思わせていたけど、ものすごい不運な目にあい続けてきたサブキャラの運命とか、めちゃくちゃ重い要素もかぶさって、適度にハラハラさせ続けてくれたのだ。男主人公のヨンシクは『めぞん』の五代くんに比べたら、圧倒的に強く、いわゆる「男らしい」ので、自分のようなオタク的人間に受けるキャラではないのだが、トンベクの元恋人・子どもの父親の野球選手が超高収入のライバルとして現れて、社会的地位では大きく劣る「自分たち側」の代理人として感情移入しやすくなるように仕掛けられてもいる。

 トンベクがヨンシクに徐々に惹かれて行っていることが描かれるシーンは、どれも本当に甘美であった。初めてトンベクがヨンシクに心をゆるし屋台の餃子を食べながら「私たちサム(友達以上恋人未満)になりましょう」と言うシーンや、最初のキスシーンでは、顎関節のあたりから変な液体が溢れてきて、脳内の快楽物質が湧き出てくる音が聞こえてくる、かのような快楽を味わった。嬉しさで涙があふれた。人生で、これほどの幸福感を味わったことあっただろうか、いや、ない、という感じだった。先にも書いたように、じっくり味わいたい、できるだけゆっくり見ようと思い、こういう甘美なシーンは何度も繰り返し再生しなおして見て、そのたびにうれし涙を流した。完全に、自分の頭が壊れている、何か異変が起こっている、という気がしてきた。

 ちょっと横道。何度も繰り返したのは、一応、韓国語で何を言っているかを確認しようという目的でもあった。日本語字幕で見ていたが、聴覚障害者向けの韓国語字幕がついているので、それで再度、確認してみたりした。永遠の中級である自分の韓国語力では、辞書を引いても分からない言葉がめちゃくちゃ多かった。さっきの「サム」なんかは、こういうタイトルの歌がヒットしたのを知っていたからわかったけど、俗語的表現は本当に難しいなと改めて思った。字幕なしで韓国ドラマを、なんて本当に果てしない「いつか」の夢だ。ただ、少しは勉強していたからこそ、細かい部分で楽しめたところもやはりあった。影の主人公、連続殺人犯は劇中で「カブリ」と呼ばれている。犯行現場に「ふざけるな(カブリジマ)」というメッセージを残す犯人ということでついたニックネームだ。無理に日本語にすると「フザケ」とかになるか。で、これをネットフリックスの字幕は「ジョーカー」と訳していた。あの映画のイメージだろう。最後まで見ると、何となく訳の意図は分かる(私は『ジョーカー』未見ですが)のだが、少し違和感はあった。先に書いた、twiceのメンバーの名前が出てきたシーンでは、ただ「アイドル」と省略されていた。少年野球の練習をしているトンベクの子どもが、「ボクのお母さんは、ツゥイに似てるってみんなに言ってたんだ」「ダヒョンみたいにお団子頭にしてきてよ」とトンベクにおねだりするという折角のシーンなのに、twiceファンとしては物足りなかった。あといくつか固有名詞がギャグとして登場したが、省略が多かった。推理をするシーンで「コナンになったつもりか」なんてのもあったが、訳されていなかった。

 閑話休題。このように、ゆっくりゆっくり、1話60分を90分くらいの時間をかけながら、同時に脳内の異常を感じながら、楽しんでいった。

 「甘美に歓喜」のとどめはトンベクの発した「サランヘヨ」だった。カブリの仕掛けた罠にはまったトンベクを命がけで救ったヨンシクは、ヤケドを負って病院に運ばれている。駆けつけるトンベク。ヨンシクは、ここでトンベクにプロポーズの言葉を伝える。トンベクは答える。「ヨンシクシ、サランヘヨ」。この「サランヘヨ」には、意識が飛ぶかと思うほどの感動を味わった。今これを書いていて、自分はホンマになにを書いているんだろう、と思う。それなのに、このシーンを思い出すと、今でも、まだ涙が出そうになるのだ。ドラマでも何度も出てきた韓国語「ミッチョッソ」「ミッチョンナバ」。狂ってる、狂っているみたい。ミッチダは、関西弁の「アホ」のように、いろんな時に使える便利な言葉だ。crazy for youという意味で愛の言葉としてもつかえる。私は、このドラマ世界がアホみたいに好きになり、本当のアホになってしまった。

 しかし、ここで少し考える。私は、これほど「恋愛」が好きだっただろうか、と。確かに、若い頃にラブコメは好きだったが、それ以降、恋愛映画などを好んで見たことはほとんどない。たとえば、恋の相手が「お嬢さん」だったりしたら、とても見る気はしないはずだ。ただの女性の好みの問題か…。前述のように、トンベクさんは、オッサン好みに描かれているし。

 自分の内面を振り返ってみて、かつ、『めぞん』との連想を合わせてみると、私は「過去のあるマドンナ」という設定に弱かったのだということに気づいた。「過去」を乗り越えての「サランヘヨ」に参ってしまったのではないか。

 ところで、「過去」ってなんだろう。 

 『めぞん』の響子さんは、未亡人だった。亡くした惣一郎さんという夫の名前を飼い犬にまでつけるほど、響子さんの心から「過去」は離れない。五代くんにとって、響子さんの過去は、絶対的な恋敵として登場する。もっとも、高橋留美子のギャグ世界では「未亡人」という設定は、「宇宙人」「巫女さん」「妖怪」と同様の、キャラ的味付けにすぎなかっただろう。しかし、物語が恋愛物語としてシリアスになっていった最後には、ちょっと違う意味も持ってくる。五代くんは、田舎の出身で東京のアパートに下宿しているのだが、響子さんとの結婚を決め、田舎の両親にそれを伝える、というシーンがある。そこで、響子さんの方が、自分が再婚であること、初婚の息子が「過去」のある私と結婚することを五代家は許してくれるだろうか、と心配するシーンがそっと挟まれているのだ。世間的価値観でいえばマイナスととられる「過去」。コミカルに進む、五代くんの片思い時代には、そんな部分は全く描かれていないが、リアリティを出そうとなるとどうしても挟まなければいけない一コマなのだろう。

 ずっと、響子さんが大好きだった五代くんは、響子さんの「過去」を、そういう意味で気にするそぶりはない。しかし、気にしないという形で、気にし続けているとも言える。「過去」は、恋愛感情を盛り上げるための三角関係の一角を形成しているのと同時に、「世間の目」という「愛」によって打ち倒すべきもう一つの敵の役割も果たしている。自分は過去を気にするような男ではない。自分の愛で「過去」を乗り越えて見せる、というある意味マッチョな、自己陶酔的自己超越意識。「世間の目」からは、響子さんの「過去」は「傷」だ。「世間の目」は、両親だけでなく、五代くん自身も持っているはずだ。そして、五代くんが、響子さんを好きなのは、何といっても彼女が美人だからだ。美人だけど過去がある。美人だけど「傷」がある。その傷を、僕は「気にしない」。美人が良いということと、過去が傷だということは、同じ価値観の平面にある。自分も傷を与える側に立っていながら、相手の過去を「傷」として数えあげた上で、自分で勝手に葛藤を乗り越えた気になって快楽を得ているとしたら、何と身勝手なことではないか。

 『椿』でも同じだ。トンベクは、誰もが振り返る美人であり、ヨンシクは書店で見かけて一目ぼれするところから恋が始まるのだ。前述のように、徐々に人間性にも惹かれていく姿が描かれているのだけど、何といっても、かわいいから好きなのだ。美人だけど、未婚の母である。美人だけど、親に捨てられたという過去がある。美人だけど、殺人犯に狙われるほどの不幸を抱えている。彼女の「過去」に対して、あからさまなマイナスのまなざしを向けるのは、物語の中では、彼女に性的な関心を抱かないですむ、街のうるさ型の「おばさん」たちということになっている。ヨンシクの母親は、一般論としては「未婚の母で何が悪いのか」という、新しい価値観を受け入れているのだが、いざ我が息子が「子連れ」と結婚するとなると、どうしても超えがたい一線があり、それが優しい彼女の葛藤の種となっている姿が描かれている。ヨンシクの母親にとって、トンベクの過去は「傷」だ。母親の強烈な影響を受けているヨンシクも、絶対的にその価値観は共有しているはずなのだ。

 だけど自分は好きなのだ。愛しているのだ。だから傷など気にしないのだ。 

 ヨンシクは、トンベクにストレートな肯定の言葉を数多く与える。世間の目など気にするな。あなたは素晴らしい人だ。ひとりで子育てしてきたのは大変立派だ。お店を切り盛りしていることも尊敬に値する。これからのあなたには素晴らしい未来がきっとまっている。そして、あなたは、誰よりも、美しい。だから、「過去」など気にしてはいけないよ。

 これは、ヨンシクが自分自身に言い聞かせている言葉のようにも聞こえてくる。自分が気にしないことによって、あなたは変われる。こうやって書いていると「自己啓発セミナー」そのままの世界ではある。男のマッチョな欲望の発露に、そして、相手を上から導こうとする、押し付けがましい言葉に聞こえなくもない。

 だが、しかし。このような肯定の言葉が、彼女を勇気づけていく姿は、とてもとても感動的だった。「世間の目」に傷ついた相手に、目の前に立っているだけで自分も世間の一員として、さらに傷を与えかねないような、そんな関係性なのだとしたら、それを変えるのに言葉を使う以外にどんな方法があるというのか。

 トンベクが発した「サランヘヨ」に感動した時、見ている自分は、トンベク側の気持ちにシンクロしていた。片思いが成就したこと、つまり、美人のトンベクさんに「サランヘヨ」と言ってもらえたことではなく、彼女が「サランヘヨ」と言えたことに感動したのだ。私が、トンベクだった。『めぞん』を読んでいる時は、自分は、ずっと五代くんでしかなかった、と思うのだが。 

 自分は、今、何を書いているのか。よくわからなくなってきた。しかし、これを書きながら自分はさらに感動し続けている。どうも、このインチキな精神分析の真似事みたいな作業が、自分自身の意識に、変な作用を与えているようだ。 

 それにしても、泣くほどのことか。

 韓国ドラマの定番「サランヘヨ」で、なんでこんなにおかしくならなければならないのか。考えてみたら、『めぞん』を泣きながら読んだ記憶などない。どっぷり嵌っていたが、二人の関係にドキドキしていただけで、いわば恋に恋して、甘酸っぱい思いを感じていただけで、感極まるなんてことはなかったのだ。

 これは、ひとつには、歳のせいだろう。 

 前述のように、『めぞん』を読んでいたのは、10代半ばから後半の時期だった。ラブコメに影響をうけて、片思いはしょっちゅうしていたが、告白して成就する経験は全くなかった。大学生になると、自分にはそんなことはもう起こらないだろう、とあきらめの意識が先行し、物語としての恋愛を消費するのも嫌になっていた。幻想だけを植え付けやがって、実際には、そんなことないやないか。そんな気持ちだった。

 それから、およそ30年。今、自分は同居人と暮らしている。20年くらい前に知り合って、今では文字通り同居人として、ただ一緒に暮らしているだけになっているが、そうなるあれには、それなりのあれがないこともないではなかった。たいしたあれではないけれど…。先に書いたような、男の身勝手な「俺は過去を気にしない男だ」的自己陶酔は、自分の中にも多分にあった感情だ、ということを、『椿』を見ていてやはり思い出した。

 こんなことを書くと、私がまるで「過去のある美人」と暮らしているようだ。もちろん、そんなことはないのだが、でもしかし、そんなことないこともないとも言えるのだ。現実に生きる人間で「過去」のないような、ツルっときれいに剥けたゆで卵みたいな人なんかどこにもいない。そして、また、自分のような凡夫は、自分が見つけた相手のお気に入り部分を愛でて好きになっているに決まっているのだ。この人のこういう部分は「傷」かもしれない、でも私は気にしない。なぜなら、ここがカワイイから。世間の価値観に乗っかってしか他者を見られないくせに、傷をつけることに加担しているくせに、偉そうにそこから超越したかのような顔をして、それを自分だけで納得して、相手にちゃんと向かい合っていると勘違いをする。自分に、そういうところはあったんじゃないの。ずっと、そうなんじゃないの。ドラマを見ていて、過去の自分の姿がチラチラと記憶の奥底から漏れ出てきたことが、なんともおぞましいような、それでもやっぱり甘酸っぱいような、複雑な感情の動きに結びついた、ような気がする。 

 『めぞん』を読んでいた頃、恋愛感情をベースに他者と向き合い、人間関係をつくり、コミュニケーションしていき、関係性が変わっていくという経験は、憧れの未来の姿だった。あきらめていた、とは言いながら、いつか、どこかで、そういうこともあるかもしれない、と妄想することはできた。今、『椿』を見ている自分にとって、そのような経験は、はるかに昔の「過去」のものとなっている。もう絶対的に経験できない、失われたものだ。それこそ『めぞん』を憧れながら読んでいた経験自体がそうだ。これらの自分の過去が、取り戻せない意味深い何かとして、ちらちらと心を揺さぶりつづけた、という側面はあると思う。 

 でもしかし、いくらなんでも泣くことはないだろう。普通、恋愛関係で泣くのは失恋の時だけだ。なぜ「サランヘヨ」で泣くのか。そう考えると、この『椿』を通して感情が揺れまくった経験は、ほとんど失恋のそれに近いような気もしてきた。ものすごく素敵なものを見せられたのに、自分にとって、それは終わったことで、もう取り返せない過去なのだ。涙を流して浄化されたような部分もあるが、とにもかくにも、この間、私は大変疲れた。そして、今、こうやって、訳の分からない文章を書き殴り(一応、読んでもらおうと整理したりしつつ)大変なエネルギーを浪費している。最初に書いたように、こうしないとどうしようもなかったからだ。

 大学生の時くらいから、このような「自分の内面を書き殴る」という文章はたまに書いてはきた。最初は、失恋がきっかけだった。失恋と言っても、自分がまともに付き合った相手は今の同居人だけなので、告白してふられただけだった。それでも、めちゃくちゃ傷ついた。世界の終わりみたいな気になった。勉強もバイトも手につかなかった。そうだ、ここはひとつ、ノートに思いのたけを書いてやれ。ということで、本当に幼稚で自分勝手な駄文を、とにかく長々と書き連ね、それによって、ぐちゃぐちゃした感情を外部化して整える、ということを行った。確実に効果はあった。今、まさに、これを書いているのは、失恋の痛手から立ち直りたい、という気持ちとすごく似た感情からのように思う。

 などと、大げさに言ってはいるが、世間でよく言う「何とかロス」に過ぎないか。はまったドラマが終わって、こういう感情になるなんて、取り立てて言うほどのことではないな。

 とにかく、ドラマや映画などのフィクションを楽しむことも含め、自分が経験している「今」は、未来と過去が折り重なる地点にあり、面白かったなり、感動したなりの感情は、そういう自分の過去とリンクしたもので、素晴らしい作品は、自分の過去の見え方を変えてくれたり、忘れていた部分を思い出させてくれるものだ、という当たり前を、強烈に思い知らせてくれる、そういう視聴経験だった。

 しかし、こんなにしんどいなら、もう当分、フィクションを見るのは控えたい、そんな気持ちにもなっているのだが。

 さて、では、この『椿の花咲く頃』というドラマは、名作なのか。自分にとって、強烈な経験を与えてくれたということは、書いてきた通りだが、多くの人におすすめしたい作品か、と聞かれると、正直、全く分からない。自分にとっては、こうだった、というだけだ。これは『めぞん一刻』も同じかもしれない。今、未読だという人に「面白そうだから読んでみますね」と言われても、別に読まなくてもいいと思うよ、と答えるだろう。あの時代に、あの頃の自分が読んで面白かった。ただ、それだけなのだ。 

 『椿』に戻る。実は、ここまで感動感動と書いていながら、夢のように楽しみつつ、じっくり味わって鑑賞したのは全20話中の15話くらいまでだった。最後の5話は、一晩徹夜して一気に見た。ストーリーの結末が見えてきた、というのもある。あまりにも夢中になりすぎて、体力がもたなくなり、早く結末をつけよう、と思ったということもある。しかし、若干醒めてきた、というのが一番の理由だと思う。

 この頃になると、二人の関係は出来上がり、恋愛物語としての楽しみは落ち着いてしまった。残りは、サスペンス要素となり、そうなると「早く結末が見たい」という、普通のドラマ鑑賞時の心理に近づいていった。そして、もう一つの重要な筋だった親子物語が、正直、かなり鬱陶しいものに感じてきたのだ。 

 ヨンシクの愛情はトンベクの支えとなり勇気づけていくのだが、彼女の強さの核には、何といっても「子を持つ母親である」ということがある。子どもがいる、という絶対的な幸福感、使命感が彼女の土台を形成している。かつて、我が子を捨ててしまったトンベクの母親の苦悩物語とリンクして、後半は「お母さん、お母さん、お母さん」の連続で、正直、辟易してくるほどだった。ヨンシクの母親の葛藤、その他、韓国ドラマの定番、嫁姑問題がこれでもかというほど散りばめられてもいる。親の情愛は強烈なしがらみとして、しかし、とても素晴らしく尊重すべきものとして、繰り返し描かれている。

 親子の感情は、普遍的な要素が当然ありつつ、やはりとても面倒くさいものだ。だからこそ、それが型として強調されてしまうと、道徳的なメッセージがしつこくなってしまう。

 書いてきたように『めぞん』を読んでいた頃と『椿』を見ている今との間で、恋愛感情的なものは自分も少しは経験した。しかし、子どもを持つ経験はない。持とうとも思わずに生きてきた。その経験があった人、今まさに「親」である人にとって、『椿』の親子関係物語は「サランヘヨ」同様、身に染みる、心揺さぶられるシーンの連続だったのかもしれない。もちろん、私も全く感動しなかったわけでもないが、どこかで「お話」として、距離を感じてしまう部分だった。

 前述のように、『椿』にはヒャンミという重要な登場人物がいる。トンベクが切り盛りしている居酒屋カメリアでバイトをしている女性だ。最初は、気楽で能天気な女の子としか見えないのだが、だんだん、彼女がどれほど不幸な生き方をしてきたのかが明らかになっていき、物語の影の要素を一身にまとい、気の毒すぎる結末をたどっていく。トンベクと同じように、大変不幸な子ども時代を経験しており、それが原因となって、幸せになれなくなってしまった人物として描かれている。世間によって印付けられた「不幸」の記号、「死んでしまえばいいのに」という「呪い」の言葉から逃れられなかった運命。同じく世間から「不幸」と呼ばれつづけながら、それを乗り越え、違う運命を手繰り寄せていくトンベクとの違いは、究極のところ「子ども」のあるなしだ。トンベクは、絶対的な存在である子どもを持つこと、そして、その子どもに愛情を注げることによって、湧き出してくる勇気をベースに、世間から貼られたラベルを自ら引きはがしていくのだ。ヒャンミが最後どうなるかについては、もしかしてこれからこのドラマを見る人もいるかもしれないので、これくらいにしておく。(今さらネタバレもクソもない気もしますが…。)とにかく、「子ども」一点でこの違いは、あまりにも酷じゃないのか、と見ていて思わざるを得なかった。

 いい歳こいた大人が、こんなドラマひとつに泣いたり喚いたりして、やっぱりあれですかね、子どもがいないからなんですかね、大事な経験が出来なかったから、大人になれなかったんですかね、悪かったですね、と嫌味のひとつも言いたくなってしまう。

 「ラスト」もいろいろ疑問が残った。「まとめ」に入らなければいけないのは分かるが、多くの人々が誠実に協力してくれるという「奇跡」が起こって、不治の病が治ってしまったり、最後の最後には「あれから何年後…」という連続ドラマ定番のシーンがあり、子どもが大リーガーになっていたり、そこまで安っぽくやられると、あの心揺さぶられた感動を返してちょうだい、と言いたくならないでもない。これが大衆ドラマゆえの宿命なのだろうけど。本当にあの「あれから何年後…」は、やめてほしいな。ハッピーエンドはうれしいのだけど、これから素敵な未来が待っているだろう、くらいの所で止めておいてくれたらなぁ、というのが、オッサンの希望するところであった。夢がさめてしまう。もしかしたら、観客を現実に返すため、夢からさまさせるためにあえて挟んでいる仕掛けなのかもしれないが。 

 あともう一つ、「カブリ=ジョーカー」のこと。犯人が誰だったかについても、詳細は書かないでおくが、「ジョーカー」と訳されていた通り、世間に疎外されているという意識に苛まれ、世間への復讐を企てての犯行だった、ということになろうか。もちろん、身勝手な蛮行に違いないのだけど、犯人がトンベクに憎しみを抱いていく気持ちには、共感してしまう部分がある。自分が『椿』世界の住人だったとしたら、トンベクさんの心を動かす、さわやかな巡査・ヨンシクになど絶対なれず、あきらかにカブリ側にいるはずだから。(まぁ、実際には、トンベクをチラチラ盗み見しながらカメリアで酔っぱらっているだけの、その他大勢街の人か…。)そんなカブリが、最後、正義の固まり・ヨンシクに言葉をつきつける。自分が捕まっても、自分のような憎しみを抱えた人間はいくらでもいるのだ、という趣旨の。これに対する、ヨンシクの、そして物語全体の応答は、簡単に言うと「悪い人より良い人の方が絶対数として多い」という、何とも拍子抜けするほどボンヤリしたものだ。トンベクやヒャンミが苦しめられてきたのは、世間を形成する「みんな」の白い目だったはず。それなのに、「みんな」には良い人が多く、「みんな」は奇跡を起こせるのだ、なんて適当なことを大きな声で言われたら、「そ、そうですね…」と口ごもるしかない。

 『椿の花咲く頃』を手放しで「名作」と言えない、もう一つの理由は、自分にとってこれが面白かったのは、あくまでも「韓国ドラマ」だったから、だと思うからだ。「名作」をどう定義するかは分からないが、普遍的な価値を持つものだと考えるなら、どこの国のどんな人にも通じるものでなければいけないだろう。

 私が日本のドラマをあまり見たくないのは、細かな違和感に耐えられないと思うからだ。こんな奴いないだろう。これはステレオタイプすぎるだろう。何というウソ臭いセリフだ。もっと多くの作品を見てから言え、という話ではあるが、「ここ」での現実については、自分自身で持っている強固な実感があり、それが「ここ」を舞台にした創作物をストレートに楽しむことを邪魔している。若い時の方が、いろいろ素直に楽しめたのはそのためだろう。小説などでも、私は、古典になっているものの方が、読む時の苦痛はかなり少ない。違和感は、文化の違いとしてカッコに入れることができるから。「この時代は、こうだったんだな」と。

 韓国ドラマの見やすさもまさにそうで、違和感を感じる要素は、すべて「文化の違い」として処理して、美味しい所だけ味わうことができる、ようになっているからだと思う。もし『椿』が、日本を舞台にした日本のドラマだったらどうだったろうか。たとえば、オンサンの町の「おばさん」たち。大阪を舞台にしていたら、ヒョウ柄の服を着た例の「おばちゃんたち」として描かれたことだろう。がさつで、おっかないけど、根っこはやさしい。とてもステレオタイプなイメージとして。自分が、もし韓国に住む韓国人だったら、ドラマの中のオンサンの「おばさん」たちを、どう受け止めただろうか。「例のイメージ」として、うんざりしたのではないか。

 嫁姑問題もステレオタイプなイメージそのままだった。韓国の親子関係・嫁姑関係は、日本のそれよりも濃度が濃い、ということは知識としては「知って」はいるが、あくまでも教科書的な理解にすぎない。近年、韓国の出生率は日本よりも低くなり、その問題の核には、女性が「嫁」になることを拒否している、ということもあるようにも(これも知識としてだが)聞いている。そのため、濃密だった関係も、近年はもっとフレンドリーに変わりつつあるとも。そういう部分は、このドラマでも全く描かれていないこともなかった。未婚の母の純愛物語という設定自体、現代的なものだろう。それでも、これが韓国のリアルをどこまでうまく表現できているのかは分からない。日本から見ている自分の場合は、これらのステレオタイプすべてを「韓国ドラマの例のアレだな」と簡単にカッコに入れらるけど。

 そもそも、私が撃ち抜かれたトンベクさんの「サランヘヨ」も、もしこれが日本語の「愛してる」だったら、とてもまじめに受け止められなかったはずだ。いい歳をしたオッサンが、愛のセリフに素直に感激できたのは韓国語だったからだ。そして、それは単に外国語だから、ということでもない。アイラブユーでもウォアイニーでも自分にとってのこの効果はなかった。すごく近く、重なる部分も多いけど、それでもやっぱりずれがある、そういう微妙な異国の言葉としての「サランヘヨ」だったから、心に沁みたのだと思う。 

 韓流に初めて出会ったころを思い出す。当時の自分にとって、韓国を知っていく喜びは、パラレルワールドの発見のそれに近かった。最近の若い人は、違うと思う。もっとストレートに、カッコいいもの、カワイイものとして出会っているのだろう。でも、自分の場合は、やはりこういうところがあった。こんなことを言うと、まるで、韓国が日本より少し遅れていて、それが郷愁を誘った、というような『冬ソナ』ブームの頃に語られた、ステレオタイプな認識を繰り返しているように思われるかもしれないが、それは全く違う。遅れているとか進んでいるとかではないのだ。嫁姑関係や、都市の地方の関係などドラマでの世界観だけで見ると「かつて日本にあったもの」のように見えなくもないが、前近代文化の残存っぷりを言えば、日本のそれは、現代韓国をはるかに凌駕しているだろう。前後というより、やはりズレなのだ。

 人々の見た目も、街並みも、こんなに似ている。少し勉強したら分かるが、言葉も本当に似ている。似ているが、かなり勉強しても字幕無しでドラマを楽しめるまでにはなかなかなれない、はやり完全な外国語である。こういう、近さと遠さが、日本から韓国大衆文化を楽しむ際に大きな役割を果たしていると思う。ネットフリックスはアメリカのサービスである。『パラサイト』やBTSの欧米での成功を見れば、このような日本的韓流消費自体、ローカルなものになっているのは理解できる。私がここに書いた認識は、植民地主義の残滓が反映しているのかもしれない。それについては、これから本当に考えていきたいが、とりあえず、今、私がどうしてもやりたいのは、私にとっての『椿』の衝撃の理由を考える、ということなので、今後の宿題ということにさせていただきたい。 

 話を戻す。純愛物語も、アイドルも、日本の「私たち」はすでに知っていた。知っていて、「こんなものだ」と思っていたものを、ちょっと違う角度から見直させてくれた。そして「手あかのついた日常」を再生させてくれた。韓流に出会うという経験は、回心とでもよべるような宗教的体験だった。

 日本の大人は「愛してる」なんてもう楽しめないのだ。そのこと自体を、私は、全然寂しくなど感じない。大人になるということは、そういうことだからだ。こんな言葉を恥ずかしくもなく口にしているのを見たら、それが作り物のドラマであったとしても「ウソつけ」としか思えないだろう。これは「愛」という言葉が、「ウソがない」ことを象徴する言葉であることの宿命だ。現実の人間関係には、ウソとホント、誠実と打算が混ざり合っている。瞬間的にしか、ホントまみれにはなれないのだ。数学の点のようなもの。その点を「愛している」という発話で表現しようとした瞬間、ごくごく短い時間の間にウソが混ざってしまうのは絶対に避けられない。だから、普通、「愛している」は、社会契約の言葉として使われる。愛しているから、これから暮らそう。愛しているから、お金をちょうだい。愛しているから、勘弁してくれ。でも、本当に聴きたい「愛している」は、今、私の心の中は「愛」でいっぱいなのである、ということを正直に表明した「愛している」だろう。日本語の「愛している」をそのように使うことは、もう無理なのだ。少なくとも私には。だけど、「サランヘヨ」には、それができる。

 もちろん韓国語文脈での「サランヘヨ」なんて、めちゃくちゃ手あかにまみれている。日本語の「愛している」の比ではない。アイドルはファンに向かって、簡単にサランヘヨ、サランへ、と口にしている。親への感謝もサランヘヨ、社長、PDさん、スタッフの皆さん、スタイリストのお姉さんたち「サランヘヨ」、サランヘヨの大安売りだ。しかし、韓国語が遠くて近い外国語である者にとって、サランヘヨは、未だにピュアで美しい言葉として使えるのだ、ということを今回私は『椿』視聴を通して体感したのだ。もちろん、脚本とコン・ヒョジンの演技力のおかげだろう。韓国でも視聴率が良かったのだから、韓国語ネイティブの人たちも、トンベクの「サランヘヨ」を楽しんだことだろう。だけど、自分は、彼らよりもっとピュアに「サランヘヨ」を浴びたはずだ、という確信がある。 

 というわけで、何とか、頭の中を書き出してみることができた。先にも書いたように、ドラマを見た私は、完全にミッチョンナバ(おかしくなったみたい)だ。ここで、不運なヒャンミ役をやっていた、ソン・ダムビについてちょっと紹介を。彼女は歌手として有名で、2008年に発表した曲は大ヒットをしている。タイトルは「ミッチョッソ(crazy)」。『椿』鑑賞中、あまりにヒャンミが気の毒な展開になってきたため「この人はヒャンミではないのだ、ソン・ダムビなのだ。ソン・ダムビが演じているだけなのだ」と言い聞かせなければいけないくらいだった。女優としてのソン・ダムビには「何も考えていないアホな女の子」役という定番のイメージがあった。それを踏まえての見事なキャスティングだったと思う。自分もすっかりだまされた。

 最後まで見終わった後、トンベクさんの呪縛から逃れるため、コン・ヒョジンが女優としてインタビューされている動画をちらっと見た。値段の張りそうな座敷犬を膝に抱いてカッコつけて話をしていた。とても苦手なタイプだ。ルックスも福原愛ちゃんタイプというか、丸い童顔っぽい感じで、これまた、私は、どちらかというとアジア系のスッとした感じが好きなので(知らんがな)、ぜんぜん好みではないのだが、それでもやっぱりトンベクさんが重なってドキドキしてしまう。ファンミーティングがあったら、行ってしまいそうだ。

 生まれてこの方、タバコと酒以外の薬物に手を出したことはないが、幻覚を見る系の薬をキメたら、もしかしたら、こんな感じなのかな。それくらい、『椿』を見ている間、見終わった後しばらくは、情緒不安定になっていたが、これを書いたことで何とかそれから抜け出せた気がする。通常こういうものは、自分のためだけに書いて引き出しに仕舞っておけばいいのだろうけど、どこか公共性のかけらがあるんじゃないかと思って、こういう形で公開することにしました。ということで、書き殴った後に、一応かなり手は入れましたが、異常なテンションで書いたものであることは間違いないです。

 お客様の中にお医者さんがいらっしゃいましたら、私がどんな病気にかかっていた(る)のか、教えていただけたら幸いです。

2020年9月2日水曜日

西長堀から難波、心斎橋


 ミナミ方面に行った。昨年末以来か。関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史をなかったことにしよう、という動きに反対するアピールがあるとツィッターで知り出かけることにする。尼崎に引越して、大阪に出てくるのに電車賃がかかるようになった。長い間、自転車圏だったので、大きなハードルになった。仕事があれば、移動の途中で立ち寄ったりするが、4月以降は遠隔になってそれもなくなった。コロナがどれほど流行しているかわからない人混みに用事もないのにわざわざ出かける必要もなく、足が遠のいていた。抗議の趣旨に賛同したのはもちろんだが、出かける目的地が欲しいという気持ちもあった。その前に、大阪市立中央図書館に寄ろうと思った。梅田から御堂筋線で難波まで向かう。それなりに乗客はいるが、あの御堂筋線だ、と思うと3割減くらいには見えた。千日前線に乗り換え、西長堀へ。久しぶりだ。去年、一回くらい来た気はするが、覚えていない。これまでノーチェックだった韓国現代文学を読もうという気になって、いくつか見繕って借りた。椅子や、検索マシーンの数を減らして、滞在時間を短くする工夫がなされていた。来館者は、かなり少ないように見えた。時間がなかったので、滞在20分くらいで引き上げる。貸出カウンターでのやり取りも、カードは手渡ししないなど、感染防止の工夫がなされていた。あれでも職員は、怖いと思う。トイレで入念に手洗いをしてから、外に出る。地下鉄代を浮かすために、難波まで歩く。久しぶりだから散歩したいという気持ちもあった。西長堀のあたりは、いつか住んでみたいと思う地域だ。街中なのに、普通に生活している人も多いように見えるし、難波まですぐだし。道頓堀を眺め、ミナミに来たな、という気になる。久しぶりに歩くと、それなりに旅行気分になれないこともない。25分くらいでにぎやかなエリアに。新歌舞伎座の前のあたり、御堂筋に自転車道が整備されていた。それ以外は、それほど変わっていなかった。ただ、人出はかなり少ない印象だった。会場に近づくと、拡声器でアピールする声が聞こえ、人だかりができているように見えたから、思ったより多く参集しているのかなと期待感が沸いたが、アピール場所の横に大きな喫煙所があり、そこに人だかりができているだけで、アピールに参加している人は20人くらいだった。前にも似たような趣旨のアピールがあって来たが、その時よりもさらに少なかった。ツィッター知り合いにリアルで初めて挨拶したり、スピーチをしていた知り合いにも挨拶して、一応、参加している顔をして立っていた。喫煙所に向かう人々は、怪訝な顔をして通りすぎるだけ。怪訝な顔をする人は、まだマシかもしれない。拡声器をつかって話をしている前を、まるで、そこに誰もいないかのようなそぶりでタバコを咥えながら通りすぎる人も何人もいた。たぶん、本当に見えないのだろう。ミナミの街は、コロナの前までは、中国人、韓国人を中心に多くの外国人観光客でにぎわっていたが、ほとんど見かけなかった。数カ月で、すっかり変わってしまった。街中に、中国語、韓国語表記が増え、それに対して排外主義者がいちゃもんをつけてきたが、現状では、ほとんど無意味で役立たないものになっている。まるで、排外主義者が勝利した後の街のようだ。今回のテーマとも関連して、寒々しい思いを抱いていたら、スピーチをしている前を携帯で電話しながら若い女性が通り過ぎた。韓国語だった。ファッション、雰囲気からいかにも今どきの韓国人女子だったが、留学生だろうか。彼女も、何の集会であるか、一ミリも興味はないような感じで通り過ぎていった。何となく、可笑しくなり、また韓国に行きたいな、いつ行けるのだろうか、と思った。久々だったので、うろうろしたかったから、うろうろしてみた。精華小学校の跡地には、家電量販店のエディオンがオープンしていて、派手に客を誘っていた。インバウンド目当てのもので、中国語で大きく免税と掲げてある。当然ながら、閑散としていた。何度か行った立ち飲み屋の赤垣屋を覗くと、それなりに密な感じで、あえてここで危険なことをしなくてもいいかと、一杯飲むのはやめておいた。中央大通りを渡る。今週のベストテンか何かを紹介する液晶パネルでは、GLAYの新曲が流れていた。息が長いな、と思いつつ、戎橋まで行く。寂しい、と言うほど空いている訳ではないが、去年の暮れに来た時に比べたら、3分の1以下という感じか。キャッチの兄ちゃんがむなしく立っていた。戎橋から、グリコの看板を眺める。大勢の観光客が嬉しそうな顔で写真を撮りまくっていたのがうそのようだ。ぼんやり見ていると、橋の下の道頓堀から軽薄な音楽が聞こえてきた。船を借り切って、パーティをしている連中が、マイクを使って騒いでいた。「大阪、ナントカ~フォ~!」と訳の分からないことを叫びながら、私たちはバカですよと全力でアピールしていた。バカだけど、金は持っているのだろう。心斎橋の駅まで北上する。8時半とは思えない寂しさ。心斎橋筋でこれ、ということは、一歩、奥に入ったらもっとさびれているのだろう。コロナ対策、行政は何もしていないのに、感染者数が減る傾向にある(ように見える)のはなぜだろう、数字は全部ウソなのではないか、といぶかしく思っていたが、もちろん感染者の実数はあんなものではないだろうが、皆がそれぞれ警戒しておとなしくしているからこその、あの数字なんだな、と理解できた。平気で飲んでいる人らも沢山いるけど、普通ならこんなものじゃない。ただ、商売やっている人は、たまったもんじゃないだろう、とも改めて思った。いつか「戻る」のだろうか。簡単に「元」に戻るとはとても思えないのだが。外国人観光客を戻すには、最低でも数年はかかるんじゃないか。心斎橋から梅田へ。梅田でもまだ一人でちょっと飲みたいという未練にひっぱられ、新梅田食堂街をのぞいた。立ち飲み屋のひとつは休業の貼り紙を出していた。いつも行列ができていて、並んでまで食うほどのものかな、と通り過ぎることの多い串カツの松葉は、この店にしてはガラ空きでちょっと引かれたが、やっぱり、無駄遣いはやめておこうとまっすぐ帰ることにした。