2016年9月28日水曜日

気分に左右されないように

やる気がでない、という理由づけをやめよう、と心がけてはいる。一応だが。森田療法の本で、なるほどと思ったものだが、気分なんてものは、どうにもつかみどころがないもので、そんなものに支配されていると、結局何もできなくなる。気分がどうであろうが、やるべきことをやる。いやいやでも、面倒くさいなと思いながらでも、行動すれば、気分は後からついてくると。気分は山をなす、という言葉も、何度も反芻している。対人関係で、自分はイライラしがちな方だと思う。これも気分次第で、なんでもないときは、のんびりしているが、相手の言葉ひとつひとつにイラッとして反応してしまうことが多い。そういう時は、相手がどう悪いかの理由づけの言葉が、頭の中に駆け廻り、自分の怒りを正当化しようとしてしまう。後から考えると、なんてことなかったり、こちらが見えていないことが幾らでもあることがわかるのだが。感情というのは、怒りでも、悲しみでも、ずっとは続かない。必ず山をなして、そのあと萎むのだ。あたりまえといえば、こんなに当たり前の話はないのだが、この言葉に出会った時、しみじみ、なるほどなぁ、と思ったものだった。今、山になっているけど、どうせ、どうでもいいと思うのだ。そう考えると、ちょっとは平常心を保てる。まぁ、ちょっとマシになる、というだけかもしれないが。それでも。どの本で読んだか忘れたが、森田療法の創始者の森田正馬に、ある作家が、書けないのですがどうしたらいいのでしょうと相談した、という話が書いてあった。その答えは、書けないとか考えないで、ただ、書け、というものだった。これも、なるほどなと思った。書けない、仕事に着手できない、という状態はずっと続いているが、できないことについてあれこれ考えるのはやめて、ただやってみる、ということを心がけるようにはしている。何か作業を開始すれば、あとからそれなりに気分もついてくるということはあるのだ。このブログや、アップはしていないけれども、自分用に書いているノートなんかも、とにかくやってみる、何でもいいから書いてみることを目的にしている。書いているうちに、もう失われてしまったのではないか、と心配になってしまっていた、考える力なんかが、ちょっとは復活してくる、気がするのだ。明日の準備がしたくない。これは気分だ。そう思う理由もたくさんある。だけど、やることなのだ。生活全体を、自分がやるべきことに向けて編制するなんてことを実践している人はいくらでもいる。いわゆる優秀な方々はみな多かれ少なかれそうだ。立派だなと思う。自分にはそれはできない。なぜだろう。どうすればいいだろう。大事なことは、そんなことを考えないことだ、と思うようになった。自分のできる範囲で、なるべく気分に左右されないように、やるべきことをやっていくように、慌てないように、焦らないように、と。そうは言っても、小さなことに一喜一憂し、精神はぐらぐらなままだが、それも気にしないように、あるがままに、面倒なことは小分けにして、ちょっとずつやっていくことだろう。

2016年9月26日月曜日

筆記用具ぐらいは持ってきてほしいが

筆記用具、鉛筆でもシャーペンでもなんでもと、ルーズリーフか、レポート用紙か、何でも。そんなものすら持ってこない「学生」もいる。そんな「大学」でも教えに行ったりしている。学生がどうこう、というより、大学という商売に無理があるんだろうな、ということをいつも思う。自分は、その端っこの端っこで、落穂ひろいのような仕事をしている立場なので、無理だろうがなんだろうが、何とかなってほしいのだが、改革云々に関する発言権はゼロなので、ただただ眺めているような状況だ。大学どうこうの話をしようというのではなかった。講義を受けにくるのに、筆記用具さえ持たない子らも、ここ何年かで、誰もがスマホを持つようになった。ほっておくと、「全員」見ている。ニュースや何かを見ている子もいるのかもしれないが、ゲームをしているのが多い。休み時間になると、すぐにゲームに目を向けるようになる。「昔はもっと…」とか言う気はない。パチンコにはまっている学生より、マシなのだろう、きっと。でも、この機械は、やっぱりアヘンのようなもんじゃないか、という気もする。もう少し、まじめな子がいるところでは、講義で出てきた言葉を、すぐ検索しないと気が済まないようなタイプもいるようだ。良いのかどうかわからないが、気にしない様にしつつ、目に余るときは、ちょっと注意する。しかし、自分には確信がない。どうしたらいいのかについて。それは、自分がまだスマホを使ってないからというのもある。紙の辞書にこだわるタイプの人は、たとえば、電子辞書では、勉強に身が入らないとか、精神がどうとか、言うかどうかは別にして、思う人もいるだろう。気持ちは分かるが、電子辞書の方が便利に決まっている、と自分は思う。語学に思い入れがないからだ。自分も高校生の頃に電子辞書あれば、軽くて便利だったのになと思うくらいだ。スマホへの気になり方も、同じようなものかもしれない。とにかく、無理に勉強なんてしなくていいのだ。ある程度の大人になったら。それなのに、やった気にさせて、その親から学費を集めて、ご飯を食べる仕事の片隅にいるのだな、というのと、でもせっかくだから、金もう払ったんだから、それだったらせめて、自分にとって面白い講義のひとつくらい見つけたらどうだろうか、という気持ちもある。そんな気になった子も少しはいるので、こちらも誠実にやらないといけない。とは思うのだが、ここで行っている行為はなんだろうと思うこともよくある。

2016年9月25日日曜日

どんどん書くことにしている

何かをやろうとすると、すぐに反対の考えが心に浮かぶ。どうせ無理だ、意味がない、など、やろうとすることをおしとどめようとする。世の自己啓発本は、ポジティブシンキングをすすめて、自分内のストッパーを外そうとさせる。自分も、そういう本をパラパラながめて(恥ずかしいからこういう言い方をしているのであって、何冊かは結構しみじみと読んで)、なるほど、そういう部分は自分の欠点だな、もっと肯定的にとらえるようにしなければな、と考える。ああいう本が読まれるのは、誰にでも当てはまる心理的傾向だからなのだろう。

他人の内面というものは、よく分からないものだ。自分がそうだと思い、他の人もあてはまると思い込んでいることが、どれくらい本当にそうなのかは究極の所分からない。だいたいそうなのだろうと思いながら、ごまかして生活している。そんな不確かな目でではあるが、どうやら、ポジティブシンキング的な考え方は、生まれつきか、環境か知らないが、する人はするし、できない人ははなからできないように感じられる。できない人が、自己啓発的なものにハマる、というのが分かりやすいが、実際は、できる人がそういう本を読んで、これでいいのだ、と確認する、自分の中の「弱い部分」を押しつぶしておく、それでスッキリする、という風に使っている場合もありそうだ。そっちの方が多いのかもしれない。

今、自分は、ネガティブ側に立って、ポジティブな人を、ちょっと脳天気な奴らというように描いている気もするが、自分自身を振り返ってみたら、案外、ポジティブ側なのかもしれないとも思う。自意識としては、全然違うのだけど。精神的に弱く、肝が据わっておらず、いわゆるヘタレだけれども、どこかで、どうにかなるさ、というような楽天的な発想で生きてきたのだ。冷静に考えると、どうにもならないので、時に、激しく不安に襲われるが、精神疾患みたいになることも、今のところは特になく、そのうち危ないかもしれないが、まぁ、生きているようだ。

何を書こうとしたのか。

このブログでは、頭に浮かんだことを、とにかく外部に書き出して、ちょっと整理したくらいの文章を載せている。元ネタは、『魂の文章術』というスピリチュアルな自己啓発本だ。10年くらい前、図書館で読んだ。自己検閲の力をゆるめて、書きまくれ、というようなことが書いてある。詳しい内容は忘れたが、潜在意識とか、内なる自分とか、その手の、似非心理学は興味がないのだけど、そんな話と絡めながらの本だった。『数学文章法』で評判のいい、結城浩さんも、ネット上の文章で、この本を参考に、自動筆記をすすめていたように思う。書けない人は、自分内の編集者がうるさいことが原因になっている。だから、頭に浮かんだことをどんどん書き出すことは、精神の健康にもよい。結城氏は、バックスペースだけを許可し、複雑な編集はしない、などの縛りを推奨していた。

このブログの文章は、エディターで一気に書いている。後から少しだけ、入れ替えたり、編集しているから、自動筆記ほどではない。書き方のルールについて、説明しようとしているのは、おそらく、「本当はもっときれいな文章が書けるのだけど、これはあえて雑く書いているのです」と言い訳したいという欲求があるからだろう。振り返ってみたら、丁寧に書いたところで、一気に書いたものと、読みやすさ、その他、あまりかわらなかったりするのだが。文法的間違いだって、大差ないかもしれない。丁寧に書いたつもりでも、何日か寝かせたあと読み直すと、へんてこな部分がいくらでも見つかるのだから。自分のつかう言葉の癖やパターンのようなものは、一気に書いた方がずっと目立つけれども。

図書館で、『魂の文章術』を手に取ったのは、書けないことが苦しくて仕方がなかったからだ。「本当」のところ、自分が、ポジティブなのかネガティブなのかは分からないが、とにかく、書けない期間が長く続いていた。書かなければならないと思うと、手が震えるくらいになった。自分にとって、ポジティブな行動がとれない、前向きに生きられない、というのは、書けないということと結びついていた。書くことは面倒くさい。その面倒くささをいろいろ言い訳しながらごまかしてきた。今でも書けないのだけど、だいぶマシにはなってきた。ひとつのきっかけになったのは、このような自動筆記的方法の実践だったのだ。とにかく、書かないとどうしようもない。下手でも、つまらなくても、何か書きだそう。しゃべっているだけでは何も残らないけど、書くという行為は不思議なもので、自分用のノートに文字を書き連ねているだけでも、何かは残る。それが、良いことなのかどうかは分からない。妄想をこじらせ、犯罪を犯すような人が、びっちりノートに文字を書いていた話とかを知ると、他者に開かれていない文章が大量に蓄積されてしまう状況は、病気をより悪化させてしまう例もあるように思う。だから、誰に対しても、有効な方法と言えるかはわからない。分からないが、自分には、あまり意味とか、読まれることとか考えず、とにかく書いてみろ、という実践は、役にたったのだ。

次の段階は、他人が読んで意味のある文章を書くことだ。言い訳をしたい自分とは、つまり、本当はもっと上手に書けると見せたい自分だ。この見得の部分というか、恥をかきたくない心を、何とか解きほぐすことが必要だ。そのために必要なのは、とにかく、沢山書くことだ。おそらく人生の後半戦に入って、ずいぶん経つはずだ。そんな歳になって、こんなことを言っていること自体、情けないが、自分の能力からしたらこんなものなのだ、と思えるようになってきた。

自業自得

自分の状況は、自分がやってきたこと、というか、やってこなかったことの結果だ。自業自得だと思っている。よく不平不満を口にはしているが、その対象は、基本的に、自分自身である。ダメな人には、わたしのように思っている人も多い気がする。

何らかのダメを抱えて、うまくいっていない状況の人に対して、自業自得だという非難を浴びせる人が後を絶たない、ように見える。本当にそうなのか、そういう声が、ネットがあるために、増幅されてよく見えるようになったのかどうかは分からないが。

そういう声には、ああそうです、自分が悪いんです、とこころの中で応じるひとが多いだろう。反論のしようがないのだから。認める。認めるけれど、それでもやはり傷つくのだ。非難する方は、非難することで、対象者を「正しい」道に導こう、としているのではなく、他の人に、こんな状態になってはいけないよ、反面教師にしなよ、と言っているのだから、傷つこうが、どうしようが、関係ない。

調子よくやっている人は、調子よくやっているだけに、元気で強い。経済的な成功者とか、ネオリベとかは言わずもがなだが、いわゆるリベラルな人にもそういうひとが多い気がする。悪い奴に虐げられている人たちには優しいのだけど、そうでもなく、本人のせいでダメな人たちには、基本、優しくない。とか言うと、他者への不平不満になってしまうのかもしれない。

2016年9月23日金曜日

傍観してしまう

大阪駅の環状線ホームに降りるエスカレーターの乗り口。寝転がったり、這ったままだったりのお婆さんが、つぎつぎと下から運ばれてきた。上る途中でこけてしまったらしい。気づいた何人かが、大丈夫ですかと近づく。怪我している訳ではなさそうだが、ふたりくらいが立てないままだった。すぐそばに、掃除のバイトの兄さんがいたが、掃除道具をもったまま、空いた方の手でちょっと助けようとするそぶりをくらいで、ほとんどじっとしていた。見ていたひとりのお姉さんが、駅員さん呼んできますね、と、走って行った。親切な人だなと感心する。他にも、職員を呼びに行きますと向かった人がいた。この人も、30代くらいの女性だった。スーツ姿の男性が何人も横を通り過ぎたが、ちらっと見て、大丈夫かなという顔をするだけだった。制服を着た人、つまりここで働いている人は、掃除の彼しかいなかった。彼が動くべきだと考えて、「職員呼んできたらどうです」と声をかけたが、反応せず、じっと倒れたお婆さんを見ているだけだった。まもなく、職員がやってきて、任せたらいいかという雰囲気になり、自分は、ホームに降りて電車に乗った。それにしても、さっきの掃除のバイトの兄さんは、ひどいな。なんてトロいんだ、とムカムカしていた。しかし、よく考えたら、自分も全く同じだったのだ。大丈夫ですかと、微かに声をかけるくらいで、ただ突っ立って、状況見てただけなのだから。彼にしても、駅で働いているとは言っても、掃除関係の職員以外、口もきいたことないだろうし、どうしていいか分からなかったはずだ。人は、他人に自分のダメなところを見る時、腹が立つのだ。軽快に職員を呼びにいった二人の女性が本当にまぶしかった。

好きなものがある状態を取り戻したい

大学の時、プロレス研究会に入っていた。同期の友達が、高校時代は暗い時代で、生きる意欲さえなかったが、プロレスの次の大きな試合だけが楽しみで、それを見るまでは生きようと思ったものだ、という話をしていた。今でも印象に残っている。自分も、プロレスが好きだったから、入ったサークルだったが、他のメンバーに比べて、好きさの程度がしれていた。当時は、結構好きだと思っていたように思うが、振り返ったら、大したことなかったと分かる。適当に理屈をつけて、分かった人のように喋りたい、賢そうにしたいという欲望があって、その材料としてプロレスを消化していただけだった。(そこまでではないか。)30歳くらいからとんと見なくなってしまった。懐かしい試合の映像は見たいが、今新しく起こっている動きについては、まったく心が動かない。まぁ、こういう元ファンは多いので、平凡な消費者だったということだろう。しかし、この辺に自分の重大な欠点があるように感じる。

相撲も好きだったが、ある時からみなくなった。これはまた見るかもしれないが、今は見ない。その他にも薄く好きなものはあったが、今でも追っているのは競輪くらいになった。これは別の目的もあって見ているところもあるので、除外すると、どうしても気になるジャンルはほんとになくなった。10代まではマンガが好きだったが、全く読まなくなったし。お笑いには、少し未練があるが、おっかけて見るような人はいない。韓国文化追っかけているが、好奇心を維持するために、自分をだましているところはある。心から楽しみでしょうがないというレベルではない。そんなものがある人は少ないのかもしれないが。

ツイッター見ていて思う。プロ野球やサッカーで好きなチームがある人って多いんだなぁと。うらやましいし、ちょっと不思議でもある。今までにチームスポーツは好きになったことが全くないのだ。今年の活躍を、優勝する姿を、見るまでは生きていよう。そんな風に思えるものがあるなんて、幸せだ、とまでは言えるか知らないが、いくつあっても多すぎない、命綱のひとつにはなるだろうと思う。

2016年9月22日木曜日

そういう言い方は良くないんじゃないか、と思うことが多い

ツイッターに流れてくる意見に、反発したくなることは多い。そんな言い方はないんじゃないか。こういう点はどう考えるのか。あなたは前にこんなこと言ってたじゃないか。などなど。

しかし、論争したいわけではないし、小言みたいに受け取られるのも嫌だし、などと考えると、個別に反応するのはやめておこう、と思うようになってしまう。リアルなやりとりだったら、自分の考えを挟みながら相手に考え直してもらうということもできるが、文字だけでそれをやるのは、しかも、軽いノリが良しとされているような所では、ものすごくエネルギーをつかうだろう。ということで、基本的にスルーするだけになる。

炎上するような、とても悪い意見、たとえば、この間のフリーアナウンサーの人工透析に対する、公共で活動する人間とは思えないような記述などは、誰が見ても悪いものだから、すっきり石を投げられる。それでどうか、もっと違うやり方が必要じゃないか、という意見もあるだろうが、とにかく。

反発したくなるが、結局、やめておくのは、もっと微妙なものだ。全く知らない人だったりすれば、そんなに気を使うことはないし、またそれほど気になりもしない。逆に、強いつながりがあれば、個別に意見交換ができる。難しいのは、ちょっとやりとりをしたことがあったりするような人で、この意見以外は、一つの態度以外は、それほど悪いと思わないというような場合か。

いちいち、こうじゃないか、違うんじゃないかと言ってられないから、受け流す。自分のような適当な人間、世間では一般的だろう。だから、執着心の強い人か、何でも思ったことを口に出さずにはいられないような人の、異議というか、ツッコミというか、だけが目に見えるものになる。そのため、修正行為や部分批判自体、面倒くさいやつのやる行為と見られてしまったりもするのだろう。

ツイッター上での他者の否定、多様な他者をひとまとめにしての論評、聞かせようという悪意の悪口、などなど。やめてほしい。しかし、やめてほしい、と思ったそばから、自分も同じようなことやっているじゃないか、という内なる声が聞えてくる。他人に苛立つときは、だいたい自分自身にあるものと似たものをそこに見出した時でもある。他人から発する不快なものに接した、というより、自分も持つ毒に触れたような気持ちになる。だから、まぁ、なんというか、ほどほどにしてほしい。

2016年9月20日火曜日

うどん、そば、ラーメン、パンをやめてみた

6月くらいから、麺類をやめた。炭水化物、糖類を制限することにしたのだ。だいぶゆるめではあるが。ごはんもやめたが、他に代替品がなく、コンビニおにぎりを食べたり、弁当を買って食べることがある。そもそも、2年くらい前から、家で米を炊くのはやめていたから、それほど大きな変化ではない。パンもやめた。たまに一口食べる。週に一口以下。納豆、豆腐、野菜、肉などで腹を満たすようにしている。痩せようというよりも、糖尿病対策だ。はっきり診断されたわけではないが、今年に入ってから、やたらと疲れるようになった。4月から、これまでになかった数のコマの授業をすることになり、それで疲れているのだと思っていた。もちろん、それもあった。離れた二か所の仕事場を移動する日も週に何度もできたし。しかし、それにしても疲れ過ぎだった。どこか病気なんじゃないかと疑いはじめたのはこの頃だった。同居人が見ていた「たけしの家庭の医学」という番組で隠れ糖尿病のテーマがあった。食べた後に、やたらと眠くなるなど、ドンぴしゃの症状があった。血糖値があがって、睡魔に襲われているのだ。思い当たることは、いくらでもあった。ここ二年位、キャンディー中毒みたいになっていたのだ。タバコをやめて6年以上にはなる。口さみしく、ミントなどをなめるようになった。やめたり、食べたりしていたが、ここ2年くらいはちょっとひどくなった。「春日井のハーブキャンディ」などがお気に入りで、一袋を2日くらいで食べてしまうくらいになってしまっていた。また、アイスクリームなども頻繁に口にするようになっていた。それほど甘党だったわけでもないが、これも、2年くらい前から、毎日酒を飲む悪習をあらためて、ほとんど飲まない生活に変えたのだが、その代り、甘いものが好きになったのだ。朝飯をやめ、空腹で昼まで耐える、という生活も良くなかった。仕事の移動中のお昼など、安いし手軽だし、ということで、立ち食いうどんをよく食べていたが、空腹にいきなり炭水化物をぶっこむのは、血糖値を跳ね上げる効果があるという。甘いものは少し控えた方がいいだろうと頭によぎりつつ、だらだらやめられなかった。糖尿病かもしれない、ということを意識し、最初に書いたように、炭水化物を極力減らす生活に変えた。4年くらいは続けていた朝飯抜き生活はやめて、朝、納豆と卵と野菜を食べることにした。お菓子類もほとんどやめた。6月以来今までアメは一つも、アイスは、全部でスプーン3さじ位しか口にしていない。チョコも好きだったが、ビターなのを一かけ口にしたくらいだ。繊維質がいいかもと、ケロッグのオールブランは食べている。砂糖も多いし、やめた方がよさそうだが、ちょっとくらいルーズでいいかと言い訳して。しかし、全体としては、他に甘いものも特に食べたいと思わないようになった。ラーメンの映像を見たりしても、それほど美味そうには思えない。

食生活を変えたら、いきなり効果が感じられた。休日にまで残る疲労はすっきりなくなったのである。振り返ると、それまでは布団から出られないほどだったが、病気だったのだろう。休日起きられないとか、布団から出られないとか、薬の宣伝文句であるが、糖尿病を疑った方が良いのかもしれない。とにかく、身体が軽くなった。こんなに効果があれば、もとの食べ方に戻すわけにはいかない。病気がどこまでのもので、今がどんな状態か分からない。無料の特定健診にそのうちいって、数値を見て自主判断しようと思う。継続的な、キャンディー中毒により、急激に血糖コントロール機能がおかしくなったのではないか、糖類を減らして改善したのじゃないか、と自分では感じているが、よく分からない。とにかく、病気にならないように心がけないとと思う。頼るもののない生活なので、病気になったら、本当に生活を立て直すことは無理になるだろうから。病院に行くだけでお金もかかるから、できるだけ行かずに改善したいとも思う。そんなわけで、糖質をある程度制限する生活は続けるつもりだが、外食とかの時に本当に困る。食べるものがないのだ。仕方ない時は仕方ないから、おにぎりくらい食べるが、立ち食いうどん、そば、吉野家という選択肢を失うと、何もない感じになる。コンビニでおかずとか、おでんとサラダなんかがマシかもしれないが、街中では食べる場所がない。こういう時、ベンチをもっと増やしてほしいと思う。

寿司やカレーライスなども映像を見てもほとんどそそらない。外食でいえば、回転寿司なんかも、たまの贅沢で行くのが好きだったが、6月以来行っていない。松屋や、やよい軒などもだ。街には自分に関係のない店しかない。そんなことを特に強く思うようになった。食べたい欲もあまりないのだが、最近、ちょっと飲酒欲が高まっているのが困り者だ。適当に飼いならそうとは思うが。肉、油は制限してないので、結構腹いっぱい食べているので、そんなに我慢をしているわけではない。念のため。これからどうなるかは、とりあえずは分からない。

授業を受ける立場になって

韓国語教室に通うようになって、良かったことのひとつに、授業を受ける側からの視点を思い出したということがある。初めての授業の時の、この人はどんな先生なんだろうというワクワク感。受ける側のペースと、教える側のペースが合うかどうか。先生の見られ方、などなど。ペラペラと喋って、結局、自己陶酔してただけじゃないか、と自分の講義を反省したりもした。自主的にお金払って習いに来ている大人の学校と、形式的には同じだとしても、学生の意識としては義務的に出席している講義とでは当然かなり違うけれども。良い先生とはどんな先生か。正直、全然分からない。受ける方の好みや視点によっても当然違うだろうし。以前は結構上手に授業できるんじゃないかと勘違いしていたが、客観的に見たら、欠点だらけだと思う。自分が受ける時には、落ち着いていて、しかもテキパキと進むような先生が良いような気がするが、自分自身は本当に落ち着きに欠ける。生きて行くこと自体への自信も年々なくなっているし。よくなったことと言えば、普通がしんどい人たちへの共感力は少し獲得できたかもしれない、という点くらいか。これも自信はないが、改善点だとは思う。自分がダメな立場にならないと、そういう状態に苦しんでいる人のことはわからない。つまり、今だって、自分が全然気づけないようなレベルのしんどさに苦しんでいる人たちがいっぱいいて、その前でガサツな態度でヘラヘラ喋っていることが多いはずだということだ。あんまり後ろ向きの事ばかり考えると、講義に向かうのが、どんどんしんどくなる。まぁあまり気にしないことだ。気づいたことをちょっとなおしていきながら。この仕事だっていつまでやらせてもらえるか分からないのだから、できるだけフラットな態度で人に向き合えるように心がけよう。

長距離列車に乗る夢をよく見る、という話

よく見る、というより、一時期、よく見た。ターミナル駅みたいなところで、今から列車に乗るのだな、と意識している状態がぼんやりあって、支離滅裂な話が進むというような。列車は、新幹線のようなものだったり、ブルートレインのような寝台車だったりする。ブルートレインは実際には高校生の時に一度乗っただけだ。大人になったら幾らでも乗れるだろうと思っていたけど、乗れなかった。高すぎる。それでもうっすらとしたあこがれがあって、そんな夢になるのだろうか。今日、久しぶりに見た。同居人とどこか行かなければいけないことになっている。ホームのベルがなったからあわてて飛び乗り、相方とはぐれる。きっぷは向こうが持っているはずだから、探さなければいけないと、自分が乗った後方の車両から、前に向かって進んでいくという話。ギュウギュウで座っている人がいっぱいいる車両がある。せっかく寝台の切符を手に入れたのだから、ぜひ、寝台車まで行かないと損だ、と思っている。次の車両は、カジノになっていて、タバコの煙がいっぱいだった。同居人は嫌煙なのでここにはいないだろうと通り過ぎる。次の車両は、相撲の稽古場になっていて、土俵まであった。次の車両に移ると、もう、外は明るくなっていて、ああ、寝台料金損した、と思うという、訳の分からない夢だ。一日経ったから詳細は忘れたが、思い返してみると、断片的にこれまでの夢にも出てきた設定だった。こんなに科学が進んでも、インチキではない夢判断なんてない。なんでもないのだとは思うが、夢を見ること自体久しぶりだった。どこかに行きたい、という漠然とした欲望があらわれたのは間違いないだろう。

2016年9月19日月曜日

スマホの導入を考える

11月が携帯の更新時期らしい。今のガラケーを使って5年くらい経つよう。更新の知らせが来たから、スマホを検討してみようかと考える相方につられて、ちょっと考えたりする。今は、携帯の最低限のプランなので月に2000円を越えることはない。電話もほとんどかけないし、メールも相方、家族以外、ほとんどやりとりがない。この一か月は、本当にその他の人と一度も連絡をしていないかもしれない。ラインやら何やら、どんな道具なのかも、ぼんやりとしか分からない。ただ、社会関係がとても薄くなってしまった今、やる必要はないだろうという気はしている。心配なのは、ツイッターの見すぎとかか。今は、パソコンの前に座っている時に、ダラダラ見ている。30分見たらアクセスできない設定にしてみたりしたことがあるが、すぐに30分になった。意識している以上に、長時間無駄にしているのだ。そういう設定をためしたのは、もちろん、中毒を疑っているからだ。今でもそうなのに、スマホなど持ったらどうなるのだろう、という気はする。あんまり変わらないかもな。旅行に行ったり、知らない街に行ったりするときは、その場で検索できるものがあるって便利だろうなと想像する。しかし、そんな機会が、年に数回あるかないかだったら意味がないのだ。もっとも、パソコンを初めて買った時だって、こんなもの何に使うのだろう、と思った。道具が先にあって、使い方が生まれ、生活が変わっていくということなのだろうから、買ったらいろいろ使うのだろうが。金もかかるし、やめておくのが賢明だろうな。とりあえず。壊れてはいないし。

2016年9月18日日曜日

だらしがない人

だらしがない人は、嫌いではない。自分もそうだからというのもある。しかし、いろんな迷惑を人にかけてきたのだろうな、と容易に想像されるような場合は、やっぱり近寄らない方が良いと判断するべきだろう。自分もそういう理由で避けられている場合もあるかもしれない。人恋しい時、会いたくなるのは、やっぱりちょっとだらしがない人だ。たぶん、自分自身を倫理的に責めなくてもいいと思えるからだろう。どんなだらしがない人でも、基本、元気に生きていける社会が良い。そんなことを考えるのは、自分への甘さだ。だから、きっちりした人にあって、身を引き締めるべきなのだ。だけど本心では、だらしがない人を求めてしまうのだ。

2016年9月17日土曜日

溢れるアイデア

毎日何か更新しようと何日か前に決めた。それ以降、他の作業をしている時、これを書けばいいんじゃないか、という考えが頭に浮かぶようになった。仕事につながるアイデアなら、そういうひらめきは大事だろうが、これはそうではない。更新するための更新、伝えたいことがあるというより、書くということ自体を目的にした、駄文である。ただでさえ、集中力の無い人間なのに、余計に意識が拡散することになってしまっている。毎日書くというのも、別に誰かに命令されたわけでもないし、絶対守ろうと決意したというほどでもないのだけど、やりはじめると、緩やかな縛りにはなる。書こうという時、適当に、頭に浮かんだものを文字にして、最低限のチェックだけしてアップすることにしているのだが、実際に書く段になると何も浮かばない、という状態にはやくもなってしまったのだ。自分だけが読む日記帳なら、適当な文章がいくらでも出てくる。多くが、何度も書く繰り返しのフレーズだけれども、手を動かして何か文字を書きだす、という作業の練習にはなり、じっとしているよりは、断然、「効果」があるのだ。健康面の話で例えれば、座ってパソコンを眺めているよりは、ダラダラとでも散歩した方が良い、というようなレベルでの効果である。だから、とりあえず、似たようなことを何度も何度も繰り返し書いたりすることも多いし、そうやって書いているうちに、やはりその日しか書けないような文字列が出てきて、まぁ、今日も何かは書いたなという気分にはなれる。ところが、一応、他人が読むかもしれないということを、ちょっと頭に浮かべるとなると、途端に、手が進まなくなるのだ。当然と言えば当然だろう。だから、いくら適当なことを書くとしても、何について書くか、何から始めるかくらいは、考えておかないと、一文字も書きだせないのだ。一文字書ければ、数行は書ける。そこまで書ければ、もう良し、という緩い縛りにはしているが、その一歩すらないのだ。他のことをしていて、パッと浮かぶというのは、そういう、書き出しの文字だったり、テーマ的なものだったりのことだ。断片が浮かんで、どこかにメモしておこうかと思うのだけど、メモという形に外部化してしまうと、結構なアイデアの種として成長してしまっていて、変な言い方だが、少し偉そうな雰囲気まで出てしまっていて、その材料をもとに書こうと意欲するためのハードルがあがってしまったりする。そんなしっかりした記事を書くつもりではなく、あくまでもいい加減な所の言葉で埋めたいと思っているのに。そんなわけで、適当に文字を連ねてスッキリしたいという気持ちで再開したブログだが、こんなレベルでも、続けようと思うと、自分への変なプレッシャーになってしまうのであった。

2016年9月16日金曜日

時間を大事にしなければいけない

時間を大事にしなければいけない、と考えるのに何時間もついやしてしまうようなこともある。自分は恵まれている。時間だけは。お金の話は考えるのもしんどいが、多くのまともな大人が、まとまった休みなんてほとんど取れないのに比べたら、義務的な出勤日は少なく、今だってまだ夏休みが残っている。賃仕事を見つけて生活費の足しを稼ぎに行くという方法もあるが、ギリギリなんとかなっていると判断して、ちょこっとずつ本分的仕事を家ですることにはしている。ただ根気がなく、少しの時間しか集中できないとか、何とか、言い訳している。いろいろ勉強したり、準備したり、やるべきことなどいくらでもあるのだが、なかなか手につかない。「手につかない」などという言葉は、単なる言い訳だ。少しだけ心のよりどころにしている森田療法によれば、やる気などの気分にさゆうされず、乗ろうが乗るまいが、面倒くさいと思いながらも、とりあえずやり始めることが重要だという。その通りだと考え、何とか少しずつは進めようとしているのだが、優先順位の低い仕事になると、ダラダラサボりたいという気持ちに負けてしまう。負けがちになってしまう、というくらいか。後から振り返ると、今日は無駄な一日になってしまったな、とどんよりとした気持ちになることが多いので、精神の健全化のためにも、できるだけ活動的に過ごすべきなのだが。小人閑居して不善をなす、というのは本当に真理だと思う。ゲームとかは自分はやらないが、ネットをダラダラ見ている時間の長さを思うと、時間の無駄にし具合は、ゲーム中毒の人以上だろう。とりあえず、意味のある作業を何かしなければ、という考えの前に、パタッと止まってしまうことも多いのだ。日記や、このブログの駄文なんかのようなものも、とりあえず、何か書こう、書いて身体と頭を動かそうということ自体を目的にしていたりもする。もうすぐすれば、仕事が始まる。かなり忙しくなる。そうなると逆に身体が動き、少し頭も活動的になったりもする。ただ、一年契約で兼業しているこの仕事も、来年、再来年には激減することが決まっていて、もしかしたら、毎日が日曜日状態になるのかもしれない。その不安に、文字通りプルプル震えているのだが、今は、他にもいっぱい心配事があるため、それについては来年考えようという気持ちにはなっている。何もかもなくなったら、一からハローワークに行って、自分でもできる仕事を新しく探すのだが、ちょっとでも今の仕事があるうちには、芸で食える道を探して、もう少しあたふたしようと考えているところなのだ。何の話をしようとしていたのか、忘れた。時間を大事に使おうと、自分に言い聞かせようと書き出したものだった。社会的なつながりが弱い生活をしていると、いろんなことに対して関心を持つ力が大幅に減退する。政治や、何やに対して、怒るようなつぶやきをツイッターに流すこともあるが、前に比べて、小手先で怒っている気がする。疎外感というものについても、そのうち書こう。やる気など、出るのを待っていたら、ずっと何もしないことになるように、社会やその他の物事に対する好奇心も、出るまで待っていたら、結局、ただ無気力になっていくだけだろう。関心が全く無くても、持った感じにしておくことなのだろう。『シンゴジラ』とか『君の名は』とか、無理に見にいくべきなのだろうと思う。ただ、正直今は行く気がしないけど。見たいとちっとも思わないから。この手の流行りものは、もっと元気だったころから、あんまり興味持ってはいなかったんだな、そういえば。チケットとバイト代無理やり誰かがくれたりしたら、もちろん行くけど。

2016年9月15日木曜日

韓国語教室に通いはじめて5年くらいたった

もともと語学は苦手だった。どんなに勉強しても、ネイティブには到底かなわないし、母語の習得過程を振りかえっても、あんなに膨大な時間を費やして勉強しなきゃならないなんて、考えるだけで気が滅入る。などというのは、後から考えた理屈だが、外国語を学ぶ喜びとはずっと無縁だった。話せたらな、と妄想している間は、楽しそうでも、コツコツが必要な作業であることはすぐ分かり、挫折する、ということだったのかもしれない。

それなのに、5年前にはじめた韓国語の勉強はダラダラと続いている。KARAと少女時代にはまったからはじめたのだけど、韓国・朝鮮文化に関心があったのも確か。あの国には他の国に対するものとは違う特別な感情を持っている。というか、勉強を始めて、持つようになったというべきか。その辺の自分の関心や、近年の日本に於ける状況について、どこかでまじめに考える必要がある、と思う一方、そういうのは、まじめな他の研究者の方にお願いして、自分なりの何かができないかという、またも手抜きの発想をしたりしつつ。韓国語は、日本語に文法も近いし、英語なんかを勉強するのに比べたら、中級までの道はすごく楽なのだろうと思う。いい加減に始めるのにもいい言語だと思う。

5年やっているとは言っても、今は、公共的な所がやっている講座に週一回通っているだけだ。旅行会話の域を全然出ていない。教室以外に、文献講読みたいな勉強会やりたいなとか思うが、思うだけでなかなか動きだせない。それでも、毎週一回行くというのは、やはりよいものだ。どんなにサボっていても、少しは前に進むし、励みにはなるし。

教室に来ている生徒の大半は、女性だ。自分くらいの年輩でも若い方だ。在日コリアンで、学ぶ機会がほとんどなかったというような人も多いが、女性の多くは、いわゆる韓流ファンだと思う。通う曜日や時間が何度か変わっているため、そこで知り合いになって、友だちになった人は、残念ながらまだ一人もいない。一度だけ飲み会があって参加したが、大人の飲み会は費用も高く、楽しかったが辛かったりした。授業中に、ちょっとだけ、韓国芸能界の話なんかをする機会があると、やけに詳しいですねと言われたりする。物知り風に装う悪癖があるためかもしれないが、男性の学習者は、どちらかというと、大衆文化ではなく、教養的な目的で学んでいる人が多いからかもしれない。そういえば、韓流・K-popファンで、という男性受講者は、今まで一人も見なかった。

コンサートだ、イベントだと、何度も韓国を往復している人もいる。うらやましい限りだ。「僕なんて、youtube見るだけの、金を払わない悪い客なんです」と話したら、「偉いですね、いくら遣ったかわかりませんよ」と自虐的に話される人もいた。韓国芸能会社のやり口への批判を口にしつつ、それら会社の、都合のいい「財布」になってしまっていることを自覚し、かつ楽しんでいる、という複雑さに共感する。自分だって、金があれば、そういうファン活動をやってみたい、と思う。根気がないから、すぐに飽きる気もするが。

ラジオとか聴いても、半分くらいしか分からない。でも、半分わかる、というのはかなりの喜びでもある。ポッドキャストとか寝る前やら、暇なときは流しっぱなしにしている。こういうダラダラ勉強はきっちり集中した方法に比べて、全然効果ないようにも思うが、何もしないよりはということで。

しかし、何のために勉強しているのか、と聞かれると、答えは特にない。少し、仕事に結び付けられないかという妄想はしているが、なかなかだ。韓国語できる人なんてアホほどいるし、たとえばインタビューするとか、道具として使えるレベルにはとてもじゃないけど達していないし。それでも、ただただ続けようとは思っている。何十年かかって、意識の世界がようやく玄界灘をわたった。海外に関心がないわけではないが、サブカルチャー含め、それまでほとんど国内世界への関心で終わっていたのだ。その先に、どう広がるかは分からないが、とりあえず、韓国までは、そこにリアルに人びとが住んでいる世界として認識できるようになったということだ。もちろん、その他の世界にも、リアルに生きる人々がいることくらい、頭では分かっているが、肌感覚では分かっていない気がするのだ。韓国については、ちょっとそれができた。そして、そのことは、韓国が好きになるとか、嫌いになるとかというのと、あまり関係ないことでもあるのだ。というあたりについて、いつか、ちゃんと整理しておきたい。

自分くらいはあるものとして

ツイッター上のあの人どうしているかな、というつぶやきで、ようやく「あ、ほんとだ」と気づくなど。よく愚痴っぽいことをつぶやいていた人で、印象深かったのに、いつの間にかいなくなっていて(というかつぶやかなくなっていて)、そのことに自分は全然気づいていなかった。ハンドルネームで検索したら、だいぶ前から、「あの人元気かな」と、不在に気づき、つぶやいている人がいた。

自分がつぶやかなくなったら、二人くらいは「どうしているかな」と思ってくれるかなとか、考えたりもする。リアルな知り合いなら、あ、ツイッターやめたなと思うだけだろうけど。

街を歩いていて、新しい建物が立っていたり、更地になっていたりする近くを通ると、「あれ、ここ元はなんだっけ」と、思い出せないことが多い。つい最近まで、そこに当たり前にあったのに。

印象が薄いような所だから取り壊される、ということなのかもしれないが、とにかく、消えたものと、今目の前に存在するもの(新しいもの、更地の空間、どちらでも)との違いというのは、もう絶対的なものなのだ。いる間は、いるのだ、と言い続けることが大事なのかもしれない。



忘れられたっていいのだけど、自分自身まで自分のことを忘れることはないのだ。

2016年9月14日水曜日

後から修正しよう

とりあえず書いたらアップすることにした。読み直すと、なんじゃこりゃと思う。意味が通じればよしとしよう。数日たって、よっぽどだったら修正するなりすればいいだろう。

健全化のために

毎日何かを書こうと思っているのだが、なかなか難しい。書くこと、書きたいことがないわけではないが、いちいち書いていいのか不安にもなるし。告知もせずに書いているので、読者なしを想定しているが、面白いものが書けることもあるかもしれず、その時のためにも、少しは内容のあるものを書いておきたいという思いもある。

10年くらい前、ミクシーをやっていた時は、構成などあらかじめ考えて、読まれることを意識して日記を書いていた。しばらくしたらしんどく、かつ虚しくなったため、途絶えがちになった。今思うと、あの頃は日記を書くことしかしてなかったかもしれない。ルーティンの最低限の仕事だけして。その頃に限らず、今までの不真面目な生活がたたり、先の不安に苛まれる日々になっているのだが、精神だけでも健全化するべく、少しずつ積み上げる仕事もやるようにしている。

何の話か。このブログでは、できるだけ構成や質などを考えないで、それでも、他の人が読んで「読める」くらいのものを、知人がたまたま読んで、精神を病んでいるのではと心配されたりしないくらいの健全さを感じさせるくらいのものを、適当に書いていきたいな、と、方針のようなものについて説明しているのだ。

紙のノートやパソコンで、自分しか読まない日記のようなものは、これまでにもダラダラと書いてきた。形態は色々で、生活改善を少し意識するようになってからは、とにかく、文章を書くという行為そのものを習慣化させようと、かなりな量の、何かを書いてきた。こんな歳になって情けない話だが、文章を書くと考えると、途端に身体が固くなるような、苦手意識、拒否感を感じるようになってしまっていた。内なる自分を自分で作り上げ、必要以上にストッパーをきかせているから、そうなっているのではないか。頼りにしている、生活改善本的なものなどを参照して、そう考え、できるだけセルフチェック機能を弱めて、とにかく文章を沢山書くことに慣れた身体を作ろうという狙いだった。ほぼ、毎日同じようなことを書いているが、不思議なもので、全く同じにはならないのだ。やはり生活自体が、どんなに似たようなものでも、全く同じではないからだ。日々歳をとっているのだし、状況は変わるし。というわけで、自分自身に向けて書く、長い文章(自分は「長文」と呼んでいる)ノートのページは埋まっている。それなりに効果があるようには思う。毎日散歩するくらいの効果か。

そんなこんなで、毎日何か書いているから、もう少しだけ頑張って、読者を想定した何かを、どんどん書くようにしたらどうかと考えているのだ。そんなことを思い初めて一年くらいたつが、まぁちょっと始めてみようかということで、旅行の時とかだけに更新してきたこのブログの続きを書くことにした。

2016年9月12日月曜日

ホリエモンがうらやましい

いちいち自分と引き比べるのが中二病の症状だ。ずっと前に、ひきこもりの支援施設を見学したとき、なかなか部屋から出られないでいた自分と同年配の男性が、やたらとホリエモンの話をしていたのを思い出す。何かと話題になっていた時で、彼に比べて自分は、なんてことばかりをその男性は言っていた。年齢が同じくらい、という以外に何も共通点などないのに、比較する対象と違うだろう、思った。ただ、コミュニケーションが限られた生活の中で、視野狭窄に陥り、話題の有名人の存在が大きく見えていたのだろうということはわかる。「自分なんて」と、前に進まないでいられるための、そういう言い訳の種として抱えていた、と冷たく言うこともできるかもしれない。

しかし、すぐに他人と引き比べて自分語りをしたり、ひざを抱えたりする性癖は、やはり自分にもある。これを共感するというのか、理解するというのか、引き比べるというのかわからないが、その男性の名前も顔も忘れたが、何とも言えない痛々しさがずっと心にひっかかっている。

何の話をしようと思っていたのだったか。そう、お笑いを見に行った時の感想の話だ。先日、「東京03」の単独を初めて見にいった。奢ってもらって行っただけで論評云々などするつもりはない。ただただ面白かった。つなぎに見せる映像などもすごく凝っていて、メンバー、作家のオークラ氏、その他スタッフなど才能ある人たちが集まって作り上げているものなんだなと感心した。そして、なぜか妙にうらやましさがわきだした。コントはどれも面白かったが、ひとつ、ふたつは、それほどでもないかなというのもあった。ネタ全体というより、ちょっとしたセリフくらいだが。少し安心した。完璧ではないなと。自分は芸人をめざしていたわけでもないし、演劇とか創作とか、やろうとしたことすらないのに、何を嫉妬しているのだろうか。ネタに笑いながら、そういうことを感じていた。

比較する心理が、「苦」の原因であると、自己啓発本なんかで言うのはなるほどと思う。自分もそうありたいと思って、できるだけサラッと考えるようにしているのに、なかなかおさえきれないものがある。どうせ無理だとあきらめて、そのことも含め、考え過ぎないようにしているのだが。

2か月前、銀シャリの単独も行った。これも行けなくなったからともらったチケットだった。彼らに思い入れは全然なかったが、普通に面白かった。そしてなんといっても、ステージの中央にマイクが立って、最初に彼らが登場して来た時、あまりのカッコよさにしびれた。漫才師って何てカッコいい仕事なんだろうと。これも、たぶん、それに引き替え自分は、などという心理と結びついているものだったように思う。小さい時は、お笑い芸人に憧れたけど、それだけのことで、何でこんなにお客に徹することができないのだろう、とちょっと情けなくなったりもした。ちょっとだけだけど。

家でテレビを見ていたら、芸人なんてちょっともうけすぎちゃうかとか、否定的な気持ちになることも多い。政治的なこと言えば、安っぽく保守的だったりするし。だけど、生で見たら違うな。覚悟を持ってある特異な世界に飛び込んだ人間の、そういう人間だからもつオーラがやっぱりある。

まぁ、何が言いたいか、というと特にないのだ。最近、他者とコミュニケーション不足で、うつうつしているので、頭の中にある言葉をとりあえずパソコンにはき出して晒してみることにした。支離滅裂にならない、最低限、リーダブルな形にまとめる、というくらいのゆるい縛りで、何か書いていくことにした。

2016年9月11日日曜日

一応元気でやっています、というような

ブログも、ツイッターも半分匿名という中途半端な形でやっている。深い考えがあるわけではなく、ただなんとなくそうしているだけだ。ストレートに名前を出していたら、何かの拍子に非常勤で講義に行っている学生さんの検索に引っかかったら嫌だなぁという気持ちはある。バレてまずいことを書いているつもりはないが、あまりマイナスなことを書くのもどうかなという配慮が生まれてしまいそうで。今でも、知り合いのフォロワーはいる。読んでいるかどうかは知らないが、古い友達から、ちょっとした知り合い、面識のある人など、少しは。フェイスブックは社会関係そのもだが、ツイッターには、面識のない人の方が多く、関係の遠さを気楽さだと思って楽しんでいるので、名前をそのまま出すのは、とりあえずやめておこうというくらいの考えはある。

ツイッターで懐かしい名前を発見した。高校時代の同級生だ。ブログもツイッターも本名でやっていて、名前もちょっと珍しく、社会運動をやっていることなどから目についた。若い時に、大病をしたことなども、ブログで知った。病気を乗り越え、奥さんと子どもたちと幸せな暮らしをしているよう。めちゃくちゃ仲が良かったわけでもないが、いろいろ思い出もある。選挙事務所に泊めてもらって、朝まで酒を飲んだりしたような記憶もある。おそらく、初めての飲酒だったが、詳細は残念ながら忘れている。卒業間際の頃だったと思うが、どういうきっかけだったのだろうか。卒業後、選挙になると電話がかかってきたりしていた。テレビで委員長が言っていることと全く同じことを電話で言うので、ちょっとウンザリしたような記憶もある。若い活動家が、なんであんなおっさん世代と全く同じことしか言えないのか、と文句も言ったような。選挙権を持ってから野党にいれ続け、彼の党にもよく投票するが、心から支持する気にならないのは、異論をはさめない全体主義の匂いがやはりするからだ。

反原発のデモや、安保法制反対のデモが若い世代に盛り上がっていることを、よろこんでいるのがブログやツイッターからも分かる。そりゃそうだろうな。安倍政権のそれらの政策に反対ながらも、若い世代の盛り上がり、という定型化された語りみたいになっていることに天の邪鬼的な反発を覚える自分は、遠目で眺め、思考停止になってしまっているのだが。

こうやって片方から一方的に覗いているのはやはりいやらしい。「おう、元気そうでなにより」とメッセージ送ればいいのだけど、何となく憚れる気持ちもあり、フォローせず、たまにツイートを読むくらいの状態にとどまっている。広島カープファンと言えば、真っ先に思い出すのも彼だった。赤だから、赤い球団が好きなのかと揶揄していたが、確か、市議をしていたお父さんが好きだったはず。親と同じ道、同じ趣味に進むって、どれだけ親孝行なのだ。不孝者のわが身を反省する。家族や仲間が集まって、優勝の瞬間を楽しんだ様子がアップされていた。なんともしみじみした。同窓会的なイベント、今まで一度も参加したことがない。これからも行かないと思うが、ちょっと参加したような気分にはなった。

淀川を眺めてから散歩した話

夕方になるとふらっと出掛けたくなる。時間はあるけど金はない。歩くか、自転車に乗るかしかない。ちょっとした電車賃くらいはあるが、ふらっと遣うのはもったいないと考えてしまう状態ではあるので、電車賃を出すなら、ハッキリ目的のある用途につかおうということになり、そうなると、今は、まぁ特に行くべき場所もないからな、ということになって、とりあえず近くをうろうろするか、ということになるのであった。

淀川が見える街に住んでいる。梅田へは、自転車なら橋を渡って20分くらい。歩いても1時間はかからない。反対方面、豊中や尼崎に向かうという手もあるが、形ばかりでも、目的地が欲しく、そっち側にはそれがないので、ついつい、街に向かってしまうのだ。この夏は、父親の長期入院があり、病院が街の方向にあるため、自転車で何度も淀川を渡って見舞いに行った。これからも、ひんぱんに行かざるを得ない状態が続きそうだ。

病院に行くのはやはり楽しいものではない。こちらが気を重くしていると、相手にも伝染するから、できるだけ淡々としてはいたいが、それでもまぁ仕方がない。そんなわけで、病院に行かなくてもいい日で、本当ならやるべきこといっぱいあるのだけど、どうしようもなく気が進まないという状態だったので、とりあえず夕方に家を出てみることにした。歩きたい気分だったから、そっちを選択した。

河川敷に出る。災害時に使うために整備されている船着き場がある。波止場にあるロープをしばるアレ、マドロスが片足をのせる例のものがあって、そこに座って川面をしばらく眺めていた。ぴょんぴょんとボラが飛び跳ねる。数年前まで、年に一回くらいは釣りをしていた。無用な殺生をしても仕方がない、という気持ちに突然なって、大学のサークルの後輩に全部あげてしまった。子どもがちょうど釣りにはまっているからというので。もういいや、と思ったけど、たまにはやってみたくなる。釣りをやめると、こうやってぼんやり川面を眺める時間を持たなくなることなんだな、と改めて思った。あの時間は、悪くないものだった。

釣りをやめようと思ったのも、やるべきことの言い訳に、時間をつかうのがもったいないと思うようになったというのもあるのだけど、今は、ツイッターの画面を何時間も眺めて時間を無駄遣いしているので、それなら、川面の方が良かったかもしれない。

少年野球チームの練習。親子連れ。孫と遊ぶ爺さん。子どもを作らない人生を選んだので、どれも近くの異世界だ。人生間違っていたかどうかは知らないが、うっすらとした寂しさは常に感じるようになった。親が病気になるとか、そういう場面では特に。考えても栓の無いことは、考えないようにすべき。と思いながらも、ちくちく自分をさすものがある。とか、なんとか。

波止場に佇んでいるなんて、心を病んでいる人みたいだ。「大丈夫ですか、元気出してください」とか声掛けられたらどうしよう、「こんなとこ飛び込んだって死ねませんから大丈夫ですよ」とか笑って答えようかとか、そういうことを考える。しかし、元気な子どもの姿はまぶしいね、と思う自分と、そうでもないなと思う自分と、頭の中でかってにあれこれやっている。

歩いて橋を渡り、中津方面へ。空中庭園のあるスカイビルまで行く。長距離バスのターミナルにもなっていて、四国行きのバスが出発するところだった。四国、行きたいな、と思った。山陰でも、九州でも、北陸、東北、北海道。どこでもいいのだけど。ビルの下では、メキシコフェスのようなものが行われていて、賑やかだった。友達、家族で遊びに来ている人も多かった。皆楽しそうに見えた。アジア系以外の外国人観光客の姿も多かった。ここが、こんなに観光スポットになるなんて不思議な気持ちだ。外国人観光客が大阪に溢れる前は、梅田駅から離れたここは、ちょっと寂しさを感じさせるスポットだったのだから。

この人たちは皆、海外旅行をしているんだなぁ。知らない街として大阪来たら、面白いだろうなと、いつも通りの想像をする。梅田方面に抜けるトンネルを通る。旧、梅田貨物駅の下を通る道だ。貨物駅の痕跡、もうしばらくしたらなくなるのだろう。新しい景色が生まれると、前まであった景色は、簡単に忘れ去られてしまう。もっとも、これだけデジカメが普及したら、このあたりの写真は、後になってもググってすぐに見ることができるだろうし、なんてことも考える。

梅田駅北のグランフロントは、本当に馴染のない空間になっている。40年以上大阪に住んでいて、梅田なんてずっと自転車圏内だったのだが、若い時と違って、新しいものへ関心が薄くなるにつれ、ただただ自分とは関係ない何かとしか感じられないようになっている。観光客が多くなったからだろう、座れる場所が増えているのはよいと思った。ところどころで、ストリートミュージシャンがミニライブをしている。中島みゆきをカバーしている兄ちゃんがいた。どうかな、と思った。

さて、梅田まで来た。6時前になった。もう少し早かったら御堂筋通って難波まで歩いてもいいかと思ったが、そういえば一週間前も、何の用もないのに、難波まで行っていた。晩飯を作らないといけないし、もう帰ろう、ということで一駅だけ電車に乗って帰ってきたのだった。

金原みわさんの記事に対して抱いた疑問点について(2015年12月20日)

ネット上にアップされた次の記事について抱いた疑問点について書きます。
http://zoudazou.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html

金原みわさんというライターの方が、淀川の河川敷探訪記として書かれたもので、その中で小屋掛け生活をしている方の写真と生活が紹介されていました。わたしは取材場所の近所に住んでいますので、そのあたりはよく散歩しています。その方とも何度か話をしたことがあります。ただそれだけの関係です。当該記事については、著者の金原さんが書かれた記事を以前興味深く読んだことがあり、ツイッターをフォローしていたため知りました。金原さんともネット外での面識はありません。そこで、ツイッター上で批判のメッセージを送りました。金原さんから誠実な回答がありました。記事は掲載し続けると判断されたとのことです。その間のやりとりは、関心のある方はツイッターをたどってください。ツイッターでは、中途半端ないちゃもんだけになってしまっていますので、ここに私の異論をかかげておくことにしました。

ネットにアップする危険性について
記事を一読して、こんなにハッキリと本人や小屋の写真をとって、ネット上にアップするのは危ないのではないか、とまず思いました。近所の人なら、どこの誰のことか、すぐに分かるからです。社会には、いろんな意見を持つ人がいます。公園にテントを貼って仕方なく暮らしている人には、「みんなの場所」を独占するなという声があがります。さまざまな事情から家を失ったため、仕方なく「みんなの場所」に流れ着いて雨露をしのいでいる人が多いと思いますが、「公的機関」の許可を得ていない以上、ナントカ条例「違反」だと、目の敵にする人も少なくありません。

もちろん、路上生活について、どう思うかは、それぞれの自由でしょう。私は、河川敷のような空間のすみずみまで管理が行き届くような社会は息苦しくて気持ち悪い、と思っています。が、そう思わない人も多いはずです。印象論ですが、ネット上はそのような規範意識の高い人が多いように思います。あの記事のせいで、存在が知られ、中には、行政に苦情の電話などをかけたりする人があらわれるのではないか、そのために、これまでなんとかやってこられた生活の場を、あの方が失うことになったら大変だ、という危惧をまず抱きました。今でもそれは持っています。

表現をめぐって
最初に記事を読んだ時、「おじさんに続いて、ホームレスハウスの中へ入っていった。…そのうち私は、好奇心に殺されると思う。」という一文に、大変憤りを抱きました。

上記のように、ぼかしもなしで写真をアップしていることに対して、被取材者にどんな影響を与えるかあまり気にしない方なのだろう、とまずは思いましたし、危害を及ぼすのはあくまでも、おじさんの方で、自分は勇気ある冒険者のような気持ちでいるのだな、と感じました。あの小屋は、「ホームレスハウス」という言葉を聞いて、想像するような場所とは違うのにな、とも思いました。

日本中で、路上生活者に対する暴力行為はあとを絶ちません。大阪でも、若い男性により、何の罪もない路上生活者の方が殺されるという痛ましい事件が何軒かありました。「普通の生活」をしている人たちが、そこから外れた暮らし方をしている人に対して、広い意味で恐れの念を抱くのはもちろん仕方がないとは思います。ただ、実際は、被害にあうのはいつも路上生活者の方です。
(たとえば、こちらなど参照。http://iwj.co.jp/wj/open/archives/161681 )

もしかして、金原さんの好奇心が殺すのは「自分」ではなく、「相手」の方なのではないでしょうか。大げさに言えば、の話ですが、取材する側は相手の生活に影響を与えるかもしれない、という最低限の自覚は必要だと思います。

「好奇心に殺される」というのは、金原さんの活動全体をあらわすキャッチフレーズのようなもので、象徴的な意味で使っているだけなのでしょう。(乱歩を描いたアニメのキャッチフレーズだということもさっき知りました。)もちろん、本当に「殺される」と思ったら、声はかけないでしょうから。

「普通」の人たちは、路上生活者のことは、たとえ目にうつっても存在として認識せず、スルーするものだと思います。あの小屋は目立ちますから、他の路上生活者の方よりは多くの耳目を集めたと思いますが、これまで何十万、何百万人もの人が視界に入りながらも認識もせずにすごしてきたはずです。興味を持ち、住んでいる人に話しかけ、写真におさめた金原さんが、スルーする他の多くの人に比べて差別的だなどとは全く思いません。ただ、自分の関心を記事にする、「こんなに面白いものがあるよ」と他の人に伝える、という時には、被取材者に対する最大限の配慮がいると思いました。

もう一つ、本文中で使われていた「おじさんから獣の匂いがした」についての、違和感を@で伝えました。

金原さんからは、
「表現について。あの話の中で侮辱するつもりも責めるつもりもありません。また褒めるつもりも持ち上げるつもりもありません。言葉を慎重に選んだ上で、訪問者として私が感じた素直な気持ちを書かせていただきました。」
という返事をいただきました。

最初、とても差別的な表現だと感じました。路上生活者=「野生の生活を送る人」という連想から、「獣」という言葉を無神経に使っているのではないか、先に書いたように、自分自身を冒険者になぞらえているようだし…。

しかし、冷静に全体を読み返すと、自分の誤読かもしれないと思えてきました。ここでの「獣」は、確かに否定的でも肯定的でもないように配慮して使っておられます。少なくとも、私が知らない場所の知らない人に関する記事だったとしたら、全く気にならなかったかもしれません。匂いの元は、自由度の高い生活をしているペットたちの方で、ペットを愛する方たちであることを表現されているのですね。自分の方が、偏見により歪んだ読み方をしたのかもしれません。

ただ、路上生活者のことを書く時に、「匂い」に関する表現は、やはり気になります。一般的に、路上生活を送る人はお風呂に入る機会も少ない人も多く、不快な匂いをさせる人が多いのは確かです。公共の場所、たとえば図書館をめぐっては、異臭を発してしまう方をどうするか、というのは大変深刻な問題となっています。しかし、記事にあがっていた最初の人は、そういう匂いがあまりされない方です。微妙な話なので直接聞いたことはないですが、たぶん相当気を使ってらっしゃるのでしょう。だからこそ、多くの人が訪ねてきたりする、ということがあると思います。それなのに、「獣の匂い」って書くのはひどくないか…と思った次第です。

許諾をめぐって
今回、わたしからの批判を受け、金原さんはすぐに行動に移され、再取材をされたようです。お尻が重い自分からすると、フットワークの軽快さには本当に頭が下がります。ご本人に記事掲載許可を受けられた以上、これ以上とやかく言うのはやめておきます。

他の方が、取材写真のあり方について法律的な話をちょっとされていましたが、私は「法的」な話はあまり関心がありません。ブログや、SNSなどで、勝手に撮った街や、知らない人の写真なども無神経にアップしています。怒られたらその時に謝ろう、くらいの気持ちです。河原の話でも言ったように、ガチガチに管理された社会より、ちょっとルーズなくらいの方がいいと思っています。

金原さんの他の記事やツイッターでも「絶対あかんやつ」がよく取り上げられていますが、ああいう著作権を無視した自由な表現は、私は大好きです。もちろん、ツイッターでRTすることもあります。ミッキーマウスもドラえもんも、簡単に描けるからこそ愛されているのだから、どんどんみんな勝手に描いたらいい、くらいに思っています。

十三駅前の「鉄腕波平通り」がそうだったように、あまりに多くの人に「面白がられ」すぎると、「お上」に見つかって、撤退せざるを得なくなったりもするでしょう。「面白い」ものを発見し、広く伝えると、その面白いものをなくしてしまう、ということにも当然つながります。ずうずうしく「鉄腕波平」なんてキャラクターを使っちゃう商店会は、タフな人たちだと思います。ちょっと怒られたくらい平気でしょう。自由な街の看板も、ヘタクソなミッキーマウスも。みんなタフです。

そういう意味では、河川敷で自分で小屋を建て十年も住んでいる人は、「タフ」に違いないです。関係ない自分が「弱者」のようにとらえ、文句を言っていること自体、失礼なことかもしれません。ただ、看板は貼り換えたらすみますが、生活の場は、それほど簡単に変えられないのではないでしょうか。ですから、「面白い人」として紹介するには、それなりの配慮がいるのではないか。そういう危惧から、違和感を表明しました。

議論が大きくなればなるほど、読まれない方がいいと思う記事が読まれることになりますので、書くか書かないか大変、迷いました。しかし、金原さんが誠実な対応をされた上、その上で記事を掲載し続けると判断された以上、他の人が読める場所に意見を書いておこう、と判断しました。あのおじさんが、もしあそこにこれ以上居づらい状況に追い込まれたとしたら、その責任の一端は自分にもあります。(20151220)

※※※
このブログ、放置気味になってしまっております。このライターの方、各所で活躍されているということを知り、久々に確認してみたら上記記事リンク切れになっておりました。この記事を書いた直後、ご本人にお伝えしました。すると「見ました」の一文だけのメッセージが返ってきました。ツイッター上で違和感を伝えた際は、記事にある通り、迅速に再取材したり、こちらにも会って話をしましょうという趣旨の連絡がなんどかありましたが。文章で公表している内容に関しては、公の場で議論すべきだと考え、公的に意見を述べますと返答した上で、それなりに時間をかけて書いたのが、この文章です。元の記事を削除された、あるいは別に編集されて本にでもされていたりするのかどうか、私は知りません。リンクが切れている以上、何もないところに批判の玉を投げているようで、ヘンテコになってしまっていますが、しばらくはネット上に掲載されており、ある程度話題を集めた記事(おそらく私も、自分がよく知らない対象の話なら何とも思わなかったでしょう)だったことは確かですので、この文章をさらしておくことにそれなりの意味があるように思います。念のため補足しておきます。(20160726)