2018年10月27日土曜日

世論とのつながりかた

フェイスブックより社会を広く感じられる気がして、ツイッターの方を愛用しているが、広げるためにあまり選別せずにフォローしているのもあって、世の出来事に対して「なんでそう考えるのか…」とあきれるようなツブヤキを目にする機会も多く、イライラして精神衛生に悪いという難点がある。フォローしなきゃいいんだけど、自分の関心上、たとえば普通の競輪ファンの声とか聞きたいという気持ちもあるし、パッパとフォロー外しをするのも気が進まない。自分が「政治的」なツイート、RTいっぱいするから、外した、という人は結構いるだろうけど。

インテリだけと付き合えたら、そりゃ楽だろうなと思う。純度を高めておけば、例えば、安田さんの解放に関して、あるいは、安倍政権に対して、共感できる声ばかりが聞えるようになるし、その方が「楽しみ」としてはいいのだけど、あんな状態でも安倍支持率が4割もある、ということが、ただの不思議(あるいは陰謀)にしか見えてこないようになってしまうかもしれないな、という懸念もある。大衆的な下町に生まれ、たぶん一生そこで貧乏暮らしをし続ける自分のような人間が、大衆に嫌悪感を抱く、というのは自分を否定するということでもある。安全地帯に抜け出て、上から、庶民を見つめたい、という嫌らしい願望が自分の中にはあったのかもしれない。などと自己反省をしてみたり。まぁ、そんなことは今はいいや。

我慢できる範囲で、小雨には傘をささないでおこうか、気楽にミュートなどすればいいか、適宜考えよう。3次元で他人と雑談する機会がほとんどないため、SNS切ったら寂しすぎるなと思ってついつい依存してしまっているが、もっと孤独に耐性をつけた方がいいのだろう。あとは、他人の意見に、いちいちイライラしないように、反応しないようにすることか。ちょっとした共感が喜びになるんだから、反対が不快になるのは、当然の原理なのだけど。まぁ、でも少しは受け流す力がついたかも。これでも。以前は、「なんでそうなんだよ?」と、いろんなことにいちいち反応していたからなぁ。日常生活でも。

2018年10月21日日曜日

俺、僕、私

高橋源一郎氏が小川榮太郎氏について上から批判した(ことになるのか)例のエッセー(「俺は泣いた」)の件、色々気になることがあった中、些末なことなのだけど、一人称「俺」なんだな、というのもあった。普段、彼の書いたもの読んでないので分からないが、いつも「俺」なんですかね。もしかしたら、「泣いた」に合わせて「俺」にしたのか。どっちでもいいんだけど、ひっかかるのはひっかかった。別に、俺だろうが、僕、私だろうが何でもいいのだけど、文系のインテリは、僕・私が普通のように思っていたので、あえて「俺」か、どんなココロなのか、と気になったのだ。

男の一人称は、気にしだすと気になる。女の人だって簡単ではないだろうが、ベタな選択肢が3つもあって、何かを選んだらそれなりに意味が発生する。他者へ向けた自己呈示に関わって、さりげなさを演出しているように見えたら、不自然な匂いがしてきたりもする。オレ、ボク、ぼく、わたし、とカナを使ったりするのも、その辺のことを意識してのものだろう。

自分は、日常会話では、おそらく大学院に入ったころから、「俺」を控えるようになった気がする。表面的な部分だけでも、マッチョさを消すべきだ、と考えてのことだった、と思う。でも、しばらくは「俺」がちょくちょく出てきた。今は、ほとんど「僕」になっている。仕事では「私」も使う。今、ふと、もうつき合いがなくなった知人が、普段から「私」で統一していて、この人は何で「私」なんだろうと気になったことを思い出した。大学院時代の知り合いなので、その頃でもまだ私は「俺」だったのかもしれない。

話し言葉については、ここではおく。書き言葉になると、「自然に出ちゃう」という以上の、意図があるのは間違いない。どれを選ぶのか、で。ツイッターとかを読んでいて、「この人、『俺』なんだなぁ」と意外に思ったりすることもある。「私」の方が無難なのは間違いないだろうから、俺の人は、普段から俺だから、軽い書き物で私は不自然と感じてのことなのか、俺っぽく見せたいのか、どっちなんだろう、などと。(高橋源一郎「俺は泣いた」を読むまでは、それほど気にしていたわけではないですが。)論文や本などは、普通、「私」、あるいは「筆者」だろうから、SNSなんかが普及するまでは、他人が「普段使いの書き言葉での一人称」に何を使っているのか、知る機会ってあんまりなかったのだろうと思う。もしかして、と気になって、小川榮太郎氏のフェイスブックを覗いてみた。「小生、とかかな、フフフ」と期待したけど、普通に「私」でした。

「私」が文学的に気取って書いた文章を、「俺」が軽く切って捨てたという構図か。「俺は泣いた」「僕は泣いた」「私は泣いた」…まぁ、こう並べたら、「俺」じゃないと決まらないですけどね。確かに。普通の仕事の人は知らないですが、大学の先生職やっているような人の中では、多分、「俺」は少数派だと思うので、「あえて感」が漂うのは間違いない。僕や私よりは、キャラ設定っぽく感じてしまうが、気にしすぎかも。

まとまらないから、このへんで。これから、どれでいこうかしら、とちょっと考えてみたり。こういう所で書いているのを振り返ってみると、ふざけて逃げる時は、ワテ、ワシとか大阪風味を使っているようですね…俺。



http://kangaeruhito.jp/articles/-/2641

2018年10月6日土曜日

京橋名物に完敗

最寄り駅構内のコンビニでパンを買って、電車が来るまでにホームでかぶりつく、という雑な昼飯になってしまった。仕事は午後からだが、連続で三コマ。家での準備に手間取り、ちゃんとしたもの食って出る余裕がなかった。サンドイッチとかを買えば良かったのだが、ついミルククリームフランスに手を出した。美味い。が、当然ながら、甘い。メシにはやっぱりショッパイ系にせんとあかんよな、と思いながら、乗り換えの京阪電車京橋駅にたどりついた。

ここのホームの売店には、なぜかフランクフルトが売っていて「京橋名物」をうたっている。普段、見かけても「なんで名物やねん」とつっこむだけだが、何せ口の中が甘いものだから、めちゃくちゃ美味そうに思えた。どうするかな、と売店前で突っ立って迷っていたら、近くにいたおじさんが、迷いなくさっと購入した。しかも、二本も。様子を見ていた連れのおじさんに、笑顔で一本さし出した。駅のホームでフランクフルトをほうばる、という子供っぽくも見える振る舞いに、ちょっと照れるような様子でもあったが、二人とも何だか楽しそうで、そして、めちゃくちゃ美味そうだった。甘い口を緩和するために食べたかったさっきの状態を60点とすると、95点くらいに食べたい度は跳ね上がった。が、ここで手を出したら、「二人が食べている様子に誘われた」の丸出しだ。ああ、どうしようかな、とさらに躊躇していたら、別の兄ちゃんが購入した。

これは確実に、さっきのおじさんにつられたパターンだ。美味そうに見えたんだな、兄ちゃんも。しかし、注文時の照れのなさを見ると、誘われたことを意識すらしておらず、まるで潜在意識に動かされているかのようであった。他人が食べている姿に誘われて、つい買ってしまう、なんて、言ってみれば、店側の思うつぼでもあり、何とも主体性がなさすぎる。食べたい度は、身体的には99点になっていたが、心が冷めてしまい「ここは我慢すべき」と断念し、やってきた電車に駆けこんだのだった。何かに勝ったような、逆に、負けたような変な気分を抱えて、職場にむかった。

これが、先週の話。今日も、同じルートで、京橋駅へ。口の中は、さほど甘くなかったが、何の迷いもなく、一直線に売店へ向かいフランクフルトを購入した。どこにでもある、普通の味。しかし、美味かった。「一週殺し」の技をかけられて、負けたような気分だ。「京橋名物」という、あの看板に身体が騙されているのだ。きっと。すごい看板、なのかもしれない。