2019年5月10日金曜日

あなたは右に、わたしは左に

右翼・左翼って聞いた事ありますよね。でも意味、あんまり知らないでしょ。この言葉、いつから始まったものか知ってますか?フランス革命後の議会からですよ。その時、革命を進めようという人たちが左側の席に座り、反対に革命をおしとどめようという人たちが右側に座ったのでそう言うようになったのです。左翼は、社会を進歩させていこうと考えているから進歩派、右翼は従来の社会や昔の方が良かったと考えるから保守派、進歩派からは反動勢力なんて言われたりもしますよ。


講義の流れでこんな話をした。

すごく興味をもったらしい学生が次の週に質問しにきた。

「右翼・左翼の話、すごく興味ありました。そんな意味だったんですね!」

面白かったのなら良かったです。


「で、質問なんですが、この間、中核派が選挙通りましたよね。革命的って言っているからあれは左ですか?」

まぁ、そうですね。極端だから、極左なんていいますね。

「なるほど!じゃぁ、自民党はどうですか。調べたら保守派って書いてたんですが…」

まぁ、保守派ですね。

「でも、憲法改正しようとか、先へ進めようとしているじゃないですか?」

まぁ、何と言いますかね、ほら、昔の憲法みたいに戻して、戦争ができるようにしよう、という考えなんで、そのへんでまぁ保守ですよね。

「うーん… 他にもカジノをやろうとか、新しい事をやろうとしているじゃないですか?それでも保守なんですか?」

まぁ、何と言いますかね、進歩ってそういうのとはまた違う感じなんですよね。

「うー、なんか難しいですね」

まぁ、ね。難しいですね…。


色んな知らないことを知った、という喜びにあふれた顔をしていた彼。ネトウヨ的なのにコロッといきそうで心配だが、興味を持つってことは良い事、なんでしょう、たぶん。「ネットの変な情報に騙されないようにね。本で勉強してね」と注意したけど、本にもいろいろありますからね。

「若者」に「自民党が支持される理由」が何となく見えてきたような気がしましたね。

2019年5月4日土曜日

97年のメモ帳

連休最大のイベントが部屋の片付けになった。わけあって同居人と部屋を交換することになったためで、結構な労力がかかった。今日も競輪のダービーをちらりと見たりしながら整理を続行。明日から仕事なので、作業が出来る状態までには戻さなければいけない。書類や本などちゃんと見てしまうとそれだけで時間がかかってしまうから、できるだけ機械的に作業しようとはしていたのだけど20年前の「取材メモ」と書いたメモ帳が出てきて、つい見てしまった。

1997年3月13日 松本インタビュー とあった。
自分の下手な字でメモしてあるのをそのまま書き写すとこんな感じ。

「信頼」関係ではない(言葉ではいうが、違うものだ)利益供与にすぎない(生活のための)「グランプリ」に乗る選手とそうでない選手。S級とA級、B級でクビがかかっている選手と、それぞれ視点が違うのだ。他のプロスポーツの一流選手とのちがい。自分の納得のいくレースと他のものおしのけても勝つということが違う。番手捲りをうたれる選手は弱いからだ。ただ、それだけなのである。中野と井上の戦いがすごかった。まわりの関係を切っていく努力もいる。「他のスポーツと違って、いらん力をつかわんといかんのです。」

昔すぎて、かつ、当時の自分が子どもすぎて(って27歳にもなっていたのですが)あまりハッキリ覚えていないのだけど、この前年に競輪をテーマに修士論文を書いて、取材というか、フィールドワークというか、何かそういう真似事をしていたのだった。この時、話を聞いたのは、当時、京都地区のボス的存在だった松本整選手。確か、ふるさとダービー4連覇を達成しての祝勝会だったと思うが、当時つきあいのあった日刊スポーツの記者さんの口利きで参加させてもらったのだった。現在、タイトルをいくつも獲りレジェンド的選手になっている村上義弘選手ほか、京都の選手も多く参加していたと思う。「あ、村上だ」と思った、というぼんやりとした記憶はあるが、そのほかは本当に何も覚えていない。(記者さんと一緒に、関西棋院所属の囲碁棋士Hさんという方も来ていて、帰りにいろいろ話を聞いたことはちょっと覚えている。帰り道は緊張感が解けて気楽な気分だったのだろう。それ以来お会いしていないがお元気にされているだろうか。)だから、この時、松本さんにどんな風に話を聞いたのかなんてさっぱり覚えていないのだが、上記のようなメモが残っているということは、こういう事を僕に向かって話してくれたのだろう。競輪ファンならご存知の通り、厳しい雰囲気がガンガンに漂う方で、実際に自分もオロオロしていたはずだが、何も分かっていない大学院生の質問にまじめに答えてくれていたんだなぁ、ということは今このメモを見ると分かる。

この時、お願いして単独インタビューを後にさせてもらうことになった。これは松本さん経営のスポーツジムで話を伺ったものだ。人間は背中に大きなゼンマイ仕掛けを背負っていて、いったん動き始めたらもう巻き戻せないのだ、というようなことを仰っていたことは何となく覚えている。その後、競輪についてちゃんとしたものを書くのに20年くらいかかってしまい、この時のお話は直接には生かすことができなかった。当時、せっかくいろんな方に協力してもらったのに、中途半端になってしまい申し訳ないという後悔はありつつも、まぁ仕方が無いか未熟だったのだから、と他者化して見られるような余裕もようやく生まれてきたような気もする。とはいえ、ジムで聞いたインタビューは、カセットテープに取っているはずだが恥ずかしさと怖さで、とても聞き返せない。

この97年の手帳を見たら、3月に岸和田競輪場で競輪ダービーが行われていて、大学時代のプロレス研究会仲間の「桂輪太郎」(仮)くんと見に行っている。3日目の24日。11時半新今宮待ち合わせ、と手帳にあった。27日の決勝は一人で見に行ったのか。浜口優勝とメモしてあるがレース内容はまったく覚えていない。今日のダービーは、この所次元の違う強さで競輪界を席巻している脇本選手が相変わらずすさまじい勝ち方をした。自分は忘れっぽい人間だ。このレースも何年かしたら忘れてしまうのだろう。仕方が無いとあきらめているが、文字で記録に残しておくのは、それなりに意味があるな、とちょっと思ったのでメモしておくことにした。メモを久々に見てしみじみした、という記憶と共に。