2017年7月17日月曜日

書き残すべき事かどうかをあまり考えなくてもいいように思う

外を歩いていると、書いておきたいことが頭に浮かぶ。書いておきたいだけで、それ以上でも以下でもない。昔の小説家(漠然と昭和初期くらいのイメージ)なんかが、何でもない身辺雑記を書いて、それで原稿料をもらっていたというのは、なんともうらやましい。今なら、ノーギャラで多くの人が書いているブログレベルの内容のものもいくらでもあった(と思う)。書いておきたい、の話だった。何で書いておきたいのか。頭に浮かんでいるだけでは、すぐに消えてなくなるということを身に沁みるようになったからだ。頭に浮かんでいるだけでは、行為ではない。書きだして、他の人に読まれる状態になって、初めて、何かの行為になる。自分に値打ちをつけるなら、自分として他者に示す行為には、それなりの配慮が必要だろう。その時々に喋り散らすだけならともかく、書いて残すとなると、自分の発言したこととして、他人にとっての自分を作る大きな意味を持ってしまう。大きな、というのは、自分にとってであり、他者や社会にとってではないが、対他人、対社会という意味での自分には、やはり大きい。だから、よりよいものを残そうと、ちゃんとした人は考える。昔の偉い先生が、「自分はまだ本を書くほどの人間ではない」とか考えて、残る仕事に着手するのを後送りしていたのは、そのためだろう。しかし、今は、残すことの意味が大きく変わった。丁寧な仕事を丁寧に残す、ということは理想であり、出来る人はするべきだろう。自分もある程度、そうかなと思ってきたが、何でもない、どうでもいいことでも、とりあえず書いて残しておいた方がマシなのではと思うようになってきた。それは、もちろん、ブログやSNSが登場して以来、ほとんど読まれないが、数人は読んでくれる他者のいる文章を書くということを経験してからのことだ。できればもっと多くの人に読んでもらいたいと、思うと、それこそもっと価値のあることを書くようにすること、もっと洗練したものを残すようにすることが必要なのだろうが、もしかしたら、だらだらとした未完成のものでも、とりあえず「発表」する方が、頭に浮かんでも何も外部化しないというよりはいいんじゃないかと思えてきた。大型書店にならぶ、排外主義や、ステレオタイプの繰り返しで作られた酷い内容の本を見て、特にそう思う。ああいうものは、ひどいけれど、商品としては成立しているのだ。いわば、文章のプロが書いて(プロかどうかを売れるものを作れるかどうかで決めるとすると)いるものである。商品となっている文章にあのようなものが沢山ある以上、何というのか、読んだことがないので何とも言えないが、百田氏などもたぶん、普通の意味で小説を書くのは上手なのだろうし、完成度とか、商品になるかどうかという基準にもとづいて、その軸で、ある点まで及ばないから、発表は控えると考えても、もはや仕方がないのではないかと思うのだ。無駄話でも、何でも発していた方がいい。もちろん、あきらかに、後悔するだろうようなものは書かない方がいいが、残念ながら、どれだけ内なるストッパーを外して自由に書こうとしたところで、常識に大きく縛られたものしか、自分のような人間には書けないのだ。そんなわけで、あまり練っていない文章で、「頭に浮かんだこと」を書きとめておこうと意識してアップしているのがこのブログである。無理に他人に読ませるとしたら、時間泥棒にすぎないが、後から振り返ってみると案外、読めるものだったりするから不思議だ。時と場合によるが、最近、「これは良記事」としてツイッターで紹介されるような、整った記事が逆にしんどく感じられたりもする。

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