2016年9月15日木曜日

自分くらいはあるものとして

ツイッター上のあの人どうしているかな、というつぶやきで、ようやく「あ、ほんとだ」と気づくなど。よく愚痴っぽいことをつぶやいていた人で、印象深かったのに、いつの間にかいなくなっていて(というかつぶやかなくなっていて)、そのことに自分は全然気づいていなかった。ハンドルネームで検索したら、だいぶ前から、「あの人元気かな」と、不在に気づき、つぶやいている人がいた。

自分がつぶやかなくなったら、二人くらいは「どうしているかな」と思ってくれるかなとか、考えたりもする。リアルな知り合いなら、あ、ツイッターやめたなと思うだけだろうけど。

街を歩いていて、新しい建物が立っていたり、更地になっていたりする近くを通ると、「あれ、ここ元はなんだっけ」と、思い出せないことが多い。つい最近まで、そこに当たり前にあったのに。

印象が薄いような所だから取り壊される、ということなのかもしれないが、とにかく、消えたものと、今目の前に存在するもの(新しいもの、更地の空間、どちらでも)との違いというのは、もう絶対的なものなのだ。いる間は、いるのだ、と言い続けることが大事なのかもしれない。



忘れられたっていいのだけど、自分自身まで自分のことを忘れることはないのだ。

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