2017年6月24日土曜日

向日町の佐々木さん

「ちょっと佐々木さ~ん!」向日町競輪場の食堂のお姉さんが、今しがた出て行った客に呼びかけていた。忘れ物か、釣りでも渡し損ねたのか。しかし気づかずにとぼとぼ歩いて車券売場方面に向かう佐々木さん。姉さんは「佐々木の爺さん、耳すっかり遠なってしもうて」とつぶやいて、声をかけるのを諦めた。そして、佐々木さんの様子をぼんやり眺めながら「身体もゆがんでしもうてるわ」とかなり大きめの独り言をもらした。佐々木さん、向日町に通って何年くらいになるんやろうな。

2017年6月11日日曜日

すぐ書かないと

書こうと思った時に、すぐ書かないと、書く気が失せる。なんでもない場面に遭遇し、あるいは頭の中で突発的に何かが浮かんで来て、これは書いておこうという気持ちになって、こう書いて、ああ書いてと構成まで考えても、実際に書きはじめるまでには至らないことが多い。書いたところで何にもならないという思いが、そんなことに時間とエネルギーをかけても仕方がないだろうという内なる声につながる。何にもならない、ということをふまえた上で、それでも何か書いておこう、ということが大事で、そういう意識が低いから、大事なものも書けないんじゃないかという気がする。多産な人は、日記やブログなんかも、さっさと大量に書いていたりする。仕事として書くものしか書かない人もいるだろうが、書くべきだと考えたら、とりあえずさっと書いてらっしゃるように見える。さっと、というのは、おそらく違うのだろう。気合をいれて、時間をとって、集中して書いているのだと思う。もちろん、大量に書くことで、実際に書くスピードも上がっていくだろうけれど。ポメラのような持ち運びできるテキスト入力機欲しいなとちょっと思うが、道具の問題じゃなさそうだ。手書きでいいんだ。

2017年5月21日日曜日

依存症にならないためには健やかな気分で毎日をすごすことが大事

読み返してみると、ぐちぐちしたことばっかり書いているな。普段は楽しい気分の時も多いのだが、こういう所に何かを書きたくなるというのは、ちょっと病んでいる状態だからなのだろう。テンションが高い時も含めて。ここの所、ほとんど飲まなくなっていたのだが、最近少し飲酒欲が復活し、安いワインなんかをちびちび飲んだりするようになってしまった。よくない傾向だ。毎日が大変な訳ではないが、木金の二日が自分としては過酷なスケジュールで、終わった後、ヘトヘトになる。去年は甘い物に頼ってストレスを発散していたのだが、これは糖尿に直結だとういことに気づき、できるだけ控えるようになった。タバコをやめたのは5年は前だろうか。もう少し前かも。喫煙欲はほとんど復活しないが、酒は、飲みたくなるね。依存症につながるものは、やはり日常生活の状態、希望、不満も含めたものと絡まりあって、誘惑してくるな。ゲームなんかもそうだろうか。別に、飲んだからって何の良いこともないのだ。それでも、ただただ煮詰まっているよりは、一時の解放を、という気持ちになるのだろう。麻薬と同じだ。せめて誰かと飲みたいとは思うが、今はそういう関係の知人が身近におらず、たまに街をうろついて、多くの人が仲間同士で楽しそうに飲んでいる姿を、ものすごくうらやましく眺めたりしてしまう。仕事のつき合いで飲んだって、楽しかないだろうが、それでもまぁ。元気に過ごせているだけでもありがたいと思わないと、とか、屁のようななぐさめの言葉を自分に言い聞かせて、とにかく今日を過ごすのであった。

2017年5月7日日曜日

何も書き残していないと何もなかったことになる

もう少し頻繁に更新するつもりだったが、書く気になれず放置している。書き残しておかないと、何もなかったことと同じになる。過去のことは忘れてしまうもので、それはそれでさっぱりしていていいじゃないかと思っていたし、今もある程度はそう考えているが、あまりにもすっかり忘れてしまうようになると、残念に思う気持ちが芽生えてきた。芽生えてきたというと、若い時はそうではなかったかのようだが、日記を書いたりしていた(とぎれとぎれではあるが)ので、記録を残しておきたいという気持ちはずっとあったのだ。ただ、記憶が無くなっていくということと、考えが変わっていくということ、頭の働きは弱くなっていくのだ、ということがリアルなものになってくると、記録に対する意識もやはり変わる気がする。例えば、今はまだ覚えている今日一日のこと、昨日のこと、何とか思い出そうとすれば出てくる一昨日のこと、だいぶ怪しい4日前のこと、これら自分のアタマの中にある何かは、今、書いて残しておけば残るのだ、しかしそうしなければ、確実に、きれいさっぱりこの世からなくなるのだ、それで本当に良いのかという不安に襲われるのだ。それでいいのだ、と、アタマでは思うのだが、記憶をあまりにも雑に扱うことで、過去のことだけでなく、現在への対峙の仕方にまで悪影響を及ぼしているのではという心配がある。書いておいたところで、それは、所詮現実の断片だ。だから意味がない、と昔は思っていた。しかし、アタマの中のぼんやりした出来事を残す、他者と共有するというのは、そんな断片的な方法しかないのだ、ということにようやく気がつきはじめた今日この頃だ。下手な写真でも撮っておいた方がいい。下手な記録でも残しておいた方がいい。いい、というのは、世界にとって良いと言うのではなく、ただ自分にとってだ。死ぬまで自分とつきあい続けなければならない。すねたり、ひねたりはするだろうが、生きている限り誰かと何かを共有したいという思いはずっと持ち続けるような気がする。先のことはわからないが。ならば、まぁ、誰も読まないとしても、アタマの中に何かが出てきて、それを、他者が一応は解読可能な程度の言葉にできるのなら、何でもとりあえず書き残しておけばいい、と今は思うようになった。だが、面倒くさいし、何でもいいから書いておこうと思っても、何も出てこない日は出てこないのだ。

2017年4月10日月曜日

過去の実感がない

物忘れがひどくなったのは、忘れてしまった方が楽だという潜在意識が後押ししたためかもしれない。時々思い出す昔の記憶というと、だいたい、冷や汗の出るような、自分が嫌になるような出来事ばかりで、楽しかった何かは、思い出すきっかけもない。もともと量も少ないし。今の状況とつながって、昔が出てくるので、今の状況がダメであれば、手繰り寄せる記憶も、そんな自分のダメな部分に関連するものばかりになる。思い出すだけしんどくなるから、もう思い出さないようにしよう、というのが自己防衛反応として脳内で起こっているようだ。だからといって、記憶喪失になっているわけではないので、いつ頃、どの学校にいて、どんな人と会ってという記憶は、あると言えばある。だが、実感がないのだ。実感を伴う記憶は、出来事についてのものではなく、ただ実感だけで覚えているようだ。なぜか最近は、炊事をしていると、4年くらい前に、共同研究のバイトでたまに某大学に行っていたことがあって、その時の雰囲気が頭に浮かんでくる。そこでは、嫌なことは無かったのだ。面白いこともそんなになかった。でも、その頃に、こんな所で自分は何しているのだろうというような違和感を感じていたのは間違いなく、実感も残っていて、なぜか茶碗を洗っている時に限って、その時の気分が甦ってくるのだ。別に、その時、仕事で、茶碗を洗っていたわけではない。たまに行って、1人ノートパソコン見ていただけだ。でもなぜか、炊事が引き金になって、出てくる記憶になっている。自分の過去は、頭の中でどうなっているのだろう。とにかく、過去を悔いている時間を少しでも減らしたい。今を意味あるものにしないと、これから先、ますます空っぽになってしまう。

2017年4月8日土曜日

去年も同じこと言っていた

家のそばの公園、桜が満開に。今日明日あたり、晴れていたら何組かは花見する姿も見られたはず。買物に行く途中、同居人と「晴れたら、ここでお昼に弁当でも食べて花見気分味わうのもいいかもな」と話したら、「去年、そう言うてそれやったやろ」と言われる。そう言われれば、同じ気分で、同じこと言って、桜の下に腰かけて何か食べたことを思い出した。「あんた、大丈夫か?」大丈夫じゃないかもしれない。最近、確かに物忘れがひどくなっている。実は、去年のお弁当の記憶も、そう言われれば食べたと思うのだけど、具体的に何を食べたのかとか、どんな感じだったかはぼんやりしている。一年前の、普段と違う行為なんて、ちょっと前まで忘れるようなものではなかったのに。有名人の名前。読んだ本の内容。というより、それを読んだかどうか。こんなのは、だいぶ前からどんどん忘れるようになっているが、自分のやったことまで、抜け落ちるようになると、本格的に不安になってくる。頭の中にある、わたしの世界が、現実の自分の世界と乖離していっているということでもあるし。脳みそのアンチエイジング的なことをやって、もう少し抗うべきなのか、あるがままに忘れて行くしか仕方ないのか。子供の頃のも含め、自分にだって思い出の数々があるはずなのだが、なにもかもリアルな物じゃなくなっていくようだ。

2017年4月2日日曜日

あきらめた後の生き方

自分がどんな人間なのか。時間が経たってはじめて分かったことばかりだ。いろいろ経験して、というより、ただ時間が経って。腰が重く、碌に経験などしてこなかったのだから。積極的に、自発的に動いて、経験を積んできた人なら、もっとはやく気づいたのだろうが、そういう部分も含めて、ようやく気付くのだ。もっと若い頃に気づいていれば、と思うが、まだ身体が動く間でよかった気もする。もう、人生のやり直しは効かないが、残りをよりマシにすることは、まだできそうだからだ。4月になると新しい状況を迎える人たちがいる。横目でちらりと見て、うらやましさで心震える。慣れっこになっているから、震え方も大したことはないが、気を抜くと、酒に逃げたくなるくらいには寂しくなる。他人を見ないことだな。比較しないことだな。でも、そんなことが簡単にできれば苦労しないわけで、震えるならあるがままに震えておいて、自分にできることをするしかないな。

こんな人間だと分かっていたら、もっと早く他の道に進めばよかったな、と思う。ここでも、具体的な何かではない。「もっと他の」というものにすぎない。それがだめなのだろうなとは思うが、根っこのところに甘えがあるのだ。でもあんまり、うじうじと考えていても仕方がない。パッと切り替えて、違う何かを始めていたらな、とか、まぁ、何にしても、いつも、もう遅い、もう手遅れだ、もうどうしようもない、とばかり思ってきたのだ。そういう思考法から脱出することが必要だ。「業界」に未練を感じてはいけない。精神的に自立しないと。誰とも会いたくないと言いながら、さみしいと思うとか、そういうのはダメですよ、と自分に言い聞かせるために、ちょっと書いておいた。