2017年4月10日月曜日

過去の実感がない

物忘れがひどくなったのは、忘れてしまった方が楽だという潜在意識が後押ししたためかもしれない。時々思い出す昔の記憶というと、だいたい、冷や汗の出るような、自分が嫌になるような出来事ばかりで、楽しかった何かは、思い出すきっかけもない。もともと量も少ないし。今の状況とつながって、昔が出てくるので、今の状況がダメであれば、手繰り寄せる記憶も、そんな自分のダメな部分に関連するものばかりになる。思い出すだけしんどくなるから、もう思い出さないようにしよう、というのが自己防衛反応として脳内で起こっているようだ。だからといって、記憶喪失になっているわけではないので、いつ頃、どの学校にいて、どんな人と会ってという記憶は、あると言えばある。だが、実感がないのだ。実感を伴う記憶は、出来事についてのものではなく、ただ実感だけで覚えているようだ。なぜか最近は、炊事をしていると、4年くらい前に、共同研究のバイトでたまに某大学に行っていたことがあって、その時の雰囲気が頭に浮かんでくる。そこでは、嫌なことは無かったのだ。面白いこともそんなになかった。でも、その頃に、こんな所で自分は何しているのだろうというような違和感を感じていたのは間違いなく、実感も残っていて、なぜか茶碗を洗っている時に限って、その時の気分が甦ってくるのだ。別に、その時、仕事で、茶碗を洗っていたわけではない。たまに行って、1人ノートパソコン見ていただけだ。でもなぜか、炊事が引き金になって、出てくる記憶になっている。自分の過去は、頭の中でどうなっているのだろう。とにかく、過去を悔いている時間を少しでも減らしたい。今を意味あるものにしないと、これから先、ますます空っぽになってしまう。

2017年4月8日土曜日

去年も同じこと言っていた

家のそばの公園、桜が満開に。今日明日あたり、晴れていたら何組かは花見する姿も見られたはず。買物に行く途中、同居人と「晴れたら、ここでお昼に弁当でも食べて花見気分味わうのもいいかもな」と話したら、「去年、そう言うてそれやったやろ」と言われる。そう言われれば、同じ気分で、同じこと言って、桜の下に腰かけて何か食べたことを思い出した。「あんた、大丈夫か?」大丈夫じゃないかもしれない。最近、確かに物忘れがひどくなっている。実は、去年のお弁当の記憶も、そう言われれば食べたと思うのだけど、具体的に何を食べたのかとか、どんな感じだったかはぼんやりしている。一年前の、普段と違う行為なんて、ちょっと前まで忘れるようなものではなかったのに。有名人の名前。読んだ本の内容。というより、それを読んだかどうか。こんなのは、だいぶ前からどんどん忘れるようになっているが、自分のやったことまで、抜け落ちるようになると、本格的に不安になってくる。頭の中にある、わたしの世界が、現実の自分の世界と乖離していっているということでもあるし。脳みそのアンチエイジング的なことをやって、もう少し抗うべきなのか、あるがままに忘れて行くしか仕方ないのか。子供の頃のも含め、自分にだって思い出の数々があるはずなのだが、なにもかもリアルな物じゃなくなっていくようだ。

2017年4月2日日曜日

あきらめた後の生き方

自分がどんな人間なのか。時間が経たってはじめて分かったことばかりだ。いろいろ経験して、というより、ただ時間が経って。腰が重く、碌に経験などしてこなかったのだから。積極的に、自発的に動いて、経験を積んできた人なら、もっとはやく気づいたのだろうが、そういう部分も含めて、ようやく気付くのだ。もっと若い頃に気づいていれば、と思うが、まだ身体が動く間でよかった気もする。もう、人生のやり直しは効かないが、残りをよりマシにすることは、まだできそうだからだ。4月になると新しい状況を迎える人たちがいる。横目でちらりと見て、うらやましさで心震える。慣れっこになっているから、震え方も大したことはないが、気を抜くと、酒に逃げたくなるくらいには寂しくなる。他人を見ないことだな。比較しないことだな。でも、そんなことが簡単にできれば苦労しないわけで、震えるならあるがままに震えておいて、自分にできることをするしかないな。

こんな人間だと分かっていたら、もっと早く他の道に進めばよかったな、と思う。ここでも、具体的な何かではない。「もっと他の」というものにすぎない。それがだめなのだろうなとは思うが、根っこのところに甘えがあるのだ。でもあんまり、うじうじと考えていても仕方がない。パッと切り替えて、違う何かを始めていたらな、とか、まぁ、何にしても、いつも、もう遅い、もう手遅れだ、もうどうしようもない、とばかり思ってきたのだ。そういう思考法から脱出することが必要だ。「業界」に未練を感じてはいけない。精神的に自立しないと。誰とも会いたくないと言いながら、さみしいと思うとか、そういうのはダメですよ、と自分に言い聞かせるために、ちょっと書いておいた。