2017年8月31日木曜日

夕方、淀川を渡る


自分としては濃い目の八月だったのかもしれない。悔いはいろいろだが、いくつかやるべきこともやった。遅い仕事だったが。遠出もした。形式的にだが久しぶりに海にも行ったし、18きっぷで長時間電車に揺られるということもやりたかったことだった。他にも日帰りでちょっと行ってきた。それでも何もなかった日は、何かがあったことにしたくて、夕方になってちょっと梅田まで行ってみるということは何度かした。何もないのだけど。夏の夕方はよいものだ。秋もまぁいいけど。6時頃、十三大橋を渡ると、六甲方面に落ちる夕陽がよかった。西の空の彼方に、よきところがある、というお話は悪くないものだと思う。

2017年8月26日土曜日

時間の有効活用

時間の有効活用。如何に無駄にしないで生かすかが大事だ。という倫理観から自由になりたいが、まったくなれないでいる。もっとちゃんとした人だったら、こんなにある自由な時間をもっとちゃんと使えるはず。もっとちゃんと生かせるはず。それに比べて自分は、なんという無駄な過ごし方をしているのか。若い時からそうだった。無駄に生きてきた、ということもそうだし、それに開き直れずにいたということもそうだった。無駄にしたことを後悔する時間という、無駄な時間に輪をかけて無駄な時間をどれだけ過ごしてきたことか。こういう人がいる。でも、あの人は、もともとこうだし。ああいう人がいる。確かに、でも、あの人は、そもそもこうだし。比較の対象、慰めの対象、何かよく分からない仕方で他者を利用して、どこかで重さから抜け出す。しかし、そんなものはツケにすぎないから、後からまたまた利息がついて、自分を苦しめる幻想になる。何もかも、自分で作っている幻想だ。しかし、自分という人間は、どこかで他人を必要としている。達観して、一人で自由になろうとするのではなく、他者が必要なことを認めて、つながりの中に、自由になるように考えたいとは思う。つながりと言っても、「絆」的なお話のことではなく、もっとなんでもない、でも生きていることの根幹にかかわる何かである。

2017年8月20日日曜日

お馴染みの非日常

大阪市内に住んでいる自分にとって、京都までは身近な地域だが、滋賀県に入ると途端に「遠くまで来たな」という感覚になる。普通列車の旅では、京阪神圏、中京圏、首都圏は、都市型の快速列車で乗り心地もよく文字通り快速で飛ばす感じになるためストレスがない。大阪から東へ向かう場合は、米原までは普段からよく乗る新快速になる。だから電車自体は、珍しくはないのだが、京都駅を出て、山科、大津と行くと、普段とは違う気分になれる。この辺りまでなら、大阪まで通勤通学している人もいっぱいいる範囲だが。子供の頃は、福井に母親の実家があり夏休みに行くのが楽しみだった。湖西線が開通してからはあっち周りの雷鳥に乗るのが基本になったが、小学校低学年の時、はじめて一人でおばあちゃんの家までお出かけしたときには、湖東周りの急行「ゆのくに」というのに乗った、と思う。また、長浜に親戚の家もあって、何度も行った。今回みたいに東京まで18きっぷで行った時も、琵琶湖東岸のこの辺りを通っているのは、まだ出発したてという所で、だいたいは「久しぶりの遠出」を楽しんでいるような段階である。だから、滋賀県の風景は、自分にとっては、お馴染みの非日常の景色、という感じになる。近江富士も車窓から見えた。そういえば、びわ湖競艇の宣伝に蛭子能収が出ていたなと思い出す。観客が、「近江富士が見えるから2-3」と喋っているのを聞いて、蛭子が乗っかってあたる、という設定。最後に彼がつぶやく。「だからやめられないびわ湖ボート」。今自分は、ネットで買えるのに、わざわざ福島県まで競輪を見に行くのだ。ほんまにアホやなぁと思いながら。

野洲かどこか。駅前の市民ホールか何かに、「三山ひろし」という大きな垂れ幕がかかっていた。コンサートがあるのだろう。演歌歌手だということは知っているが、どんな歌を歌っている人かは知らない。バナナマンのラジオで、彼らが紅白歌合戦の副音声の担当をするという話をしていた時に、けん玉が得意な歌手としてネタにしていたので、紅白に出る歌手だということだけ知っている。演歌の人にとっては、紅白に出るかでないかは営業力の大きな違いだろう。先日行った伊勢でも、宇治山田駅前にコンサートができるようなホールがあって、何人か歌手の名前の垂れ幕がかかっていた。若い人が騒ぐような名前ではなく、一昔前の名前だったような。地方都市の人にとって、わが町に芸能人がやってくる、というのは今でも大きなイベントなのだろうか。歌手とか芸人とかプロレスラーとか、旅行く人生にはロマンチックなあこがれの気持ちがある。鉄道も子供の頃は大好きで、大人になったら乗りまくるぞ、と思っていながら、実際に大人になったら面倒くさくなって、そのうちそのうちと今に至ってしまった。そのおかげで、未だにこれくらいの電車旅でも十分旅情を感じられるくらい、新鮮さを味わえている、とも言えるだろう。

米原駅に到着。ここで、大垣行きに乗り換える。関西圏と中京圏の狭間であり、普通列車の旅のボトルネックになっている部分だ。駅に到着したら、すぐに乗客は走り出した。どうやら、席取りの必要があるらしい。乗り換えは跨線橋を渡る。本当に走らないと席がないのかは不明だったが、周りに流されて自分も走った。跨線橋の上に駅員がいて、ハンドマイクを手に「危ないですから走らないで」と叫んでいた。恒例の風景ということなのだろう。いつものことか。18きっぷシーズンだけなのか。駅員は「ケガをしたら何にもなりません」とか説教くさいことを何度も付け加えた。走るな、だけで十分なのに、こういうことを言ってしまうってことは、この人、たぶん普段はうっとおしいタイプだろうな、と勝手に想像する。大垣行は確かに混んでいた。でも、走るまでもなかったかもしれない。この後も何度も乗りかえたし、たったままの期間もあったが、とにかくほとんどは座りっぱなしなので、ちょっとくらい立っていた方が、肉体的にも楽だったりもしたのだ。大垣行きに乗り換えると、いよいよ、東へ向かう気分になった。

2017年8月19日土曜日

大学ノートを持って行った青春の旅

 ひとつ前の記事は、東海道線の車中で書いたものが原型になっている。「青春」18きっぷを使って、福島県のいわき市まで競輪を見に行ってきた。オールスターという大きなレースが開催されていて、折角の休みだし、こんな機会でもなければ行くこともなかなかないだろうと向かったのだった。ここは改装されてバンクの中からレースが見られる珍しい競輪場で一度行ってみたいと思っていた。福島県もほとんどいったことがない、というのもあり。なぜ競輪なのか。好きだから、なのだが、それ以外にも理由がありそれについてはそのうち書きたい。
 私の住む大阪から福島県いわきに行く。普通は新幹線、飛行機ということになるだろう。が、先立つものがない。というか生活費を削るしかない。できるだけ負担を軽くしたい。夏の間に、他にもう一回遠出をする計画もある。ということで、何年ぶりかで18きっぷを使うことにした。18きっぷの説明は、省く。最初に使ったのはいつだろう。たぶん、高校生の時だと思うが、詳しいことはすっかり忘れている。今は、ムーンライトながら、という名前になったが、その頃は、まだ大垣夜行と呼ばれていた旧急行用車両の夜行列車があり、大垣発、東京駅に5時40分に着く、というのに乗ったことが(おそらく複数回)ある。早朝すぎて、街が動き出すまで時間をつぶすのが大変だった、ような記憶がある。テレビで見たどこかに行きたくて、新宿のスタジオアルタに向かい、その近くのマクドナルドで時間をつぶしたように思うが、それが最初の時なのか、大学生になってからかは、すっかり忘れている。印象深い思い出のはずなのに、本当に、若い時の記憶が、最近では断片しか残っていないのだ。新宿で桂花ラーメンを初めて食べたのはいつだったか。いろいろ断片が出てくるが、とりあえず、話を戻す。
 18きっぷは、バラで使えなくなったため、使い勝手は悪くなったが、余りは売ったりもできる。額面で割ったら一回分2360円。それで一日行けるところまでは行けるのだ。時刻表を見るに、大阪からいわきまで14時間くらい乗れば、一日で行けると分かった。最近では、ジョルダンの18きっぷ検索という便利なものがあり、時刻表をわざわざ読まなくても済む。本当は、今回、小さい時刻表を買おうと思ってはいた。まだガラケーを使っているので、紙で必要なのだ。だが、荷物にもなるし、結局、パソコンでジョルダンの情報をプリントして持って行った。
 とにかく、これでいければ、往復5000円以内で福島なんて遥か遠い所まで行って帰ってこれるのだ。旅費のネックは当然、宿泊費だ。それも検索したら、カプセルホテルもあり、他にも安い魅力的な旅館みたいのもあるようだし、ここはひとつ、行ってやろうということになった。
 と言いながら「行く」と決めてから、すぐに心配に襲われた。途中でしんどくなってしまうのでは、というのを夢にまで見たのだ。夜行バスの方が、楽かもしれないとかいろいろ迷った。しかし、時期がお盆のど真ん中ということもあり、ぐずぐずしていたら、格安の選択肢はなくなった。
 最後に、18きっぷで遠出をしたのは、7、8年は前だと思う。東京に行って、帰りだけ普通列車で帰ってきたのだ。同居人との二人旅だった。これも細かいことは忘れたのだが、もう、体力的にしんどいな、と感じたのだった。それよりもっと以前に、もう無理、というのは感じていた。東京・大阪は9時間くらい。それで十分しんどい上に、いわき市には東京からさらに4時間もかかる。無謀すぎるのじゃないか。大丈夫なのか。後悔するんじゃないか。何のために行くのだ。行かんでもいいがな。でも、折角の機会だしな。云々。
 決断力がなく、ギリギリに決める、ということに決めた。前の日には、一応、行くつもりにはなってきていた。宿はとっていなかった。これも、決めてしまうと行かないといけなくなるし、そうなると、行きたくなくなるんじゃないかと心配になったからだ。それと、しんどかったら、東京であきらめて、一泊しよう。そして次の朝、いわきに向かおう。ということも考えていた。前の日は、先の記事に書いたように、奈良で飲み会に参加した。楽しい場に呼ばれる機会が年に数回しかないから、誘われたら、さみしくてとても断れないということもあり。さすがに、早めに切り上げさせてもらって、帰宅して、これなら明日行けそうだ、とようやく決断したのだった。
 荷物はできるだけ減らしたかった。普通列車の旅に、コロコロなスーツケースは不適だ。リュック一つにまとめた。ただ、途中の退屈にどう対処するか、というのは大問題だった。まずは、本を読もう、と決めた。本は好きだが、集中力がなく、気分で読みたい本が変ってしまうので何冊かは保険で持って行きたい。が、荷物は減らしたい。文庫・新書で4冊以内が妥当だろう、といろいろ検討のすえ決めて、選抜する。読み終わると邪魔になるから、読みかけでもまだ入り口あたりの本。軽めのものと、ちょっとは頭を使うものと、この機会にじっくり読みたいもの、というようなチョイス。キンドルとか、そういうものがあれば、あるいはスマホでもあれば、もっと荷物を減らせるのだなと思った。そんなもの持っている人間は、わざわざ14時間も普通列車は乗らないだろうけど。あとは頭を使いたく無くなった時の「音」。愛聴しているバナナマンのラジオ「バナナムーンGOLD」の最近聞いてなかった分の録音何本か。Youtubeから古今亭志ん朝の落語もダウンロードして入れて行った。これらは助けになった。
 そして、もう一つ、退屈まぎらせに持って行ったのが、大学ノート一冊だった。頭に浮かんだことや、その場で感じた何かをどんどん書きなぐっていこう、ということにした。50円もしない安いものだし落書き帳のような使い方でいいだろうと思った。トラベラーズノートとか、そんな高いものは要らない。これまでも、コクヨの「野帳」(フィールドワークする人に愛用者の多い)を持って行ったりしていたが、もっともっと気楽に落書き出来る方がいい気がした。バカな話だが「城崎にて」を書いてやろう、みたいな気持ちにもなっていた。いい大人が、何時間も無駄にするのだ。埋め合わせに何か生み出すべきじゃないか。「身辺雑記」でいいから。そんなこと考えなくとも、いつもどこかに出かけると、このブログくらいは気力のある時にちょっと書こうと思っているのだが、これまでの例では、書きたい気が持続している間は、体力的に疲れていて書く気にならないし、しばらく経って回復したら、その頃にはもう書いても仕方がないと思うようになる。そのうちに、と思っている間に、記憶自体消えていってしまい、デジカメ写真をきっかけにちょっとした思い出が残るくらいになるのは目に見えている。ならば、いっそのこと書きながら行く、というのはどうか、と考えたのだ。
 そして、実際に、往復28時間の列車の道中、いろいろノートにメモというか、なんというかを書きなぐっていたのだった。これは退屈まぎらせに実際になった。揺れる電車で、しかも、テーブルなんて気の利いたもののない普通列車で、しかもしかも、表紙の柔らかい安いノートに文字を書いていると、結構手首に負担が来る、ということも今回知った。
 今、帰ってきてしばらく経った。帰ってきたら、テキストファイルに起こして、ブログに書こうと思って書いていた自分の手書き文字を見ながら、当然ながら虚しい気分に襲われている。他にやるべきことも、一杯ある。当然。そうではあるのだけど、ここはひとつ、虚しさをおして、これまでの記事もそもそも虚しいんだから、メモを生かして旅行記というか何というか何でもいいけど、行きながら書いたものをもとに書く文というのを、書いていってみよう、と思っているところだ。

2017年8月17日木曜日

大きくなれよ、的な話

 某先生、飲み会でお会いするたびに、お国ことばで「おめぇ、何歳になった?」と聞かれる。何回同じこと聞きはるんですか、もう……ですよ、……年生まれですよ、わたし、と答えると、「もう……か!」ということになる。笑って終わりだし、別にそれで何かお知りになりたいってことは無いみたいだが、決まったやりとりだ。
 年齢きかれるのは、まぁ辛い。辛くなったのだろう。若い時は、別にそんなことはなかった。10年くらい前でも、結構、辛い気がしていたが、最近のつらさに比べたら、屁のようなものだ。当然だ。以前の「もう……か!」と言われるのは、知らない間に大人になったんだな、というだけの意味だが、だんだん別の意味になるからだ。それは、こちら側の状況とも当然関係している。もうこんな年齢。そして、そんな齢にはふさわしくない自分の状況。それが恥ずかしいのだが、そろそろ、脱却する時だと考えてはいる。
 ほんとは、何も、恥ずかしがることはないのだ。貧乏人から金はとれないと、と笑っておごってくれるなら、喜んで奢ってもらえばいいんだけだ。情けないとか思わなくていい。いや、思ってもいいし、まぁ、普通は思うだろうが、私はもう、そろそろそこから自由になるべきなのだ。
 年齢にふさわしい生活レベルとかの発想が社会を悪くしているのかもしれぬ。反省点はいろいろあるが、こうなった以上は、もうこうでしかないのだ。そうやって、もうこうなってしまった人を、いつまでも引っ張り出して、こうならないようにすべきだった、あそこでああしてればよかったと繰り返し繰り返し言っても、もう仕方がないのだ。これからの人には何か意味があるかもしれないが、もうこうなったら、もういいのだ。もちろん、それは他者に対してのことである。そのためにも、先ずは、自分へから始めよ、だ。
 という、自己防衛というか、自己正当化をすべきだな、ということを考えているのだった。

 何歳になった?が辛いのは、自分が、かつてそういうことに無神経だったこと、もっというと、とても年齢差別的な人間だったことを反省させられるからでもある。例えば、こんな歳から勉強はじめて何になるのか、とか、口には出さなくても、上の世代なのに新たに学友になったというような人に対して思ったりしていたに違いないのだ。馬鹿なおごりの感覚を持っていて、そんな感覚からはいた自分の過去の言葉が、今自分に突き刺さってくるのだ。当然の報いだ。
 年齢には年齢にふさわしい状況がある。その状況は、勝手に転がり込んでくるものだ、と思っていたようなところもある。きっと。いろんなことに自分は気づいていなかった。その意味では、典型的に若かったのだと思う。
 今の自分は、若い人にアレしたり、ふさわしいとされるような場に出ていったり、ふさわしいとされるカッコウをしたりは全然できないが、そういう意味で、部分的には成長しているところもある、と思いたい。だからまぁ、もういいのだ。恥ずかしいとか思うことは。それが他者に対しても開かれることになるはずだ、とか何とか。
 あ、そんな質問をする先生は間違っている、とかそういう話ではない。三笠の山が見える街で、気分よく奢ってもらい、楽しい夜だった。数少ない(というか自分に残されたただ一人の)、自分が顔を見せて喜んでくれる目上の人だ。競輪用語で言うと、別線なのに関わらず。とにかく、なんでもない質問にいちいち反応しないでいい人間になりたいと思うだけである。

2017年8月6日日曜日

花火大会の思い出関連

淀川花火大会が始まったころは、近所で小さいイベントが出来たよ、という感じだった。確認したら分かることだが、ぼんやりとした記憶だけで書くと、自分が大学に行きはじめた頃からだったような。中学からのつき合いが大学時代まで続いていた唯一の友だちと一緒に見に行ったのは覚えている。塚本駅から歩いてすぐのあたりの土手の草むらに二人で寝転んで見たのだ。今は、そのあたり一帯が有料エリアとして括られて、そんな風に勝手にぼんやり見るなんてできなくなっている。その時も、花火を見ながら、昔見た花火のことを考えていたように思う。ずっとそうだ。自分は花火に集中できたためしがない。過去に見た花火のこと、というより、花火を見た状況のことが頭に浮かぶのだ。その頃、どんな花火の記憶があったのか。PLも一度見に行ったことがあるが、ずっと後だ。

淀川花火の初期、中学時代からの友だちと土手に並んで見た時に思い出していた、さらに過去の花火は何だったか。ほとんど記憶がない。母方の故郷が福井で、祖母が生きていた頃は、夏休みに福井に行くのが定番だった。中学の頃まで。田舎の家に行くと、お盆の頃に、隣町で花火大会をやっていて、遠くにぼんやり上がる様子が何とも綺麗だったな、という記憶はある。ほじくれば、他にもありそうだが、大したものではないだろう。大学院卒業してから実家を出た。南方(ナンポウではなく大阪のミナミガタ)近くのボロアパートに長い間住んだ。淀川花火は、アパートの近くから見ることが多くなった。毎日通っているライフというスーパーがあって、その日は書き入れ時だから、特別態勢でビールや、唐揚げやらを販売していた。レジ打ちの職員さんたちも、浴衣を着たりして雰囲気を出していた。何となく気になっていた、シュッとしたレジのお姉さん、ちょっと暗い陰のある人(とこっちが勝手に妄想していただけだが)だったが、営業用の浴衣姿がカッコよく、本人も楽しんでいるように見えたな。なんてくだらないことを今急に思い出した。

その後、より花火大会会場に近い所に引越していき、数年前からは、町内レベルの場所になった。家から快適に見えるし、誰か人を呼んだらいいかもと試みたこともあったが、去年、今年は相方と二人きりで終わった。気つかわんでいいから楽でいいな、ということになった。越してきたばかりの時には、まだ猫がいて、突然始まった爆音の連続に驚き押入れの隅に隠れて出てこなかった。怖かっただろう。あの猫も、その後、あの世に旅立ってしまった。今年も打ち上げが始まり、鳩の群れが大慌てて飛び立って行く姿を見て、動物にしたらそりゃ怖いわな、と猫のことも思い出したのだった。

田舎で見た花火は、ドーン、ドーン、ポーン、というようなのんびりしたリズムのものだったが、最近のやつはどこでもそうみたいだが、コンピュータ仕掛けで、ドドドドダーン、と戦争のような感じではある。CGで夜空に映写する技術とかが出来たら、それでもいいんじゃないか、と思うくらい。花火のインフレだが一度こうなるともう引き返せないのだろう。例年のように、きれいではあった。そして、例年のように、前のことを思い出した。一年とか、何年とか、そんな区切りは考えない方がいいのだ。時間というものを、空間的に把握できるように見せられていることが錯覚を生むのだ。とは言いながら、ああ、来年はどんな思いでこれを、ということがチラッと頭に浮かんでしまう。だいたい、予想通りにならないから、考えもしなかったような嫌なことが起こるんじゃないかとか、それこそ考えるだけ無駄な不安の先取りをしてしまうのであった。

花火を見ている間中、花火に集中できない自分について、それをどうやってブログに書こうか、ということを考えていた。まぁ、何ですな、晴れて良かったですな。

2017年8月1日火曜日

伊勢行

どこか行きたい。どこでもいいから電車乗って遠くまで行きたい。何年も行っていない海にも行きたい。とつぶやいていたら、足代出すから海行かないかとお誘いをいただき、喜んで行く。つぶやけば、誰かしら願いをかなえてくれる(こともある)、カリスマニートのphaさん並だなと言いたい所だけど、私の場合は当然知人からの連絡だった。連絡をくれたのは、私の高校の同級生の分子生物学者の友だちのまぁ彼も私の直接の友だちといえるくらいには古い付き合いの生物学者の弟のT氏だった。今の時期しか採れないミサキギボシムシという変な虫の卵が必要だが、各地の海洋研究所に頼んでも忙しいと断られたとのこと。夏休みは、高校生理科教室などのイベントがあって、ああいう施設は多忙なのだそう。採集は危険も伴うのでペアで行くのが決まりだが、そういう仕事もあり皆忙しい、そこで暇そうな文系学者の私に、溺れないか見張っている簡単なお仕事ですとお鉢が回ってきた。何かしら大学に関係している方が、事務的にも出張費とかが出しやすいそう。自分も特任だったとき旅費の手続とかしたが、本当にそうで、フリーの人にまで、大学での役職をたずねる書類書かしたりする風習にうんざりした。それはそれとして、採点の山はあり、いろいろやるべきことはありながらも、今週から時間的には自由だし久々に海に行きたいな、と出かけたのだった。目的地は伊勢市あたり。足代が出るから安心して近鉄特急に乗って出かける。おそらく、初特急。特急なら2時間かからないのだな。次の日の朝一から作業開始ということで、行った日はホテルに泊まるだけ。外泊の機会が少ないため、ビジネスホテルは中々慣れない。寝たような寝なかったような中途半端な睡眠だったが、旅先のテンションがあるからまぁ元気に朝のロビーでT氏と会う。行動の概要を聞く。ついていくだけだが、一応、なぜその虫なのか、その研究は何のためにやるものなのか、などを聞く。大きく言えば、進化の謎を解く研究の一部である、ということはわかった。そのゴカイとミミズの一種にしか見えない気持ち悪い生き物が、大きな見方では、人間などに近いため、探究の価値があるということのよう。レンタカーで何か所か海水浴場の近くをまわる。自分は、助手席に座り、遠くに来るって楽しいなぁと思いながら、久々に見る地方都市の風景を眺めているだけだった。海底に穴を掘って生きている生き物なので、シュノーケリングしながら、砂底を見続けるという探索作業だった。ちょっと海に入ったりしながら、ぼんやり彼の作業を見ていた。潮が悪かったり、遠くの台風のため波が高めで視界が悪いのもあって、探索は難航。何か所も回って見るも、結局、見つけられなかった。以前から、友だちの弟としての知り合いだから、自分より若者というイメージで見ているT氏も40代半ばのオッサンである。長時間の探索にヘトヘトになっていた。自分も見よう見まねで、水中メガネをのぞいたが、クラゲくらいしか発見できなかった。

虫を探しに海へ挑む生物学者のT氏「密漁と間違われることが多いから本当は漁協とかに挨拶しておく方がいいんだけど」とのこと。そうでしょうね。


「運動してないおっさんが一番危険なんです」というT氏のアドバイスに従い、日焼け止めを塗り、Tシャツも脱がずにいたため、確かにダメージは少なかった。10年近く前に、この近くの海に来たのが、たぶん海水浴の最後だったはず。待望の海に入り、ひゃー、海だなぁ、と嬉しくなったが、ちょっと入ったらもう満足した。自分は、海の男ではないんだなぁと改めて確認する。今回は、目的があったから全然遊んではいないが、ただの海水浴として海に来ても、もうあんまり楽しくないのかもしれない。こういうものは、子供のための遊びである。ということは親のためのものでもあるだろう。子でも親でもない、自分のような、ただのおっさんにとって、「楽しかった場所」は頭の中にあればそれで十分で、今の喜びは今の自分にふさわしいものを自分で作り出さないといけないのである、という当たり前のことを確認する。それでも、どこかに行く、ということ自体、今でも十分楽しいが。海を見る、というのも、もちろん。夕方、軽く一杯打ち上げ。坊主で終わってしまった探索行に無念の思いを噛みしめつつ、この虫の卵が手に入らないなら、この夏はどんな実験をすべきかについてもう考え始めている生物学者の様子を見ながら、謎ばかりの大自然を相手にする科学者っていうのは、人類の先端にある仕事だなぁと改めて感心する。進化研究にまつわる「社会」の話など、面白い話を幾つか聞いたが、また今度。全世界で連携、競争しながら、大きな謎の解明に向かう人たちの一人として、虫を探すT氏。それをぼんやり観察するだけの自分。他にも、いろいろぼんやりと観察はした。伊勢志摩サミット後の、神道の気持ち悪い政治利用が以前より強めに街にあふれているように感じられる、この街の様子。妙に目立った公共工事。相変わらず、ぼったくる海水浴場の駐車場。地方都市の駅につどう人々の姿。などなど。折角観察したから、報告しておきたいが、これもまぁ、また今度にしておきます。


木戸修のようなパワフルな兄さんが、ガシガシに日に焼いていた。
色んな目的で人は海に集う。
ホテルには、聖書ではなく現代語訳「古事記」があった。伊勢志摩サミットで生まれたプロジェクト、でんでん、と説明があった。くだらないことにお金使うな。観光案内書にあった、めちゃくちゃ立派なフリーペーパー「JAPANISE」もその類か。阿川佐和子が、伊勢参宮をすすめていた。どこにでも登場するな、阿川佐和子って。宮崎美子と同じく、ザ・無難なお嬢さんという生き方。信仰上(?)の理由から、伊勢神宮は参っておりません。1000円やるから拝め、と言われたら、拝む位の信仰ですが、金払ってまで拝む気にはならない。