2020年3月16日月曜日

前の時はどうだったか

世界が不安定になるとトイレットペーパーが無くなる、というのは日本の伝統芸能かと思っていたが、どうやら世界中のよう。紙製のマスクが主流だからというのだが、理屈云々ではなく「もしなくなったら大変だ」と感じさせる対象として、たいへん身近で適度に「軽い」存在であり、しかし実際に無かったら結構困るもの、として丁度ピッタリなのがトイレットペーパー、なのかもしれない。「日本特殊論には気をつけろ」と講義で言ったりしていたが、これもその例か。

「前の時」はどんな感じで終わったのだろう。母親に電話ついでに聞いてみたら、目端のきく叔父が入手して持ってきてくれて助かった、なんて話をしてくれた。妹を出産したすぐ後くらいの大変な時だったらしい。しかし、考えてみたら、その頃に住んでいた文化住宅は水洗トイレではなく「ぼっとん」だった。トイレットペーパーなんて現代風のものは使わず、四角のちり紙を使っていたはず。ニュース写真で見るオイルショックの時のパニックで買い求められているのは、あのロール状のやつだけだが、ちり紙(落し紙というのかな)も不足だったのだろうか。母親によれば、近所に住んでいた人がナントカ油脂という会社につとめていて、そのおかげで石鹸をわけてくれて助かったりもしたらしい。石鹸洗剤類も無かったのだな。それは石油価格の急騰が原因なのだから、理解はできる。

話を聞いていると、母親は「あの頃は、皆、遊んでいたからな」という。何のことかというと、近所の人の多くが専業主婦で、昼間は皆家に居たから、集まっていろんな話をしたりできていた。今は、仕事している人ばかりだから、大変だ、と。確かに、今回のコロナを受けての急な休校措置で、子育て世代は大変なことになっているだろう。高度経済成長の終わらせたオイルショックの頃は、専業主婦率はほぼピーク。その後、就労率がどんどん増えていく。うちの母親も、私ら兄妹が高学年になった頃から、パートで働きに行きはじめた。同世代の典型例だ。

「けど『遊んでた』ってことはないやろ。家事も大変やったやろうに」と言っても、若かった頃は楽しかったという思いもあって、受けつけないよう。今の女性みたいに、主婦友だち同士で遊びに行ったりなどは全くしていなかったし、父ちゃん抜きで外食したことなど結婚生活でほとんどなかったのじゃないか。父は、しょっちゅう酔っぱらって帰ってきたりしてたけど。それでも「遊んでた」になるのか。昔の話を聞くと、いろいろ曖昧になってはいる。トイレットペーパー騒動がどんな形で収拾したかは、あんまり覚えていないようだし。まぁ、自分もちょっと前の事すらいろいろ忘れるようになっているから、半世紀前のこと忘れていても無理はないだろう。

歴史は繰り返すだな。「次」の時は、母はもちろん、自分ももうこの世にはいないだろう。

2020年3月13日金曜日

池の近くに行った

池の近くに行った。池の前にはちょっと前まで大学があった。ここは、少子化と経営戦略の失敗で廃校になっている。40年ぶりにこのあたりに戻ってきて二ヶ月、買い物先の確認など必要な探索はだいたい終わったので、ただ何となく子どもの頃の記憶の片隅にある風景を確認してみようと自転車で回った。子どもの頃、殺人犯がこの池に死体を沈めたと供述して、池の水を全部抜く大掛かりな捜査があった。実際にどんな事件だったのか、被害者は見つかったのかはよく分からない。警察が来て大騒ぎになっている、という情景が、非日常でなんとも興奮する記憶として残っているだけだ。小学校低学年の記憶ならそんなものだろう。この池はため池で、当時から「危ない」の看板があり、つり禁止、水遊び禁止だった。河童が描かれた溺れた子どもの絵が描いてあって、子どもの頃から肝っ玉の小さかった自分は、それがとても怖かった。池の水を全部抜く、というテレビ番組を見るたびにこの池のことを思い出す。行ってみると、以前より頑丈なフェンスで囲ってあった。ため池としての役割なんてもはや果たしていないだろうに、何のために「池」としてあるのだろう。数羽の鴨と一羽のアオサギがいた。のんびりした風景だった。この池の北側に、かつて水源地公園というのがあった。工業用水の浄水場だったと思う。その横に大きな公園があって、子どもの頃習わされていた空手の寒稽古をそこでやったという記憶がある。正月に呼びつけられて寒い中、稽古して、その後、ぜんざいか何かを食べた。親としては、私があまりに運動嫌いでどんくさいから心配で習わしたのだろうが、それが裏目に出て私は余計に身体を動かすのが嫌いになった。他の子よりワンテンポ遅れてしか動けず、空手の試合では必ず初戦で負けた。全員が合格する8級か何かの試験にも落ちた。稽古中は、早く終わって家でテレビを見てごろごろしたいと思い続けた。嫌な記憶の残るその公園は、新設の高校になっていた。自分の記憶では、そのあたりに、牛舎があった。工業都市尼崎だが、北の端っこにあたるこの辺りでは、高度経済成長まではまだ田んぼが広がっており、自分の子どもの頃にはさすがに少なくなってはいたが、ところどころ畑や田んぼも残っていた。今でも若干残っている。川ひとつ隔てた大阪市内では、ほとんど見られないので、まだそうなのかと戻ってきてちょっと驚いた。田んぼはそれほど珍しくないが、牛舎は40年前でもさすがに珍しかった。ネットで検索してみたら「驚いたことに昔はこのあたりに牛舎があったそうです」という情報があって、やっぱり記憶違いじゃないのか、と安心した。そこは今どうなっているだろうと、少しうろうろしてみたが、それらしいものは見つからなかった。ただ、動物の糞の匂いがしてきたような気もしないでもなかったので、もしかしたら、まだ牛をかっているところがあるのかもしれない。途中でアイスクリームを買って、公園で食べた。子どもが沢山遊んでいた。コロナで休みだから暇なのだろう。スマホもったりせず、ただ走り回っていた。格好も「昭和」時代とあまり変わらない感じだった。公園の向こうには、風呂屋の煙突。本当は、いろいろ変わったのだろうが、何となくずっと変わらない景色みたいに思えた。