2018年10月21日日曜日

俺、僕、私

高橋源一郎氏が小川榮太郎氏について上から批判した(ことになるのか)例のエッセー(「俺は泣いた」)の件、色々気になることがあった中、些末なことなのだけど、一人称「俺」なんだな、というのもあった。普段、彼の書いたもの読んでないので分からないが、いつも「俺」なんですかね。もしかしたら、「泣いた」に合わせて「俺」にしたのか。どっちでもいいんだけど、ひっかかるのはひっかかった。別に、俺だろうが、僕、私だろうが何でもいいのだけど、文系のインテリは、僕・私が普通のように思っていたので、あえて「俺」か、どんなココロなのか、と気になったのだ。

男の一人称は、気にしだすと気になる。女の人だって簡単ではないだろうが、ベタな選択肢が3つもあって、何かを選んだらそれなりに意味が発生する。他者へ向けた自己呈示に関わって、さりげなさを演出しているように見えたら、不自然な匂いがしてきたりもする。オレ、ボク、ぼく、わたし、とカナを使ったりするのも、その辺のことを意識してのものだろう。

自分は、日常会話では、おそらく大学院に入ったころから、「俺」を控えるようになった気がする。表面的な部分だけでも、マッチョさを消すべきだ、と考えてのことだった、と思う。でも、しばらくは「俺」がちょくちょく出てきた。今は、ほとんど「僕」になっている。仕事では「私」も使う。今、ふと、もうつき合いがなくなった知人が、普段から「私」で統一していて、この人は何で「私」なんだろうと気になったことを思い出した。大学院時代の知り合いなので、その頃でもまだ私は「俺」だったのかもしれない。

話し言葉については、ここではおく。書き言葉になると、「自然に出ちゃう」という以上の、意図があるのは間違いない。どれを選ぶのか、で。ツイッターとかを読んでいて、「この人、『俺』なんだなぁ」と意外に思ったりすることもある。「私」の方が無難なのは間違いないだろうから、俺の人は、普段から俺だから、軽い書き物で私は不自然と感じてのことなのか、俺っぽく見せたいのか、どっちなんだろう、などと。(高橋源一郎「俺は泣いた」を読むまでは、それほど気にしていたわけではないですが。)論文や本などは、普通、「私」、あるいは「筆者」だろうから、SNSなんかが普及するまでは、他人が「普段使いの書き言葉での一人称」に何を使っているのか、知る機会ってあんまりなかったのだろうと思う。もしかして、と気になって、小川榮太郎氏のフェイスブックを覗いてみた。「小生、とかかな、フフフ」と期待したけど、普通に「私」でした。

「私」が文学的に気取って書いた文章を、「俺」が軽く切って捨てたという構図か。「俺は泣いた」「僕は泣いた」「私は泣いた」…まぁ、こう並べたら、「俺」じゃないと決まらないですけどね。確かに。普通の仕事の人は知らないですが、大学の先生職やっているような人の中では、多分、「俺」は少数派だと思うので、「あえて感」が漂うのは間違いない。僕や私よりは、キャラ設定っぽく感じてしまうが、気にしすぎかも。

まとまらないから、このへんで。これから、どれでいこうかしら、とちょっと考えてみたり。こういう所で書いているのを振り返ってみると、ふざけて逃げる時は、ワテ、ワシとか大阪風味を使っているようですね…俺。



http://kangaeruhito.jp/articles/-/2641

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