2019年10月25日金曜日

人の悪口

非常勤帰り。電車で隣り合わせた女子学生二人組が教員の悪口を言い合っていた。「あのMのジジイ最悪」「Mやろ。あれは頭おかしいわ。あいつが学校行くべきやろ」「ほんまや」M先生、誰だか知らないけど、散々な言われよう。自分もこんな風に言われているかも、と思うとちょっと憂鬱になる。

だけど、その後、二人の会話はこう続いた。「まぁ、でも嫌いっていう訳ではないけどな」「まぁね」… あれだけボロクソに言っていて嫌いちゃうんかい!と声を出してつっこみたくなったが、ちょっとかわいいなと思った。M先生、厳しいけど憎めない人なんだろうな。厳しさの奥にある愛情みたいなものが伝わっている、ということか。


こういうことが昨日あった。今日になって別の可能性も頭に浮かんできた。もしかして、本当は本当に大嫌いだけど、友だちに対して「誰かを嫌っている」というメッセージを発することが禁忌というか、絶対だめなことと思われていて、最後にフォローしたのではないか…

そんな嫌な奴なら「大嫌い」でいいと思うよ。あるいはそれほどでもないなら、電車の中ではもう少しマイルドに批判しましょう。

2019年10月19日土曜日

父の話

 父は、1942年に北海道の美唄市で生まれた。八人兄弟の末っ子で、父の父は神主だった。家が神社だったわけではない。幾つかの小さな神社をかけもちで担当していたという。本土の神社とは違い、おそらく、開拓時に集落ごとに作ったような簡易的な社がほとんどだったのだろう。祭りや、棟上げ式など、イベントがある時に呼ばれてお金をいただく、というような商売だったのではないか。家は相当貧乏だったらしい。父以外の兄弟たちは、皆義務教育しか受けさせてもらっていない。父だけは、夜間の工業高校に通わせてもらった。歳の離れた兄姉が親代わりになって、その世話で何とかそれだけの余裕が家に出来たのだろう。とはいえ夜間なので、当然昼間は働いていた。自転車屋、新聞配達、岩見沢駅の機関区などでアルバイトをしたと聞いた。卒業後、大阪に出てきた。本土に渡ったのは兄弟でただ一人だった。どうして大阪だったのか。北海道の人が本土に行くというと、普通は東京になるだろう。父によれば、仲の良かったHさんという友人が先に大阪に来ていて、お前も来いと誘われたのだという。同じ高校の昼間部に通っていたHさんは一年早く卒業して大阪に来ていたのだ。父の来阪は、1961年のはず。Hさんの名前は、父の口から何度も何度も聞いた。つい半年ほど前にも「俺の友だちにHっていうのがいてね」と始まったから、「何べんも聞いたよ」とついつっこんでしまった。くり返しの話でも、また聞きなおしておけば良かったと思う。父は機械科で、Hさんは建築科だった。Hさんは一級建築士かになり、PLの塔や、札幌の大きなスポーツ競技場の設計なんかを担当したと聞いた。会社のそういう部署にいたということだろうが、父にとって華々しい活躍をするまぶしい友人だったようだ。Hさんは20年くらい前に、亡くなってしまった。大阪に来るときは、当然、汽車と青函連絡船を利用した。東京経由で来たと言っていた気もする。大阪で最初に就職したのは、T鉄鋼という大きな鉄鋼会社だった。どういう伝手だったのか、聞いたが忘れた。住みこみの工員で、一部屋に何人も寝泊りするような寮生活だったらしい。その後、工員仲間からの情報などで、待遇が良い所を求めて、いくつかの勤め先を転々とした。正確な順番は分からないが、西区の九条あたり、寝屋川、生野の桃谷近くなど、大阪近郊のいろんなところに住んだと言っていた。私が実家を出てひとり暮らしをはじめたのは、淀川区木川のアパートだった。車で引越しを手伝ってもらったが、アパート近くに来て「このあたりにも住んでいた」と話していた。細かいことは忘れたと言っていたが、あまり思い出したくなかったのかもしれない。職場は次々に移ったようだが、機械系の知識が生かせて経験も積める、少しでも面白い仕事が出来るようなところを探してのことだったらしい。転々時代のエピソードで何度か聞いたのは、職場で親切にしてくれた兄貴分みたいな人が熱心な創価学会の信者で、しつこく勧誘されて本当に嫌だったという話だ。この頃は、学会の拡大期だったから、いろんな所であった話だろう。この時、父が折伏されていたら、自分は生まれていなかったかもしれない。しばらくして、旧財閥系の大手の農機メーカーに入った。おそらく待遇はぐんとよくなったはずだ。中之島の西側あたりに会社があって、独身寮もその敷地内か近くだったそう。この時期に、一年間夜間の専門学校みたいなところに通わせてもらったらしい。さすが大手企業だと思う。江之子島あたりにあった技術訓練校(正式名称は忘れた)で、大阪府かどこか公的な機関だった。油圧などの専門知識を学べたという。工業高校で製図は学んでいたそうだが、おそらくこの時に仕事で使えるものになったのではないか。「阪大の先生とかが来て教えてくれたのだ」というのが自慢だった。この時に勉強した教科書はずっと持っていた。農機会社では、仕事で全国をまわったらしい。四国に行き、みかん畑に水を撒く装置の売り込みと説明に行った時の話は、何度か聞いた。仕事は面白かったようだ。しばらくして会社の独身寮が西宮にかわった。金持ちがやっていた素人下宿屋みたいなところと会社が契約したという感じだったろうか。この頃、人に紹介されて母と知り合い結婚することになった。ひとつ年下の母は、福井から出てきて大阪の広告代理店でOLをしていた。下宿が同じ西宮だった。結婚式は西宮戎神社でふたりだけであげた。元日に申し込んですぐにやってくれたらしい。今ならそうはいかんやろうな、という話は母から何度も何度も聞いた。以来、西宮戎はひいき神社になり、毎年のように初詣に出かけるようになった。新婚生活は、尼崎の園田近くの文化住宅ではじまった。風呂はなく、汲み取り便所の二間だけの小さい部屋だった。そこで私と妹が生まれた。結婚した頃に一流農機メーカーはやめ、道路機械の会社に移った。今は大証二部に上場するくらいの規模の会社になったが、その頃はまだ社長を中心に何人かで立ち上げたばかりの頃だった。自分の技術が生かせて、大きい役割をまかせてもらえる会社だと考えてのことだった。道路を舗装する機械を設計する仕事を担当し、中間管理職になるまではずっと図面を書いていた。設計士としての現役最後の頃はCADの時代になり、慣れないパソコンに悪戦苦闘していたが、若い頃はずっと手書きだった。文化住宅の狭い部屋にも製図台をおいていた。きらきら光る真っ白な表面の製図台、可動式の定規、太い鉛筆の芯を削る道具、小学校で使うものの何倍もの大きさのコンパス、消しゴムかすを払う鳥の羽根のブラシ、計算尺、カラス口。父の持っている道具は、なかなか素敵なものに見えた。それらの道具をかりて、自分は、ドラえもんとか、宇宙戦艦ヤマトの絵を描いたりしていた。80年代に入ると、風呂なしの部屋を出て、大阪市内のマンションに引っ越した。会社の近くにマンションが建ったのでローンを組んで買ったのだ。当時の、地方出身労働者にとってよくあるパターンではあっただろう。工場地帯の何でもないマンションだが、それまでに比べたら、部屋は広く、風呂もあり、ベランダからの眺めもまずまずの新しい我が家を手に入れて、父はさぞかし嬉しかったことだろうと想像する。小学生だった自分は、ただただ友だちと分かれるのが寂しく、銭湯に行かなくなるのも何となく物足りないような気持ちになったくらいだったが。父は基本的に真面目だったと思う。園田に住んでいた頃、同級生のお父さんたちには、競馬好きも多かったが、父は全く興味がないようだった。パチンコや麻雀も遊びで何度かしたことはあるという程度だったのではないか。ただ、酒のみで、酒癖はあまりよろしくなかった。正月には、朝から出来上がっていることも多く、酔っ払いの父に絡まれるのが嫌で、正月自体があまり好きじゃないくらいだった。ちなみに、神主だった爺さんも酒好きで、金もない中、祖母に酒を買ってこいと命じたりしているのを見て、父は「将来酒は絶対に飲むまい」と誓っていたのだという。誓い虚しく酒飲みになった。自分も、父の酔っ払う姿を見て同じことを誓ったが、結局、酒飲みになってしまったから、そういうものなのだろう。一時期、会社でうまくいかず、家でも不機嫌が続いたことがあった。その頃の酒癖は特に悪く、帰って来て酒を飲み始めるのがちょっと恐怖だった。とはいえ、今振り返ってみると大した荒れ方ではなかったと思う。会社生活の中で、そりゃ働くのが嫌になるような時期はあるに決まっている。あれくらいの程度しか、家族にだめな所を見せずに定年まで勤め上げて立派だったんだな、と今では思う。手先は器用だった。絵も上手だった。美術的センスがあるというより、技術屋らしく、見たままを書く能力が高かったのだと思う。幼稚園の時には、お手本を見て座布団にスポーツカーの絵を描いてくれたりした。日曜大工や自転車のパンク直しなども上手だった。机の上の本棚や、押入れの衣装ケースなんかも自作してくれた。自分が大学院に行きはじめ本が溢れるようになると、大きな書棚作りに協力してくれた。あの世代の男性だから、性別役割分業は疑いもせず家事は全部母にまかせっきりだったが、基本的には、母にも、子どもらにも優しかったと思う。お金のかかる海外旅行や温泉旅行なんかには連れて行ってもらったことはなかったが、動物園、水族館、近場の六甲山や甲山などにはよく連れて行ってくれた。出歩くのは好きだった。若い頃は、頻繁に出張させられていた。自分が設計に関わった製品の説明に行ったり、トラブルの対応に行ったりだったのだろう。余裕のある仕事の時は、お土産も買ってきてくれた。地理には詳しく興味もあった。そのあたりは自分も影響をうけた。私は子どもの頃は鉄道が好きだったので、お土産以外に鉄道のチケットなんかも持って帰ってくれた。野球を見るのが好きだった。大阪生活がどれだけ長くなっても、ずっと巨人ファンだった。昭和の地方出身者の多くはそうだったはず。今なら北海道の人ならファイターズファンになるだろうが、円山球場に年に数回来てくれる巨人は絶対の存在だったようだ。男の子が生まれて、キャッチボールをしたりするのが楽しみだったと思うが、肝心の息子は運動が大の苦手のインドア人間になってしまった。キャッチボールの何が面白いのか、自分にはさっぱり分からないのだが、母方のいとこの兄ちゃんは、盆正月なんかにうちの父とキャッチボールしたことを今でも美しい思い出として語ってくれている。高校では野球部にいった兄さんだが、彼の父は今でいうオタクの走りみたいなインドア人間だったため「お父さんとのキャッチボール」が夢だったらしい。組み合わせはうまくいかないものだ。父は、若い時には会社の野球チームに参加したり、ゴルフなんかもやっていたが、どうやら運動神経はいま一つだったようだ。そう考えると、自分が運動音痴になったのも、自然の流れのようにも見える。とはいえ、プロ野球の話ができて、工学部か工専なんかに進学して機械系の仕事につき、普通に結婚して…という息子になれていれば、父はさぞかし嬉しかったことだろうと思うが、文化系、運動嫌い、やがては社会学なんて訳の分からないものを勉強したりするようになって、息子は期待を裏切り続けた。それでも、その道でちゃんとやれていれば、それはそれだったろうが、自分でも訳の分からない状況になり、まぁ、なんというか、申し訳ない気持ちでいっぱいだが、自分は自分の人生だから仕方がない。父とは三十近くまで一緒にくらした。大学院に入ったあたりから、どんどん話はかみ合わなくなり、表面的な会話しかしなくなった。向こうとしては息子が何をしているかさっぱり分からなかっただろう。自分だって分からないんだから、分かるはずがない。何しているかよく分からんが大学だけでなく大学院まで行ったのだから自分よりは出世するはずだ、というような期待はあっただろう。それを思うと、やっぱり、ほんとに申し訳ない。が、今さら何を言っても仕方がない。仕方がない。仕方がない。父の話に戻す。自分が家を出て7~8年後には妹も家を出た。それ以来、夫婦二人暮らしになった。会社では、60代の半ば頃まで働いた。定年後も、嘱託みたいな形で会社の仕事をしたり、社史を作るのを手伝ったりしていた。定年までは、ほとんど休まずに働いていた。会社は自転車で通う距離だったが、帰宅するのはだいたい8時をまわっていたと思う。フルタイムで働かなくなると、母とよく出かけるようになった。近場の山とか、川とか、公園とかに車で出かけて散歩してくるというような感じだった。高校野球も好きだったので、毎年夏には甲子園にも行っていた。北海道の高校が出ると必ず応援に行った。自分など母校が出たとしても何の感慨もわかないと思うが、父は素直な愛郷精神の持ち主だった。そういえば、マー君とハンカチ王子の伝説の一戦も見に行っていた。つき合わされて母も行っていたが、この時ばかりは歴史の証人になれて満足そうだった。一時期、紙飛行機にも凝っていた。万博公園で趣味の人たちが飛ばしているのを見て、やってみることになったらしい。働き続けた後、ようやく得られた自由な時間は長く続かなかった。70を越えてしばらくすると、大病に何度も襲われるようになった。そういえば、その頃、自分は車の免許をとった。車なんて興味がなく、若い時に取る気もなかったのだが、父がそろそろ廃車するかもというので、じゃぁ自家用車があるうちに自分も免許を取っておくかと思い立ったのだ。40を越えて通った自動車学校では、運動神経の鈍さから卒業検定に落第するなど苦労したが、なんとかとれた。そして、父のナビで何度か運転練習をした。一番遠くに行ったのは、向日町競輪場だった。その時は高速にも乗ったりしたが、まっすぐは走れても、どれだけ練習しても駐車がうまくできず、乗るのはすぐにあきらめてしまった。高い金を払って取った免許もただの証明書になってしまったが、この時、父と運転の練習をする時間を持てたのは良かったかもしれない。循環器は若い時からちょっと悪かったみたいだが、ペースメーカーを入れなければいけなくなった。その後、脳梗塞にもなった。救急車で運ばれ命は助かったが、しばらく失語症になった。それは回復したが、後遺症は残り、嚥下力が下がってしまった。今から三年前、初めて誤嚥性肺炎で入院する。かなりの重症だった。あまり薬が効かず難しいかもみたいにも言われて、家族で病院に泊まって付き添ったりもした。自分が横についていた時、大変苦しそうな状態になり、本人も「こりゃ明日までもたんな」とか言っていて、本人が言うんだからそうなのかも、と思ったりした。何とか回復したが、それ以降は、まともにご飯が食べられなくなった。刻んでとろみをつけたご飯を母親が介助して食べさせなければいけなくなった。水もとろみがないと飲むことができなくなり、ここで酒とも縁が切れた。車などとても乗れるような状態でなく、廃車にして、免許も返上した。介護認定を受けて、リハビリの人や、デイサービスの世話になるようになった。家での介護は母にまかせっきりになった。何度か入退院を繰り返した後、去年などは比較的おちついた状態が続いていたが、今年の春頃から、目に見えて衰えてきたようだった。自分は、父が倒れて以降は、それまでよりは頻繁に実家に帰るようになった。ふたりで腹をわって話をする、というよりは、ケアするされるの関係の中で、無理やり話題を作って話すような感じだったが、ここに書いてきたような話も、この間に改めて確認したものが多い。この八月には、かなりいけない状態になり、入院となり一旦は退院となったものの、すぐに再入院になってしまい、十月、そのまま家には帰れなくなってしまった。病気について、最後の最後での「家族の選択」については、他の方の参考にもなるかもしれないから稿を改めて別のテーマとしていつか書きたい。最後の数日は、苦しそうでもあり、どうみても元気になる目は無さそうであり、もし回復しても、いつまた悪くなるか不安なだけだったので、病院から亡くなったと知らせを受けた時は、正直、ちょっと安堵した。楽にさせてあげたい、という気持ちが強かった。七十七歳だった。平均寿命よりは若干若いかもしれないが、本人も「俺は長生きした」と言っていたから、まずまずだったのではないか。他と比べても仕方がない。ただ、平均寿命が八十だと言っても、健康寿命となると七十代前半とかになるそうだから、父もだいたい平均的だったのかもな、とも思ったりもする。葬儀は、母と、妹と妹の連れ合いさんと私とで簡素に送る形にした。家族全体の希望でもあるし、本人も不服はないと思う。会社の人たちと離れて時間も経っているし、送ってほしいような知人もいないようだった。最初に書いたように、宗旨は神道ということになるので、形式的にも坊さんを呼ぶ必要がないのはありがたかった。お経、線香という、いかにもな葬式アイテムを外すことで、陰気くさくない送り方にできた。戒名もなく、名前の下に「命」をつけたらいい、というので自分が既に用意してあるお墓に入れる時には、そのように彫ってあげようということになった。病気以降は不自由な生活が続いたが、トータルでは幸せな人生だったのではないかと思う。そうであってほしい。私が子ども時代を過ごした大阪の下町では、同級生の父親の多くは世代的に高卒・中卒が当たり前だったが、それなりに進学校だった高校や、大学院で出会った友人たちには、大卒の親が当たり前で、大学教授の息子なんてのも少なくなかった。変な世界に迷い込んでしまった後には「何でもない普通の庶民的な父親」の子どもであることに、引け目を感じることもなくはなかった。しかし、もう少しちゃんと世の中を見渡せるようになると、まじめに働き続けてくれて、常識的で、かつ子供には自由にさせてくれる父親の子であったことが、どれほど幸運なことであったかに気づくようになった。借金もない。残した母親も、贅沢をしなければなんとなか暮らしてはいけそうだ。本当に幸運なことである。遺体に対面しても、斎場に向かう時も、骨を拾う時にも、あまり悲しいとは思わなかった。ここ数年、ずっとお別れをしてきたような感覚もあった。けれども、送り終わった後、上記のキャッチボールの記憶を大事にしてくれている兄さんをふくめ何人か縁のあった人たちに電話で報告したときには、とても悲しくなり泣けてきた。今もそうだ。経験するだけでなく、それを語ってみるということは、感情に働きかける作業なのだろう。質素な式だったが、全体としてよいお別れの仕方だったと思う。ただ、父の社会的な側面を残った人に振り返ってもらう機会は作れなかった。その埋め合わせとして、ごくごく簡単に、どこかの誰かに向けて父がどんな人だったかを紹介して説明しておこうと思い、この文章を書きはじめた。父が倒れて、介護の手伝いに行くようになってから、ノートを開いて昔話を聞き書きしておこうか、と何度か考えたがやめておいた。あくまでも息子の視点から、これまでの関係の中で普通に聞いた話から、自分にとっての父の像は構成しておけばいいかと思ったのだ。どっちが良かったのかは分からない。倒れてからの父は、基本的にずっと飄々としていた。真面目だ、と書いたが、看護士さんや介護の人にしょうもない冗談を言ったりしていた。その辺は、お喋りな母の影響のような気がする。今、思い出したのはこれくらい。近頃は私もとても忘れっぽいので、父が言った冗談の具体例もパッと出てこない。ここに書いたこともそのうち忘れてしまうだろう。逆に、何かのきっかけで今忘れている記憶を思い出すことがあるかもしれない。その時は、また、何か書こうと思う。