2020年12月14日月曜日

これからもずっと一緒に…。<維新と韓流>

 「維新の会」という詐欺師集団が支持を集める状況にうんざりし、大阪の街への愛着がどんどん薄れていく。感染者がどんどん増える現状を見ると、大阪市解体の住民投票が否決されていて、本当に良かったとしみじみ思う。決まっていれば、この状況下でも、維新の連中が今以上に我が物顔で大騒ぎしていたことは明らかだからだ。

 こんな思いを抱く今日この頃だが、この間、難波から梅田まで御堂筋を歩く機会があった。毎年、一回くらいは歩いてきたものだが、コロナで外出機会が減っていたこともあり、今年市内から引越したこともあり、とても久しぶりだった。銀杏の見ごろは過ぎていた。松井市長関連企業が請け負っているというイルミネーションのコードが、巻きつけられていた。イルミネーションも、たまに見ればキレイだとは思うが、銀杏の盛りの自然の美しさにはかなわない。感染拡大を防ぐため、飲食店には時短営業を求めるというなら、イルミネーションもさっさとやめたらいいのに。と、不愉快な気持ちになりながら、歩いていたら、銀杏にメッセージプレートが付けられているのを見つけた。

 

 最初に見つけたのは、これだった。



 プレートはおそらくイルミネーションに寄付をして付ける権利を得たのだろう。維新を支える人間の精神性があらわれるような、イメージだけの意味不明なメッセージだ。という感想を持ち、J-pop的だな、そういう大衆にはイルミネーションや、テレビでのパフォーマンスがやはり受けるのだろうな、吉本なんかとも通じるんだろうな、などと考えた。

 次に見つけたのは、これ。

 一体これは何だろう。バカップルが絵馬のつもりでぶら下げているのだろうか。それにしても、バカすぎないか、などと思って通りすぎた。 


 すると、こんなものを発見して驚いた。これは、自分の知識のある領域だったから、暗号の意味がすぐに分かった。

 

 「2PM」はK-popグループの名前。twiceの所属するJYPの先輩男性グループで、日本でも人気がある。

 維新を支えているのは、J-popファンだけではなかったのか。K-popファンもだったのか。そりゃ強いはずだわ。それにしても、韓国の文化が好きなのに、韓国差別を平然と行う政治家集団を応援するなんて、ちょっとなぁ、と複雑な気分になった。 

 その後も、以下のように、次々と「K」を発見した。

 





 どうやら、今人気のBTSやセブンティーンなどより、ひと世代、ふた世代前のグループが中心のよう。 

 それで、最初にあげたプレートの内容について、あらためて検索してみたら、こちらはSHINという日本人ミュージシャンに向けたメッセージらしいことが分かった。

 そして、ふたつめの「パックンチョ」は、どうやら、5人組だった東方神起から脱退したグループJYJのひとり、ユチョンへのメッセージだということが分かった。

 そもそもこのプレート企画は、このような形で募集されたものらしい。

 http://www.pref.osaka.lg.jp/toshimiryoku/illumi/my-name-tree.html

 つまり、8000円の寄付金をイルミネーションに支払って掛ける「絵馬」ということのよう。それにしても、何のためのメッセージか、と疑問に思うが、こういうのは理屈ではないのだろう。ただただ、好きな歌手に向けた溢れる思いを何とか形にしたい、という欲望なのだろう。イルミネーションを見に来た人の中に、同じ歌手のファンがいて、思いが共有できたらいいだろう、という願いもあるのか。あるいは、SNSに写真がアップされて、本人に伝わるかもしれない、というようなことも考えているのか。 

 韓国の大衆文化が大好きなら、最低限、日本と韓国でかつて何があったのか、今、両国の間に政治的な距離が出来ているのは、日本が過去の過ちを「終わったこと」として忘却していること、さらに、それどころか、過去を美化して集団的自己満足に浸る連中が政治で力を持ってしまっている(国民が持たせてしまっている)ことにある、ということくらい認識しておくべきだ、と思うのだが、現状、それがとてつもない「高望み」であることは、ネットのファンコミュニティや、自分が韓国語教室に通ってそこに来ていた人たちの話ぶりからも理解はしていたのだが、それにしても、維新はないよ、という気になるのだった。

 

 韓国の市民団体が設置した慰安婦像(平和の少女像)を認めたから、という理由だけで60年も続いたサンフランシスコ市との姉妹都市関係を解消した維新の吉村市長(当時)が、ホロコースト否定論者で嫌韓発言を繰り返す高須クリニックの院長との仲をツイッターでアピールするなど、確信犯的歴史修正主義者であることは間違いない。それなのに、経済発展を目指して実施すると計画されていることは、海外からの観光客誘致頼みのものばかり。海外からの観光客の中心が、中国人、韓国人であることは明らかなのに。何という矛盾。(コロナ後にまた戻ってきてくれることは現状期待できないと私は考えているけど…)とにかく、インチキで危険な政治家であることは間違いない。特に、日韓関係を大事に考える人にとっては、害悪以外の何物でもないはずなのだが…。

 

 おそらく、韓国の文化が好きで、維新も素直に応援してしまう人たちも、一般的な維新の支持者(組織的な連中ではなく)も、「ややこしいこと」は考えないようにしているのだろう。「日韓関係、ややこしいな」「韓国がいろいろ言っているらしいな」「まぁ、自分らにはあんまり関係ないな」くらいの認識か。

 初めから、差別意識で凝り固まっている奴らや、時代遅れの国粋主義者らは、この際、どうしようもない、と思う。せめて、そうでない人たちに、もう少しだけでも、政治家を選ぶ際に絶対に譲ってはいけない点について、共通認識をもってもらえるようになれば、社会はだいぶ良くなるのではないか、と思うのだけど、簡単なことではないわな、とも思うのだった。

2020年9月11日金曜日

『椿の花咲く頃』私論 ~韓ドラを見て頭がおかしくなったオッサンの話

  韓国ドラマ『椿の花咲く頃』を見終わった。自分でも信じられないくらいに夢中になってしまった。頭がおかしくなったのではないか、と疑うほどだった。見終わって丸2日以上経過しているが、感情の高ぶりは続いている。いくつかのシーンを思い出すと、今でも泣きそうになる。このままでは、正常な生活に戻れない。この異常な精神状態から脱出するには、文字にするしかない。頭の中に湧き上がってくる感情を言葉にして外部化し、何とか冷静さを取り戻すしかない。

 というわけで、感情の赴くままに、感想、思い出、言い訳、などなどを書き散らしてみることにした。

 私が韓流にはまったのは、2010年頃からだ。KARAや少女時代がブームになり、自分も彼女たち韓国のアイドルに魅了されてしまった。それまでにも韓国人留学生の親しい友達はいたし、同居人は先に韓国語の勉強をしていたりもいたのだけど、自分が韓国の大衆文化に関心を持つことは一切なかった。韓国への関心といえば、日本の近代史とか、在日コリアンへの差別問題とか、いわゆる真面目な問題へのそれだけだったのだ。90年代に、関川夏央の一連の韓国ものなどは読んだりしたが、韓国は、真面目に向き合わなければいけない、近くて遠い国、というイメージのままだった。コツコツと勉強しなければ成果のあがらない語学は、大の苦手だった。勉強するとしたら、まずは英語だろう、英語だって碌に使えないのに、他の言語なんかできるはずないな、というような認識だった。もっと言えば、外国自体にあまり関心のない、内向きな人間だったのだ。そんな自分が、韓流にはまり、韓国語を勉強しはじめた。自分にとっては、革命的な変化だった。

 関心の中心は、K-popだったが、韓国語の勉強にもなるかとドラマも何本かは見た。テレビで放送されていたものや、定番の『私の名前はキムサムソン』などをレンタル屋で借りて見たりした。日本のドラマと違って、各回が丸々60分以上あり、それが15回、30回と続いたりするから、見始めるとかなりの時間がとられる。面白いといえば面白いのだが、いろいろ見ているうちに、出生の秘密とか、偶然の立ち聞きとか、契約結婚とか、病気からの奇跡の回復とか、財閥の御曹司とチキン屋を営む貧乏なお父さんを助ける娘とか、あとは、都合のいい記憶喪失とか、「そんなわけあらへんやろ」というお約束が何度も出てきたりして、「時間の無駄」をつよく感じるようになり、いつしか観なくなってしまった。韓国語学習も、入門・初級の頃は、新しい世界が広がったような感動があり、ドラマでちょっとしたセリフが聞き取れたりするだけで、なんとも楽しかったのだが、中級以上に進んでくると、徐々に分からないところの方が気になりだしてきた。「いつか字幕無しで見られる日が来たら見よう」なんて言い訳したりして。当然、じっと待っていても「いつか」などやってこない。「いつか」を手繰り寄せるためにこそ、ドラマを見続けるべきだったのだが、根気がなかったのだ。情けない話だ。もともと、映画・ドラマなどのフィクションにはあまり関心がなかったということもあったりして、韓国ドラマからは縁遠くなっていた。

 そんな中、このコロナ禍で『愛の不時着』『梨泰院クラス』が日本でもめちゃくちゃ見られている、というニュースを耳にするようになった。右派で知られるような有名人が、それらの作品の話をしたり、まるで見ている方が普通であるかのような感じになっているようだった。日韓関係は最悪だ、ということが喧伝されている中で、どうなっているのだろう、と気になり始めた。動画サービスなどを利用したことはなかったのだが、半月ほど前、ネットフリックスに加入した。同居人も見たい作品があるようだったし、思っていたよりも全然安かったし。自分は専門として韓国文化を研究しているわけではないが、せっかくこれだけはまっているんだから、何か書いたりできるように努力した方がいいのではないか、という前向きな気持ちもちょっと生まれてきていたので、それも後押しとなった。よし、話題の韓国ドラマを見てみよう、と。

 しかし、加入してすぐ『不時着』『梨泰院』のどちらかを見るのは、何となく抵抗があった。これは、一種の中二病だ。流行りものに簡単に飛びつきたくない(結局、飛びついているのだが…)、せめてワンクッション置きたいという気持ち。じゃぁ何から見るか。最初の目的から離れて、全く関係ないインド映画をちょっと見てみたりもした後で、選んだのが、去年韓国KBSで放送された『椿の花咲く頃(동백꽃 필 무렵)』だったのだ。ネットフリックスの「日本で今見られているベスト10」に入っていた。それにしても、韓国ドラマはすごいですな。ベスト10の半分以上が韓国ドラマで、あとは日本のアニメ。そういえば、私は、アニメも大人になってからは全く見なくなってしまっている。高校生までの将来の夢はマンガ家だったりしたのだが、どこかの時点で、マンガもあまり読まなくなり、アニメは絵柄が全く受け付けなくなってしまったのだった。なんて話はどうでもいい。『椿の花咲く頃』の話だ。

 この作品が話題作だということは知ってはいた。去年、韓国で放映中、twiceのメンバーがファン向けのvliveという配信サービスで「今見ているドラマ」として話していたからだ。ドラマのセリフの中に、twiceメンバーの名前が出てきた、ということがニュースにもなっていた。その時に、そのシーンだけ動画を探して確認したりもした。主演女優は、コン・ヒョジン。彼女が主演の『プロデューサー』は視聴済みだった。テレビ局を舞台にしたドラマで、韓国人の友達に「まぁまぁ面白かった」と紹介してもらって見たのだ。芸能界好きのミーハーな私には向いているだろうと。詳しい内容は忘れたが、普通に楽しかった。コン・ヒョジン演じる主人公も大変魅力的だったので、後で、どんな女優か調べてみたが、作品のイメージと全く違って、ちょっと驚いたことを覚えている。左の肩にバッチリタトゥーを入れていたり。別に彫り物くらい好きに入れたらいいとは思うけど、俳優としていろんな役をやるだろうに、邪魔になると考えないのかな、理解できんな、という違和感はあった。でもまぁ、作品内では好印象だったし、今度のも悪くないんじゃないか、ということで見始めたのだ。 

 一応、簡単にストーリーと設定を説明しておく。コン・ヒョジン演じる主人公のトンベク(椿)さんは、未婚の母だ。小学生の男の子がいる。オンサンというカニで有名な日本海沿岸の田舎街に7年前にやってきて、カメリアという名前の居酒屋をやっている。30代半ばの美人。街の男は皆トンベクが好きだが、未婚の母であり、水商売的な仕事をしている女という偏見から、悪い噂を流す連中も沢山いる。ここに、正義感の固まりで、まっすぐな性格の男主人公ヨンシクが登場。オンサン出身で、子供の頃から自発的に悪い奴を捕まえたりしているうちに、公務員試験を受けずに警察官に抜擢されたという、さわやかで無鉄砲なお兄さんだ。ソウル勤務だったが問題をおこし左遷され、故郷オンサンの巡査となった。そこで、トンベクに出会い、彼女の美しさ、強さに惹かれ、猛アタックを開始する。子どもがいる、その父親は有名な野球選手で家庭もあるがトンベクとの思い出が忘れられず復縁を迫ってくる、トンベクにはこの野球選手と大恋愛の末に破局した過去が大きな傷となりもう恋愛など懲り懲りという意識がある、ヨンシクの母親は街の商店会のドン的存在で豪快な心優しい女性だが子持ちのトンベクと我が息子が結婚することにはどうしても許容できない気持ちがある、などなど、いろいろ障害がありつつも、ヨンシクのストレートな愛情にトンベクも次第に心惹かれていき、やがて結ばれる… というのが、大きな筋のひとつ。いろんな面白キャラが登場して、ギャグっぽいシーンも多い、いわゆるラブコメなのだが、ここに連続殺人事件という重たい設定が加わっている。どうやらトンベクも狙われているらしい。犯人は誰なのか、犯人とトンベクにはどんな因縁があるのか、ストーリー上はこのサスペンスが本線になっている。さらに、もう一つの筋として、親子関係物語もある。元気で時にけなげな8歳の息子ピルグとトンベク、ヨンシク、父親他との関係は、子役の演技力も加わって見どころの一つになってる。また、トンベクは7歳で母親に捨てられ、施設で育ったという設定になっていて、途中でこの母親が戻ってくるのだが、小さい時に受けた「捨てられた」というトラウマをどうやって回復していくのか、という筋もまた重要なテーマなのである。こうやって説明していくと、おかずが多すぎという気もするが、うまくまとめられていて、見ていてそれほどは違和感はない。

 私は、見始めて数回くらいで、この世界に引き込まれてしまった。たった20回で終わってしまうのか、終わったら絶対に喪失感があるだろうな、できるだけゆっくり楽しみたいな、一気に見るのはやめておこう、と思うほどだった。何がそれほど良かったのか。

 そのことについて、これから縷々述べていこうとしているのだが、まずは、主人公トンベクに惹かれた、ということはある。街のオッサンがことごとく好きになるんだから、見ているオッサンも好きになるようになっているに決まっているのだ。そして、ラブコメ要素の心地よさ。「いわゆるラブコメなのだが」なんてさっき書いたが、私は、ラブコメが大好きなのだ。というか、大好きだったのだ、ということを今回、強烈に思い出した。最近は、書いてきたように、ドラマも映画もマンガも見ておらず、面白そうなラブコメをわざわざ探して楽しみたい、なんて欲望は全くない。ただ、一旦その世界に入ってしまうと、抜けられないくらい心奪われる、ということがかつての自分には確かにあったのだ。見始めてすぐに、これは、まさに自分が好きな世界だ、見たかった「夢」だ、と感じた。

 若い頃、夢中で読んだ高橋留美子のマンガ『めぞん一刻』の記憶が蘇ってきた。『椿』と『めぞん』には、いろいろ共通点がある。『めぞん』は、ボロアパート一刻館のさえない下宿人大学生の五代くんが、若くて美人だが最愛の夫を亡くした未亡人である管理人・響子さんに恋をし、その思いが届くまでの過程を、やきもきさせながら楽しませる作品だ。面白キャラクターが数多く登場する、明るいコメディーだが、うっすら死の匂いもただよっている。響子さんは、過去を抱えて生きている。五代くんは、過去を抱えた彼女をそのまま受け入れようとし、響子さんにとっては、五代くんの思いを受け入れることが、過去との和解につながる、というストーリーになっている。この中心の構図など『椿』もそっくりだ。そして、一刻館の変な住民達にあたるのが、オンサンの町の変わった連中、ということになる。響子さんも、トンベクも、過去が影にはなっているけど、性格は結構明るくて、その上、強い。そこに、男がひかれているのも似ている。

 『めぞん』が連載されていた時、私は中高生だった。単行本の新刊が出るたびに、むさぼるように読んだ。次の巻が出るまで、何度も何度も繰り返し読んだ。マンガ家になりたかったくらいだから、当時は多くのマンガをそうやって読んだが『めぞん』は再読した回数が最も多い作品だった気がする。他にもいろいろラブコメの名作はあり、それなりに楽しみはしたが、徹底的にモテない思春期を過ごしていた私にとって、五代くんのさえなさ(実はよく読むと結構モテるのだけど)は自分を投影しやすかったのだろう。自分には経験できない「片思いが成就する過程」を、激しい憧れの気持ちでなぞり代理恋愛をして楽しんだ。響子さんも、五代くんのことが好きになり始めている、ということが分かってくるその雰囲気は、本当に甘美なものだった。社会学を学ぶようになって、ロマンティックラブイデオロギーの注入装置だったんだな、なんて振り返って思うけれども、時代によって恋愛の描き方は変わるし、そういう意味で『めぞん』は時代に合っていたのだろうし、なによりもちろん、高橋留美子さんが格別に上手だったのだろう。

 今回、『椿』を見ていて、あの頃感じていたいろんな感情が、頭の先から、つま先までプルプルと蘇ってくるような感覚になった。はたしてトンベクは、ヨンシクの愛情を受け入れるのだろうか。そりゃドラマなんだから、うまくいくに決まっているのだけど、連続殺人事件とか、自分を捨てた母親とか、その他、先に触れてないものとして、ヒャンミ(薔薇)さんという最初はただのバカな女の子かと思わせていたけど、ものすごい不運な目にあい続けてきたサブキャラの運命とか、めちゃくちゃ重い要素もかぶさって、適度にハラハラさせ続けてくれたのだ。男主人公のヨンシクは『めぞん』の五代くんに比べたら、圧倒的に強く、いわゆる「男らしい」ので、自分のようなオタク的人間に受けるキャラではないのだが、トンベクの元恋人・子どもの父親の野球選手が超高収入のライバルとして現れて、社会的地位では大きく劣る「自分たち側」の代理人として感情移入しやすくなるように仕掛けられてもいる。

 トンベクがヨンシクに徐々に惹かれて行っていることが描かれるシーンは、どれも本当に甘美であった。初めてトンベクがヨンシクに心をゆるし屋台の餃子を食べながら「私たちサム(友達以上恋人未満)になりましょう」と言うシーンや、最初のキスシーンでは、顎関節のあたりから変な液体が溢れてきて、脳内の快楽物質が湧き出てくる音が聞こえてくる、かのような快楽を味わった。嬉しさで涙があふれた。人生で、これほどの幸福感を味わったことあっただろうか、いや、ない、という感じだった。先にも書いたように、じっくり味わいたい、できるだけゆっくり見ようと思い、こういう甘美なシーンは何度も繰り返し再生しなおして見て、そのたびにうれし涙を流した。完全に、自分の頭が壊れている、何か異変が起こっている、という気がしてきた。

 ちょっと横道。何度も繰り返したのは、一応、韓国語で何を言っているかを確認しようという目的でもあった。日本語字幕で見ていたが、聴覚障害者向けの韓国語字幕がついているので、それで再度、確認してみたりした。永遠の中級である自分の韓国語力では、辞書を引いても分からない言葉がめちゃくちゃ多かった。さっきの「サム」なんかは、こういうタイトルの歌がヒットしたのを知っていたからわかったけど、俗語的表現は本当に難しいなと改めて思った。字幕なしで韓国ドラマを、なんて本当に果てしない「いつか」の夢だ。ただ、少しは勉強していたからこそ、細かい部分で楽しめたところもやはりあった。影の主人公、連続殺人犯は劇中で「カブリ」と呼ばれている。犯行現場に「ふざけるな(カブリジマ)」というメッセージを残す犯人ということでついたニックネームだ。無理に日本語にすると「フザケ」とかになるか。で、これをネットフリックスの字幕は「ジョーカー」と訳していた。あの映画のイメージだろう。最後まで見ると、何となく訳の意図は分かる(私は『ジョーカー』未見ですが)のだが、少し違和感はあった。先に書いた、twiceのメンバーの名前が出てきたシーンでは、ただ「アイドル」と省略されていた。少年野球の練習をしているトンベクの子どもが、「ボクのお母さんは、ツゥイに似てるってみんなに言ってたんだ」「ダヒョンみたいにお団子頭にしてきてよ」とトンベクにおねだりするという折角のシーンなのに、twiceファンとしては物足りなかった。あといくつか固有名詞がギャグとして登場したが、省略が多かった。推理をするシーンで「コナンになったつもりか」なんてのもあったが、訳されていなかった。

 閑話休題。このように、ゆっくりゆっくり、1話60分を90分くらいの時間をかけながら、同時に脳内の異常を感じながら、楽しんでいった。

 「甘美に歓喜」のとどめはトンベクの発した「サランヘヨ」だった。カブリの仕掛けた罠にはまったトンベクを命がけで救ったヨンシクは、ヤケドを負って病院に運ばれている。駆けつけるトンベク。ヨンシクは、ここでトンベクにプロポーズの言葉を伝える。トンベクは答える。「ヨンシクシ、サランヘヨ」。この「サランヘヨ」には、意識が飛ぶかと思うほどの感動を味わった。今これを書いていて、自分はホンマになにを書いているんだろう、と思う。それなのに、このシーンを思い出すと、今でも、まだ涙が出そうになるのだ。ドラマでも何度も出てきた韓国語「ミッチョッソ」「ミッチョンナバ」。狂ってる、狂っているみたい。ミッチダは、関西弁の「アホ」のように、いろんな時に使える便利な言葉だ。crazy for youという意味で愛の言葉としてもつかえる。私は、このドラマ世界がアホみたいに好きになり、本当のアホになってしまった。

 しかし、ここで少し考える。私は、これほど「恋愛」が好きだっただろうか、と。確かに、若い頃にラブコメは好きだったが、それ以降、恋愛映画などを好んで見たことはほとんどない。たとえば、恋の相手が「お嬢さん」だったりしたら、とても見る気はしないはずだ。ただの女性の好みの問題か…。前述のように、トンベクさんは、オッサン好みに描かれているし。

 自分の内面を振り返ってみて、かつ、『めぞん』との連想を合わせてみると、私は「過去のあるマドンナ」という設定に弱かったのだということに気づいた。「過去」を乗り越えての「サランヘヨ」に参ってしまったのではないか。

 ところで、「過去」ってなんだろう。 

 『めぞん』の響子さんは、未亡人だった。亡くした惣一郎さんという夫の名前を飼い犬にまでつけるほど、響子さんの心から「過去」は離れない。五代くんにとって、響子さんの過去は、絶対的な恋敵として登場する。もっとも、高橋留美子のギャグ世界では「未亡人」という設定は、「宇宙人」「巫女さん」「妖怪」と同様の、キャラ的味付けにすぎなかっただろう。しかし、物語が恋愛物語としてシリアスになっていった最後には、ちょっと違う意味も持ってくる。五代くんは、田舎の出身で東京のアパートに下宿しているのだが、響子さんとの結婚を決め、田舎の両親にそれを伝える、というシーンがある。そこで、響子さんの方が、自分が再婚であること、初婚の息子が「過去」のある私と結婚することを五代家は許してくれるだろうか、と心配するシーンがそっと挟まれているのだ。世間的価値観でいえばマイナスととられる「過去」。コミカルに進む、五代くんの片思い時代には、そんな部分は全く描かれていないが、リアリティを出そうとなるとどうしても挟まなければいけない一コマなのだろう。

 ずっと、響子さんが大好きだった五代くんは、響子さんの「過去」を、そういう意味で気にするそぶりはない。しかし、気にしないという形で、気にし続けているとも言える。「過去」は、恋愛感情を盛り上げるための三角関係の一角を形成しているのと同時に、「世間の目」という「愛」によって打ち倒すべきもう一つの敵の役割も果たしている。自分は過去を気にするような男ではない。自分の愛で「過去」を乗り越えて見せる、というある意味マッチョな、自己陶酔的自己超越意識。「世間の目」からは、響子さんの「過去」は「傷」だ。「世間の目」は、両親だけでなく、五代くん自身も持っているはずだ。そして、五代くんが、響子さんを好きなのは、何といっても彼女が美人だからだ。美人だけど過去がある。美人だけど「傷」がある。その傷を、僕は「気にしない」。美人が良いということと、過去が傷だということは、同じ価値観の平面にある。自分も傷を与える側に立っていながら、相手の過去を「傷」として数えあげた上で、自分で勝手に葛藤を乗り越えた気になって快楽を得ているとしたら、何と身勝手なことではないか。

 『椿』でも同じだ。トンベクは、誰もが振り返る美人であり、ヨンシクは書店で見かけて一目ぼれするところから恋が始まるのだ。前述のように、徐々に人間性にも惹かれていく姿が描かれているのだけど、何といっても、かわいいから好きなのだ。美人だけど、未婚の母である。美人だけど、親に捨てられたという過去がある。美人だけど、殺人犯に狙われるほどの不幸を抱えている。彼女の「過去」に対して、あからさまなマイナスのまなざしを向けるのは、物語の中では、彼女に性的な関心を抱かないですむ、街のうるさ型の「おばさん」たちということになっている。ヨンシクの母親は、一般論としては「未婚の母で何が悪いのか」という、新しい価値観を受け入れているのだが、いざ我が息子が「子連れ」と結婚するとなると、どうしても超えがたい一線があり、それが優しい彼女の葛藤の種となっている姿が描かれている。ヨンシクの母親にとって、トンベクの過去は「傷」だ。母親の強烈な影響を受けているヨンシクも、絶対的にその価値観は共有しているはずなのだ。

 だけど自分は好きなのだ。愛しているのだ。だから傷など気にしないのだ。 

 ヨンシクは、トンベクにストレートな肯定の言葉を数多く与える。世間の目など気にするな。あなたは素晴らしい人だ。ひとりで子育てしてきたのは大変立派だ。お店を切り盛りしていることも尊敬に値する。これからのあなたには素晴らしい未来がきっとまっている。そして、あなたは、誰よりも、美しい。だから、「過去」など気にしてはいけないよ。

 これは、ヨンシクが自分自身に言い聞かせている言葉のようにも聞こえてくる。自分が気にしないことによって、あなたは変われる。こうやって書いていると「自己啓発セミナー」そのままの世界ではある。男のマッチョな欲望の発露に、そして、相手を上から導こうとする、押し付けがましい言葉に聞こえなくもない。

 だが、しかし。このような肯定の言葉が、彼女を勇気づけていく姿は、とてもとても感動的だった。「世間の目」に傷ついた相手に、目の前に立っているだけで自分も世間の一員として、さらに傷を与えかねないような、そんな関係性なのだとしたら、それを変えるのに言葉を使う以外にどんな方法があるというのか。

 トンベクが発した「サランヘヨ」に感動した時、見ている自分は、トンベク側の気持ちにシンクロしていた。片思いが成就したこと、つまり、美人のトンベクさんに「サランヘヨ」と言ってもらえたことではなく、彼女が「サランヘヨ」と言えたことに感動したのだ。私が、トンベクだった。『めぞん』を読んでいる時は、自分は、ずっと五代くんでしかなかった、と思うのだが。 

 自分は、今、何を書いているのか。よくわからなくなってきた。しかし、これを書きながら自分はさらに感動し続けている。どうも、このインチキな精神分析の真似事みたいな作業が、自分自身の意識に、変な作用を与えているようだ。 

 それにしても、泣くほどのことか。

 韓国ドラマの定番「サランヘヨ」で、なんでこんなにおかしくならなければならないのか。考えてみたら、『めぞん』を泣きながら読んだ記憶などない。どっぷり嵌っていたが、二人の関係にドキドキしていただけで、いわば恋に恋して、甘酸っぱい思いを感じていただけで、感極まるなんてことはなかったのだ。

 これは、ひとつには、歳のせいだろう。 

 前述のように、『めぞん』を読んでいたのは、10代半ばから後半の時期だった。ラブコメに影響をうけて、片思いはしょっちゅうしていたが、告白して成就する経験は全くなかった。大学生になると、自分にはそんなことはもう起こらないだろう、とあきらめの意識が先行し、物語としての恋愛を消費するのも嫌になっていた。幻想だけを植え付けやがって、実際には、そんなことないやないか。そんな気持ちだった。

 それから、およそ30年。今、自分は同居人と暮らしている。20年くらい前に知り合って、今では文字通り同居人として、ただ一緒に暮らしているだけになっているが、そうなるあれには、それなりのあれがないこともないではなかった。たいしたあれではないけれど…。先に書いたような、男の身勝手な「俺は過去を気にしない男だ」的自己陶酔は、自分の中にも多分にあった感情だ、ということを、『椿』を見ていてやはり思い出した。

 こんなことを書くと、私がまるで「過去のある美人」と暮らしているようだ。もちろん、そんなことはないのだが、でもしかし、そんなことないこともないとも言えるのだ。現実に生きる人間で「過去」のないような、ツルっときれいに剥けたゆで卵みたいな人なんかどこにもいない。そして、また、自分のような凡夫は、自分が見つけた相手のお気に入り部分を愛でて好きになっているに決まっているのだ。この人のこういう部分は「傷」かもしれない、でも私は気にしない。なぜなら、ここがカワイイから。世間の価値観に乗っかってしか他者を見られないくせに、傷をつけることに加担しているくせに、偉そうにそこから超越したかのような顔をして、それを自分だけで納得して、相手にちゃんと向かい合っていると勘違いをする。自分に、そういうところはあったんじゃないの。ずっと、そうなんじゃないの。ドラマを見ていて、過去の自分の姿がチラチラと記憶の奥底から漏れ出てきたことが、なんともおぞましいような、それでもやっぱり甘酸っぱいような、複雑な感情の動きに結びついた、ような気がする。 

 『めぞん』を読んでいた頃、恋愛感情をベースに他者と向き合い、人間関係をつくり、コミュニケーションしていき、関係性が変わっていくという経験は、憧れの未来の姿だった。あきらめていた、とは言いながら、いつか、どこかで、そういうこともあるかもしれない、と妄想することはできた。今、『椿』を見ている自分にとって、そのような経験は、はるかに昔の「過去」のものとなっている。もう絶対的に経験できない、失われたものだ。それこそ『めぞん』を憧れながら読んでいた経験自体がそうだ。これらの自分の過去が、取り戻せない意味深い何かとして、ちらちらと心を揺さぶりつづけた、という側面はあると思う。 

 でもしかし、いくらなんでも泣くことはないだろう。普通、恋愛関係で泣くのは失恋の時だけだ。なぜ「サランヘヨ」で泣くのか。そう考えると、この『椿』を通して感情が揺れまくった経験は、ほとんど失恋のそれに近いような気もしてきた。ものすごく素敵なものを見せられたのに、自分にとって、それは終わったことで、もう取り返せない過去なのだ。涙を流して浄化されたような部分もあるが、とにもかくにも、この間、私は大変疲れた。そして、今、こうやって、訳の分からない文章を書き殴り(一応、読んでもらおうと整理したりしつつ)大変なエネルギーを浪費している。最初に書いたように、こうしないとどうしようもなかったからだ。

 大学生の時くらいから、このような「自分の内面を書き殴る」という文章はたまに書いてはきた。最初は、失恋がきっかけだった。失恋と言っても、自分がまともに付き合った相手は今の同居人だけなので、告白してふられただけだった。それでも、めちゃくちゃ傷ついた。世界の終わりみたいな気になった。勉強もバイトも手につかなかった。そうだ、ここはひとつ、ノートに思いのたけを書いてやれ。ということで、本当に幼稚で自分勝手な駄文を、とにかく長々と書き連ね、それによって、ぐちゃぐちゃした感情を外部化して整える、ということを行った。確実に効果はあった。今、まさに、これを書いているのは、失恋の痛手から立ち直りたい、という気持ちとすごく似た感情からのように思う。

 などと、大げさに言ってはいるが、世間でよく言う「何とかロス」に過ぎないか。はまったドラマが終わって、こういう感情になるなんて、取り立てて言うほどのことではないな。

 とにかく、ドラマや映画などのフィクションを楽しむことも含め、自分が経験している「今」は、未来と過去が折り重なる地点にあり、面白かったなり、感動したなりの感情は、そういう自分の過去とリンクしたもので、素晴らしい作品は、自分の過去の見え方を変えてくれたり、忘れていた部分を思い出させてくれるものだ、という当たり前を、強烈に思い知らせてくれる、そういう視聴経験だった。

 しかし、こんなにしんどいなら、もう当分、フィクションを見るのは控えたい、そんな気持ちにもなっているのだが。

 さて、では、この『椿の花咲く頃』というドラマは、名作なのか。自分にとって、強烈な経験を与えてくれたということは、書いてきた通りだが、多くの人におすすめしたい作品か、と聞かれると、正直、全く分からない。自分にとっては、こうだった、というだけだ。これは『めぞん一刻』も同じかもしれない。今、未読だという人に「面白そうだから読んでみますね」と言われても、別に読まなくてもいいと思うよ、と答えるだろう。あの時代に、あの頃の自分が読んで面白かった。ただ、それだけなのだ。 

 『椿』に戻る。実は、ここまで感動感動と書いていながら、夢のように楽しみつつ、じっくり味わって鑑賞したのは全20話中の15話くらいまでだった。最後の5話は、一晩徹夜して一気に見た。ストーリーの結末が見えてきた、というのもある。あまりにも夢中になりすぎて、体力がもたなくなり、早く結末をつけよう、と思ったということもある。しかし、若干醒めてきた、というのが一番の理由だと思う。

 この頃になると、二人の関係は出来上がり、恋愛物語としての楽しみは落ち着いてしまった。残りは、サスペンス要素となり、そうなると「早く結末が見たい」という、普通のドラマ鑑賞時の心理に近づいていった。そして、もう一つの重要な筋だった親子物語が、正直、かなり鬱陶しいものに感じてきたのだ。 

 ヨンシクの愛情はトンベクの支えとなり勇気づけていくのだが、彼女の強さの核には、何といっても「子を持つ母親である」ということがある。子どもがいる、という絶対的な幸福感、使命感が彼女の土台を形成している。かつて、我が子を捨ててしまったトンベクの母親の苦悩物語とリンクして、後半は「お母さん、お母さん、お母さん」の連続で、正直、辟易してくるほどだった。ヨンシクの母親の葛藤、その他、韓国ドラマの定番、嫁姑問題がこれでもかというほど散りばめられてもいる。親の情愛は強烈なしがらみとして、しかし、とても素晴らしく尊重すべきものとして、繰り返し描かれている。

 親子の感情は、普遍的な要素が当然ありつつ、やはりとても面倒くさいものだ。だからこそ、それが型として強調されてしまうと、道徳的なメッセージがしつこくなってしまう。

 書いてきたように『めぞん』を読んでいた頃と『椿』を見ている今との間で、恋愛感情的なものは自分も少しは経験した。しかし、子どもを持つ経験はない。持とうとも思わずに生きてきた。その経験があった人、今まさに「親」である人にとって、『椿』の親子関係物語は「サランヘヨ」同様、身に染みる、心揺さぶられるシーンの連続だったのかもしれない。もちろん、私も全く感動しなかったわけでもないが、どこかで「お話」として、距離を感じてしまう部分だった。

 前述のように、『椿』にはヒャンミという重要な登場人物がいる。トンベクが切り盛りしている居酒屋カメリアでバイトをしている女性だ。最初は、気楽で能天気な女の子としか見えないのだが、だんだん、彼女がどれほど不幸な生き方をしてきたのかが明らかになっていき、物語の影の要素を一身にまとい、気の毒すぎる結末をたどっていく。トンベクと同じように、大変不幸な子ども時代を経験しており、それが原因となって、幸せになれなくなってしまった人物として描かれている。世間によって印付けられた「不幸」の記号、「死んでしまえばいいのに」という「呪い」の言葉から逃れられなかった運命。同じく世間から「不幸」と呼ばれつづけながら、それを乗り越え、違う運命を手繰り寄せていくトンベクとの違いは、究極のところ「子ども」のあるなしだ。トンベクは、絶対的な存在である子どもを持つこと、そして、その子どもに愛情を注げることによって、湧き出してくる勇気をベースに、世間から貼られたラベルを自ら引きはがしていくのだ。ヒャンミが最後どうなるかについては、もしかしてこれからこのドラマを見る人もいるかもしれないので、これくらいにしておく。(今さらネタバレもクソもない気もしますが…。)とにかく、「子ども」一点でこの違いは、あまりにも酷じゃないのか、と見ていて思わざるを得なかった。

 いい歳こいた大人が、こんなドラマひとつに泣いたり喚いたりして、やっぱりあれですかね、子どもがいないからなんですかね、大事な経験が出来なかったから、大人になれなかったんですかね、悪かったですね、と嫌味のひとつも言いたくなってしまう。

 「ラスト」もいろいろ疑問が残った。「まとめ」に入らなければいけないのは分かるが、多くの人々が誠実に協力してくれるという「奇跡」が起こって、不治の病が治ってしまったり、最後の最後には「あれから何年後…」という連続ドラマ定番のシーンがあり、子どもが大リーガーになっていたり、そこまで安っぽくやられると、あの心揺さぶられた感動を返してちょうだい、と言いたくならないでもない。これが大衆ドラマゆえの宿命なのだろうけど。本当にあの「あれから何年後…」は、やめてほしいな。ハッピーエンドはうれしいのだけど、これから素敵な未来が待っているだろう、くらいの所で止めておいてくれたらなぁ、というのが、オッサンの希望するところであった。夢がさめてしまう。もしかしたら、観客を現実に返すため、夢からさまさせるためにあえて挟んでいる仕掛けなのかもしれないが。 

 あともう一つ、「カブリ=ジョーカー」のこと。犯人が誰だったかについても、詳細は書かないでおくが、「ジョーカー」と訳されていた通り、世間に疎外されているという意識に苛まれ、世間への復讐を企てての犯行だった、ということになろうか。もちろん、身勝手な蛮行に違いないのだけど、犯人がトンベクに憎しみを抱いていく気持ちには、共感してしまう部分がある。自分が『椿』世界の住人だったとしたら、トンベクさんの心を動かす、さわやかな巡査・ヨンシクになど絶対なれず、あきらかにカブリ側にいるはずだから。(まぁ、実際には、トンベクをチラチラ盗み見しながらカメリアで酔っぱらっているだけの、その他大勢街の人か…。)そんなカブリが、最後、正義の固まり・ヨンシクに言葉をつきつける。自分が捕まっても、自分のような憎しみを抱えた人間はいくらでもいるのだ、という趣旨の。これに対する、ヨンシクの、そして物語全体の応答は、簡単に言うと「悪い人より良い人の方が絶対数として多い」という、何とも拍子抜けするほどボンヤリしたものだ。トンベクやヒャンミが苦しめられてきたのは、世間を形成する「みんな」の白い目だったはず。それなのに、「みんな」には良い人が多く、「みんな」は奇跡を起こせるのだ、なんて適当なことを大きな声で言われたら、「そ、そうですね…」と口ごもるしかない。

 『椿の花咲く頃』を手放しで「名作」と言えない、もう一つの理由は、自分にとってこれが面白かったのは、あくまでも「韓国ドラマ」だったから、だと思うからだ。「名作」をどう定義するかは分からないが、普遍的な価値を持つものだと考えるなら、どこの国のどんな人にも通じるものでなければいけないだろう。

 私が日本のドラマをあまり見たくないのは、細かな違和感に耐えられないと思うからだ。こんな奴いないだろう。これはステレオタイプすぎるだろう。何というウソ臭いセリフだ。もっと多くの作品を見てから言え、という話ではあるが、「ここ」での現実については、自分自身で持っている強固な実感があり、それが「ここ」を舞台にした創作物をストレートに楽しむことを邪魔している。若い時の方が、いろいろ素直に楽しめたのはそのためだろう。小説などでも、私は、古典になっているものの方が、読む時の苦痛はかなり少ない。違和感は、文化の違いとしてカッコに入れることができるから。「この時代は、こうだったんだな」と。

 韓国ドラマの見やすさもまさにそうで、違和感を感じる要素は、すべて「文化の違い」として処理して、美味しい所だけ味わうことができる、ようになっているからだと思う。もし『椿』が、日本を舞台にした日本のドラマだったらどうだったろうか。たとえば、オンサンの町の「おばさん」たち。大阪を舞台にしていたら、ヒョウ柄の服を着た例の「おばちゃんたち」として描かれたことだろう。がさつで、おっかないけど、根っこはやさしい。とてもステレオタイプなイメージとして。自分が、もし韓国に住む韓国人だったら、ドラマの中のオンサンの「おばさん」たちを、どう受け止めただろうか。「例のイメージ」として、うんざりしたのではないか。

 嫁姑問題もステレオタイプなイメージそのままだった。韓国の親子関係・嫁姑関係は、日本のそれよりも濃度が濃い、ということは知識としては「知って」はいるが、あくまでも教科書的な理解にすぎない。近年、韓国の出生率は日本よりも低くなり、その問題の核には、女性が「嫁」になることを拒否している、ということもあるようにも(これも知識としてだが)聞いている。そのため、濃密だった関係も、近年はもっとフレンドリーに変わりつつあるとも。そういう部分は、このドラマでも全く描かれていないこともなかった。未婚の母の純愛物語という設定自体、現代的なものだろう。それでも、これが韓国のリアルをどこまでうまく表現できているのかは分からない。日本から見ている自分の場合は、これらのステレオタイプすべてを「韓国ドラマの例のアレだな」と簡単にカッコに入れらるけど。

 そもそも、私が撃ち抜かれたトンベクさんの「サランヘヨ」も、もしこれが日本語の「愛してる」だったら、とてもまじめに受け止められなかったはずだ。いい歳をしたオッサンが、愛のセリフに素直に感激できたのは韓国語だったからだ。そして、それは単に外国語だから、ということでもない。アイラブユーでもウォアイニーでも自分にとってのこの効果はなかった。すごく近く、重なる部分も多いけど、それでもやっぱりずれがある、そういう微妙な異国の言葉としての「サランヘヨ」だったから、心に沁みたのだと思う。 

 韓流に初めて出会ったころを思い出す。当時の自分にとって、韓国を知っていく喜びは、パラレルワールドの発見のそれに近かった。最近の若い人は、違うと思う。もっとストレートに、カッコいいもの、カワイイものとして出会っているのだろう。でも、自分の場合は、やはりこういうところがあった。こんなことを言うと、まるで、韓国が日本より少し遅れていて、それが郷愁を誘った、というような『冬ソナ』ブームの頃に語られた、ステレオタイプな認識を繰り返しているように思われるかもしれないが、それは全く違う。遅れているとか進んでいるとかではないのだ。嫁姑関係や、都市の地方の関係などドラマでの世界観だけで見ると「かつて日本にあったもの」のように見えなくもないが、前近代文化の残存っぷりを言えば、日本のそれは、現代韓国をはるかに凌駕しているだろう。前後というより、やはりズレなのだ。

 人々の見た目も、街並みも、こんなに似ている。少し勉強したら分かるが、言葉も本当に似ている。似ているが、かなり勉強しても字幕無しでドラマを楽しめるまでにはなかなかなれない、はやり完全な外国語である。こういう、近さと遠さが、日本から韓国大衆文化を楽しむ際に大きな役割を果たしていると思う。ネットフリックスはアメリカのサービスである。『パラサイト』やBTSの欧米での成功を見れば、このような日本的韓流消費自体、ローカルなものになっているのは理解できる。私がここに書いた認識は、植民地主義の残滓が反映しているのかもしれない。それについては、これから本当に考えていきたいが、とりあえず、今、私がどうしてもやりたいのは、私にとっての『椿』の衝撃の理由を考える、ということなので、今後の宿題ということにさせていただきたい。 

 話を戻す。純愛物語も、アイドルも、日本の「私たち」はすでに知っていた。知っていて、「こんなものだ」と思っていたものを、ちょっと違う角度から見直させてくれた。そして「手あかのついた日常」を再生させてくれた。韓流に出会うという経験は、回心とでもよべるような宗教的体験だった。

 日本の大人は「愛してる」なんてもう楽しめないのだ。そのこと自体を、私は、全然寂しくなど感じない。大人になるということは、そういうことだからだ。こんな言葉を恥ずかしくもなく口にしているのを見たら、それが作り物のドラマであったとしても「ウソつけ」としか思えないだろう。これは「愛」という言葉が、「ウソがない」ことを象徴する言葉であることの宿命だ。現実の人間関係には、ウソとホント、誠実と打算が混ざり合っている。瞬間的にしか、ホントまみれにはなれないのだ。数学の点のようなもの。その点を「愛している」という発話で表現しようとした瞬間、ごくごく短い時間の間にウソが混ざってしまうのは絶対に避けられない。だから、普通、「愛している」は、社会契約の言葉として使われる。愛しているから、これから暮らそう。愛しているから、お金をちょうだい。愛しているから、勘弁してくれ。でも、本当に聴きたい「愛している」は、今、私の心の中は「愛」でいっぱいなのである、ということを正直に表明した「愛している」だろう。日本語の「愛している」をそのように使うことは、もう無理なのだ。少なくとも私には。だけど、「サランヘヨ」には、それができる。

 もちろん韓国語文脈での「サランヘヨ」なんて、めちゃくちゃ手あかにまみれている。日本語の「愛している」の比ではない。アイドルはファンに向かって、簡単にサランヘヨ、サランへ、と口にしている。親への感謝もサランヘヨ、社長、PDさん、スタッフの皆さん、スタイリストのお姉さんたち「サランヘヨ」、サランヘヨの大安売りだ。しかし、韓国語が遠くて近い外国語である者にとって、サランヘヨは、未だにピュアで美しい言葉として使えるのだ、ということを今回私は『椿』視聴を通して体感したのだ。もちろん、脚本とコン・ヒョジンの演技力のおかげだろう。韓国でも視聴率が良かったのだから、韓国語ネイティブの人たちも、トンベクの「サランヘヨ」を楽しんだことだろう。だけど、自分は、彼らよりもっとピュアに「サランヘヨ」を浴びたはずだ、という確信がある。 

 というわけで、何とか、頭の中を書き出してみることができた。先にも書いたように、ドラマを見た私は、完全にミッチョンナバ(おかしくなったみたい)だ。ここで、不運なヒャンミ役をやっていた、ソン・ダムビについてちょっと紹介を。彼女は歌手として有名で、2008年に発表した曲は大ヒットをしている。タイトルは「ミッチョッソ(crazy)」。『椿』鑑賞中、あまりにヒャンミが気の毒な展開になってきたため「この人はヒャンミではないのだ、ソン・ダムビなのだ。ソン・ダムビが演じているだけなのだ」と言い聞かせなければいけないくらいだった。女優としてのソン・ダムビには「何も考えていないアホな女の子」役という定番のイメージがあった。それを踏まえての見事なキャスティングだったと思う。自分もすっかりだまされた。

 最後まで見終わった後、トンベクさんの呪縛から逃れるため、コン・ヒョジンが女優としてインタビューされている動画をちらっと見た。値段の張りそうな座敷犬を膝に抱いてカッコつけて話をしていた。とても苦手なタイプだ。ルックスも福原愛ちゃんタイプというか、丸い童顔っぽい感じで、これまた、私は、どちらかというとアジア系のスッとした感じが好きなので(知らんがな)、ぜんぜん好みではないのだが、それでもやっぱりトンベクさんが重なってドキドキしてしまう。ファンミーティングがあったら、行ってしまいそうだ。

 生まれてこの方、タバコと酒以外の薬物に手を出したことはないが、幻覚を見る系の薬をキメたら、もしかしたら、こんな感じなのかな。それくらい、『椿』を見ている間、見終わった後しばらくは、情緒不安定になっていたが、これを書いたことで何とかそれから抜け出せた気がする。通常こういうものは、自分のためだけに書いて引き出しに仕舞っておけばいいのだろうけど、どこか公共性のかけらがあるんじゃないかと思って、こういう形で公開することにしました。ということで、書き殴った後に、一応かなり手は入れましたが、異常なテンションで書いたものであることは間違いないです。

 お客様の中にお医者さんがいらっしゃいましたら、私がどんな病気にかかっていた(る)のか、教えていただけたら幸いです。

2020年9月2日水曜日

西長堀から難波、心斎橋


 ミナミ方面に行った。昨年末以来か。関東大震災時の朝鮮人虐殺の歴史をなかったことにしよう、という動きに反対するアピールがあるとツィッターで知り出かけることにする。尼崎に引越して、大阪に出てくるのに電車賃がかかるようになった。長い間、自転車圏だったので、大きなハードルになった。仕事があれば、移動の途中で立ち寄ったりするが、4月以降は遠隔になってそれもなくなった。コロナがどれほど流行しているかわからない人混みに用事もないのにわざわざ出かける必要もなく、足が遠のいていた。抗議の趣旨に賛同したのはもちろんだが、出かける目的地が欲しいという気持ちもあった。その前に、大阪市立中央図書館に寄ろうと思った。梅田から御堂筋線で難波まで向かう。それなりに乗客はいるが、あの御堂筋線だ、と思うと3割減くらいには見えた。千日前線に乗り換え、西長堀へ。久しぶりだ。去年、一回くらい来た気はするが、覚えていない。これまでノーチェックだった韓国現代文学を読もうという気になって、いくつか見繕って借りた。椅子や、検索マシーンの数を減らして、滞在時間を短くする工夫がなされていた。来館者は、かなり少ないように見えた。時間がなかったので、滞在20分くらいで引き上げる。貸出カウンターでのやり取りも、カードは手渡ししないなど、感染防止の工夫がなされていた。あれでも職員は、怖いと思う。トイレで入念に手洗いをしてから、外に出る。地下鉄代を浮かすために、難波まで歩く。久しぶりだから散歩したいという気持ちもあった。西長堀のあたりは、いつか住んでみたいと思う地域だ。街中なのに、普通に生活している人も多いように見えるし、難波まですぐだし。道頓堀を眺め、ミナミに来たな、という気になる。久しぶりに歩くと、それなりに旅行気分になれないこともない。25分くらいでにぎやかなエリアに。新歌舞伎座の前のあたり、御堂筋に自転車道が整備されていた。それ以外は、それほど変わっていなかった。ただ、人出はかなり少ない印象だった。会場に近づくと、拡声器でアピールする声が聞こえ、人だかりができているように見えたから、思ったより多く参集しているのかなと期待感が沸いたが、アピール場所の横に大きな喫煙所があり、そこに人だかりができているだけで、アピールに参加している人は20人くらいだった。前にも似たような趣旨のアピールがあって来たが、その時よりもさらに少なかった。ツィッター知り合いにリアルで初めて挨拶したり、スピーチをしていた知り合いにも挨拶して、一応、参加している顔をして立っていた。喫煙所に向かう人々は、怪訝な顔をして通りすぎるだけ。怪訝な顔をする人は、まだマシかもしれない。拡声器をつかって話をしている前を、まるで、そこに誰もいないかのようなそぶりでタバコを咥えながら通りすぎる人も何人もいた。たぶん、本当に見えないのだろう。ミナミの街は、コロナの前までは、中国人、韓国人を中心に多くの外国人観光客でにぎわっていたが、ほとんど見かけなかった。数カ月で、すっかり変わってしまった。街中に、中国語、韓国語表記が増え、それに対して排外主義者がいちゃもんをつけてきたが、現状では、ほとんど無意味で役立たないものになっている。まるで、排外主義者が勝利した後の街のようだ。今回のテーマとも関連して、寒々しい思いを抱いていたら、スピーチをしている前を携帯で電話しながら若い女性が通り過ぎた。韓国語だった。ファッション、雰囲気からいかにも今どきの韓国人女子だったが、留学生だろうか。彼女も、何の集会であるか、一ミリも興味はないような感じで通り過ぎていった。何となく、可笑しくなり、また韓国に行きたいな、いつ行けるのだろうか、と思った。久々だったので、うろうろしたかったから、うろうろしてみた。精華小学校の跡地には、家電量販店のエディオンがオープンしていて、派手に客を誘っていた。インバウンド目当てのもので、中国語で大きく免税と掲げてある。当然ながら、閑散としていた。何度か行った立ち飲み屋の赤垣屋を覗くと、それなりに密な感じで、あえてここで危険なことをしなくてもいいかと、一杯飲むのはやめておいた。中央大通りを渡る。今週のベストテンか何かを紹介する液晶パネルでは、GLAYの新曲が流れていた。息が長いな、と思いつつ、戎橋まで行く。寂しい、と言うほど空いている訳ではないが、去年の暮れに来た時に比べたら、3分の1以下という感じか。キャッチの兄ちゃんがむなしく立っていた。戎橋から、グリコの看板を眺める。大勢の観光客が嬉しそうな顔で写真を撮りまくっていたのがうそのようだ。ぼんやり見ていると、橋の下の道頓堀から軽薄な音楽が聞こえてきた。船を借り切って、パーティをしている連中が、マイクを使って騒いでいた。「大阪、ナントカ~フォ~!」と訳の分からないことを叫びながら、私たちはバカですよと全力でアピールしていた。バカだけど、金は持っているのだろう。心斎橋の駅まで北上する。8時半とは思えない寂しさ。心斎橋筋でこれ、ということは、一歩、奥に入ったらもっとさびれているのだろう。コロナ対策、行政は何もしていないのに、感染者数が減る傾向にある(ように見える)のはなぜだろう、数字は全部ウソなのではないか、といぶかしく思っていたが、もちろん感染者の実数はあんなものではないだろうが、皆がそれぞれ警戒しておとなしくしているからこその、あの数字なんだな、と理解できた。平気で飲んでいる人らも沢山いるけど、普通ならこんなものじゃない。ただ、商売やっている人は、たまったもんじゃないだろう、とも改めて思った。いつか「戻る」のだろうか。簡単に「元」に戻るとはとても思えないのだが。外国人観光客を戻すには、最低でも数年はかかるんじゃないか。心斎橋から梅田へ。梅田でもまだ一人でちょっと飲みたいという未練にひっぱられ、新梅田食堂街をのぞいた。立ち飲み屋のひとつは休業の貼り紙を出していた。いつも行列ができていて、並んでまで食うほどのものかな、と通り過ぎることの多い串カツの松葉は、この店にしてはガラ空きでちょっと引かれたが、やっぱり、無駄遣いはやめておこうとまっすぐ帰ることにした。

2020年8月30日日曜日

低い所に

 ショッピングセンターに市の広報コーナーがあり、ハザードマップが貼ってあった。洪水になったら、どれくらい浸水するかを表したもの。今住んでいるあたりが、真っ赤っかに塗られていた。2メートル以上浸水する可能性があるらしい。最初、うちが地図上のどのあたりか見つけられなかった同居人に、このあたりだと指さして示した。彼女は「ああ、ここもやっぱりか」とちょっと暗い顔をした。半年前に越してくる前に住んでいたところは、淀川のすぐそばで、海抜0メートル地帯だった。およそ百年前に完成した、淀川の大規模改良工事の後の流れと、そのために途切れた旧川筋の間に挟まれた場所で、戦後しばらくして治水工事が進むまでは、大雨があればすぐに水につかるような場所だったと思う。「津波が来たら大丈夫やろうか」と同居人はたびたび心配を口にした。そのたびに「団地の5階なんやから、どんなすごいのが来ても浸水することはないやろ」と適当に気休めを言った。向こうも本気で気にしていたわけではないだろう。

ただ、何となく、水がつきやすい土地にいるのだ、という意識は私の頭にもあった。そして、それは生まれついたもののようにも思われた。物心ついたときに暮らしていた地名には「島」がついた。10歳で引っ越した先も「島」だった。「島」と言っても今ではそんな面影は全くないが、近代以前には、水に囲まれた地域だったのだろう。「あんたは、苗字も川やしね」。そう言われたら、じめじめした名前ではある。

同居人と一緒に暮らし始めて最初に住んだのは、場末の繁華街・十三駅すぐ近くのマンションだった。11階の部屋だったが、所詮は「淀川区」、水に囲まれた低地の一角だ。その後、同区内で引越しをして、前の部屋にしばらく居ついた。今回、引っ越すにあたり、かなりいろんな場所を見て回った。

「地面が高い所に住むって、どんな感じかな。気分ええやろな」と同居人は言うが、条件に合う場所(一に家賃、二に通勤その他)を探すと、どうしても「低く」なる。ここなら住めるかな、と思った物件のある地名には、「瀬」とか「浜」とか、水の影がついて回った。大阪平野の淀川水系河口近くを主に探すのだから、地理的に仕方がない。海抜のもう少し高い所はないかな、と言われても、現実的な範囲では無理な注文だった。結局、尼崎の北部、10歳まで住んでいた「島」の近くに戻ることになった。地名には「島」はないが、川に挟まれた中州だ。ただ、前の場所よりは海から遠くなり、海抜は2メートルくらいはあるから、津波の被害は大丈夫だろうと思っていたのだが、普通の洪水の時には、やはり浸水しやすい場所のよう。

「もし洪水になっても4階まで上ってくることはないよ」と前と同じことを言う私。同居人は「まぁそうやろけど」と言いながら、地図の赤く塗ってある部分をじっと見つめていた。

2020年8月2日日曜日

スマホ時代突入

 去年の11月、スマホを導入した。このまま限界まで「ガラケー保存会」のメンバーとして活動続けるのも悪くないかと思っていたが、持っていたガラケーが不調になり、契約月で解約しやすいタイミングでもあったりして切り替えることにした。携帯を持って以来(25年くらい?)、ずっとau(最初は関西セルラー)だったが格安会社に移った。ガラケーの料金はそれまで毎月2000円前後くらいだったが、あまり変わらないくらいで何とかなった。機種も中国製のoppoが安くて良さそうだったのでそれにした。「何とか割引」がいろいろ適用されて、ほとんど機種代は取られなかった。今さらだが、携帯会社の商売って本当に不透明だ。比較対象があまりないからわからないが、快適に動いているような気がする。もっと待てばもっと安かったのか、自分が契約した額が高いのか安いのかよくわからないが、それまでの電話代から大きく超えないならまぁいいかと思っている。

というわけで、未だにスマホ生活に一歩踏み出せないおともだちに向けて、半年経過して分かったスマホ生活の素晴らしさについて簡単に報告。


1.いつでもツィッターができる!

ガラケー時代は、紙のメモ帳を持ち歩いて「あ、これ後でつぶやこう」とメモしたりしていたが、スマホなら、つぶやきたくなったらいつだってつぶやける。以前は、パソコンの前でしかタイムラインが気にならなかったけど、スマホを持つとずっと気になり続け、依存症がどんどん深刻化しているのを感じ、そのため「ツイ禁しなければ」という健全な意識が湧いてくる、というプラス作用がある。


2.いつでも写真が撮れる!

ガラケーのカメラよりキレイ。カシオのコンデジ(2013年製)も持っているが、こっちの方が断然キレイだった。そのまま、グーグルフォトにバックアップできるようになっており、自分のプライベートを世界のグーグル社に管理してもらっているという安心感が得られる。そして機械は中国製。つまり米中という二大覇権国家に情報が流れているわけで、そう考えれば、日本なんていうちっぽけな国の監視など、恐れるに足らず、という大きな気持ちになれる。


3.天気予報がいつでも見られる!

177に電話しなくても最新情報が得られる。10円浮く。


4.辞書がいつでも使える!

ネットの辞書がいつでも引けるので、辞書を持ち歩く必要はない。カバンが軽くなる。


5.回転ずし屋の予約がとれる!

アプリを入れたら簡単。前回、いつ行ったのかもすぐに確認できる。


6.いつでも車券が買える。

競輪という特殊なスポーツを愛好している人には便利。

このように、いろいろ便利なのは確か。そして、ウォシュレットなどと同じで、一度使ってしまうと、もう「無し」には戻れない。起きたらすぐに確認し、トイレにも持って入り、外ではスマホで地図を見て、寝る前にも何か見ながら寝る、というような感じになっている。もともと丸い背中が、さらに丸く… 


というわけで、アカンおもちゃを手にしてしまった、という気がしないでもないでもないでもないが、この4月以降は、スマホにしておいて(これは本当に)良かったと何度か思った。コロナで、遠隔授業をせざるを得なくなったのだが、そのために必要な機材はどこの大学も用意してくれない状況だった。後になってウェブカメラだけは貸してもらえたのだが、最初は何もなく、1回目のZOOM会議どうしようかと困っていたら、スマホが代用できることが分かった。また、学校や学生からいろいろメール連絡が来る状況になり、どこでも確認できるのも助かった。(もっとも、あまり出歩く機会もなかったのだが…)

そして、なんといっても一番は、ボイスレコーダーとして使えたこと。インタビュー用にICレコーダーは持っていたのだけど、古い機種で、聞いてみたら耳に心地よくない音質だった。パソコン用のマイクも音が悪く、マイクかICレコーダーを買い替えるしかないかと思ったが、かなりな出費だ。全部自腹だし、実は今年は去年より何コマも仕事が減って、さらにさらに倹約生活をしなければいけない状況だったので、何とか金をかけずに凌ぎたかった。しかし、スマホで録ってみたら、思ったよりも悪くない音質だったので、本当に助かった。

「はい、こんにちは。ナントカの授業の何回目です。はりきっていきましょう!」夜中に、スマホに向かって背中を丸めと90分講義を吹き込む、というやり方で遠隔講義を乗り切ることができたのだった。

ありがとう、格安通信会社、ありがとう、格安スマホ。


2020年7月4日土曜日

俺は8番目

 しばらく前に見た夢。去年亡くなった父親が実家の食卓でビールを飲んでいた。いつも通りという感じで。「あ、ビール飲んでるやん!」とうれしくなって声をかけた。亡くなるまでの数年間、嚥下障害が出てビールどころか水さえ飲めなくなっていたのだ。元気な時は大変な酒飲みで休肝日なんて記憶にないくらいだったのだが。ああ、良かった。ビールが飲めるようになったのか。と思いつつ少し拍子抜けした。嚥下障害は、治らない病気だと思っていたからだ。「治るんなら、あれほど気の毒に思わなくてもよかったか」と。母ちゃんは横で普通にしている。「父ちゃん、ビール飲めるようになったんやね、すごい良かったやんか」と声をかけても、別にという様子だった。そのあたりで、あれ、おかしいな、と気づき始める。確か、父ちゃんは死んだんじゃなかったか。と思って父ちゃんの様子をあらためてうかがうと、なぜかパジャマの前をはだけて、胸板を見せていた。記憶にある、最近の姿より若々しい。右鎖骨の下あたりにあるはずの、ペースメーカーが埋め込まれた出っ張りもない。脳梗塞、心臓疾患と70代に入ってしばらくすると立て続けにガタが来てしまい、いろいろやっていたのだ。ここで、火葬場の様子を思い出し、もう死んでいる、ということを確信した。すると、父ちゃんは「俺は8番目なんや」とつぶやいた。どういう意味や。クローンの父ちゃんが何人かいて、その8番目ということかな、と勝手に解釈して、間の6人はどうなっているんや訳がわからんな、と思ったところで目が覚めた。亡くなってから初めて夢に出てきたが、変な形でのご出演だった。

元気なころは酒癖が悪く、飲んでいる姿を見るのはあまり心地良いものでもなかったが、飲めなくなって以降は、取り戻せない良き場面として思い出すようになっていた。母親に介助されてかろうじて嚥下食を摂れるだけ、という期間があまりにも長くなってしまい、今は倒れて以降の姿しか思い出さなくなってしまっている。最後の方の家族の選択については、正しかったと自信をもって言えないことがいくつかある。父親には悪いが、介助している母親を楽にさせてあげたい、という気持ちの方が先行していた。最後の「延命」は失敗に終わったが、正直ほっとしたのだった。コロナ事態となってからは、余計にそう思うようになった。福祉施設や医療がこんな状況になっている中で、今も介護が続いていたら、母親の精神的負担は相当だったろう。父親が大好きだった、高校野球もオリンピックもこうなってしまったのだし、生き延びても何の楽しみもなかっただろうから、去年で良かったんとちゃうか、と内なる父ちゃんに話している。言い訳にすぎないが。それにしても「8番目」って何だったんだろう。

2020年7月3日金曜日

もう7月になった

 毎日、スーパーに行って買い物して、飯作って食べてツイッターを見て、寝るの繰り返し。遠隔講義用の資料と音声ファイルを作らなければいけない日が4日ほどあり、自分にしてはかなりしんどい仕事(長時間集中しないと片付かない)で、その日はへとへとになってしまう。徹夜になることもしばしばで、生活リズムも乱れがちになる。講義に出かけていた時には、毎日かなりの歩数を歩いたが、今は完全な運動不足だ。社会関係が極めて乏しいから、zoomでの会議みたいなのもあまりなく同居人としか話す機会もない。いつも以上にもめることも多くなる。向こうは引きこもり生活になれているから、あまり変わらないのだが、とにかく、変化がない。1月に引っ越してきて、新しい場所での生活はどうなるだろう、と身構えていた矢先にコロナ事態となった。40年ぶりに戻ってきた町について、見聞きしたものについて、こころにうつりゆくよしなしごとを、適当に書いていこうと思っていたのだが、そういう気力もわかず、いつのまにか7月になってしまっている。4月の頭、緊急事態宣言が出る前の日に、同居人が用事があって京都に行くというのでついていき、非日常な少なさの南禅寺を歩いたりした。電車に乗ったのはそれが最後となった。5月に入って自転車に乗って古巣の十三を経由して梅田まで行った。非日常な人の少なさを確認したくてミーハーな野次馬根性で行ったのだった。梅田に行ったのもそれが最後で、ずっと出かけていない。あとは、自転車で動ける範囲をちょっと回ったり、これも自転車で独り暮らしをしている母親の様子を見に行き話し相手をしてきたりするくらい。こういう非常時こそ、細かな、何でもない記録を残しておくことに意味があるかもと思ったが、あまりに動かないと、こういう駄文を書く意欲すらわかないものだな。ちょっとした「書きたい」欲は、ツイッターで手軽に満たしているからかもしれない。ツィッター見てもイライラするだけで、もうやめようとこれまでに何度も思ってきたが、コロナ事態の今は、これを断たれると社会との関係がゼロになるような気がして(もちろん勘違いだが)やめようという気がなくなった。ただ、仕事をやるうえでは、時間制限はいるなといつも思うが。子供にゲームをする時間を約束させて守らせなければいけないのと同じだ。というわけで、何にもない、ということをとりあえず書いておくことにした。もう少し書く意欲がわいてきたら、何もない中にあった何かについて、書こうと思う。


2020年4月18日土曜日

競輪開催は一時中止した方がいいと思います(一競輪ファンからの提言)

  現在、コロナ19の感染拡大により競輪は無観客開催(2020年2月27日~)となっています。緊急事態宣言が出されて以降は開催そのものを中止する施行者も相次いでいます。(4月8日~)SNS等を見ると、選手たちにも参加ギリギリになって中止が知らされる、というような事が続いているようです。それでも一部の開催は続いており、5月5日から静岡競輪場で開催予定の日本選手権競輪も施行者は開催に動いているそうだと、マスコミの方のSNSで知りました。日本選手権は最も伝統ある特別競輪であり、相当な準備もされてきたでしょう。施行者がやりたいと考えるのは当たり前だと思います。ですが、一方で、160名を超える選手が参加する、選手密度が最も高い大会でもあります。


 競輪ファンの中でも、選手や関係者の中でも、日本選手権を含め今後の競輪を開催すべきかどうか、意見は分かれているでしょう。

 

 ここで私は、一部外者の立場から「競輪界は全体で一斉に開催中止に踏み切った方がいいのではないか」という意見を述べたいと思います。

 

 理由はいくつかありますが、もっとも重要なのは選手の健康が危険にさらされているということです。他の公営競技はやっているではないか、という声もあるでしょうが、競輪は他の公営競技とは違い、人間の身体能力だけで競う競技であり、プロ・スポーツとしての性格を強く持っています。レースまでの時間、選手間で距離をとって感染を防止し続けて、レースの時だけ「密」になる、なんてことは難しいと思います。レース前にはローラーに乗ってのウォーミングアップも必要でしょう。ストレッチやクールダウンで一定の空間に密集に近い状態で滞在する時間も必要ではないでしょうか。換気に気を付ける、消毒をする、を徹底しても限界があると思います。


 公正さを保つために前検日から缶詰になり、選手集団は一定空間に閉じ込められます。誰かが感染していたら集団感染につながる可能性は、他の競技よりも圧倒的に高いと思います。一開催あたりの参加人数も多いでしょう。

 コロナ感染が怖いと思う選手がいるのは、当然のことだと思います。


 大雨でも、極寒でも、いついかなる時でもレースがあれば走る。それが選手だ、という姿勢はカッコいいものです。ファンとして、プロ選手ならそうあって欲しいと思いつつも、今回の事態は天候不良などとは明らかに性質が違うものです。

 私は競輪の歴史を研究してきましたが、70年を越える競輪史の中でも疫病の流行というのは初めての出来事です。世界中で感染が広がり、そのために商売は制限され、学校まで休校になるなど世界中で市民生活の多くが一時停止を余儀なくされています。歴史的な非常事態であることは間違いありません。

 

 コロナ大流行、というニュースが聞え始めた頃、日本の多くの人はほとんど他人事としか考えられなかったのではないでしょうか。私もそうでした。無観客が始まった頃でも、半月くらいで収まるんじゃないか、と考えている関係者も少なくなかったでしょう。しかし、ここに来て、変ってきたのではないでしょうか。この病気が相当恐ろしいものであること、医療のプロが動かしている病院でも次々に院内感染が起こってしまう程の感染力をもっているため、医療体制の維持すら危ぶまれるようになっている、ということが誰の目にも明らかになってきたのではないでしょうか。

 屋外に目をやれば、良い天気の春の日が続き、桜も咲いて新緑も芽吹き、極めて「いつも通り」のため、意識しなければ危機感を抱けないというのもコロナ事態の特徴だと思います。人と人とのつながりから病気が広がる、いわば都市型の病気でもあるため、都会と地方とで温度差があるのも当然だと思います。

 施行者は先行投資をしており、少しでも開催をして回収をしたいと考えるのも理解できますし、特に感染者の少なく見える地方の場合はそうでしょう。選手の皆さんも、不安はありながらも、賞金で生活する個人事業主としてできるだけ沢山競走に参加したいと考えるのは理解ができます。現在、営業自粛かどうか、ギリギリのところで迷っている多くの商売人の方々と同じでしょう。ですが、そろそろ、中止の決断が必要だと思います。

 

 この病気が知られるようになった当初は、致死率もそんなに高くなく、若くて元気な人なら発症しない方が多い、という話が流布していました。お年寄りや病気を持っている人だけが気を付けたらいいんじゃないか、と正直、私もそれくらいの認識でいました。実際に、たとえば競輪選手のような健康な人たちは、感染しても無事に済むような気がします。(これは全くの素人意見です。念のため。)感染が報道された井上茂徳さんも、現役時代の訓練のたまものでしょう、回復に向かっているという朗報を昨日、木庭賢也さんのyoutubeで聞きました。本当に良かったです。しかし、かなり大変ではあったようです。一定割合で重症になってしまい、そうなると集中治療室に入らなければ助からないと聞きます。落車で大けがをする経験の多い選手の皆さんであれば「集中治療室で生死をさまよう」ということが、どれほど大変なことか、私のような金網の外から見ている人間より何倍もリアルに分かると想像します。ひとたび感染してしまうと、知らないうちに、家族や仲間など身近な人にうつしてしまう可能性がとても高く、「自分が我慢したら耐えられる」ような性質のものでは全くありません。

 

 このような中途半端な形で開催を続けると、公営ギャンブルにとって最も重要なレースの公正さも危ぶまれてきます。選手は、参加する以上、つねにベストを尽くすことが求められていますが、現状では先のレースを見すえた計画的な練習も難しいでしょう。また、記念競輪さえも中止になる中、グランプリを頂点とした長いスパンでの賞金・競走成績の争いは、運不運に左右される不公平なものになっています。このままの不安定な状況が続けば、賭けの前提となる、選手たちの真剣勝負を支える基盤が揺らいでいるとみなされても仕方がありません。

 競走馬の力や機械の力がメインになる、抽選のような偶然の要素をあらかじめ組み込んである他の公営競技に比べて、スポーツに近い競輪だからこそ、この点はより慎重でなければいけません。(私見では、他の公営ギャンブルもそろそろ中止すべき時だと思いますが、ここでは競輪についてだけ言います。)

 

 レースを中止すると、選手の皆さんは収入が断たれます。その間、JKAは、選手の練習生活が最低限維持できるように補償をすべきだと考えます。競輪という事業にとって、選手の競走はいわば「商品」です。一定期間、店を閉めなければならないとして、商店主はみすみす商品を腐らせるようなことはしないはずです。再開の時には、すぐに高品質のレースを提供できるように準備しておくことは、事業主体として最も重要なことのひとつです。選手の質は、簡単に手に入るものではありません。

 個人事業主たちが作る労働組合的意味をもつ選手会と統括振興団体との関係は、いろいろ複雑な歴史もあったでしょうし、それをふまえ「補償など不可能」というのが、従来のルールに基づく判断だと思いますが、今回の緊急事態は、前例のない出来事です。無茶を承知で書きますが、例えば、持ちビルや土地を売って資金を確保してでも、選手たちが最低限、練習生活を続けられるような援助はすべきだと思います。この間、無観客になって露わになった「新規ファン開拓」という喫緊の課題について、選手たちにも知恵を絞ってもらい、広報活動にもさらに積極的に参加してもらい、その対価を払う、というような援助策もあるかもしれません。もちろん、レースがなくなって収入が無くなるのは、選手だけではないと思います。しかし、これは、現在、日本中の各種事業主が直面している危機です。この点については、政府が最低限の補償をすべきだと考えていますが、話が大きくなるのでここでは割愛します。とにかく、続けるのも止めるのも苦渋の選択なのは間違いないと思います。

 

 以上、一応、競輪の歴史について本を書いた社会学者の視点から、そして、競輪がこれからも存続発展して欲しい一ファンの立場から、考えていることを書いて見ました。責任のない立場から、ああした方がいい、こうした方がいい、というのは簡単に口にできます。もちろん、これも気楽な立場から書いたもので、関係者からすれば「そんなこと分かっているよ」という内容にすぎないでしょう。後から考えると、間違っているかもしれません。それでも今、書かずにはいられませんでした。


「どうするか」を実際に考えなければならない人たちの目に触れて、何らかの参考にしていただければ、と願っております。


2020年4月1日水曜日

新学期を迎えるにあたっての身辺雑記

2週ほど前、京都に行った。某先生が新しくウェブ雑誌を作ろうという計画を立てていて、自分も誘ってもらった。そのための打ち合わせだった。集まったのは、自分より一回り以上上の男の先生二人と、わたしと、韓国から研究員として滞在している女性研究者Aさんとの4人。全員旧知の仲なので、話し合い自体は一時間ほどで終わり、いつも通り「じゃぁ一杯飲みに」ということになった。あの時点で、警戒心を持っていたのは韓国人のAさんひとりだった。日本での研究で科研費をもらっている彼女は韓国に帰るわけにはいかない立場だけど、現在の事実上の往来禁止措置により、ちょっとした里帰りさえできない状況になっている。ネットを通して知る韓国の、あるいはイタリアやヨーロッパの(この時はまだアメリカはそれほどでもなかった)コロナの状況に大変な危機感を持っていた。「それにしても、日本のこの警戒心の無さは…」と、とても不安な様子だった。私も含め、日本のオッサン三人は、権力が作り出す「自粛ムード」への警戒感が先走り、どういう危険があるか、まともに心配していないような感じだった。ヨーロッパでこんなことがあったらしい、このウィルスはこういう特徴があるらしい、というAさんの熱心な語りを「あまり考えるとノイローゼになっちゃうよ、大丈夫だよ」というようなノンキな態度で受け流していた。上のお二人よりは、最近、韓国のニュースを毎日見ている私はまだ少しばかり警戒心はあったけど、まぁ、韓国と同程度だとして、韓国の場合は新興宗教が爆発させた部分があるし、それとは無関係らしいのは3割くらい(この時点で)、ということは感染者3000位か、日本は人口倍くらいだから既に6000はいるかな。発表されている数の100倍くらい(この時点で)だけど、まだまだ確率的に「自分」まで来るのは先だな、くらいな気持ちだった。もっとも、この排外主義的な日本という社会の中で、外国人としてこの病気に罹るかもしれない、という怖さは、マジョリティである自分とは比較にならないだろう、とは考えた。考えたが、「でも今日はうつらないだろうな」というくらいのお気楽さであった。良い天気だから、というので鴨川の河原にビールと惣菜の天ぷらを買って持って行き、しばらく喋る。例年なら、この季節のこんな良い天気の京都、観光客であふれていただろう。それと比較すると相当空いてはいたが、家族連れや、観光客の姿も、それなりにあった。その後、近くの居酒屋に行き、何時間かダラダラ飲んだ。少人数だし、お店も空いていたし、と言い訳をしながら。久しぶりに日本酒の熱燗などを飲み、適量が分からず飲みすぎてしまい帰りの記憶を失うほどだった。今は同居人以外と話す機会が少ないため、久しぶりのお喋りの機会にテンションがあがっていた。感染への警戒感など全くないような状態だった。大阪に向かう阪急電車も、自分のような上機嫌の客が普通にいた(と思う)。次の日は、当然のように二日酔いになり、この時点でちょっとばかり反省の意識が出てきた。酒の飲みすぎだけでなく、もし万一、自分がAさんにうつしてたりしたら、これは取り返しがつかないな、と。2月、3月と非常勤講師業の自分は例年通り長い春休み期間である。今年は1月に引越しをして、その片付けや、部屋の再調整などだけで二か月を無為に過ごしてしまった。そのおかげ(?)で、同居人と、たまに実家に寄った時にあった母親以外、ほとんど誰とも接触していない。同居人は基本引きこもりなので、自分よりもリスクは低め(だろう)。もちろん、毎日の買い物やチェーン店での外食などでも感染のリスクはゼロではないが、普通の勤め人に比べたらかなり低いんじゃないか、と思っている。しかし、多くの人がこうやって「自分は大丈夫」と理屈をつけて安心しているのだろうとは思う。自分は人ごみ避けている、外国行っていない、ナニナニはやっていない、とにかくいろいろ気を付けている、と。その後、オリンピックの延期が正式決定し、案の定、すぐに感染者の数字が増加していった。公表される数字が増えて行き、アメリカが危機的状況になっていることなどが知られるようになると、「世間」の反応も変ってきたように思う。それにつられて自分自身も、危機感がちょっとずつ増してきた。「自粛」を「要請する」という「空気」コントロールにより人々を動かそうとする権力の手口への違和感はずっと持ちながらも、他の国を見ていると、これは予想をはるかに超えて怖いことが進行しているんじゃないか、という気持ちになってきた。ミーハーで通俗人間丸出しだが、やはり子どもの頃から見てきた有名人の死に普通にショックを受けたりもして。「ああ、日本人…」と自分が嫌になるが、まぁ、自分なんてその程度のものなのだ。小学生の頃、『全員集合』を見て気が狂ったように笑っていたバカな小学生は、碌に成長せず50になろうとしているのだ。ニュースの日、「志村、死んだよ」と遅めに起きてきた同居人に伝えたら、「あんたも小学生時代卒業やな」と言われた。最初は、流石に「えーっ?そんなに悪かったん?」と驚いてはいたが。そうなのだ、自分は中二病だと思っていたが、中二はこれからようやく迎える所なのだ。新学期が始まる4月になった。例年なら、生産的なことが何もできなかったことを激しく後悔し、しかし、これからの仕事にそれなりに気が引き締まってはくる時期だが、今のところ、どの学校も20日以降に開講を遅らせるということだ。一カ所は、昨日HPを見ると、5月開講とさらに遅らせていた。今日も有名な人の感染のニュースが流れている。公表されている感染者数と比較して、有名人の割合が異様に多くないか、という素人くさい疑問は「有名人であろうが一般人であろうがひとりひとりの感染確率で言えば同じだ」というのが答えなのかもしれないが、どうなのだろうな。とにかく、4月になった、という「形式」を利用して、生活の組み立て直しをしたいとは思う。今の情勢からしたら、4月いっぱい遅らせた所で、大学に学生集めて授業なんて多分無理だろう。非常勤講師業という非正規職の抱える不安は、世の多くの自由業系の人たちと共通する部分もあるだろう。こういう立場だからこそ、分かることもある、かもしれないな、と前向きにとらえて、何とか生き延びよう。とか何とか考えて、身辺雑記を書いておくことにした。

2020年3月16日月曜日

前の時はどうだったか

世界が不安定になるとトイレットペーパーが無くなる、というのは日本の伝統芸能かと思っていたが、どうやら世界中のよう。紙製のマスクが主流だからというのだが、理屈云々ではなく「もしなくなったら大変だ」と感じさせる対象として、たいへん身近で適度に「軽い」存在であり、しかし実際に無かったら結構困るもの、として丁度ピッタリなのがトイレットペーパー、なのかもしれない。「日本特殊論には気をつけろ」と講義で言ったりしていたが、これもその例か。

「前の時」はどんな感じで終わったのだろう。母親に電話ついでに聞いてみたら、目端のきく叔父が入手して持ってきてくれて助かった、なんて話をしてくれた。妹を出産したすぐ後くらいの大変な時だったらしい。しかし、考えてみたら、その頃に住んでいた文化住宅は水洗トイレではなく「ぼっとん」だった。トイレットペーパーなんて現代風のものは使わず、四角のちり紙を使っていたはず。ニュース写真で見るオイルショックの時のパニックで買い求められているのは、あのロール状のやつだけだが、ちり紙(落し紙というのかな)も不足だったのだろうか。母親によれば、近所に住んでいた人がナントカ油脂という会社につとめていて、そのおかげで石鹸をわけてくれて助かったりもしたらしい。石鹸洗剤類も無かったのだな。それは石油価格の急騰が原因なのだから、理解はできる。

話を聞いていると、母親は「あの頃は、皆、遊んでいたからな」という。何のことかというと、近所の人の多くが専業主婦で、昼間は皆家に居たから、集まっていろんな話をしたりできていた。今は、仕事している人ばかりだから、大変だ、と。確かに、今回のコロナを受けての急な休校措置で、子育て世代は大変なことになっているだろう。高度経済成長の終わらせたオイルショックの頃は、専業主婦率はほぼピーク。その後、就労率がどんどん増えていく。うちの母親も、私ら兄妹が高学年になった頃から、パートで働きに行きはじめた。同世代の典型例だ。

「けど『遊んでた』ってことはないやろ。家事も大変やったやろうに」と言っても、若かった頃は楽しかったという思いもあって、受けつけないよう。今の女性みたいに、主婦友だち同士で遊びに行ったりなどは全くしていなかったし、父ちゃん抜きで外食したことなど結婚生活でほとんどなかったのじゃないか。父は、しょっちゅう酔っぱらって帰ってきたりしてたけど。それでも「遊んでた」になるのか。昔の話を聞くと、いろいろ曖昧になってはいる。トイレットペーパー騒動がどんな形で収拾したかは、あんまり覚えていないようだし。まぁ、自分もちょっと前の事すらいろいろ忘れるようになっているから、半世紀前のこと忘れていても無理はないだろう。

歴史は繰り返すだな。「次」の時は、母はもちろん、自分ももうこの世にはいないだろう。

2020年3月13日金曜日

池の近くに行った

池の近くに行った。池の前にはちょっと前まで大学があった。ここは、少子化と経営戦略の失敗で廃校になっている。40年ぶりにこのあたりに戻ってきて二ヶ月、買い物先の確認など必要な探索はだいたい終わったので、ただ何となく子どもの頃の記憶の片隅にある風景を確認してみようと自転車で回った。子どもの頃、殺人犯がこの池に死体を沈めたと供述して、池の水を全部抜く大掛かりな捜査があった。実際にどんな事件だったのか、被害者は見つかったのかはよく分からない。警察が来て大騒ぎになっている、という情景が、非日常でなんとも興奮する記憶として残っているだけだ。小学校低学年の記憶ならそんなものだろう。この池はため池で、当時から「危ない」の看板があり、つり禁止、水遊び禁止だった。河童が描かれた溺れた子どもの絵が描いてあって、子どもの頃から肝っ玉の小さかった自分は、それがとても怖かった。池の水を全部抜く、というテレビ番組を見るたびにこの池のことを思い出す。行ってみると、以前より頑丈なフェンスで囲ってあった。ため池としての役割なんてもはや果たしていないだろうに、何のために「池」としてあるのだろう。数羽の鴨と一羽のアオサギがいた。のんびりした風景だった。この池の北側に、かつて水源地公園というのがあった。工業用水の浄水場だったと思う。その横に大きな公園があって、子どもの頃習わされていた空手の寒稽古をそこでやったという記憶がある。正月に呼びつけられて寒い中、稽古して、その後、ぜんざいか何かを食べた。親としては、私があまりに運動嫌いでどんくさいから心配で習わしたのだろうが、それが裏目に出て私は余計に身体を動かすのが嫌いになった。他の子よりワンテンポ遅れてしか動けず、空手の試合では必ず初戦で負けた。全員が合格する8級か何かの試験にも落ちた。稽古中は、早く終わって家でテレビを見てごろごろしたいと思い続けた。嫌な記憶の残るその公園は、新設の高校になっていた。自分の記憶では、そのあたりに、牛舎があった。工業都市尼崎だが、北の端っこにあたるこの辺りでは、高度経済成長まではまだ田んぼが広がっており、自分の子どもの頃にはさすがに少なくなってはいたが、ところどころ畑や田んぼも残っていた。今でも若干残っている。川ひとつ隔てた大阪市内では、ほとんど見られないので、まだそうなのかと戻ってきてちょっと驚いた。田んぼはそれほど珍しくないが、牛舎は40年前でもさすがに珍しかった。ネットで検索してみたら「驚いたことに昔はこのあたりに牛舎があったそうです」という情報があって、やっぱり記憶違いじゃないのか、と安心した。そこは今どうなっているだろうと、少しうろうろしてみたが、それらしいものは見つからなかった。ただ、動物の糞の匂いがしてきたような気もしないでもなかったので、もしかしたら、まだ牛をかっているところがあるのかもしれない。途中でアイスクリームを買って、公園で食べた。子どもが沢山遊んでいた。コロナで休みだから暇なのだろう。スマホもったりせず、ただ走り回っていた。格好も「昭和」時代とあまり変わらない感じだった。公園の向こうには、風呂屋の煙突。本当は、いろいろ変わったのだろうが、何となくずっと変わらない景色みたいに思えた。

2020年2月7日金曜日

淀川にちかい町、から

 先日、引越した。ハンドルネームの由来である淀川の側から離れることになった。「よどがわ」を使い始めたのは、mixiで日記を書きはじめてからだ。その頃は、西中島南方近くの風呂なし共同トイレのアパートでひとり暮らしをしていた。淀川区だし、本名に近いし、子どもの頃からハゼ釣りなんかをして遊んだ愛着のある川だし、ということで使い始めた。たまに遠くから帰って来て、淀川が見えてくると故郷に帰った感を抱いたりもする。任期付きだがまともな給料をもらえる仕事につけることになり、それを機会に長く付き合ってきた現同居人と二人暮らしをすることにした。2万円の木造アパートから、十三駅すぐそばの高層階のマンションに移った。にぎやかで楽しい場所だったが、そこでの生活は何せ初めて他人と暮らすことになったというのもあり、お互いに色々うまくいかないことが続いたりして、諍いばかりであった気がする。そんなに昔ではないのに、とにかく記憶は曖昧だ。この頃から、心身の老化も実感するようになり、記憶力が弱くなってしまったというのもある、かもしれない。条件の良い仕事の期限が迫り、どうやらその後はただただ貧乏な未来にむけて進んでいくだけ、という「展望」が見えてきた。月8万近くの家賃は到底払えなくなるから、出るしかなかった。

 とりあえず、経費削減のため格安の家賃だった千里ニュータウンの外れにあった官舎(任期付き教員にも権利があった)へ入ってみたが、諸条件が精神的に合わず一か月で出て淀川区に戻った。どんなに長くても一年半ほどで出なければいけない所だったが、それすら二人とも耐えられなかった。今度は淀川のすぐそばで、阪急十三駅からは少し離れたがJRの塚本駅も使えるなかなか便利な所だった。老々介護状態でほったらかしにしていた実家の様子も自転車で覗きにいけた。細かく「良さ」を描いたらすぐにどこか分かってしまうからはぶくが、場所も部屋も、なかなか気に入っていた。十三駅そばのマンションよりは、家賃も少し減らせた。途中、同じ集合住宅内で引越しをした。ベランダから淀川が直接見わたせる部屋にかわったのだ。合わせて約10年その地域に住んだ。この間は、ツイッター依存が深刻化した期間でもあるからツィート検索をすれば色々思い出せるはずだ。良いことも少しはあった。人生の重い宿題になってしまっていた単著の執筆も何とかできたし。

 生活上の難がいろいろ出てきて、そろそろ他に替ろうということになってきたのは、二年ほど前から。父親が要介護で、かなり危ないという状態が続いている間は、引越しのタイミングが無かったが、去年の秋にあの世にいってしまったので、それをきっかけに、という訳でもないが、何となく動き易くはなったため、本腰を入れて探すことにした。仕事先が幾つかにわかれているから、阪急とJRが共に使える前の家の交通環境は大変ありがたかった。梅田なら自転車で15分もかからずに行けたし。これまで同様、大阪市内の便利で賑やかな下町に住み続けたいという希望はあったが、家賃を考えると難しかった。いろいろ探しまわり、尼崎の「競馬場のある町」に落ち着いた。東京では「こじゃれた3畳間」さえ借りられない程の家賃で、3部屋以上ある家を見つけることができた。初期費用もあまりかからずに助かった。前に住んでいたのと同じく築年数の大変古い集合住宅で、前はあったエレベーターがなく、毎朝、足腰を無理やり鍛えさせられる、という難はあるが、駅までも辛うじて徒歩圏だし、住み心地は今のところ悪くはない気がする。

 この「競馬場のある町」は、実は10歳まで住んでいた文化住宅のすぐ近くでもある。最初はそんな所に戻ってくることは全く考えていなかったのだが、仕事、家賃、実家との距離などを総合して考えると、一番条件にあった町だった。希望としては同じ尼崎市でも、開発が進んで大変便利で賑やかになっているJR尼崎駅近所に住みたかったのだが、家賃が高かった。阪神沿線は庶民的でいかにも「アマ」という感じで、一度は住んでみたいという気持ちもありつつ、自分にとっては通勤のアクセスが悪い。ということで阪急沿線に、となると、高級住宅地のイメージもある武庫之荘、急行の停まる塚口に比べて、「競馬場のある町」は、普通電車しか止まらず「比較的、お手頃になっております」(不動産屋談)とのこと。近くに川もあって、案外、環境もいい。別に静かさを望んでいたわけではないが、落ち着いていること自体は悪くはない。かといって寂し過ぎて堪らない、という程でもなさそう。というわけで、40年ぶりに尼崎市民に戻ることになった。公営ギャンブルをテーマに研究してはいるが、専門の競輪以外は、ほとんどギャンブルをやらない(収入がないからだろうが)から、競馬場をめざして来た訳ではないけれど、空間としての競馬場は好きだし散歩で行けるのはちょっと楽しみである。

(写真は、地方競馬の人気があった頃に使ったであろう臨時ホーム。今は全く使われてないよう。)



 人生は旅のようなもの、などと言うが、自分の旅は「散歩」みたいなものだ。子どもの頃は、将来は「東京」か、どこか遠くに住むことになるに違いない、と思い込んでいた。しかし、実際の人生は、地球儀で見たら、一本の針で刺した範囲内でしか動いていない。色んな所に住む経験をしている友人、知人達が本当に羨ましい。ずっと「地元」近くにいるのに、いわゆる地元の友だちは1人もいないし、コミュニティ的なものにも一切参加していない。ただただ、動いていないだけなのだ。これまでもそうだったが、今回の引越しの「振り出しに戻る」感は、笑ってしまうほどだ。たまたまこのあたりが安く、良い物件があった、という風に思っているが、ここまでになると、潜在的に「戻ろう」という意識があり、それが作動したということなのかもしれない。なぜ、そうなのかは分からない。父が死んで、両親が結婚して住み始めた町のすぐ近くでもう一度生活しようだなんて、どれだけ親に縛られているのか、と思わなくもない。が、よく分からないから、まあ、いいか。古巣だと言っても、子どもの頃遊んだ幼なじみでつき合いのある人は1人もいない。まだこのあたりに住んでいるかもしれないが探す気はない。

 ※ ※ ※

 というわけで、引越しをして、ちょっと気分は変わりはしました。「よどがわ」というハンドルネームは愛着があって使い続ける予定ですが、これからは「競馬場の近く」に住み、競艇もある自治体なのに、なぜか競輪を研究している「よどがわ」ということで、ややこしいですがよろしくお願いします。どうしても引越し祝いを送りたい、という人には住所を教えますので、DM下さい^^;