2019年11月9日土曜日

何のために書いているのか

このブログは何のために書いているのか。自分でも分からない。そもそも、多くの人は何のために、と書こうとしてあまりにありきたりなことを書いているなと気づき、手が止まる。せっかくやるなら、定期的に更新したいと思いつつ、何も書くことが思いつかず、こういうことを書いている。パソコンで作文を書かせて出来たらメールで送らせるという授業を以前やっていた。毎回、お題を出す。紹介したい場所、印象に残った出来事、高校生の自分にあてた大学生活案内、などなど。あまり勉強が好きではない学生の多い大学だったが、それでもスラスラと書く者も結構いて、自分が若い時より、携帯のメッセージ的なものも含めた文字文化に親しんでいるからかなと思ったりした。もちろん中には「何を書いたらいいかわからん」というのもいて、そういう時には「最後の手段だけど、何を書いたらいいか分からない、と書きはじめてみたら」とアドバイスした。この最後の手段として教えたやり方を、自分も今ここでやっている。(自分のようなものが、作文を教えるなんてどう考えてもめちゃくちゃだが、文章表現を教えるというより書く機会を与え続けるという内容だったので、勘弁してください。)さて、何のためにブログを書いているのか。理由をあげるといろいろある気がする。文章の練習。備忘録。他者からの承認欲求をみたすため。どこかの誰かの目にとまり、何か素敵な仕事でも舞い込んでこないか、という淡い期待。頭の中の整理。具体的な知人を想定しての近況報告。こんなものか。とにかく、何も生み出さないで日々過ごすよりは、どんな下らないものでも「何か」を生み出した方がいい、という判断のもと、「駄文を…」と言い訳し、予防線を張りながら、できるだけ書くようにしようと思っている。が、なかなか更新する気になれず、それが焦りとなって精神的負担になってしまったりもしている。誰が待っているわけでもないのに、バカバカしい話だ。自分のためだけのノートに、できるだけ自分内編集者の声をおさえて、延々と文章を書き連ねるという作業は続けている。ほぼ毎日のように日記的な何かを書いてはいる。しかし、たかがブログでも他人に見せるということを意識して書く場合、最低限の「よそいき」的な装飾が必要になり、それが書けなくさせているのだ。正装とまではいかなくとも、近所のスーパーに買い物に行くときくらいの「外」に行ける格好にしなければならないという意識がある。もっとも、自分だけが読む日記ですら、書く時にパンツとシャツくらいは着ているのだ。本当に真っ裸の精神で書けたら、それはすごいのかもしれないが、自分のような凡人は、どんな時もパンツくらいはどうしても穿いておかないと不安で仕方がないのだ。誰にも見せないものだとしても。そもそも文章というのは他者が存在しないと書けないものだろうと思う。自分だけが読む日記は、後の自分が他者になる。自分という、自分のダメな部分をすべて知っている人間に対してさえ、パンツを穿かないといけないなんて、なんという臆病さだろうと思わなくもないが、そんな程度でいいという気もする。何の話だったか。そう、ブログを更新しようということだった。そんなわけで、数人しか見ないにしてもブログとなると、日記の何十倍も格好を気にしなくてはならなくなる。自分のためだけのノートは、本を書かなければならないのに、全然書き進められない間、自分の手を止めさせているものの正体をできるだけつかみ、その邪魔をさせない癖をつけるために書きはじめたものだった。効果はあったし、今もある。以前に比べたら、ずいぶん、筆は軽くなったと思う。それでもなお「何か書かなければ」という意識が連れてくる気分は重い。今自分に必要なことは、できるだけ自由な、自分のしたい格好をして街を歩く厚かましさを身に着けることかもしれない。書いて気に入らなければ捨てればいいのだ。何となく、ブログ的なものを書きはじめた頃のことを書こうかと思っていたが、もう飽きてきた。「はてな」から突然自動メールが来るようになって、放置していた前のブログに「星がつきました」みたいなことを知らせてきた。自動巡回の何かにひっかかっただけだとは思うが、何年ぶりかで「はてな」の日記を見たら、内容をほとんど忘れていた。何で書いていたのか。それを今読むことにはどんな意味があるのか。そのうち、また考えて書いてみようと思う。