2017年8月17日木曜日

大きくなれよ、的な話

 某先生、飲み会でお会いするたびに、お国ことばで「おめぇ、何歳になった?」と聞かれる。何回同じこと聞きはるんですか、もう……ですよ、……年生まれですよ、わたし、と答えると、「もう……か!」ということになる。笑って終わりだし、別にそれで何かお知りになりたいってことは無いみたいだが、決まったやりとりだ。
 年齢きかれるのは、まぁ辛い。辛くなったのだろう。若い時は、別にそんなことはなかった。10年くらい前でも、結構、辛い気がしていたが、最近のつらさに比べたら、屁のようなものだ。当然だ。以前の「もう……か!」と言われるのは、知らない間に大人になったんだな、というだけの意味だが、だんだん別の意味になるからだ。それは、こちら側の状況とも当然関係している。もうこんな年齢。そして、そんな齢にはふさわしくない自分の状況。それが恥ずかしいのだが、そろそろ、脱却する時だと考えてはいる。
 ほんとは、何も、恥ずかしがることはないのだ。貧乏人から金はとれないと、と笑っておごってくれるなら、喜んで奢ってもらえばいいんだけだ。情けないとか思わなくていい。いや、思ってもいいし、まぁ、普通は思うだろうが、私はもう、そろそろそこから自由になるべきなのだ。
 年齢にふさわしい生活レベルとかの発想が社会を悪くしているのかもしれぬ。反省点はいろいろあるが、こうなった以上は、もうこうでしかないのだ。そうやって、もうこうなってしまった人を、いつまでも引っ張り出して、こうならないようにすべきだった、あそこでああしてればよかったと繰り返し繰り返し言っても、もう仕方がないのだ。これからの人には何か意味があるかもしれないが、もうこうなったら、もういいのだ。もちろん、それは他者に対してのことである。そのためにも、先ずは、自分へから始めよ、だ。
 という、自己防衛というか、自己正当化をすべきだな、ということを考えているのだった。

 何歳になった?が辛いのは、自分が、かつてそういうことに無神経だったこと、もっというと、とても年齢差別的な人間だったことを反省させられるからでもある。例えば、こんな歳から勉強はじめて何になるのか、とか、口には出さなくても、上の世代なのに新たに学友になったというような人に対して思ったりしていたに違いないのだ。馬鹿なおごりの感覚を持っていて、そんな感覚からはいた自分の過去の言葉が、今自分に突き刺さってくるのだ。当然の報いだ。
 年齢には年齢にふさわしい状況がある。その状況は、勝手に転がり込んでくるものだ、と思っていたようなところもある。きっと。いろんなことに自分は気づいていなかった。その意味では、典型的に若かったのだと思う。
 今の自分は、若い人にアレしたり、ふさわしいとされるような場に出ていったり、ふさわしいとされるカッコウをしたりは全然できないが、そういう意味で、部分的には成長しているところもある、と思いたい。だからまぁ、もういいのだ。恥ずかしいとか思うことは。それが他者に対しても開かれることになるはずだ、とか何とか。
 あ、そんな質問をする先生は間違っている、とかそういう話ではない。三笠の山が見える街で、気分よく奢ってもらい、楽しい夜だった。数少ない(というか自分に残されたただ一人の)、自分が顔を見せて喜んでくれる目上の人だ。競輪用語で言うと、別線なのに関わらず。とにかく、なんでもない質問にいちいち反応しないでいい人間になりたいと思うだけである。

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