2018年8月22日水曜日

いれずみと私

りゅうちぇるの刺青の話は、興味深い。そういえば、日本の芸能人は表だって入れている人少ないようだ。韓国の芸能人を見ていると、びっくりする位、多くの人が入れている。ガッツリ系から、ワンポイントまで色々だけど。その割に、地上波では結構規制もあって、入れている人がテレビ出演する時は、その部分にテープを貼ったりして隠したりしている。完璧に見えなくするというより、間接広告にならないために商品名を隠すみたいに、ここ隠してますよ、と分かるような隠し方で。そんな面倒があるなら、テレビ出る仕事の人は入れなきゃいいのに、と思うけど、入れたいという気持ちはそれを上回っているのだろう。

自分は、刺青に対しては、「わ、刺青だ」という感想を持つ。ファッションだから、自由だから、とか否定しないための理屈は後から頭に浮かぶが、まずはやっぱり「わ、」と思う。教えに行っている大学の一つで、女子学生の足首に、小さな彫り物があるのを発見した時など、口には出さないが、「へー、はー、ふーん、うーん」としばらく色んな感情がわいた。すぐに、なんてことないか、と思うようにしたが、身近な人が「入れようと思うんだけど」と言ったら、とりあえず反対はするだろう。やめといた方がいいんじゃないですか、と。連れ合いとか、いないけど自分の子どもとかなら、本格的に反対すると思う。やめておけ、と。なぜだろうか。不良のシルシだからか。それは当然あるけど、やっぱり、ファッションっていうものは、流れ去るものであり、今カッコよくてもそのうちそうじゃなくなるに決まっているから後悔する可能性が高いよ、というのもある。その意味では、ヤクザ屋さんの「伝統柄」はそのリスクは低いのかもしれないが、今の話は、そういう本格的なやつの事ではないので、とりあえずおく。(もちろん、線引きなんて簡単にはできないだろうが。)身体に刻み付ける、という行為のメッセージ性は、強力なものだと感じる。

というわけで、自分は(多分)入れないが、あこがれの気持ちもある。入れている人を見たら、この人は、あるタイミングで「引き返せない道を行く」決断をしたのだなぁ、という尊敬の念も感じるのだ。決断。自分が避けてきたものだ。しんどかったら、引き返せばいいや、と常に精神的な逃げ道を用意しながら生てきたような気がする。実際には、刺青を入れたって別に引き返せるし、自分だって、ゆるゆるとは小決断を積み重ね、その結果、引き返せない深みに知らず知らずはまり込んで今に至っているのだから、何とも言えないのだけど。とにかく、「よし、ここで、自分はこう生きよう」と決意するのは、カッコいいと思う。りゅうちぇるのお父さんも龍をしょっていたんですってね。それが、彼にとっての父の背中だったのだな。

刺青入れている方、銭湯やサウナでご一緒する機会があったら、たぶん、チラチラ見てしまうと思います。単にビビっているわけでも、もちろん、バカにしている訳でもありません。自分なりに、メッセージを受け取っているのです。失礼にならない範囲にとどめますので、悪くとらないようよろしくお願いします。もし、入れるとしたら、どんなのがいいかなぁ…とちょっと妄想する今日この頃。

2018年8月18日土曜日

競輪、新規ファン開拓のために

 今から十年くらい前、奈良競輪のスタッフだった方から誘われて、初心者競輪体験イベントに協力したことがある。競輪を見たことがない学生に来てもらい、レースを楽しんでもらって、率直な感想を聞きたい、という趣旨の企画だった。その頃、つき合いのあった大学院の後輩や、学生さんなんかを10人くらい誘って連れて行った。自分がしたのはそれだけだが、競輪場側は、この少人数を相手に、現役選手への質問会や、中継に良く出られている女性フリーアナの方がレクチャーする入門講座に、宿舎や道場を含めたバックヤード見学、場内食堂でのお食事券にお土産まで用意してくれる本格的な構えだった。たかが学生を何人か連れて行くくらいなんてことないのに、ここまでしてくれなくても、とその時は思った。しかし、競輪場側からしたら、それなりに関心を持った若い新規客が10人もやってくるなんて、なかなか得難い機会だったのだろうと、あとから気づいた。本当に、学生がどんな感想を持つか、知りたかったのだとも思う。

 連れて行った人たちには、楽しんでもらえたと思うけど、だからと言って、その中の誰かが、そのまま競輪ファンになるなんてことはなかった。企画サイドも、そこまでは期待していなかっただろう。売上げ増という目的を考えると、その効果は、ほぼゼロだ。参加者は「生で競輪見たことあるよ。結構面白かったよ」と言ってくれる人にはなった。とりあえず、それでOK。そういうイベントをやっていくことで、次の動きを作っていくこと、そこに意味がある、というくらいの気持ちで立てた企画だったのだと思う。直接的効果は薄くとも、とにかく何かやらないとじり貧だ、という危機感のもとに。もしかしたら、内部のスタッフ(お役所の方も含め)へ刺激を与えたい、という狙いもあったのかもしれない。

 あれから、競輪をめぐる状況はより厳しくなった、ように見える。現場では、何か手はないか、といろいろ模索されているようだ。たまに、競輪の人気回復策はないですかね、とか聞かれることがあるが、一般論的な意見しか思いつかない。コマーシャルの内容や打ち方など、現状の広報戦略には疑問はあるが、そのあたりは、上の方の色んな関係で決まるのだろうから、自分なんかが何か言っても仕方がないだろうし。それでも、今回、”競輪の本”を出版したので、別に競輪関係者になったわけではないけれど、新規ファン開拓の必要性を、10年前よりは他人事ではなく感じるようになっている。やっぱり競輪にはもう少し盛り上がって欲しいし。組織の「上の方」はともかく、持ち駒が少ない中、現場で苦闘されている担当の方や選手会の方々に、何か協力できないかという気持ちはある。自分は、広報について勉強したことなどない素人だが、広告代理店のような「専門家」に任せた所で、これまでうまくいかなかったのは明らかだし、色んな意見のひとつとして、自分の考えを書いておくのも無駄ではないだろう。

 という訳で、こういうことすればちょっと効果があるんじゃないか、ということを幾つか思いつくままに書いておきます。

1.女性ファンにこそ、こってりとした競輪を
 やはり、人口の半分である女性ファンを作ることが必要だ。プロレスや野球など、「昭和の」「男の」という匂いの強かった娯楽が、復活したのは、女性人気のおかげだ。もちろん、そんなことは誰でも分かるから、女性向けの企画が立てられていると思うのだけど、「女子会のような」とか「スィーツを用意して」というノリは、ちょっと逆方向かなと感じる。プロレスや野球の楽しさを発見した女性たちは、普通に、それまで男が楽しんでいたものを楽しんでいるだけなのだ。野球場では、おっさんと同じようにビール飲んで楽しんでいる。「スィーツ」は、真壁や大乃国を見ても分かるように(?)、今では逆に「男」に向けてアピールし始めているように思う。(という訳で、ケーキ用意してくれる企画があったら、オッサンも参加OKにしてください。)
 アルコールから、ソフトドリンクへ、喫煙から禁煙へという流れも(多分、その中にギャンブル離れもあると思うけど)男女共通の動きだ。女性を呼びたいからって、「オッサンが考えた女性」向けになってたらピントはずれだと思う。

 だから、女性を呼ぶにしても、ガッツリ、場内のオッサンたちが楽しんでいる通りの競輪を、競輪競輪したまま教えて、楽しんでもらうような企画がいい気がする。面白い、奥が深い、ギャンブルの競輪に、あなたも挑戦しませんか――というストレートな感じの。お楽しみ企画より、車券を当てることに、レースの奥深さを楽しむことにターゲットを絞った講座がいい。先の10年前の時も、いろいろ話を聞くより、生のレースをちょっとでも沢山見て、予想の仕方を教えてほしい、という参加者が多かったように思う。
 午前中、集中して予想紙の見方をレクチャーし、これまでのレースを何本か映像で見せ、4レース位から、全レース、とにかく予想して、ちょっと車券買って、レースを見てみる。後半は、できれば、特観のような所より、場内で金網越しに見た方がいい。また次に自発的に来て遊べるように。

 選手への質問会とか、バックヤードツアーとかは、既存のファンの人にこそ、優先的に参加しやすい形で実施した方がいいように思う。

2.関心を持ってくれそうな人に貪欲に呼びかける
 現実問題として、ギャンブル、自転車競技、このどちらかにちょっとでも関心がないと、ファンになってもらうのは難しいだろう。スポーツ観戦好きは、ちょっと可能性がある。ということは、そういう層に的を絞って積極的にアピールした方が良い。ネットのターゲット広告は実施しているのだろうけど、競輪ファンにしか届いていないような気がしてもどかしい。

 例えば、ガールズのサイトや、「けいりんマルシェ」というサイトは、keirin.jpとどういう役割分担になっているのだろう。keirin.jpを見て分からない一見さんが、「けいりんマルシェ」をわざわざ見に来るだろうか。別にダメだしする気はないのだけど、綺麗、オシャレに作っているってことは、結構お金もかかっているだろうし、それなら効果をもっと検証した方がいいのでは、と思ってしまうのだ。

「けいりんマルシェ」のツイッターアカウントを見たら、200何人しかフォローしていない(執筆時現在)。どんな人をフォローしているのかと確認したら、選手が主だ。競輪情報を、選手に宣伝しても意味がないだろう。ツイッター上で、競輪について何か言っている人をサーチして、どんどんフォローしていき、応答を期待すべきだろう。さらに、自転車競技、競馬、競艇、オートなど、関連のありそうなことをつぶやいているアカウントは、片っ端からフォローしまくる。ガールズの選手や、日本代表選手などが地上波のテレビに出たりしたときは、すぐにエゴサをして、関心を持った人をひっかける。それくらいの粘りがいるだろう。自分がツイッターしかよく分からないから、例にあげているが、その他のSNSもいろいろ工夫の仕方があるのじゃないだろうか。

3.既存のファンを大事に
 競輪場に来ているファンたちや、大口の上客達にもっとおもてなしを、というのは言うまでもない。それ以外に、競輪の情報発信ブログやyoutubeのチャンネルを持っている人などを、もっと尊重して、活用すべきだろう。運営のあり方に批判的な意見も多いだろうが、良薬は口に苦しで、厳しい声も含めて、競輪広報の貴重な資源になり得る、と考えた方がいい。丁寧な記事を書いているブログなどは、積極的に公式サイトで取り上げて紹介したり、味方として取り込もうとするくらいの貪欲さがいるように思う。

 ファンを増やす王道は、今来ているお客さんに、友だち、知り合いを連れてきてもらうことだ。その人がまた、別の人を、という流れが途絶えたから、今の状態になっているのだろう。ミッドナイトも、新しいファンがついたというより、これまでのファンの競輪離れを何とかくい止めている、というのが実際のところじゃないかと思うのだが、どうだろう。やはり本場開催を生で見て、一日楽しんで、という経験をした人でないと、いきなり銀行口座作ってネット投票の手続までいかないように思う。とにかく、既存の客を大事にして、そのネットワークを生かすことを考えてほしい。

とりあえず、以上です。

書いてみると、外野からの「一般論」に過ぎないような気がしてきたが、折角だから公開しておきます。激増している外国人の旅行者をお客にする方法はないか、とか、考えてみたいことはありますが、いずれまた。

2018年8月13日月曜日

祭りを担がず生きてきた

小学校の低学年まで尼崎の外れに住んでいた。同じ文化住宅に住んでいた人たちや、近所に住む同級生の親世代の人たちは、うちの親同様、高度成長期に関西圏外の地方から来た人がほとんどだった。近所の神社でお神輿を担ぐお祭りがあり、親が私を参加させようと連れて行ったら「よその子はダメ」と言われたそう。自分はよく分かっていなかったし、そもそもそんなの参加したくなかった(理由は身体を動かすのがしんどいから)から平気だったが、親は長らくその排他性を怒っていた。

その後、大阪市内に引越した。近くに神社は無かったが、夏休みに町の一角に夜店が出る日というのがあって、それを見に行って何となくワクワクする、というようなことはあった。今考えると、近くの公園に住吉神社の址という石碑があったから、元はその神社の祭りだったのかもしれない。あと町内会の盆踊りなんかもあったが、町内会やPTAで活動する大人(市会議員とかか)の子どもと、ヤンキーが大きい顔をする場という感じで、楽しい思い出はない。中学以降は、覗きにも行かなくなった。

実家を出てから、幾つかの場所を経て、今は実家の隣区に住んでいる。かなりの世帯が暮らす古い集合住宅で、夏になるとナントカ神社の賛助云々という名目で町内会がお金を集めに来る。夏祭りの経費だという。いくらでもいいからというので、最初の年には数十円だけわたしたが、何とも釈然しない気持ちが残り、以降、一切断わることにした。ここから100メートルも離れていないくらいのほんの近くにちょっとした神社があるのだが、この住宅が出来た40年くらい前、ここの住民は「よそ者」として氏子に入れてもらえなかったらしいのだ。そのため、ここの町内会の人たちで、無理やり新しい神社を(いろんな由来のお話をひっつけて)作ったそう。詳しくは知らないが、たぶん、そういう流れだと思う。その神社、夏祭りと、初詣の時とだけ、それらしい飾りとかをつけているが、普段は拝む人などだれもいない、変なスペースになっている。

由緒ありそうな方の近所の神社(大正期にはあったらしい)、そして、さらに隣町には、本格的に由緒のある神社(中世からあったらしい)が二つくらいあって、それぞれ別に祭りをしていて、最近の「保守化風潮」を反映しているようにしか自分には見えないのだが、自分が子供の頃よりも、盛り上がっているような感じなのだ。太鼓をたたいたり、岸和田の小型版みたいなダンジリの引き回しをしたり。それらを眺めると、しらっとした気分になってしまう。同じようなくすんだ下町に住んでいる者同士で、よそ者だ、どうだなんて線引きして盛り上がってるんだろうな、と考えると。

もちろん、この辺りは基本は都会だから、盛り上がっている人らの方が少数派なのだと思う。住人がほぼ全員参加の祭りがあるような所に住んでいて、しかもなんかの理由で、そこに参加できない、してもしんどい、なんて状況になった時のキツさなんてこんなもんじゃないだろうな、なんてことを考える。

お祭りというもの、あってもいいとは思うけど、やり方なんか、どんどん変えていけばいいんじゃないのかなぁ。とにかく、自分の人生とお祭りは、何の関係もないことは確かだ。何かに組み込まれ損ねた、ということではあるのだろう。観光のために、地域の祭りを残すのはいいと思う。が、自分は別に見たいと思わない。祇園祭は一回行った。もう一生行かなくていい。天神祭も、一二回は行ったからもういい。自分には関係がないものだ。話題の阿波踊りなども、見たら面白いのかもしれないが、別に見なくてもいいな。よく分からないけど、弾圧されている人がいるなら、頑張ってはねのけて欲しい、ような気はするが。うーん、民俗学を全否定するような発想になっているかな…。いや、そんなこともないですよね。今の時点での、ある種の民俗記録として書き残しておきます。生まれた所から、半径10キロくらいの範囲に半世紀近くも暮らしてきた古老(手前)の語り。

2018年8月10日金曜日

毎日が夏休み

今年の後期は週11コマ。収入の面ではありがたいが、半分くらい来年には無くなると言われているから、モチベーションは低いし、移動して一日に4コマとか体力的にかなりきつくもあるので、前期の講義期間中からすでに不安だった。今でも結構しんどいのに、後期は大丈夫か、と。ようやく、夏休みになった。採点なども大体片付いた。自分の時間として活用すべき自由な時間なのに、授業が再開したら、そんな生活に耐えられるのだろうかという心配に襲われ、精神的に委縮してしまっている。そんなことなら、早く始まってしまえばいい、というマゾ的な気持ちも湧き出て来たり。まともに働いている人は、数日間の夏休みを楽しみにしていることだろう。自分は休みが何日もあるのに、何とも言えない焦りの感情を抱えてふわふわして過ごしているだけだ。もっとも、まともな収入があった上での連休ではないから、そんなに罪悪感は感じていないが。

どうやったら、自分の「自由」を生かせるか。こんな生活をするようになって、というか、こんな生活が続くことがはっきりして以降、何度も考えてきた。焦りの感情は自分が作り出した幻影だ。そこから逃れるために、森田療法とかマインドフルネスとかの本を読んだりもしたが、最近はその手の本がそそらなくなってきた。自分は、神経が鈍感だから、うつにはならないようだけれど、もう少し平安な気分で過ごす時間を増やし、自分なりの課題に、前向きに取り組みたいと思う。そのためにはどうするか。とにかく、何かを実践していくしかない。何か、いつか、と言っていると、ただの焦りになるから、具体的なことにとりくみ、それを淡々と積み上げていくことをめざす。結局、結論はいつも同じだ。それにプラスして、もっと隣人のために生きることを心がけることと。自分のことしか考えないで生きてきたから、実践するのは大変難しいが、とりあえずの目標として。

老眼が進んでも、髭に白髪が数多く混じるようになっても、朝めちゃくちゃ早く目が覚めるようなっても、頻尿気味になっても、自分は中二病なのだ。死ぬまでこのままなのか、と不安になるが、体力の減退とあわせて精神のあり方も少しは変わって来てはいるようではある。成熟か枯れていっているだけか、よく分からないが。自力でここから抜け出すのは、なかなか難しい。自分の精神をあまり覗き続けない方がいいのだろう。

どこかに行って気分転換したいが、金がかかると思うとどうしても腰が重くなる。とはいえ、生きている内が花だからな、何か工夫して、活動する気力を呼び起こしたい。