2017年11月1日水曜日

ジモトに尻尾をつかまれる

仕事帰り、近所のスーパーで安いワインとスナック菓子を持ってレジに並んでいたら、どこやらから我が名を呼ぶ声がする。

「よどがわ、よどがわ君やろ?」
振り向いて見たら、少し赤ら顔のおっさんであった。

いかにも、自分は、よどがわですが、何か、というような返事をした。

「やっぱりな。いやぁ、なつかしいなぁ、覚えてへんか、ナントカや、ナントカ。」
と彼。どうやら、中学の同級生らしい。

数年前、自分が通っていた中学校の校区のほんの隣の町に引っ越してきた。ほぼ「地元」暮らしだが、年賀状のやりとりを含め、つき合いのある「地元の友だち」はひとりもいない。町で、たまにどこかで見たような顔と遭遇することはある。たぶん同級生とかなのだろうが、名前も出てこないから、話したりすることは当然ない。

しかし、今日、この町に来て、初めて、こういうことがあった。

「よどがわ君、自分あれやな、カントカとか、マルマルとかと一緒におったやんな。あと、ペケペケちゃんとか。」

彼の口から、いろんな名前が出てくる。そのうちの何人かは、記憶にある名前である。しかし、目の前の彼、ナントカ君のことは、どうしても思い出せない。ちょっと申し訳ない気持ちになる。向こうは、たいそうな、懐かしがり方なのだ。

「いやぁ、ほんまに、懐かしいなぁ。お互いにオッサンになったなぁ。」

ナントカ君の話は、続く。この場を立ち去りたい気持ちと、もう少し思い出さないと申し訳ないという気持ちと。そんな葛藤はおかまいなく、ナントカ君は次々にヒントを出してくるのであった。

「よどがわ、って勉強できるってイメージあったわ。今、何しているの?」

今、何しているの。よどがわ君は、今、何しているのだろう。ほんとうに。

「まぁ、いろいろ仕事しているよ。」と、ごまかすためだけの、「無」の返答をしてしまう。

「そうなのか~。いやぁ、なつかしいな。」

あまり聞かれたくない、ということを察してくれたのか、そもそも「何しているのか」に大した関心もないのか分からないが「無」の返答をスルーして、懐かし話を続けるナントカ君。

「よどがわって、エロいイメージあったわ。お互いにエロかったよな。エロい話一杯したよな。」

……。

ナントカ君によれば、中学時代のよどがわ君は、勉強ができて、エロかったらしい。
その話を聞いて、私は、ようやく中学時代のよどがわ君の姿を思い出した。同時に、目の前で懐かしがって自分に話しかけてくれているオッサンと、中学時代、エロい話をしていたことも。

いた、いた。ナントカ君。確かに、こんな顔だった。いつも、スケベな話をしていた。中学生にしては、下半身が大きくて、何度も見せられたりしたわ。

と、本当にしょうもない、どうしようもなく、くだらない、中学生らしい(のかどうか知らないが)思い出が、封印していた(のかどうか知らないが)思い出が甦ってきた。まざまざと、ってほどではなく、うっすらとだが。

「いやぁ、ほんま懐かしいな。またペケペケとかに言うとくわ。よどがわに会ったって。」

ナントカ君は、中学時代の友だちと未だにつき合いがあるらしい。そうなんだな。地元で生きているんだな。

オッサンになったよどがわ君は、「まぁ、また」とごまかすように言って、30年以上ぶりの出会いの場面を終わらせてしまった。連絡先も、詳しい住まいの場所も何も伝えず、冷たい人間だろうか。「彼ら」が今、どうしているか、知りたいような、知ってもどうしようもないような、話すこともないような、会ったら会ったで何か話題があるのかもしれないが、まぁとにかく、それで終わった。

ちょっと勉強ができて、だいぶエロかった、あの、よどがわ君は、今、何をしているのだろう。地元に住んでいて、夜にスーパーで買い物しているくせに、地元の誰とも連絡もとりあわずに、な。オッサンになったが、見かけはそんなに変わってないのかな。30年ぶりに会って、当時は掛けてなかったメガネ姿でも、分かるくらいなんだからな。彼の記憶力がすごいのか。老けただけで、顔は変わってないのか。よどがわ君は。

複雑な気分を抱えて、家に帰ってきた。そろそろ、この町を離れた方がいいのかもしれない、という気になったりした。「わしゃ、逃亡犯か」と自分に突っ込みをいれる、よどがわ君であった。

2017年10月28日土曜日

鬼も呆れる話

非常勤講師という形でいくつかの大学で仕事をして生活を維持している。全部一年契約なのでいつまで続くか分からない。毎年、この時期、来年もお願いしますというような連絡をもらってホッとする。今年はまだ来ていないところも複数ある。無くなったら無くなったで仕方ないと覚悟はしていながら、ほんとに無い、という連絡が来たら、一瞬、目の前が暗くなる。…ってほどでもないか。背中に気持ち悪い汗がツーっと流れるくらいか。これまでにも、何度かあったので、慣れてきてはいるのだ。収入的に一番依存している所が、となると、やっぱ真っ暗になるかな。大体、二年くらい前から「来年で終わりなんで」ということが多い。去年、「今年で終わり」と聞いていた所、諸事情で空きが出来、今年は週に4コマもやっていた。収入的にも依存していたが、来年は減少、再来年はゼロと言われた。連絡をくれるパイセンに、大学のあり方、その他、文句を言いたいこともいろいろあるが、その方も専任ながら任期制で立場が弱いらしい。とにかく、何を言っても仕方が無い。…と思わされているのだろうな、自分自身が。

ということで、さて、再来年からは取り急ぎ、どうしようと不安になるのだった。最低限の生活を維持するのに月に数万円は足りなくなりそう。アルバイトニュースを眺めてみて、短期バイトとかできる何かないかと、考えてみる。街を歩けば、中高年でバイトをしているような方の姿も目に付くようになった。できないこともないのだろうな。「先生と言われるほどの馬鹿はなし」という言葉もある。中途半端な立場ながら、「先生」業に手を染めてきた自分は、おそらく自覚している以上に、無根拠にえらそうな人間になっているはずだ。バイトしたら、そんな部分が知らずに出てしまい、バイト仲間からいじめられるんじゃないか、などと考え、リアルに震えてきたりもするのだった。まぁ、来年のことでさえ、鬼が笑うというのだから、再来年のことなど考えないことが肝要だろう。

かりそめの職場だから、どの職場にも、できるだけ過度な愛着を持たないようにとは意識しているが、感情統制力が弱い人間なので、通勤路の風景、それぞれ色々抱えていそうな学生たちの顔、講義後の教室で一人味わう気分、講師控室で見かける顔の幾つか、などなど、もうすでに切ない何かになりかけている。「再来年に縁が無くなりそう」と聞いただけで。鬼も呆れる話だ。非常勤講師の仕事は、一生懸命やっても、手を抜いても、クビになる生き残る、というのは全く関係ない。よっぽど大きな問題を起こしたというのでないかぎり、すべてカリキュラム編成とか、文科省がどうしたとか、経営の方針が変ったなどで決まる。ココでの話は、経営悪化で、専任ができるだけ全部すること、という方針に従ったものだという。あんなホテルみたいなキレイな新校舎作る金はあるのにね、とか嫌味を言いたくなるが、もっと安定した立場だった知人も大変な目にあったし、危機は危機なのだろう。顧客であり、主役であるはずの学生たちのリアルな状況は関係なく、勝手にすすむ、あれやこれや。とにかく、与えられた期間は、自分なりに意味のあることをしよう、という思いを持つようにしなければな、そうだな、うん、そうですね、と虚しく自分に言い聞かせるのであった。

2017年10月22日日曜日

長雨で蘇るジベタ地帯らしさ

このあたりは海抜0メートル以下。もとは工業地帯なので地下水の汲みすぎによる地盤沈下によるものだ。というようなことは、小学校のときに社会科で習った気がするが、どうなのだろう。「ブラタモリ」の大阪編にも出ていた新之助さんは「十三の今昔を歩く」という面白いブログを主催され、それを元にした本で有名になられたようだが、「十三の」というくらいだから、おそらくご近所の方なのだろう。自分の住んでいる団地の「昔」についても詳しく載っていて、いろんなことを教えられた。今の淀川は改修後のもので毛馬からまっすぐ海に向かっているが、それまでの川の流れはもちろん、ぜんぜん違う。今でも地図を見ると、元は川だった様子がわかるような道があったりもする。わが家は、明治時代くらいまでは、荒地かなんかだったよう。川ではなかったが、まぁ、使い物にならないようなところだったのでは。先日、同居人と上町台地あたりを散歩した。ちょっと「上」になっているところは、それなりにいい雰囲気が残っていたりする。神戸でも東京でも、金持ちは、やはり山の手に住むのだ。考えてみれば、ずっとゼロメートル的なところに住んできた。実家も今の住まいも集合住宅だから「上」の方だが、土地の性質(って非科学的な表現だがまぁ何かそんなもの)は、ジベタって感じのところばっかりなのだ。一瞬だけ、千里ニュータウンの端っこに住んだが、土地の質があわずに逃げ出した。やっぱりジベタが相応しい人間なのだろうか。日のあたる、山の手に住むと人間性も変わるかもしれない。そのためには金がいる。金があれば、人間性も変わるに決まっているのだから、なんというか、山の手に住んで変わったとしても、それは山の手であることがそうさせたとは言えないかもしれないな、とかどうでもいいことを考えるのであった。このあたりの平屋では、納屋にボートを持っているようなところもあったらしい。洪水に備えたもの。この間の長雨に、台風の影響で淀川の水量は相当になっているが、洪水になるほどのことはまずなさそうではある。それでも、ゼロメートル地帯的な、元は湿地だったという由来を感じさせるような、ある種の「暗さ」のようなものが、いつもよりはちょっと強めに漂っているような気がする。何となくだが。早く、秋らしいカラッとした天気に戻ってほしい。

2017年10月1日日曜日

バタバタ

旅行記など書こうと思いながら、毎日のバタバタに流され今日に至る。普通に忙しく働いている人と比較したら、のんびりしたものなのだと思うが、自分としては何となくあわただしい。「バタバタ」って言い方、どうなのかな。もしかして世代を感じるようなものになっているのかな。これまでなんとも思っていなかったような、自分にとっての当たり前が、なにもかも時代遅れになっているのでは、と気になるようになってきた今日のこの頃。こんなことこそ、気にしても仕方がないから、気にしないようにしたいが。後期の授業が始まった。非常勤講師の仕事がいつまであるのか分からないが、とりあえず今年はあるから、生きていける。適度な仕事量をいただけるとありがたいが、話があって断わったら、もうそれは回ってこないものであり、あるものも何時なくなるか分からないものだから、来た話は、日時が可能ならとりあえず引き受けている。今年はかなりきつめのスケジュールになっている。勤務時間だけ見たら何てことないのだけど、仕込みと片づけを考えるといろいろきつい。あとは移動と。でも、いいのだ。仕事ができるのはありがたい。辛いけど。できれば、他の仕事とまぜてやりたいのだが、今は、これでなんとかする。それで、一応、バタバタ。それでも、もうちょっと定期的に、かつ面白いブログを書きたいと思ったりもする。

2017年9月17日日曜日

内なる声をふさいだ方がいいかもしれない

どこかに行きたい、という気持ちがもう湧き起ってくる。先週、韓国行ってきたのだけど、また行きたい。特にどこに行きたいってことはないけどちょっとした非日常に身を置きたいということだろう。旅の多い仕事の人がうらやましい。もちろん、仕事でやっていると、それが日常になり楽しくはなくなるのだろう。それでもな。もうすぐ後期の仕事が始まる。休みがないと嘆いている方々が多い中、そういう人からしたら夢のような長期休暇がある。もちろん、それだけ仕事や収入があっての休みなら、大変贅沢なのだが。家で少しずつ、自分で考えるやるべきことをやるのだが、自己抑制力の無い自分にはとても十分に生かせない自由だ。情けない話です。でも、もう自分のことはある程度分かってきたから、全体を意味深い物にするのは諦めて、何分の一かでも意味あるものにできればいいなと目標をすごく下におくようにしている。おかげで、少しは何かができるようになったが、極めて薄味の活用だ。それなら、何か賃仕事でもするべきなのかもしれないが、やはり自由は、ちょっとでも先につながることに使いたいという気持ちが捨てきれず、踏ん切りもつかない。後期は週に10コマある。ありがたいことだ。しかし、体力的、精神力的に結構きつく、準備のことを考えること自体、今から憂鬱だ。ただ、最近は、いろんな心配が複合的に来ているので、仕事のしんどさそのものはちょっとまぎれていたりもする。嫌だという気持ちにこだわると、よりしんどくなってしまうから、いろいろ心配の種が分散しているのは精神的にはいいのかもしれない。漠然とだが、何か他の収入手段が作れないかと考えてはいる。一回きりの人生なのに、もう少し主体的に生きれないものか、という青臭い願望が湧く。今さら何言っているんだ、という内なる声。この口をふさぐことが必要かもしれない。

2017年9月15日金曜日

いつもの情景(韓国旅行記1)

日本のニュースだけを見ていたら、今の朝鮮半島は、核ミサイル実験でいかにも危機的状況が迫っている、と思う人がいるのも無理はないだろう。これまでも実験はずっとやっていたし、一連のアレは、アメリカとの交渉を引きだすための何かなのは明白なのに、まるで日本が第一ターゲットであるかのように報道している。危機感をあおることは、権力者にとって好都合だ。もちろん軍事独裁国家の存在は危なくなくはないに決まっているが、これくらい危なさは、言ってみればずっと続いているものだ。今回、韓国行きの意欲が、ニュースによって折られるなんてことは全くなかったが、親を心配させるかもというのは頭をよぎった。「ちょっと韓国に」と伝えてあったのだが、関空で「ほなね」と電話をしたら、「もう行くのやめるんやろうと思ったのに」と冗談本気半分半分で母親が言っていた。「まぁせいぜい心配しててや」と笑って電話切った。

夕方関空発の飛行機だったというのもあるだろうが、乗客の9割くらいは韓国人らしかった。これまではもっと日本人が多かった。ニュースなどで聞いていた通り、日本に観光旅行に来る韓国人はどんどん増え、反対は減っているようだ。搭乗の待合所にパナソニックのテレビがおいてあって、よみうりテレビが流れていた。キムジョンウンの顔が映っている。報道の偏りと、自分と違う考え方の人間への馬鹿にした態度が不快すぎるテレビパーソナリティの何某が韓国ロケまでして、危機を煽っていた。顔を見るだけで虫唾が走るから、見る気が起こらなかったが、韓国に帰る人たちの中には気にしている様子の人もいた。こんなメディアの雰囲気なら、「韓国行ったらあぶないで」と誰かに言われて、旅行計画を取りやめたというような人も少なくないだろう。

今回、安いチケットだったが、LCCではなかったので、新聞がフリーで配られていた。韓国語の新聞をすらすらとはとてもじゃないが読めないのだけど、嬉しがってハンギョレ新聞をもらった。パククネ政権時代の問題をめぐる裁判のニュースがトップだった。インチョン国際空港に着いて、外国人入国手続きの列に並ぶと、8割くらいは中国のパスポートを持っているようだった。ミサイル配備の問題で、中国人の観光客激減というニュースがあったが、もう今は戻っているのだろうか。ああ、すっかり日本人観光客はいなくなったのか、と思ったが、両替をしにソウル市中心部のミョンドンまで行ったら、日本語(特に関西弁)が頻繁に耳に入ってきてホッとした。いや、ウソだな。どっちかというと、ホンネではちょっとがっかりしたのだ。なーんだ、あんまりかわらんな、と。自分の中に、少しは、非日常的な雰囲気を期待する気持があったのだろう。報道に煽られた日本人がすっかり来なくなった中、通常通り訪韓する冷静な「私」を嬉しがってアピールしたい欲望みたいなものがあったような。こうして書き出して見ると、本当にアホみたいな発想だ。

これまでに来た時に比べ、危機っぽい雰囲気はあったか。実際の所、全く普段通りのソウルしか感じられなかった。若者の街、ホンデに土曜の夜ちょっと立ち寄ったりしたが、ものすごい数の若者が群れ集っていて、都市文化を楽しんでいた。これまで見た時と同様、街の人々はせわしなく働いていた。これが韓国だな、という空気だった。

とはいえ「戦争の匂い」を感じる景色もなくはなかった。ひとつは、最後の日の前日に、立ち寄ったオリンピック記念公園。上空をひっきりなしに戦闘機が飛んでいた。爆撃機か輸送機かよく分からないが。とにかく、戦争で使う道具が何度も空を横切り、ここは常に戦争の準備をしている国なのだなということを、再確認させられた。もちろん、街で見かける軍服にもそれは感じるのだが、そっちはもう見慣れていたので戦闘機の方が気になった。後で韓国人の友だちに聞いたら、ここはそもそも空軍の飛行場に向かう航路にあたるらしく、いつでもこんな感じなのだという。特に、今が危機だから準備しているというわけではなさそう。沖縄ならもちろん、横田基地などの近くに住む人にとってもお馴染みの景色なのだろう。たまたま大阪には近くに基地がない(沖縄におしつけて)から、見慣れないということか。
小さくてよく分からない

そして、もう一つは、最後の日に立ち寄ったソウル駅近く。空港鉄道に乗る前に、お土産を買いに立ち寄ったが、少し時間がありソウル路という新しく出来た遊歩道を散歩してみようと歩いて行くと、何やらおどろおどろしい大音量の音楽が流れてきた。ステージにビジョンが設置され、椅子が並べられていた。どうやら、保守系団体の集会準備らしい。垂れ幕には、「北韓の核挑発弾劾」とある。「核には核を」なんて書いてあるから、核武装派の人たちなのだろう。時間がなく、どんな集会なのかは見られなかったが、前政権の支持者たちの一部などは相当な右翼(日本から韓国の政治を右・左で切り分けようとするのは適当すぎるとは思うが)らしいので、そういう団体なのだろう。すぐ横では、キリスト教の団体も小さな集会をしていて、讃美歌を歌っていた。案外、保守系でその後、「核」集会に合流するのかもしれない。でも、こういう集会は、これまでにもたぶんしょっちゅうされていたように思う。

ソウル駅前の広場で集会の準備中


空を飛びかう戦闘機。「北韓」を激しく非難する保守派の集会。軍服を着て、スマホをのぞき込む若い兄ちゃんの姿。女性を中心にした日本人観光客の姿。いつもの、といえば、いつもの韓国が今回も見られた。
新しく出来た大型の歩道から。旧ソウル駅の前で集会の準備中。


2017年9月13日水曜日

一週間、ソウルに行ってきた

ソウルに行ってきた。6泊7日の旅だった。主目的は、金、土、日にあった第五回競輪日韓戦だった。日韓戦は二回目を除き、現地観戦している。今、韓国の競輪について手探りで調べている最中で、いろいろ取材できればという思いもあった。向こうの公団の人にちょっと話は聞けたが、取材させてもらうのは簡単ではないようだった。韓国競輪は、国直轄の体育振興公団が直営でやっていて、メディア取材などもかなり規制しているので、日本のようなプレスルームがなかったりする。許可された専門紙のインタビューが前検日にあるだけ。そのあたりのことも、去年、今年と現地に行ったからこそ分かったことではある。

3日間競輪場に通い、レースを見る。それ以外、何も決めていなかった。折角だから前後1日ずつくらい空けた日を入れておこう、という日程だった。今の私は、どうしても行かなければいけない仕事がとりあえずしばらくない。そういう生活だから可能な日程だ。飛行機代、宿代合わせたら3万くらいはかかったが、最低ラインには抑えられた。時は金なり。こういう時間の使い方が、よかったのかどうなのかはほんとによく分からない。この間、自分は何をしているのだろうと何度も思いながら過ごしていた。ただ、今年の夏は、ずっと重い宿題だった一つが一区切りついたということもある。他にも鈍行旅行をしたりしたが、何やっているのだろう、まともな大人ならこんなことはしてないぞ、という内なる声が出てきても、まぁ、今年はええがなという気休めの甘い声が、スムーズに出てくる、というと変だが、そういう状況ではあったのだ。

昨日帰ってきて、やはり今は全身が怠い。ダラダラとしていたとはいえ、家にいるよりは大分動き回った。ガラケーについてる歩数計を見たら、だいたい毎日一万歩くらいは歩いている。行っている間は、もう少し日数減らして、頻繁に来るようにした方がいいなと後悔することもあったが、とりあえずの非日常を楽しんだ、ような気がする。

何で韓国なのか、韓国が好きなのかどうなのか、何がいいのか悪いのか、いろんなことを自分に問い直すような時間でもあった。自分が韓国へ最初に行ったのは6年前で、今回は6回目くらい。長年の韓国マニア?の人に比べたら、入門者もいいところだ。しかし、こんなことは他の人がどうとか気にしない方がいい。偉そうに自分だけが知っているみたいな顔をしなければいいだけだ。自分は自分の生を生きているのだから、そこでの体験や行為がどんな意味があるのかは、自分が決めればいいのだ。そしてまた、社会の中に生きてもいるんだから、自分の目で見た何かについて他人に伝えたいと思うのも当然のことだろう。

何の話か。それまで、出不精な生き方をしてきた自分にとって、何度も出かけようと思う外国があるということは、ある意味感動的なことと受け止めていて、それだけに、旅行してきたらいろいろ他者に向けて報告したくて仕方がないのだ。しかし、現地在住の人の深いブログ記事などを読むと、自分が「見た」ことなど、誰でも知っているようなことにすぎないしな、と考え、書く意欲がくじかれてしまう。という訳で、そんなストッパーはできるだけ外して、書きたきゃ好きなように書いておけばいいんじゃないか、と自分を励ましているのである。

のんびりした日程だった。安いノートを一冊持って行って、何やかや日記みたいなことをメモしてきた。それを見て、整理しなおして、滞在記みたいなのを書こうと思うが、考えるだけで面倒でもある。というわけで、とりえあえず、行って帰ってきた、とだけ書いてアップしておこう。
チャムシルのオリンピック記念公園にいたウサギと交流するおじさん。

2017年9月2日土曜日

ツイッターからいなくなる(Ⅱ)

つぶやきを楽しみにしていた一人、最近みないなと思ったら、アカウント削除をされていた。ということを他の方のつぶやきで知る。ツイッターだけのつながりだと、ここからいなくなるということは、もう完全に終わりだということだな。という寂しさについて、去年の10月6日にも書いている。いなくなったのは同じ人で、去年は12月頃に復活された。頭の中で、手を取って「よく戻ってこられました、うれしいですよ」と声をかけたいと思ったくらいだった。実際には、つぶやきを眺めていただけだけど。多めに「いいね」を押すようになったとか変化はあったかも。この時期に仕事が忙しくなったりするのだろうか、精神の不安定がやってくるのだろうか、と想像するが、今回はアカウント自体削除しているので、もっと違うなにかかもしれない。これでもう、なのかもしれないが、元気でやっていてほしい、と願わずにいられない。もちろん、自分が気づいていないだけで、自分の世界からいなくなった人などいくらでもいるのだろう。最近、以前何度かリアルでお目にかかった方が亡くなられたという知らせを受けた。自分より年下の女性だ。何年もお会いしていないから、実感がわかない。知らせがなければ、お元気だろうが、ご病気だろうが、何も気づかずに、この世のどこかに暮らしてられることをごく当たり前のこととして、あまり思い出すこともなく過ぎたのだろうと思う。その人がもういない、という知らせによって、その人が生きてらしたということがリアルに思い出されることになる。ああいう人だったな、こんな感じだったなと浮かび上がってくる記憶。たとえ薄いものであったとしても、縁があったということは、意味のあることなのだ。

2017年8月31日木曜日

夕方、淀川を渡る


自分としては濃い目の八月だったのかもしれない。悔いはいろいろだが、いくつかやるべきこともやった。遅い仕事だったが。遠出もした。形式的にだが久しぶりに海にも行ったし、18きっぷで長時間電車に揺られるということもやりたかったことだった。他にも日帰りでちょっと行ってきた。それでも何もなかった日は、何かがあったことにしたくて、夕方になってちょっと梅田まで行ってみるということは何度かした。何もないのだけど。夏の夕方はよいものだ。秋もまぁいいけど。6時頃、十三大橋を渡ると、六甲方面に落ちる夕陽がよかった。西の空の彼方に、よきところがある、というお話は悪くないものだと思う。

2017年8月26日土曜日

時間の有効活用

時間の有効活用。如何に無駄にしないで生かすかが大事だ。という倫理観から自由になりたいが、まったくなれないでいる。もっとちゃんとした人だったら、こんなにある自由な時間をもっとちゃんと使えるはず。もっとちゃんと生かせるはず。それに比べて自分は、なんという無駄な過ごし方をしているのか。若い時からそうだった。無駄に生きてきた、ということもそうだし、それに開き直れずにいたということもそうだった。無駄にしたことを後悔する時間という、無駄な時間に輪をかけて無駄な時間をどれだけ過ごしてきたことか。こういう人がいる。でも、あの人は、もともとこうだし。ああいう人がいる。確かに、でも、あの人は、そもそもこうだし。比較の対象、慰めの対象、何かよく分からない仕方で他者を利用して、どこかで重さから抜け出す。しかし、そんなものはツケにすぎないから、後からまたまた利息がついて、自分を苦しめる幻想になる。何もかも、自分で作っている幻想だ。しかし、自分という人間は、どこかで他人を必要としている。達観して、一人で自由になろうとするのではなく、他者が必要なことを認めて、つながりの中に、自由になるように考えたいとは思う。つながりと言っても、「絆」的なお話のことではなく、もっとなんでもない、でも生きていることの根幹にかかわる何かである。

2017年8月20日日曜日

お馴染みの非日常

大阪市内に住んでいる自分にとって、京都までは身近な地域だが、滋賀県に入ると途端に「遠くまで来たな」という感覚になる。普通列車の旅では、京阪神圏、中京圏、首都圏は、都市型の快速列車で乗り心地もよく文字通り快速で飛ばす感じになるためストレスがない。大阪から東へ向かう場合は、米原までは普段からよく乗る新快速になる。だから電車自体は、珍しくはないのだが、京都駅を出て、山科、大津と行くと、普段とは違う気分になれる。この辺りまでなら、大阪まで通勤通学している人もいっぱいいる範囲だが。子供の頃は、福井に母親の実家があり夏休みに行くのが楽しみだった。湖西線が開通してからはあっち周りの雷鳥に乗るのが基本になったが、小学校低学年の時、はじめて一人でおばあちゃんの家までお出かけしたときには、湖東周りの急行「ゆのくに」というのに乗った、と思う。また、長浜に親戚の家もあって、何度も行った。今回みたいに東京まで18きっぷで行った時も、琵琶湖東岸のこの辺りを通っているのは、まだ出発したてという所で、だいたいは「久しぶりの遠出」を楽しんでいるような段階である。だから、滋賀県の風景は、自分にとっては、お馴染みの非日常の景色、という感じになる。近江富士も車窓から見えた。そういえば、びわ湖競艇の宣伝に蛭子能収が出ていたなと思い出す。観客が、「近江富士が見えるから2-3」と喋っているのを聞いて、蛭子が乗っかってあたる、という設定。最後に彼がつぶやく。「だからやめられないびわ湖ボート」。今自分は、ネットで買えるのに、わざわざ福島県まで競輪を見に行くのだ。ほんまにアホやなぁと思いながら。

野洲かどこか。駅前の市民ホールか何かに、「三山ひろし」という大きな垂れ幕がかかっていた。コンサートがあるのだろう。演歌歌手だということは知っているが、どんな歌を歌っている人かは知らない。バナナマンのラジオで、彼らが紅白歌合戦の副音声の担当をするという話をしていた時に、けん玉が得意な歌手としてネタにしていたので、紅白に出る歌手だということだけ知っている。演歌の人にとっては、紅白に出るかでないかは営業力の大きな違いだろう。先日行った伊勢でも、宇治山田駅前にコンサートができるようなホールがあって、何人か歌手の名前の垂れ幕がかかっていた。若い人が騒ぐような名前ではなく、一昔前の名前だったような。地方都市の人にとって、わが町に芸能人がやってくる、というのは今でも大きなイベントなのだろうか。歌手とか芸人とかプロレスラーとか、旅行く人生にはロマンチックなあこがれの気持ちがある。鉄道も子供の頃は大好きで、大人になったら乗りまくるぞ、と思っていながら、実際に大人になったら面倒くさくなって、そのうちそのうちと今に至ってしまった。そのおかげで、未だにこれくらいの電車旅でも十分旅情を感じられるくらい、新鮮さを味わえている、とも言えるだろう。

米原駅に到着。ここで、大垣行きに乗り換える。関西圏と中京圏の狭間であり、普通列車の旅のボトルネックになっている部分だ。駅に到着したら、すぐに乗客は走り出した。どうやら、席取りの必要があるらしい。乗り換えは跨線橋を渡る。本当に走らないと席がないのかは不明だったが、周りに流されて自分も走った。跨線橋の上に駅員がいて、ハンドマイクを手に「危ないですから走らないで」と叫んでいた。恒例の風景ということなのだろう。いつものことか。18きっぷシーズンだけなのか。駅員は「ケガをしたら何にもなりません」とか説教くさいことを何度も付け加えた。走るな、だけで十分なのに、こういうことを言ってしまうってことは、この人、たぶん普段はうっとおしいタイプだろうな、と勝手に想像する。大垣行は確かに混んでいた。でも、走るまでもなかったかもしれない。この後も何度も乗りかえたし、たったままの期間もあったが、とにかくほとんどは座りっぱなしなので、ちょっとくらい立っていた方が、肉体的にも楽だったりもしたのだ。大垣行きに乗り換えると、いよいよ、東へ向かう気分になった。

2017年8月19日土曜日

大学ノートを持って行った青春の旅

 ひとつ前の記事は、東海道線の車中で書いたものが原型になっている。「青春」18きっぷを使って、福島県のいわき市まで競輪を見に行ってきた。オールスターという大きなレースが開催されていて、折角の休みだし、こんな機会でもなければ行くこともなかなかないだろうと向かったのだった。ここは改装されてバンクの中からレースが見られる珍しい競輪場で一度行ってみたいと思っていた。福島県もほとんどいったことがない、というのもあり。なぜ競輪なのか。好きだから、なのだが、それ以外にも理由がありそれについてはそのうち書きたい。
 私の住む大阪から福島県いわきに行く。普通は新幹線、飛行機ということになるだろう。が、先立つものがない。というか生活費を削るしかない。できるだけ負担を軽くしたい。夏の間に、他にもう一回遠出をする計画もある。ということで、何年ぶりかで18きっぷを使うことにした。18きっぷの説明は、省く。最初に使ったのはいつだろう。たぶん、高校生の時だと思うが、詳しいことはすっかり忘れている。今は、ムーンライトながら、という名前になったが、その頃は、まだ大垣夜行と呼ばれていた旧急行用車両の夜行列車があり、大垣発、東京駅に5時40分に着く、というのに乗ったことが(おそらく複数回)ある。早朝すぎて、街が動き出すまで時間をつぶすのが大変だった、ような記憶がある。テレビで見たどこかに行きたくて、新宿のスタジオアルタに向かい、その近くのマクドナルドで時間をつぶしたように思うが、それが最初の時なのか、大学生になってからかは、すっかり忘れている。印象深い思い出のはずなのに、本当に、若い時の記憶が、最近では断片しか残っていないのだ。新宿で桂花ラーメンを初めて食べたのはいつだったか。いろいろ断片が出てくるが、とりあえず、話を戻す。
 18きっぷは、バラで使えなくなったため、使い勝手は悪くなったが、余りは売ったりもできる。額面で割ったら一回分2360円。それで一日行けるところまでは行けるのだ。時刻表を見るに、大阪からいわきまで14時間くらい乗れば、一日で行けると分かった。最近では、ジョルダンの18きっぷ検索という便利なものがあり、時刻表をわざわざ読まなくても済む。本当は、今回、小さい時刻表を買おうと思ってはいた。まだガラケーを使っているので、紙で必要なのだ。だが、荷物にもなるし、結局、パソコンでジョルダンの情報をプリントして持って行った。
 とにかく、これでいければ、往復5000円以内で福島なんて遥か遠い所まで行って帰ってこれるのだ。旅費のネックは当然、宿泊費だ。それも検索したら、カプセルホテルもあり、他にも安い魅力的な旅館みたいのもあるようだし、ここはひとつ、行ってやろうということになった。
 と言いながら「行く」と決めてから、すぐに心配に襲われた。途中でしんどくなってしまうのでは、というのを夢にまで見たのだ。夜行バスの方が、楽かもしれないとかいろいろ迷った。しかし、時期がお盆のど真ん中ということもあり、ぐずぐずしていたら、格安の選択肢はなくなった。
 最後に、18きっぷで遠出をしたのは、7、8年は前だと思う。東京に行って、帰りだけ普通列車で帰ってきたのだ。同居人との二人旅だった。これも細かいことは忘れたのだが、もう、体力的にしんどいな、と感じたのだった。それよりもっと以前に、もう無理、というのは感じていた。東京・大阪は9時間くらい。それで十分しんどい上に、いわき市には東京からさらに4時間もかかる。無謀すぎるのじゃないか。大丈夫なのか。後悔するんじゃないか。何のために行くのだ。行かんでもいいがな。でも、折角の機会だしな。云々。
 決断力がなく、ギリギリに決める、ということに決めた。前の日には、一応、行くつもりにはなってきていた。宿はとっていなかった。これも、決めてしまうと行かないといけなくなるし、そうなると、行きたくなくなるんじゃないかと心配になったからだ。それと、しんどかったら、東京であきらめて、一泊しよう。そして次の朝、いわきに向かおう。ということも考えていた。前の日は、先の記事に書いたように、奈良で飲み会に参加した。楽しい場に呼ばれる機会が年に数回しかないから、誘われたら、さみしくてとても断れないということもあり。さすがに、早めに切り上げさせてもらって、帰宅して、これなら明日行けそうだ、とようやく決断したのだった。
 荷物はできるだけ減らしたかった。普通列車の旅に、コロコロなスーツケースは不適だ。リュック一つにまとめた。ただ、途中の退屈にどう対処するか、というのは大問題だった。まずは、本を読もう、と決めた。本は好きだが、集中力がなく、気分で読みたい本が変ってしまうので何冊かは保険で持って行きたい。が、荷物は減らしたい。文庫・新書で4冊以内が妥当だろう、といろいろ検討のすえ決めて、選抜する。読み終わると邪魔になるから、読みかけでもまだ入り口あたりの本。軽めのものと、ちょっとは頭を使うものと、この機会にじっくり読みたいもの、というようなチョイス。キンドルとか、そういうものがあれば、あるいはスマホでもあれば、もっと荷物を減らせるのだなと思った。そんなもの持っている人間は、わざわざ14時間も普通列車は乗らないだろうけど。あとは頭を使いたく無くなった時の「音」。愛聴しているバナナマンのラジオ「バナナムーンGOLD」の最近聞いてなかった分の録音何本か。Youtubeから古今亭志ん朝の落語もダウンロードして入れて行った。これらは助けになった。
 そして、もう一つ、退屈まぎらせに持って行ったのが、大学ノート一冊だった。頭に浮かんだことや、その場で感じた何かをどんどん書きなぐっていこう、ということにした。50円もしない安いものだし落書き帳のような使い方でいいだろうと思った。トラベラーズノートとか、そんな高いものは要らない。これまでも、コクヨの「野帳」(フィールドワークする人に愛用者の多い)を持って行ったりしていたが、もっともっと気楽に落書き出来る方がいい気がした。バカな話だが「城崎にて」を書いてやろう、みたいな気持ちにもなっていた。いい大人が、何時間も無駄にするのだ。埋め合わせに何か生み出すべきじゃないか。「身辺雑記」でいいから。そんなこと考えなくとも、いつもどこかに出かけると、このブログくらいは気力のある時にちょっと書こうと思っているのだが、これまでの例では、書きたい気が持続している間は、体力的に疲れていて書く気にならないし、しばらく経って回復したら、その頃にはもう書いても仕方がないと思うようになる。そのうちに、と思っている間に、記憶自体消えていってしまい、デジカメ写真をきっかけにちょっとした思い出が残るくらいになるのは目に見えている。ならば、いっそのこと書きながら行く、というのはどうか、と考えたのだ。
 そして、実際に、往復28時間の列車の道中、いろいろノートにメモというか、なんというかを書きなぐっていたのだった。これは退屈まぎらせに実際になった。揺れる電車で、しかも、テーブルなんて気の利いたもののない普通列車で、しかもしかも、表紙の柔らかい安いノートに文字を書いていると、結構手首に負担が来る、ということも今回知った。
 今、帰ってきてしばらく経った。帰ってきたら、テキストファイルに起こして、ブログに書こうと思って書いていた自分の手書き文字を見ながら、当然ながら虚しい気分に襲われている。他にやるべきことも、一杯ある。当然。そうではあるのだけど、ここはひとつ、虚しさをおして、これまでの記事もそもそも虚しいんだから、メモを生かして旅行記というか何というか何でもいいけど、行きながら書いたものをもとに書く文というのを、書いていってみよう、と思っているところだ。

2017年8月17日木曜日

大きくなれよ、的な話

 某先生、飲み会でお会いするたびに、お国ことばで「おめぇ、何歳になった?」と聞かれる。何回同じこと聞きはるんですか、もう……ですよ、……年生まれですよ、わたし、と答えると、「もう……か!」ということになる。笑って終わりだし、別にそれで何かお知りになりたいってことは無いみたいだが、決まったやりとりだ。
 年齢きかれるのは、まぁ辛い。辛くなったのだろう。若い時は、別にそんなことはなかった。10年くらい前でも、結構、辛い気がしていたが、最近のつらさに比べたら、屁のようなものだ。当然だ。以前の「もう……か!」と言われるのは、知らない間に大人になったんだな、というだけの意味だが、だんだん別の意味になるからだ。それは、こちら側の状況とも当然関係している。もうこんな年齢。そして、そんな齢にはふさわしくない自分の状況。それが恥ずかしいのだが、そろそろ、脱却する時だと考えてはいる。
 ほんとは、何も、恥ずかしがることはないのだ。貧乏人から金はとれないと、と笑っておごってくれるなら、喜んで奢ってもらえばいいんだけだ。情けないとか思わなくていい。いや、思ってもいいし、まぁ、普通は思うだろうが、私はもう、そろそろそこから自由になるべきなのだ。
 年齢にふさわしい生活レベルとかの発想が社会を悪くしているのかもしれぬ。反省点はいろいろあるが、こうなった以上は、もうこうでしかないのだ。そうやって、もうこうなってしまった人を、いつまでも引っ張り出して、こうならないようにすべきだった、あそこでああしてればよかったと繰り返し繰り返し言っても、もう仕方がないのだ。これからの人には何か意味があるかもしれないが、もうこうなったら、もういいのだ。もちろん、それは他者に対してのことである。そのためにも、先ずは、自分へから始めよ、だ。
 という、自己防衛というか、自己正当化をすべきだな、ということを考えているのだった。

 何歳になった?が辛いのは、自分が、かつてそういうことに無神経だったこと、もっというと、とても年齢差別的な人間だったことを反省させられるからでもある。例えば、こんな歳から勉強はじめて何になるのか、とか、口には出さなくても、上の世代なのに新たに学友になったというような人に対して思ったりしていたに違いないのだ。馬鹿なおごりの感覚を持っていて、そんな感覚からはいた自分の過去の言葉が、今自分に突き刺さってくるのだ。当然の報いだ。
 年齢には年齢にふさわしい状況がある。その状況は、勝手に転がり込んでくるものだ、と思っていたようなところもある。きっと。いろんなことに自分は気づいていなかった。その意味では、典型的に若かったのだと思う。
 今の自分は、若い人にアレしたり、ふさわしいとされるような場に出ていったり、ふさわしいとされるカッコウをしたりは全然できないが、そういう意味で、部分的には成長しているところもある、と思いたい。だからまぁ、もういいのだ。恥ずかしいとか思うことは。それが他者に対しても開かれることになるはずだ、とか何とか。
 あ、そんな質問をする先生は間違っている、とかそういう話ではない。三笠の山が見える街で、気分よく奢ってもらい、楽しい夜だった。数少ない(というか自分に残されたただ一人の)、自分が顔を見せて喜んでくれる目上の人だ。競輪用語で言うと、別線なのに関わらず。とにかく、なんでもない質問にいちいち反応しないでいい人間になりたいと思うだけである。

2017年8月6日日曜日

花火大会の思い出関連

淀川花火大会が始まったころは、近所で小さいイベントが出来たよ、という感じだった。確認したら分かることだが、ぼんやりとした記憶だけで書くと、自分が大学に行きはじめた頃からだったような。中学からのつき合いが大学時代まで続いていた唯一の友だちと一緒に見に行ったのは覚えている。塚本駅から歩いてすぐのあたりの土手の草むらに二人で寝転んで見たのだ。今は、そのあたり一帯が有料エリアとして括られて、そんな風に勝手にぼんやり見るなんてできなくなっている。その時も、花火を見ながら、昔見た花火のことを考えていたように思う。ずっとそうだ。自分は花火に集中できたためしがない。過去に見た花火のこと、というより、花火を見た状況のことが頭に浮かぶのだ。その頃、どんな花火の記憶があったのか。PLも一度見に行ったことがあるが、ずっと後だ。

淀川花火の初期、中学時代からの友だちと土手に並んで見た時に思い出していた、さらに過去の花火は何だったか。ほとんど記憶がない。母方の故郷が福井で、祖母が生きていた頃は、夏休みに福井に行くのが定番だった。中学の頃まで。田舎の家に行くと、お盆の頃に、隣町で花火大会をやっていて、遠くにぼんやり上がる様子が何とも綺麗だったな、という記憶はある。ほじくれば、他にもありそうだが、大したものではないだろう。大学院卒業してから実家を出た。南方(ナンポウではなく大阪のミナミガタ)近くのボロアパートに長い間住んだ。淀川花火は、アパートの近くから見ることが多くなった。毎日通っているライフというスーパーがあって、その日は書き入れ時だから、特別態勢でビールや、唐揚げやらを販売していた。レジ打ちの職員さんたちも、浴衣を着たりして雰囲気を出していた。何となく気になっていた、シュッとしたレジのお姉さん、ちょっと暗い陰のある人(とこっちが勝手に妄想していただけだが)だったが、営業用の浴衣姿がカッコよく、本人も楽しんでいるように見えたな。なんてくだらないことを今急に思い出した。

その後、より花火大会会場に近い所に引越していき、数年前からは、町内レベルの場所になった。家から快適に見えるし、誰か人を呼んだらいいかもと試みたこともあったが、去年、今年は相方と二人きりで終わった。気つかわんでいいから楽でいいな、ということになった。越してきたばかりの時には、まだ猫がいて、突然始まった爆音の連続に驚き押入れの隅に隠れて出てこなかった。怖かっただろう。あの猫も、その後、あの世に旅立ってしまった。今年も打ち上げが始まり、鳩の群れが大慌てて飛び立って行く姿を見て、動物にしたらそりゃ怖いわな、と猫のことも思い出したのだった。

田舎で見た花火は、ドーン、ドーン、ポーン、というようなのんびりしたリズムのものだったが、最近のやつはどこでもそうみたいだが、コンピュータ仕掛けで、ドドドドダーン、と戦争のような感じではある。CGで夜空に映写する技術とかが出来たら、それでもいいんじゃないか、と思うくらい。花火のインフレだが一度こうなるともう引き返せないのだろう。例年のように、きれいではあった。そして、例年のように、前のことを思い出した。一年とか、何年とか、そんな区切りは考えない方がいいのだ。時間というものを、空間的に把握できるように見せられていることが錯覚を生むのだ。とは言いながら、ああ、来年はどんな思いでこれを、ということがチラッと頭に浮かんでしまう。だいたい、予想通りにならないから、考えもしなかったような嫌なことが起こるんじゃないかとか、それこそ考えるだけ無駄な不安の先取りをしてしまうのであった。

花火を見ている間中、花火に集中できない自分について、それをどうやってブログに書こうか、ということを考えていた。まぁ、何ですな、晴れて良かったですな。

2017年8月1日火曜日

伊勢行

どこか行きたい。どこでもいいから電車乗って遠くまで行きたい。何年も行っていない海にも行きたい。とつぶやいていたら、足代出すから海行かないかとお誘いをいただき、喜んで行く。つぶやけば、誰かしら願いをかなえてくれる(こともある)、カリスマニートのphaさん並だなと言いたい所だけど、私の場合は当然知人からの連絡だった。連絡をくれたのは、私の高校の同級生の分子生物学者の友だちのまぁ彼も私の直接の友だちといえるくらいには古い付き合いの生物学者の弟のT氏だった。今の時期しか採れないミサキギボシムシという変な虫の卵が必要だが、各地の海洋研究所に頼んでも忙しいと断られたとのこと。夏休みは、高校生理科教室などのイベントがあって、ああいう施設は多忙なのだそう。採集は危険も伴うのでペアで行くのが決まりだが、そういう仕事もあり皆忙しい、そこで暇そうな文系学者の私に、溺れないか見張っている簡単なお仕事ですとお鉢が回ってきた。何かしら大学に関係している方が、事務的にも出張費とかが出しやすいそう。自分も特任だったとき旅費の手続とかしたが、本当にそうで、フリーの人にまで、大学での役職をたずねる書類書かしたりする風習にうんざりした。それはそれとして、採点の山はあり、いろいろやるべきことはありながらも、今週から時間的には自由だし久々に海に行きたいな、と出かけたのだった。目的地は伊勢市あたり。足代が出るから安心して近鉄特急に乗って出かける。おそらく、初特急。特急なら2時間かからないのだな。次の日の朝一から作業開始ということで、行った日はホテルに泊まるだけ。外泊の機会が少ないため、ビジネスホテルは中々慣れない。寝たような寝なかったような中途半端な睡眠だったが、旅先のテンションがあるからまぁ元気に朝のロビーでT氏と会う。行動の概要を聞く。ついていくだけだが、一応、なぜその虫なのか、その研究は何のためにやるものなのか、などを聞く。大きく言えば、進化の謎を解く研究の一部である、ということはわかった。そのゴカイとミミズの一種にしか見えない気持ち悪い生き物が、大きな見方では、人間などに近いため、探究の価値があるということのよう。レンタカーで何か所か海水浴場の近くをまわる。自分は、助手席に座り、遠くに来るって楽しいなぁと思いながら、久々に見る地方都市の風景を眺めているだけだった。海底に穴を掘って生きている生き物なので、シュノーケリングしながら、砂底を見続けるという探索作業だった。ちょっと海に入ったりしながら、ぼんやり彼の作業を見ていた。潮が悪かったり、遠くの台風のため波が高めで視界が悪いのもあって、探索は難航。何か所も回って見るも、結局、見つけられなかった。以前から、友だちの弟としての知り合いだから、自分より若者というイメージで見ているT氏も40代半ばのオッサンである。長時間の探索にヘトヘトになっていた。自分も見よう見まねで、水中メガネをのぞいたが、クラゲくらいしか発見できなかった。

虫を探しに海へ挑む生物学者のT氏「密漁と間違われることが多いから本当は漁協とかに挨拶しておく方がいいんだけど」とのこと。そうでしょうね。


「運動してないおっさんが一番危険なんです」というT氏のアドバイスに従い、日焼け止めを塗り、Tシャツも脱がずにいたため、確かにダメージは少なかった。10年近く前に、この近くの海に来たのが、たぶん海水浴の最後だったはず。待望の海に入り、ひゃー、海だなぁ、と嬉しくなったが、ちょっと入ったらもう満足した。自分は、海の男ではないんだなぁと改めて確認する。今回は、目的があったから全然遊んではいないが、ただの海水浴として海に来ても、もうあんまり楽しくないのかもしれない。こういうものは、子供のための遊びである。ということは親のためのものでもあるだろう。子でも親でもない、自分のような、ただのおっさんにとって、「楽しかった場所」は頭の中にあればそれで十分で、今の喜びは今の自分にふさわしいものを自分で作り出さないといけないのである、という当たり前のことを確認する。それでも、どこかに行く、ということ自体、今でも十分楽しいが。海を見る、というのも、もちろん。夕方、軽く一杯打ち上げ。坊主で終わってしまった探索行に無念の思いを噛みしめつつ、この虫の卵が手に入らないなら、この夏はどんな実験をすべきかについてもう考え始めている生物学者の様子を見ながら、謎ばかりの大自然を相手にする科学者っていうのは、人類の先端にある仕事だなぁと改めて感心する。進化研究にまつわる「社会」の話など、面白い話を幾つか聞いたが、また今度。全世界で連携、競争しながら、大きな謎の解明に向かう人たちの一人として、虫を探すT氏。それをぼんやり観察するだけの自分。他にも、いろいろぼんやりと観察はした。伊勢志摩サミット後の、神道の気持ち悪い政治利用が以前より強めに街にあふれているように感じられる、この街の様子。妙に目立った公共工事。相変わらず、ぼったくる海水浴場の駐車場。地方都市の駅につどう人々の姿。などなど。折角観察したから、報告しておきたいが、これもまぁ、また今度にしておきます。


木戸修のようなパワフルな兄さんが、ガシガシに日に焼いていた。
色んな目的で人は海に集う。
ホテルには、聖書ではなく現代語訳「古事記」があった。伊勢志摩サミットで生まれたプロジェクト、でんでん、と説明があった。くだらないことにお金使うな。観光案内書にあった、めちゃくちゃ立派なフリーペーパー「JAPANISE」もその類か。阿川佐和子が、伊勢参宮をすすめていた。どこにでも登場するな、阿川佐和子って。宮崎美子と同じく、ザ・無難なお嬢さんという生き方。信仰上(?)の理由から、伊勢神宮は参っておりません。1000円やるから拝め、と言われたら、拝む位の信仰ですが、金払ってまで拝む気にはならない。

2017年7月17日月曜日

同じ事書いている

振り返ったら、何度も同じこと書いてますね。まぁいいか。くり返し書いていると、同じ事でも徐々に洗練されていくかもしれないし。そのうち、もう少し推敲したり、全体として内容を整理したりしたいと思う。「そのうち」は、来ない可能性の方が高いけれども。

書き残すべき事かどうかをあまり考えなくてもいいように思う

外を歩いていると、書いておきたいことが頭に浮かぶ。書いておきたいだけで、それ以上でも以下でもない。昔の小説家(漠然と昭和初期くらいのイメージ)なんかが、何でもない身辺雑記を書いて、それで原稿料をもらっていたというのは、なんともうらやましい。今なら、ノーギャラで多くの人が書いているブログレベルの内容のものもいくらでもあった(と思う)。書いておきたい、の話だった。何で書いておきたいのか。頭に浮かんでいるだけでは、すぐに消えてなくなるということを身に沁みるようになったからだ。頭に浮かんでいるだけでは、行為ではない。書きだして、他の人に読まれる状態になって、初めて、何かの行為になる。自分に値打ちをつけるなら、自分として他者に示す行為には、それなりの配慮が必要だろう。その時々に喋り散らすだけならともかく、書いて残すとなると、自分の発言したこととして、他人にとっての自分を作る大きな意味を持ってしまう。大きな、というのは、自分にとってであり、他者や社会にとってではないが、対他人、対社会という意味での自分には、やはり大きい。だから、よりよいものを残そうと、ちゃんとした人は考える。昔の偉い先生が、「自分はまだ本を書くほどの人間ではない」とか考えて、残る仕事に着手するのを後送りしていたのは、そのためだろう。しかし、今は、残すことの意味が大きく変わった。丁寧な仕事を丁寧に残す、ということは理想であり、出来る人はするべきだろう。自分もある程度、そうかなと思ってきたが、何でもない、どうでもいいことでも、とりあえず書いて残しておいた方がマシなのではと思うようになってきた。それは、もちろん、ブログやSNSが登場して以来、ほとんど読まれないが、数人は読んでくれる他者のいる文章を書くということを経験してからのことだ。できればもっと多くの人に読んでもらいたいと、思うと、それこそもっと価値のあることを書くようにすること、もっと洗練したものを残すようにすることが必要なのだろうが、もしかしたら、だらだらとした未完成のものでも、とりあえず「発表」する方が、頭に浮かんでも何も外部化しないというよりはいいんじゃないかと思えてきた。大型書店にならぶ、排外主義や、ステレオタイプの繰り返しで作られた酷い内容の本を見て、特にそう思う。ああいうものは、ひどいけれど、商品としては成立しているのだ。いわば、文章のプロが書いて(プロかどうかを売れるものを作れるかどうかで決めるとすると)いるものである。商品となっている文章にあのようなものが沢山ある以上、何というのか、読んだことがないので何とも言えないが、百田氏などもたぶん、普通の意味で小説を書くのは上手なのだろうし、完成度とか、商品になるかどうかという基準にもとづいて、その軸で、ある点まで及ばないから、発表は控えると考えても、もはや仕方がないのではないかと思うのだ。無駄話でも、何でも発していた方がいい。もちろん、あきらかに、後悔するだろうようなものは書かない方がいいが、残念ながら、どれだけ内なるストッパーを外して自由に書こうとしたところで、常識に大きく縛られたものしか、自分のような人間には書けないのだ。そんなわけで、あまり練っていない文章で、「頭に浮かんだこと」を書きとめておこうと意識してアップしているのがこのブログである。無理に他人に読ませるとしたら、時間泥棒にすぎないが、後から振り返ってみると案外、読めるものだったりするから不思議だ。時と場合によるが、最近、「これは良記事」としてツイッターで紹介されるような、整った記事が逆にしんどく感じられたりもする。

2017年7月16日日曜日

毎日が夏休み

今から思うと30代は無職のような暮らし方だった。「毎日が夏休み」という言葉が、何度も頭をよぎった。こんなことでいいのだろうか。こんなはずじゃなかったのに。非常勤の仕事と、ちょっとした手伝いのようなバイト。それでも忙しいような気がしていたが、そんなはずはなかったのだ。夏はずっと比較的長い休みがあった。そして夏休みのたびに、海に行きたいとか、どこか旅行行きたいとか、せめてプール位行こうとか思うのだった。しかし、時間はたっぷりあったのに、そんな「夏休み」らしいことはほとんどできなかった。毎日、焦っており、そして焦りを言い訳にしてダラダラしていた。気合を入れて「遊び」に行くことすらできなかった。という気がするが、実を言うと、もうだいぶ忘れているので、そんなではなかったのかもしれない。今年もすっかり夏だ。暑い。でも、それでいいんだと思う。

2017年7月9日日曜日

工事現場をながめる

旧梅田貨物駅跡地、工事が進んでいる。貨物駅の景色、好きだったのだけど。グランフロント大阪もできたし、ほんの数年前と比べてもこのあたりの景色は全然違ってしまった。都市なのだから、変化するのは当然だけど、なじみ深かったあの景色がもうこの世のどこにも存在していないということの不思議さに、諸行無常というのか、なんとも寂しい感じを抱いてしまう。歳をとるというのはそういうことなのだろうか。

ただ、工事現場というものは、面白いものだな、とも一方では思う。あったものが取り壊されていく。大きなビルが作られていく。完成に向けて、多くの人がそれぞれ果たすべきことをこなしていく。重機が、それぞれ調和しながら機能を果たしていく。人間が蟻とか蜂とかの同類であること(ある意味で)を直観的に感じられる姿でもある。

他の人たちが「われわれの巣」を作り上げている様子を、サボり蟻の視点から、ぼんやり眺めている、というような感覚。


2017年6月24日土曜日

向日町の佐々木さん

「ちょっと佐々木さ~ん!」向日町競輪場の食堂のお姉さんが、今しがた出て行った客に呼びかけていた。忘れ物か、釣りでも渡し損ねたのか。しかし気づかずにとぼとぼ歩いて車券売場方面に向かう佐々木さん。姉さんは「佐々木の爺さん、耳すっかり遠なってしもうて」とつぶやいて、声をかけるのを諦めた。そして、佐々木さんの様子をぼんやり眺めながら「身体もゆがんでしもうてるわ」とかなり大きめの独り言をもらした。佐々木さん、向日町に通って何年くらいになるんやろうな。

2017年6月11日日曜日

すぐ書かないと

書こうと思った時に、すぐ書かないと、書く気が失せる。なんでもない場面に遭遇し、あるいは頭の中で突発的に何かが浮かんで来て、これは書いておこうという気持ちになって、こう書いて、ああ書いてと構成まで考えても、実際に書きはじめるまでには至らないことが多い。書いたところで何にもならないという思いが、そんなことに時間とエネルギーをかけても仕方がないだろうという内なる声につながる。何にもならない、ということをふまえた上で、それでも何か書いておこう、ということが大事で、そういう意識が低いから、大事なものも書けないんじゃないかという気がする。多産な人は、日記やブログなんかも、さっさと大量に書いていたりする。仕事として書くものしか書かない人もいるだろうが、書くべきだと考えたら、とりあえずさっと書いてらっしゃるように見える。さっと、というのは、おそらく違うのだろう。気合をいれて、時間をとって、集中して書いているのだと思う。もちろん、大量に書くことで、実際に書くスピードも上がっていくだろうけれど。ポメラのような持ち運びできるテキスト入力機欲しいなとちょっと思うが、道具の問題じゃなさそうだ。手書きでいいんだ。

2017年5月21日日曜日

依存症にならないためには健やかな気分で毎日をすごすことが大事

読み返してみると、ぐちぐちしたことばっかり書いているな。普段は楽しい気分の時も多いのだが、こういう所に何かを書きたくなるというのは、ちょっと病んでいる状態だからなのだろう。テンションが高い時も含めて。ここの所、ほとんど飲まなくなっていたのだが、最近少し飲酒欲が復活し、安いワインなんかをちびちび飲んだりするようになってしまった。よくない傾向だ。毎日が大変な訳ではないが、木金の二日が自分としては過酷なスケジュールで、終わった後、ヘトヘトになる。去年は甘い物に頼ってストレスを発散していたのだが、これは糖尿に直結だとういことに気づき、できるだけ控えるようになった。タバコをやめたのは5年は前だろうか。もう少し前かも。喫煙欲はほとんど復活しないが、酒は、飲みたくなるね。依存症につながるものは、やはり日常生活の状態、希望、不満も含めたものと絡まりあって、誘惑してくるな。ゲームなんかもそうだろうか。別に、飲んだからって何の良いこともないのだ。それでも、ただただ煮詰まっているよりは、一時の解放を、という気持ちになるのだろう。麻薬と同じだ。せめて誰かと飲みたいとは思うが、今はそういう関係の知人が身近におらず、たまに街をうろついて、多くの人が仲間同士で楽しそうに飲んでいる姿を、ものすごくうらやましく眺めたりしてしまう。仕事のつき合いで飲んだって、楽しかないだろうが、それでもまぁ。元気に過ごせているだけでもありがたいと思わないと、とか、屁のようななぐさめの言葉を自分に言い聞かせて、とにかく今日を過ごすのであった。

2017年5月7日日曜日

何も書き残していないと何もなかったことになる

もう少し頻繁に更新するつもりだったが、書く気になれず放置している。書き残しておかないと、何もなかったことと同じになる。過去のことは忘れてしまうもので、それはそれでさっぱりしていていいじゃないかと思っていたし、今もある程度はそう考えているが、あまりにもすっかり忘れてしまうようになると、残念に思う気持ちが芽生えてきた。芽生えてきたというと、若い時はそうではなかったかのようだが、日記を書いたりしていた(とぎれとぎれではあるが)ので、記録を残しておきたいという気持ちはずっとあったのだ。ただ、記憶が無くなっていくということと、考えが変わっていくということ、頭の働きは弱くなっていくのだ、ということがリアルなものになってくると、記録に対する意識もやはり変わる気がする。例えば、今はまだ覚えている今日一日のこと、昨日のこと、何とか思い出そうとすれば出てくる一昨日のこと、だいぶ怪しい4日前のこと、これら自分のアタマの中にある何かは、今、書いて残しておけば残るのだ、しかしそうしなければ、確実に、きれいさっぱりこの世からなくなるのだ、それで本当に良いのかという不安に襲われるのだ。それでいいのだ、と、アタマでは思うのだが、記憶をあまりにも雑に扱うことで、過去のことだけでなく、現在への対峙の仕方にまで悪影響を及ぼしているのではという心配がある。書いておいたところで、それは、所詮現実の断片だ。だから意味がない、と昔は思っていた。しかし、アタマの中のぼんやりした出来事を残す、他者と共有するというのは、そんな断片的な方法しかないのだ、ということにようやく気がつきはじめた今日この頃だ。下手な写真でも撮っておいた方がいい。下手な記録でも残しておいた方がいい。いい、というのは、世界にとって良いと言うのではなく、ただ自分にとってだ。死ぬまで自分とつきあい続けなければならない。すねたり、ひねたりはするだろうが、生きている限り誰かと何かを共有したいという思いはずっと持ち続けるような気がする。先のことはわからないが。ならば、まぁ、誰も読まないとしても、アタマの中に何かが出てきて、それを、他者が一応は解読可能な程度の言葉にできるのなら、何でもとりあえず書き残しておけばいい、と今は思うようになった。だが、面倒くさいし、何でもいいから書いておこうと思っても、何も出てこない日は出てこないのだ。

2017年4月10日月曜日

過去の実感がない

物忘れがひどくなったのは、忘れてしまった方が楽だという潜在意識が後押ししたためかもしれない。時々思い出す昔の記憶というと、だいたい、冷や汗の出るような、自分が嫌になるような出来事ばかりで、楽しかった何かは、思い出すきっかけもない。もともと量も少ないし。今の状況とつながって、昔が出てくるので、今の状況がダメであれば、手繰り寄せる記憶も、そんな自分のダメな部分に関連するものばかりになる。思い出すだけしんどくなるから、もう思い出さないようにしよう、というのが自己防衛反応として脳内で起こっているようだ。だからといって、記憶喪失になっているわけではないので、いつ頃、どの学校にいて、どんな人と会ってという記憶は、あると言えばある。だが、実感がないのだ。実感を伴う記憶は、出来事についてのものではなく、ただ実感だけで覚えているようだ。なぜか最近は、炊事をしていると、4年くらい前に、共同研究のバイトでたまに某大学に行っていたことがあって、その時の雰囲気が頭に浮かんでくる。そこでは、嫌なことは無かったのだ。面白いこともそんなになかった。でも、その頃に、こんな所で自分は何しているのだろうというような違和感を感じていたのは間違いなく、実感も残っていて、なぜか茶碗を洗っている時に限って、その時の気分が甦ってくるのだ。別に、その時、仕事で、茶碗を洗っていたわけではない。たまに行って、1人ノートパソコン見ていただけだ。でもなぜか、炊事が引き金になって、出てくる記憶になっている。自分の過去は、頭の中でどうなっているのだろう。とにかく、過去を悔いている時間を少しでも減らしたい。今を意味あるものにしないと、これから先、ますます空っぽになってしまう。

2017年4月8日土曜日

去年も同じこと言っていた

家のそばの公園、桜が満開に。今日明日あたり、晴れていたら何組かは花見する姿も見られたはず。買物に行く途中、同居人と「晴れたら、ここでお昼に弁当でも食べて花見気分味わうのもいいかもな」と話したら、「去年、そう言うてそれやったやろ」と言われる。そう言われれば、同じ気分で、同じこと言って、桜の下に腰かけて何か食べたことを思い出した。「あんた、大丈夫か?」大丈夫じゃないかもしれない。最近、確かに物忘れがひどくなっている。実は、去年のお弁当の記憶も、そう言われれば食べたと思うのだけど、具体的に何を食べたのかとか、どんな感じだったかはぼんやりしている。一年前の、普段と違う行為なんて、ちょっと前まで忘れるようなものではなかったのに。有名人の名前。読んだ本の内容。というより、それを読んだかどうか。こんなのは、だいぶ前からどんどん忘れるようになっているが、自分のやったことまで、抜け落ちるようになると、本格的に不安になってくる。頭の中にある、わたしの世界が、現実の自分の世界と乖離していっているということでもあるし。脳みそのアンチエイジング的なことをやって、もう少し抗うべきなのか、あるがままに忘れて行くしか仕方ないのか。子供の頃のも含め、自分にだって思い出の数々があるはずなのだが、なにもかもリアルな物じゃなくなっていくようだ。

2017年4月2日日曜日

あきらめた後の生き方

自分がどんな人間なのか。時間が経たってはじめて分かったことばかりだ。いろいろ経験して、というより、ただ時間が経って。腰が重く、碌に経験などしてこなかったのだから。積極的に、自発的に動いて、経験を積んできた人なら、もっとはやく気づいたのだろうが、そういう部分も含めて、ようやく気付くのだ。もっと若い頃に気づいていれば、と思うが、まだ身体が動く間でよかった気もする。もう、人生のやり直しは効かないが、残りをよりマシにすることは、まだできそうだからだ。4月になると新しい状況を迎える人たちがいる。横目でちらりと見て、うらやましさで心震える。慣れっこになっているから、震え方も大したことはないが、気を抜くと、酒に逃げたくなるくらいには寂しくなる。他人を見ないことだな。比較しないことだな。でも、そんなことが簡単にできれば苦労しないわけで、震えるならあるがままに震えておいて、自分にできることをするしかないな。

こんな人間だと分かっていたら、もっと早く他の道に進めばよかったな、と思う。ここでも、具体的な何かではない。「もっと他の」というものにすぎない。それがだめなのだろうなとは思うが、根っこのところに甘えがあるのだ。でもあんまり、うじうじと考えていても仕方がない。パッと切り替えて、違う何かを始めていたらな、とか、まぁ、何にしても、いつも、もう遅い、もう手遅れだ、もうどうしようもない、とばかり思ってきたのだ。そういう思考法から脱出することが必要だ。「業界」に未練を感じてはいけない。精神的に自立しないと。誰とも会いたくないと言いながら、さみしいと思うとか、そういうのはダメですよ、と自分に言い聞かせるために、ちょっと書いておいた。

2017年3月31日金曜日

あの頃はマシだったと後で必ず思うだろうということを思うと不安な思いに苛まれる

自由時間の多かった3月もあっという間に終わる。いろいろ心配事もあったりしたが、やはり自由だった。終りに近づき、貧乏ゆすりが止まらない。人生、思いっきり後半戦に突入しながら、こんなにダラダラ過ごしていること自体が不安だ。収入があっての自由ならこんなにありがたいことはないのだが、かといって時間給のバイトに入らなくても今のところはよいという状態は恵まれているのだろう。今も煮詰まっている。しかし、あの頃はまだ良かったと後から思うに違いない、ということを想像するだけで、ため息が出たりもするのだ。自分はありがたいことに鬱的な症状はない。適度に忘れるからだろう。最近、脳みその機能がポコポコ衰えて行っているのを実感するが、精神的安定には、順機能のような気もする。今できることをすること。まだ来ない未来を、過ぎ去ってしまったことを考えても仕方がない。今を見ること。と、何度も自分用のメモノートに書きだして、自分なりの、何かそういう工夫をしてみたりして凌ぐのであった。

2017年3月26日日曜日

人付き合いが狭くなる

皆さん、楽しそうに飲み食いしていて、自分とちがって充実した人生を送っているのだろうな、なんて一瞬思うのだが、たぶん、その場にいる自分もかなり楽しそうで、自由な生活をしている人と見えるのだろうな、とも思った。大人になれば、いろいろ抱えるのは当然だ。人をうらやましがるな、ということだ。

でも階級の壁がある場所に行くのはしんどいから、精神衛生のためにも、あまり金に困っていない人とは会わない方がいいとは思う。別人種として扱ってくれるような場にしかいけないな。あるいは完全フラットか。完全フラットな場など、日本には、まぁ、外国がどうかしらないが、とりあえず日本にはないから、行く場所は限られる。

2017年3月24日金曜日

熊本競輪場の現状など

2週間前の話になってしまうが、熊本競輪場で取材させてもらった後、バンク内にもいれてもらった。去年の地震で、施設が大きなダメージを受けて、開催できない状態が続いている。現在は、安全な場所に範囲をしぼって、場外発売所として運営している。関係者によると、再開時期は未定だという。となりに陸上競技場があり、そこも修復工事中。地方自治体としては、どうしてもアマチュア向けの文化施設が優先になるとの話。まぁ仕方がないか。競輪の売上げがもっと良い時代なら、復興競輪をバンバン開催して、熊本全体の復興に寄与するということができるのだけど、今はちょっと難しいかも。

写真も撮らせてもらったので、いくつか紹介します。
しまったまままの正面玄関。
競輪場までの大通りは「競輪場通り」という名前だった。地域に溶け込んでいる感じがする。熊本は、公営ギャンブルが他になく(九州南部はない)、競輪の存在感は大きいよう。

早朝売場、というのも近畿ではもう見かけない(のかな)ような。西宮競輪場にあったのが懐かしい。仕事に行く前に、さっと車券を買う人向けの売場。30分の駐車時間なら無料という駐車場が広がっていた。

この日は、大垣記念を発売していた。右側がバンクだが、建物にひびが入っていたりして、危険だからロープやフェンスで立ち入り禁止に設定されていた。お客さんの様子は、どこも同じような感じだった。

バンク内。バンク自体は、一部に段差がある程度で、練習はできるそう。この日は、工事が入っていて、走行する姿は見られなかった。右側がガラスが崩壊している特観席。危険だからすべて取り外しているのだろうけど、被害の大きさが感じられる。壁面にもところどころヒビが入っていた。

現在使われていない検車場。選手の練習用ロードバイクなんかがおいてあった。

支部の選手控室。道場らしく、名札が掲げられている。中川誠一郎選手なんかが一番上なのかな、と思ったが、古い順?のような感じだった。ガールズは田仲さんだけ。中川諒子さんも所属になったそうだが、まだ用意できてないから作らなきゃ、とのことだった。

勝手に写真載せてすみません。支部道場の様子。副支部長の倉岡選手なんかがいらっしゃった。(この選手ではなく)自転車の整備をしている選手がちらほら。

同じく道場。

場外売場に戻る。熊本所属S級選手の等身大パネルがおいてあった。
SS誠ちゃんも。競輪選手は、全体に小柄な人が多いですね。

隣の陸上競技場は大がかりな修復工事の真っ最中だった。

中心地の商店街へ。大きく被害の跡が見えるのは熊本城くらいで、あとはそうでもなかったが、工事中になっている店はやはり多かった。

熊本の町中、くまもんだらけ。まぁ、そうでしょうね。くまもんへの依存が過ぎるようなきも。
子供向けイベントに向けて、悪者がバルーンアートの用意をしていた。

くまもんイベント会場の横に、見慣れたマークが。こんな所に場外売場があるとは。記念に、大垣記念の車券を少しだけ購入しておく。珍しく2000円くらい浮き、夜に知人と飲みにく資金になった。

他にも復興イベントのようなのが。場外売場の人たちが「タダたい、タダ!」と興奮していた。タダで何かがもらえるらしい。競輪ファンがタダでもらえるものが好きなのは全国共通だな。(競輪ファンだけじゃないけど。)自分も、もちろん、行ってみる。

ガリガリ君のお試しイベントだった。
糖質制限のためアイス禁していたが、半年くらいぶりにやぶる。タダだし。

2017年3月20日月曜日

薄い毎日

先週は濃かった。珍しく、遠出をしたからだ。今週は薄い。夜行バスで帰ってきて、非日常の余韻に浸って一日が過ぎ、これではだめだと二日過ぎ、そして何してたか覚えていない時間が何時間も続いた。やるべきことがたまっているのだ。何をしたらいいのかも分かっている。それなのに、いつものように、というべきか、いつも以上にというべきか、仕事に手がつかず、焦燥感だけが募るのであった。他人と比較しても仕方がない。それは分かっている、つもりになっている。とはいえ、目をカッと見開いたままで「他」を気にしないほどの修業はぜんぜん出来ていないので、もともと細い目をより細く絞って、周りがハッキリとは見えない様にしているのだ。だから、何かのタイミングで、いきなり目を見開かされるようなことがあったら、ギョッとして普段押し殺しているもやもやがあふれ出てきてしまう、なんてことになってしまう。まともに生きている人たちに比べて、自分はなんて薄い生を生きてしまっているのか。バチが当たる。そのうちきっとバチが当たるに決まっている。そんな恐怖に襲われる。いま、この状態こそがバチなのだろうと思いたいが、バチなんてもの、そんなに甘い物ではにという気がしてしまって仕方がない。

2017年3月18日土曜日

熊本に行ってきた、の話の枠組み

前回書きかけた旅行記の続きを。なぜ熊本だったのかというと、熊本在住の元競輪選手に会う必要があるな、と考えたからだ。自分は、競輪の歴史を調べている。20年前位から断続的に取り組んできた課題だ。それがひと段落ついたかつかぬか、まだはっきりしないけれど、次の課題を、相変わらず競輪なのだけど、別の視点から見る何かをやろうとゆっくり動きはじめた。とにかく、動きが遅くてどうしようもないのだが。生活が、フリーター的な状況のため金はないが、自由になる時間は、かなりある。一番あるのが、春と夏。こういうまとまった自由のある時にこそ、こういう作業に着手しておきたい。まとまった時期には、もっとはっきりと計画をたてて、まとまった成果を作るべきなのだが、動こうと自分がしているだけで満足してしまっているところがある。それくらい、何も動けない時期が続いていたためだ。とにかく、自分の視点からは研究的な何かの一環としての旅行である。とはいえ、税金的なものはまったく使われていないので、役立つかどうかとか、無駄かどうかとか、説明責任をあまり気にしなくていいのがいい。自分内にはいろいろあるのだが、対世間的には、ものすごく自由だ。金がないから、行きつけの大学の図書館やら、できるだけ金をかけずにやってるのだが、たまに取材に行きたいなという場面がでてくる。調査とかフィールドワークとかいうとおおげさで偉そうだが、そんな感じの何か。場所に身をおかないと分からないことというのがあるのだ。

感度が鈍い身体では、おいたところで何も分からなかったりするし、そのわりに、現場に身を置いたということがうれしくなって、偉そうになってしまったりすることも多々あると思うし、自分もその程度のものだけれど、やはり行ってこそだったな、ということもあるのは事実。今回も、お話を聞くだけなら電話でもすんだかもしれないが、面識もない人にはやはりこっちの身をさらして信用してもらってという関係性が大事じゃないかと思った。まぁ、言い訳にして、熊本に行ってみたかったというのもある。一度も行ったことがなかったからだ。今回、少しだけ臨時収入的なバイトがあって、旅費を使っても、すぐに生活に影響はでないで済みそうな状況だった。もちろん、2年後以降を、さらにその先を、つまり一応の収入がハッキリしているのは一年間だけなので、それを考えたら、無駄遣いはしないに越したことは無いのだが。

まぁいい。あまりにみみっちいことばかり書いていると、人間性までみみっちくなってしまう。もうなっているだろうが、とにかく。ところで、みみっちい、というのは関西弁だろうか。セコイ、コスイ、ケチ、貧乏くさい、という意味です。貧乏ではなく、貧乏くさい。貧乏は仕方ないが、「臭さ」はなんとかしたいと思う今日この頃。話を戻すと、それで熊本まで出かけた訳である。競輪場を運営する市の職員に間に入ってもらい、アポをとってもらった。場所も競輪場をどうぞと言ってくれたので、甘える。用事はこのインタビューだけ。新幹線なら日帰りでも可能らしい。今では新大阪から直行で行けるのだから、なんともすごい。金があればそれですむが、ここはできるだけ安くしないければと工夫したのは、先に記したとおり。せこく行くとはいえ、自分としては、かなりな出費だし、それならば、やはり観光もつけないと「自由」の値打ちがないよな、ということで、出発前の何日かは、あれこれ、地図をみたり、時刻表を調べたり(味気ないネット検索だけど)で想像し、考え楽しんだのだった。

アポをもらったのは、午後3時で、一時間か二時間話を聞くことになりそう。「ぷらっとひかり・こだま」と博多から熊本までは在来線というルートが一万円を切り、十分、待ち合わせに間に合うのでこれにした。というのも先に書いたか。宿については、カプセルホテルを予約しておいた。ネット情報ではうまく想像できなかったが、カプセルごとに簡単な個室になっているというものらしく4000円ちょっとする。朝早い出発だし、インタビューの後、ノートの整理作業などは最低限やっておきたいし、ただのカプセルよりはいいかとここを選んだ。ドミトリー形式のバックパッカー宿にもいつかは挑戦したいと思っているのだが未だに泊まったことがない。ドヤ街の簡易宿泊所(小奇麗なやつ)のように何とか個室を保てているのなら大丈夫なのだが。経営方針に問題がありそうな、東横インやら、ネトウヨのアパホテルなんかは、自分にとっては高級すぎる。何年か前、研究費の出る共同研究に参加したときには、その辺のビジネスホテルに泊まったが、自分の身を削るとなると、ただひと晩寝るだけなのに、ちょっと高すぎると思う。まぁ、どうでもいいか。気をゆるすと、すぐに、みみっちい話になってしまっていけない。で、とりあえず一泊だけとっておいたが、近づくにつれ、いつまた行けるか分からない所に行くのに、1泊というのも寂しいかと、二泊することにして、帰りは向こうを9時頃に発つ夜行バスにした。夜行バスは、次の日使い物にならないことはわかっていたが、どうしてもしなければいけない用事もなかったのだ。3列シートのバスで10000円弱。だから、交通費は往復で2万弱だった。新幹線正規なら片道くらいの料金だ。自分の「持ち時間」が、時給1000円以上の値打ちのある人は、新幹線なり、飛行機を使うべきだろう。結局、夜行バスに乗る前に、時間つぶしと気分まぎらしに飲み屋でムダ金使ってしまったりもしたので、そんなことなら新幹線で帰った方がよかったかも。

なかなか、中身の話に入れない。「ガワ」の話ばかりしてしまう。熊本に知り合いは、と考えた時、任期付きの職場にいた頃に知り合った元大学院生のTさんが学芸員として働いていることを思い出す。去年、久しぶりにちょっと挨拶をする機会があった時「熊本に遊びに来てください」と社交辞令を言ってくれていたのを真に受けて、行くことを伝えると、飲みに付き合ってくれると返事をもらったのだった。ということで、二日目の夜の予定は嬉しい形で埋まった。熊本初めてなんだけど、市内でどこが見るべきところですかね、とその方に聞き、「文学歴史資料館なんてのも悪くないですよ」と教えてもらい、二日目の昼間は、熊本市内の主要ヵ所と、そのあたりをまわることにした。で、三日目はどうするか。熊本はJRの駅は郊外にあり、市内の繁華街は、市電で20分くらい離れたところにある。地震で被害を受けた様子が生々しい熊本城がすぐ近くにそびえる中心地には、バスターミナルがある。二日目の昼間、そこで「日帰りツアー」のパンフレットをもらってきた。三日目は、熊本から日帰りで行ける範囲の遠出をするのはどうか、と考えたのだった。

最初に考えていたのは、鹿児島に行ってみるというのだった。鹿児島も行ったことがない場所なのだ。計画の当初は、二日目は鹿児島に移動して、帰りは飛行機にしようか、とか、志布志まで出て、フェリーで帰ろうかとかも考えた。しかし、熊本・鹿児島間はかなりの距離があり、いろいろ余計な出費がかかりそうだとわかり断念した。地図や、旅行ガイド的には、普通は阿蘇だが、去年の地震、噴火のため鉄道は通行止めになっていたりする。観光できないことはないそうだが、自動車がないと不便だろうとの話だった。こういう時には、レンタカーを借りたらいいのだろうな、と思う。数年前、一念発起してとった免許は、予想どうり、ただのペーパーと化してしまっている。しかし、どこかで、挑戦をしてみるべきなのだろうが、まぁ、今は無理そうだ。40代半ばになって自動車免許をとった経緯については、またそのうち書いておきたいと思う。

また、余計な話になった。他の候補地は、天草と島原だった。船に乗りたいという欲望があったからだ。新幹線であっさり行って帰ってくるのが嫌だったのは、お金がかかる以上に、何となく味気ない、という思いもあった。旅行自体がめったにできない娯楽なため、できれば、もう少し旅情的な何かを味わいたかった。本当は、ここ2年間、毎年春休み中に韓国に行っていたので、行きたいと思っていたのだが、かなわず断念した。飛行場という独特の空間、国境線を越えるあの感じ。いい歳をして、その味を覚えたばかりなのだ。新幹線ももちろん、在来線の新快速なんかよりは相当な非日常だが、飛行機のそれに比べればだいぶあっさりしている。時間だけで言えば、韓国・大阪便なんかに比べて、ずっと長時間乗るのだけど。何年か前、フェリーで釜山に行った時は楽しかった。国内でも、門司から大阪までフェリーで帰ったこともあったが、今回は、熊本往復の行程にフェリーを無理に組み込もうとしても、どう考えても無駄が多いようだったのだ。帰りの夜行バスは、つまり、長距離旅行気分を味わうために、しんどい思いをちょっとしたいというのもあっての選択だったのだ。

三日目何するかという話だった。そんなわけで、三日目の選択肢として、フェリーで熊本から対岸にわたって帰ってくるというのは魅力的に映った。日帰りツアーのパンフレットを見ると、天草までバスで行き、野生のイルカを見るというものがあった。バスと船代込みで六〇〇〇円くらい。天草でイルカが見られるなんて知らなかった。出費だが、こんな機会、もうないかもしれない。家族連れやカップルで参加しているはずのツアー客の中で、ひとりボートに乗りこんでいる、おっさんの自分の姿を思い描いてみた。イルカとの記念写真なんかをアップしたら、自分のフェイスブックも、まるで楽しい人のそれのようになるかもしれないな、とか。野生のイルカに喜ぶ「私」のイメージに喜んだ私だったが、電話したら満席だった。イルカの夢は、はかなく消えた。Tさんに聞くと、天草は見どころが拡散していて自動車でないとしんどいのでは、島原は集中しているから見やすいかもという話だった。「他に、人吉もおすすめですよ」という言葉も頭に入れつつ、今回は、とりあえず島原に行ってみることにしたのだった。

というわけで、初日は、競輪場でインタビュー、次の日は熊本市内見物と現地で働くTさんと交流、最終日は島原へ、という旅行になった。どこで何見て、どうなって、という中身の話をしようと書きはじめたが、結局、またしても枠組みの話で終わってしまった。あったことを書く、というのは難しいものです。続く。

2017年3月13日月曜日

初めて熊本に行ってきた話の入口

元競輪選手にお話をうかがうため熊本まで行ってきた。生活費削って行くので出来るだけ安くするにはといろいろ考える。飛行機とホテルのセットがかなり安いと友達に教えてもらい検討したが、2泊以上するとなると結構かかる。用事はインタビューだけなので、日帰りするという手もあるのだけど、今は金はないけど時間の自由はあるのだし、折角だからちょっと観光することにした。何度も書いているが、大人になったらいろんなところに行く、行っている、そういう人生の予定だった。しかし、半世紀近くも生きてきて、日本国内でも行った場所などほんの少し。生まれた場所に張り付いて生きてきてしまった。今からでも遅くない、と思うのだけど、なかなか難しい。絶対の予定は初日の午後3時の待ち合わせ。後は、何もない。夜行バスが一番安い選択だが、寝不足で行って、初めての人とまともに話す自信はなく、新幹線を使う。ぷらっとひかり・こだま、というのが新大阪・博多で7500円。これでも高いと思うけど、正規の新幹線代に比べれば半額くらいの安さ。博多から熊本まで在来線で2時間くらいだというので、乗り継ぐことにした。総計一万円くらいで行けた。朝早い、ひかりがとれたので、5時間弱で着けた。忙しく、何度も乗る人は、これでも長いだろうけど、旅行に飢えている身で、仕事でもない自分としては、これくらいの乗車時間は楽しい範囲だ。久しぶりの新幹線でテンションがあがる。新大阪駅に来ると、仕事としてか、あるいは遊びにでも行くのか、当たり前のような顔をして新幹線に乗っている人が沢山いる。当たり前だ。自分も、たぶん傍から見れば当たり前に乗っているように見えるだろう。でも、内心は、そこらのマセタ子供の何倍もテンションがあがっているのだ。あがっているが、子供のような体力がないから、飛んだり跳ねたりできず、疲れたような顔をして車窓をながめるしかない。それでも、心の中は、初めて新幹線に乗った時の記憶、前回の、その前の記憶、好きなのにちょっとしか乗れない自分の状況の情けなさ、とはいえ今は乗っているんだから楽しい気分でいいんじゃないの、という自分へのつっこみ、そんなことより、今から会う人にどんな質問するかもっと詰めないとあかんがな、という思いやらなんやらで、頭の中がグルグルするのだった。すぐに、博多。30分くらいの乗り換え。同居人が好きな「博多とおりもん」の一番小さいのを一応確保しておく。在来線で、大牟田まで。その後、豊肥線まで乗り入れる各停で、水前寺まで行った。博多は何度か来たことがある。前、長崎は行った。多分、鳥栖より南は、初めてだったはず。新幹線の間は、ノートの整理をしたりしたが、はじめての鹿児島本線は、ずっと車窓をながめていた。実に楽しい。飯代も何もかも節約するつもりで、昼もコンビニなんかですます。別に美味いもの食べたいとも思わない、のだけど、結局、その後はずるずるいろいろお金を使ってしまったが。熊本競輪場で待ち合わせ。そのあたりの様子は、また今度。話をうかがい、地震の被害そのままで放置されている部分の多いバンクを見学させてもらい、当初の目的終了。宿は、市内繁華街のカプセルホテルだった。朝も早く、何日か準備などで忙しく寝ていなかったので早く寝ることにする。安いそば屋で晩飯。一人では酒を飲まないという禁を2年ぶりくらいに破ってしまう。次の日、だらだらカプセルで過ごした後、レンタルサイクルを借りに行き、水前寺の方にある図書館に行き、文学館を見て、公園を見物し、熊本で働く知り合いの方と夜は飲みに行き、次の日は、オプショナルツアーとして、ひとりで島原までフェリーに乗って行って帰ってきて、夜行バスで大阪まで帰ってきた。細かい話もそのうち書いておきたいと思うが、今日はもう疲れた。二泊、車中泊一泊の旅だった。旅行に行くと一日の濃度が濃くなるのがうれしい。帰ってきた今日は、何もせず一日ダラダラ過ごしてしまった。カスみたいな時間だった。

2017年3月5日日曜日

観客席で隣のスマホが目に入る

吉本、NGK横の小ホールみたいなことろで、お笑いライブがあった。用事で行けなくなったからともらったチケットで行く。天竺鼠の単独ライブで、特に好きでも嫌いでもないコンビだったが、なかなか面白かった。同じくチケットもらって行った銀シャリの単独もそうだったが、ブリッジで流すビデオが一番受けていたりして、なんとなくテレビ的だなと思ったりもした。ひとつのコンビのネタやイベント、どれくらいのメンバーで作っているのかとか気になったりもした。客層は20代以下が中心で8割くらいは女性だった。400人くらいのホールだったが、満員だった。彼らくらいになったら、十分食べて行けるのだろうか、そうでもないのか。始まるまでの時間、観客席のほとんどがスマホをながめているのが印象的だった。「天竺鼠、楽しみ」とかつぶやいたり、なんかしているのだろうか。自分はまだガラケー使っているので、SNSとの付き合い方は多分一世代前の感覚なのだと思う。ミクシーなんかもそうだったが、自分なりに面白いと思う文章を書いて、面白いと思ってくれる人がいればうれしい。ツイッターでもブログでも、ちょっと何かを作る作業というイメージもある、気もする。言いすぎかもしれないが。しかし、スマホでひっきりなしにコミュニケーションしている人たちは、自分のような、へんな期待はしていないようにも見える。友達とあったら挨拶するように、常に知り合いとのやりとり世界の中にいて、ひとりの時でも、その時の自分を表現し続けているだけ、というような。どうなんだろう。横の人の、沢山「いいね」やらの反応がたまっているように見えるスマホ画面をちらっとみて、ちょっとひねったつぶやきに一つ二つ反応があるだけで喜んでいる自分が、何かとても寂しい人間のように思えた。

2017年2月26日日曜日

単線に乗って少し興奮した話

国会図書館関西館に行った。東京の国会図書館は何度か行ったことがあるが、関西館は初めてだった。行けば何でもだいたい見られる本館と違い、イマイチ使い道がなかったのだ。関西にあるとはいえ場所も辺鄙で、家からなら往復で2000円近くかかってしまう。今回、確認したいマイクロフィルムの資料があって、関西館でもそれは見られるようだったので行ってみたのだった。環状線の京橋で学研都市線に乗り換える。そこから1時間近く乗り、最寄駅の祝園(これで「ほうその」、と読むということを今回初めて知った)まで行った。学研都市線は、非常勤先のひとつがあり週一回使っているが、生駒山の手前で降りる。そのあたりまでは、都市近郊鉄道の雰囲気があるが、大阪府域を抜けたあたりからはローカル線の匂いが残っている。路線は、生駒山地の北を迂回し京都府に入る。田園風景が広がりはじめる。京田辺あたりで「あれ、この辺は単線なのか」と気が付き、うれしくなる。今は、ほとんど関心をなくしてしまったが、子供の頃は鉄道ファンだったのだ。

電車の種類とかはあまり興味がなく、好きだったのは駅と路線だった。小学生の頃、国鉄のキャンペーンでやっていた「いい旅、20000キロ」とかいう路線の乗りつぶしチャレンジ企画にちょっとだけ参加したことがあった。路線の始発駅と終着駅で自分が写った証拠写真を送ると「乗りつぶし」が認定され、国鉄路線全部の踏破をめざすというもの。結局、大阪環状線と、奈良線と、草津線と信楽線くらいか、近所の幾つかをまわっただけで終わってしまった(草津線は別の機会だったかも)。その時、当時は片町線と呼ばれていた学研都市線も乗ったように思う。京橋から一駅戻って今はなき片町駅で写真を撮り、電車に乗って長尾まで行った。当時、長尾より向こうは非電化単線で、列車本数も極端に少なかったと思う。長尾の駅でかなり待ったのじゃなかったか。父ちゃんと二人だった気もするし、ひとりだったかもしれない。同志社大学が学研都市に出来て、少し開けたのじゃなかったか。今ではさすがに全線電化されているが、まだ単線の部分が残っていたのは意外だった。もしかしたら、あの小学校の時以来かもしれないな、ここまで来るのは、などとぼんやり思いだした。また、2年くらい前に、旅費の出る共同研究に参加していた時に出張で行った上信鉄道の車窓風景が何となく思い浮かんだりもした。電車に乗ってもっと遠くまで旅行したいな、と思った。十分通勤圏の学研都市ですら、旅行気分だったが。

子どもの頃の自分は、大人になったらもっともっと色んな所に旅行するものだと思っていただろう。入口でやめてしまった国鉄乗りつぶしの、その入口の路線に乗るだけで、こんなに懐かしく感じるような、尻の重い大人になってしまい、過去の自分に申し訳ないというような気持ちにもなる。ツイッターを見ていると、子供の頃に好きだった趣味を、大人になってもきっちりと、もちろん、お金を使って大人らしく楽しみ続けている人たちがいることが分かる。鉄道旅行。短波で海外のラジオを聞くBCL。釣り。将棋。プロレス。どれも一時期好きになり、大人になったら関連する仕事をするぞ、なんて思いながら、結局、そのうちほったらかしになってしまったものばかりだ。プロレスは、大学生くらいまで大好きだったが、今では、さみしいくらい興味を失ってしまっている。懐かしのレスラーのインタビューなんかは今でも読みたいけど。これらの趣味を、自分は大人になって「卒業した」というより、生活レベルが子供のままだから、進歩させられなかったのかもしれないな、とも思う。経済的に余裕があったら、旅行をもっとしていたり、あるいは何かを「大人買い」したりしていたかもしれない。タラレバの話だ。でもまぁ、経済的な話は言い訳にすぎないとも思う。自分には、何かにつけ根気がなかったのだ。だからダメなのだ。だから、経済的な余裕もないのだ。とか、自虐的なことを言っていても仕方がない。とにかく、子どもの頃に憧れたような趣味の世界を今も生きている人たちのツイートを見ると、心の端っこの方で、ぐじゅぐじゅする何かを感じたりする、というお話。

2017年2月24日金曜日

ダラダラ採点に向かって過ごしてしまった2月

今学期は全部で600人くらい分の成績をつけなければいけなかった。講義の仕事を始めた頃に比べれば、だいぶ効率的にできるようになったが、それでもしんどかった。毎年、マークシートにしたらどれほど楽だろうと思う。それでもテストにするときは論述的な問題を組み込むことになってしまう。学生にとってもマークシートの方が楽かもしれないのに、ちょっとでもこちらに余裕があるなら、論述にすべきなのでは、という、実はあまり根拠のない思い込みがある。大体の採点基準を決める。こういうことが抜けていたら減点、こうならプラス、あとはこういう所をチェックして、などと。しかし、答案を読んでいくうちに、それがブレていく。読んでいて、不快感を覚えたり、好感をもってしまったり、感情も左右される。テストなんだから公平に採点しなければ、と考えるため、「まぁ80点かな」と一旦つけた後、これは自分が内容に心理的な影響を受けた上での採点なのではないのか、とか気になってしまうのだ。やっているうちに、これにこの点つけるなら、さっきのあれは厳し過ぎたんじゃないか、とか、相対的なズレもきになってくる。答案に向かい合うということは、自分が一方的に投げてきた言葉に対する応答に触れるということでもあり、虚しさを感じたり、自分が独りよがりだったことを反省させられたりさせられる、という負担感もある。とにかく疲れる。繰り返すが、だいぶマシになった。ある時は、一つの授業で400人というようなコマがあり、問題も自由度の高すぎるもの(テストを作る時に手抜きしたということでもある)にしてしまい、本当に辛かった。もちろん、集中してやれば、それほどでもないのだが、自分にはその力がないため、長時間、やらなければいけないという負担感を抱きながら過ごすことになってしまっている。余計な思い込みがいけないのだろう。こういう仕事については、もっと淡々と、かつ集中してこなせる人間になりたい。

2017年2月18日土曜日

家の近所に話題の幼稚園

すぐ近くに、塚本幼稚園がある。自分がこのあたりに引越してきたのは6年くらい前だが、実家も自転車圏内のためだいたい町の雰囲気はなじみがある。ここにこんな幼稚園があって、特殊な教育をしているなんてことは最近まで知らなかった。詳しく調べていないが、教育勅語を幼稚園児に覚えさせたりという、度を超すような右翼教育を始めてからは、そんなに経っていないのかもしれない。送迎用のバスが猫をかたどったカワイイものを使っていて、ずいぶん子供に媚びている幼稚園だなというのが第一印象だった。(最近見かけなかったからもう使ってないと思っており、そう書いたんですが、2017/2/21に見たら2台走ってました。修正します。)門からのぞくと、さざれ石のオブジェがある。神道的だ。そうかと思うと、外から見える所には、御茶ノ水博士とウランちゃんの人形が飾ってあったりもする。手塚治虫は共産党シンパなのにいいのかなと思ったが、それほど一貫したものでもなかったのだろう。話題になり始めてからは、周囲の期待に応えるようにか、よりそれらしくなっているように見える。小学校を準備していて、それが安倍首相夫人が名誉校長で、というのは去年あたりから知ったが、土地の取得に疑惑があるというのは、一か月ほど前くらいにポスティングされていたビラで初めてしった。最初に読んだ時は、ビラの作り手が分からず、どう判断したらいいのか分からなかった。どうやら、豊中市議で追及してきた人がいたようですね。昨日、今日と予算委員会で問題化し、ちょろちょろとニュースにも漏れ始めた。結構な汚職事件のはずなのに、メディアは及び腰のよう。安倍政権のメディアコントロールはひどい、自主規制するマスコミはもっと悪い、とイライラしてしまうが、ネットなどでマスコミ以外の情報を知るようになったからそう思うだけで、これまでも、流せる情報しかテレビや新聞からは流れてきていなかったのだろう。とにかく、どんどん大きなニュースになって、爪をのばし過ぎた(『ミナミの帝王』でよく出てきた表現)右翼幼稚園経営者のせいで、安倍政権が揺さぶられる、という共食い的場面を見たいものです。

マスコミはいろんな利害があって、すっとニュースにするのは難しいのだろう。それは、当然良くないことに決まっている。決まっているが、だからと言って、という問題もある。ツイッターを見ていると、現地取材を売りにしたライターの人が、あそこはこうで、その背後にはああで、近所ではこう言われていて、とか言っていたりして、なんでそんなに確信を持って言えるのか、それはそれで疑問を感じたりもする。安倍政権へ批判的な立場の人は、同じ批判的な立場の人のことを、あまり批判しない方が良い、というような自主規制圧力があるとしたら、それは問題だ。いわるゆマスメディアも、ネット経由のオルタナティブな情報(って表現でいいかどうか)も、ある程度批判的に解読することを心がけるべきだろう。まぁ、教科書に書いてあるような話だが。

幼稚園の前には公園があって、よく園児たちがラグビーの練習とかをさせられている。先生は女性が多く、それらしくきびきびしている。が、まぁ、全体の図は、そんなには違和感はない。ママチャリに乗って、保護者が見守る姿もちらほら。園児のお母ちゃんということは、自分より一回りくらい下の世代が多いだろうか。「この幼稚園、どんな教育しているか知ってはったんですか?」とか「生長の家の信者はんでっか?」とか聞いてみたいような気もするが、さすがに。想像でしかないが、まぁ、厳しくしつけてくれる、面倒見のいい幼稚園、くらいの情報でわが子を預けることになったのだろう。

自分は幼稚園時代の記憶など、ほとんどない。花の絵を描いて、独特だ、と褒められたこと。お遊戯など、身体を動かすすべてのことが、他の子よりワンテンポ遅れていて、恥ずかしかったと親に後から言われたこと。芋ほりに行った、ような気がしないでもない、というくらいか。女の子に激しいスカートめくりをして、親が注意された、という恥かしい記憶もある、かもしれない。ないかもしれない。まぁ、そんなものだ。あの頃、教育勅語を覚えていたら、どうだったか。伊勢神宮に行って、日の丸の小旗を振っていたらどうなっていたか。たぶんどうもなっていなかっただろう。教育効果としては、大したことない、ように思う。それでも、経営者の右翼趣味オナニーの道具に子供らが使われているようで、不快なのは間違いない。そして、最近知った、副理事長が送ったという近隣諸国への差別意識丸出しの文書などは当然、言語道断だ。

この文章、最近の自分は、社会問題に関心がない、という話を書こうとして書きだした。書いていたら、とても関心がある感じになってきた。もちろん、あるのはあるのだが、現実感がないというか、すぐにどうでもいい、という気持ちになってしまうので、どうしたものかな、ということを書きたかったのだが、書きはじめるといろいろ湧き出してくる。特に、このニュースは、近所ということもあり、自分のミーハーな気持ちも手伝って、興味があるし、メディアの姿勢に憤ってもいる。ただ、それがどこまで公憤なのかは自信がない。自分がおかれている状況や、数々の現実的な心配事から逃れたい、現実逃避をしたい、という気持ちが怒りに向かっている面もゼロではないからだ。まぁ、また考えよう。

2017年2月15日水曜日

ツイッターばかりみている(あらためて)

気がつけば、ツイッターばかり見ている。まだガラケーを使っているので、見るのはパソコンで、だ。パソコンは、家に居る間はだいたいつけっぱなしになっている。必要のない時でも。たまには、消しておきたいと思うのだが、つい、つけてしまう。ネットサーフィン(ってもうあまり使わない表現か)ももちろんするが、ただただツイッターのタイムラインをながめているだけの時間も長くなってしまっている。で、同居人に白い目で見られている。こんな事件あったらしいで。あの人、死んだみたいやで。世事に疎い同居人に、そういう情報を最初に伝えるのは、ツイッターを見続けている私の方からというのが圧倒的に多い。そんな時、「そんなに情報あさってどうすんの」とバカにされる。いやいや、別に、情報を漁ってるのではない。ただ、流れてくるのだ。と言い返すのだが、なんの言い訳にもなってない。世の中で起こっている出来事を、自分は、どうやら特に知りたい方のようだ。知りたいのは当たり前だ、と思っていたが、よく考えてみたら、それほど自明のことでもない。いち早く知った出来事の数々、それらのほとんどが自分には関係がない。森羅万象、なにもかもが、関わりあっている、というレベルの話ならまぁ全くの無縁ではないかもしれないが、何日後かに知っても、あるいは知らなくても、だいたい何のマイナスにもならないのだ。金正男とみられる人物が暗殺された。このニュースに、自分はちょっと興奮した。暗殺とか、映画みたいなことあるんだな。すごいな、と思った。世界史の一場面だな、と思った。「殺されたで!」と同居人につたえ、さすがに、「え、ホンマに?」とおどろかれた。他の人はどう反応しているだろう。ディズニーランドの件もあって、ネットでも人気キャラだったんだな。女スパイってどんなのだろう。こんな反応する人がいるのか。などなど、ついツイッターを追ってしまうが、同居人はもちろんそんなことはない。概要をネット記事で読んで、一端保留だ。あとは自分のアタマで考えるのだ。自分は、他人の反応を知りたい、のだろう。で、碌に、自分のアタマでは考えない。他の人がどんな反応をしているか、というのを見て、自分の態度を決めているだけだ。あさましく、反応をあさっているだけ。今、同居人以外と何でもない雑談をする機会がほとんどなくなっており、それもあって、寂しいからツイッターを見る。一人暮らしのお年寄りが、ずっとテレビをつけているのと同じだろう、と思っていたが、もっと病理的なもんなのじゃないか、という気もしてきたのだった。

2017年2月13日月曜日

急にアクセスがのびて焦る

このブログはこれまで数人にしか読まれていなかったのに、昨日、突然1000以上のアクセスが。「ジャスティン・ビーバー」が面白いとツイートしてくれたよう。ありがとうございます。(今の今まで、ジャスティン・ビーバーって女の人だと思っていた。こういう名前の人が、底抜けエアラインの人を有名にした、ということだけ知識があった。)多くの人に読んでもらえるなら、もう少し丁寧に書けばよかったかな、という後悔がよぎるが、まぁいいか。折角なので何か更新したいが、構えると何も書けなくなるので、何か書きたくなるまで放置しておこう。とりあえず。

2017年1月15日日曜日

また串カツ食いに行きましょうね

お正月はどうしてらしたんですか。生徒として通う教室で、数少ない男性の同級生に声をかける。年末、授業の後、ちょっと飲みに行き、あれこれ身の上話を聞いて、親しくなったのだ。韓国語教室は、9割くらい女性がしめていて、男は少ない。いても大体、50に近い自分よりもさらに年上が多い。ちょっと上くらいかなとお見受けしたが、還暦を越えているという。オシャレで若々しい人なのだ。何もしませんね。友達がひとり来ましたけどね。他人の話なので細かくは書けないが、若い時離婚され、集まる家族もいないそう。世間の人は、奥さんにしばられているみたいですね。奥さんがいると、何かと自由がきかないみたいですね。と、最近発見した事実、というように話してらした。なんとも飄々として味のある方である。

自分は2人暮らしだが、お互いの実家との関わりは作ってない。自分には妹がいるが、子どもはおらず、親の所に集まると言っても総勢で4人だ。数年前には、妹の金でちょっとどこかへ行くかということがあったが、親が病気がちになり、なくなった。親戚が多かったり、孫の顔を見せにいったりしている「普通」の家を思うと、さみしいといえばさみしいが、こんな家も最近では多いだろう。親たちは、自分のような子どもがおるからまだいいが、自分が歳とったらどうなるんだろう。おそろしいくらい寂しくなるんじゃないか。考えても仕方がないことは考えないに限る。それでも、不安は、年々リアルなものになる。生活保護の制度とか、まだ生きているだろうか、とか、そっちの心配もある。そんなわけで、ひとりで、かつそれなりに元気で暮らしている人とかに会うと、こういうのもありだな、と元気づけられるのでうれしい。人は、いろんな形で社会からの疎外感を抱く。そんなこと、ええオッサンになるまでリアルに感じられなかったということが、自分がいかにマジョリティ側に居たか、ということを表すのだろう。まぁ、そういう反省はいいや――。とにかく、ちょっとズレて面白く、嫌らしさを感じさせないような大人の知り合いができるのは嬉しいという話。また、1000円で飲める串カツ屋、行きましょうね。

2017年1月14日土曜日

難波まで歩いて行った

昨日は非常勤先のひとつが休みだった。センター試験の準備日ということで。講義するだけが仕事なので休みの日は多い。休みの日にこそ、自分のやるべきことをしなければいけないのだが、昨日はどうもいけなかった。どこかに行きたいという気持ちがおさえきれず、夕方になってから街にでかけた。自分はこれまでの人生で、どれくらいこうやって時間を無駄にしてきたのか。やるべきことを、こつこつとやっていくこと。自分に言い聞かせるように、こういうことを紙に書いたりして、目の前の何かから逃げようとする気持ちを抑える努力はしているのだが。行くなら、昼から行けばいいのだが、こうやってぐずぐずしているから、だいたい夕方になってしまう。昔聴いていたニュー・エスト・モデルの歌の歌詞に「歩き足りないから夜更けにさまよう」というのがあった。くり返し何度も聞いていたのはもう20年も前のことになるだろうか。うろちょろしたいというのは、結局、精神的な運動不足によるものなのかもしれない。

年に数回、心斎橋の銭湯、清水湯に行くのを楽しみにしている。2年前は、難波で働く機会があったから、帰りに寄ったりしたのだが、今は、乗り換えでもミナミを通ることが減り、チャンスが無くなった。久しぶりにと、銭湯をとりあえずの目的地にした。電車で行くと往復700円くらいかかってしまう。これに風呂代を入れると相当な出費だ。必要のない出費でも、人と会うのとか、もう少し意味のあることのためならちょっとくらいは金を出さないと生きている喜びがないとは思うが、暇つぶしに銭湯に行くというのは、ただただ我慢すればすむ無駄なのだ。自転車で行くのも考えたが、この冬一番の寒波が来るかというところで、辛そうだった。それで、とりあえず片道だけでも歩いて行くことにした。

淀川の見える市内某所にある自宅から、梅田までは歩けば40分くらいだ。これくらいの距離は、よく歩いているが、難波まではめったにない。とはいえ、梅田と淀屋橋の間は、職場の移動の際、電車賃を浮かすべく週に二回くらい歩いている。その延長線上だと考えれば大したことは無い。今日外に出たかったのは、同居人が夜いないためでもあった。ごはんは基本自分が担当しているが、今日は作らなくてもいい。だから、ミナミのどこかで食べてもいいかもとおもった。もっとも、いつだって今日は作らないというのは自由なのだが、何もなければ、家で作って食べるのが経済的かつマトモだからそうしている。

北新地の入口あたりに、ダイエーのスーパーがある。イートインコーナーがあって、昼に利用することも多い。去年の五月頃から、炭水化物を控える生活にかえたので、それまで愛用していた立ち食い蕎麦などが使えなくなり、ここでサラダやおかずを買って食べることが増えたのだ。新地などという金持ちの町にありながら、イートインコーナーには、貧乏な匂いが漂っている。本当に貧乏な人。できるだけ小遣いを節約しようとしているサラリーマンにOL、いろいろだ。この人は何の仕事をしているのだろうと眺めながら、ここでうまくも、そして案外と安くもない昼飯をとることが多い。昨日も立ち寄ったが、あまり晩飯を食う気になれず、焼き芋を買って出た。糖質制限しながら、糖分の固まりの焼き芋を食うのはダメなのだが、寒い時、道を歩きながら食べる焼き芋というのは、本当に魅惑的なものなのだ。ずっと前、お金の出る調査で高崎に泊まったことがあった。あの時も街を歩いていた時に、焼き芋がリーズナブルな値段で売っていて、食べながら歩いたのだった。適度に幸せで、かつ、適度にわびしい食べ物だ。ホクホクしたものも美味いが、ここのは徹底して低温で温めたのだろう、ドロドロに近い位、糖化した甘い焼き芋だ。御堂筋を南下しながら、半分だけ食べた。

月がきれいな夜だった。長堀のあたりでは、東の空の低いところに輝いていた。このあたりは、20年くらい前はバイトでよく来ていた場所だ。街並みはほとんど変わらないが、その頃はあまり見かけなかった外国人観光客の姿が多くなった。韓国語を勉強し始めて5年くらいたつ。週に一回、市民講座に行っているだけで、ぜんぜん使い物にならない。韓国人を見かけると、親切の押売りをしたくて仕方がないのだが、スマホでチェックしながら楽しそうに外国を冒険している若い人たちを見ていると、ただただ海外旅行がうらやましかった。初めて来たら、大阪の街もかなり面白いだろう。道頓堀など、写真で見たあそこがここか、というのだけで楽しくなるはずだ。何回見たかわからないグリコ看板を見ながら、ひとりぼんやりとしていた。

7時過ぎになっていた。ミナミに来たのは来たが目的地はないのだ。とりあえず、法善寺まで行ってみる。ガラケーの歩数をみたら、だいたい1万歩だった。思ったよりもずっと近かった。週に2、3回はこれくらい歩いている。そりゃ毎日疲れるはずだ。今年は、初詣に行っていない。何となく、神社を拝むのはもうやめようという気になったので、行かなかったのだが、せっかく通りがかったのだしと、水かけ不動さんにお願いだけはしておいた。はよう立派なシャカイガクシャになりぃやいうて。

断片的な思い出がわいてくる。ほんとうにつまらない人生にしてしまったな、という思いと共に。そんな感傷にふけっているから、ほんとうにつまらなくなるんだ。過去にしばられず、今を生きよ。と、どこかの自己啓発本に書いてあったことを頭に思い浮かべ、気分を抑える。しかし、ご飯を食べるところがない。繁華街でひとりで飯食うなんて、そもそもしなくていいのだ。金がないから、ということばかり気にして生きてしまっている。外食を楽しんでいる人たちを妬ましい思いで見ているのだが、そういう思考回路こそ断つべきなのだ。

貧乏な人生になることが、ほぼ確実になって7年くらいたつ。現実的にはもっともっと前から分かっていたのだが。結局、だんだん生活が荒んで、酒の量が増えたのだった。それでも、無頼派みたいなかっこいい荒れ方(なんてものがあるとして)ではなく、ダラダラとしたくずれ方だった。夜中にコンビニに行って、鬼殺し的な安酒を買ったりするようになって、さすがにこれはいかんと思うようになり、ひとりで飲むのは禁ずることにした。中島らもの『今夜すべてのバーで』とか、吾妻ひでおの実録マンガとか、ああいう作品は本当に人を救っていると思う。自分は救われた。底付きになったら、おしまいだぞ、と思った。ならずにすんだが、なる所だったと思う。まだまだ大丈夫だとは思えなかったから。毎日飲んでいたがほとんど飲まなくなった。2年くらい前からだと思う。最近、ちょっと飲酒欲が戻ってきており、誘われる機会があれば、ホイホイ行くのだが、そんな機会はめったにないので月に一回以下くらいですんでいる。相方と安いワインを分けて飲むとかはある。何の話か。酒をよく飲んでいた頃は、こうやって街にまで歩いてきて、立ち飲み屋に行くのを楽しみにしていたことはあった。立ち飲みというのは、本当に、そそるものだ。外で見ていると、何とも楽しそうに見える。『タモリ倶楽部』的な番組で、サブカル的に取り上げられたりもするのもあって、余計にそうなのだが、実際はもちろん、ひとりで行ってもつまらないものだ。アテなんかも、安いが、居酒屋より安いというだけで、こんなもの家で作ったら、タダ同然なのにと思うと、とてつもない贅沢に思える。

昨日も、久しぶりに立ち飲みでも一人で行ってみるかと思ったが、なんだかんだで1000円くらいは使うだろうし、ひとり酒の禁を破るのもいやだし、やめた。

心斎橋の清水湯に寄る。440円の入浴料のもとをとるべく長時間つかる。浴室から、テレビが見られる仕組みになっている。前に来た時は、性暴力時間で逮捕されている柔道の内柴の公判のニュースがやっていたような。野球の日本シリーズだったか。記録していないが、たぶん、去年は3回くらい来ていると思う。昨日は、キムタクらしき人物が、料理を食べるロケをしていた。スマップ解散して、イメージが悪くなったから、こういうことをしているのかとか考えた。湯船に腰かけて二人組がしゃべっていた。一人の背中、お尻の上あたりの部分にだけ、うっすらと背中毛が生えていた。「本人は、これを知っているのだろうか」と思いながら、それをながめた。

ここの脱衣所には、美女カレンダーが数種類飾ってある。数年前、ここにKARAのもあった。いつも来るたびにそれを思う。深田恭子のがきれいだった。剛力あやめもあった。後の3人は知らない人だった。扇風機で髪を乾かし、外へ出る。もう9時近くになっていた。帰りは地下鉄に乗った。風邪を引いた人が多く、マスク持って出なかったことを反省した。近所のスーパーで、ほうれん草と豚肉を買って、常夜鍋にした。こういう鍋の存在を知ったのは、小林カツ代の本でだったと思う。

いろいろしなければならないことがあったのだ。しないならしないで、やってあげるべきことというのもあったのだ。自分の為だけに、また無駄遣いした。明日からもう少しマシに使おうと思いながら。当分、歩き足りないだけの気持ちから、時間の無駄遣いすることはないだろう。そうありたい。