2017年5月7日日曜日

何も書き残していないと何もなかったことになる

もう少し頻繁に更新するつもりだったが、書く気になれず放置している。書き残しておかないと、何もなかったことと同じになる。過去のことは忘れてしまうもので、それはそれでさっぱりしていていいじゃないかと思っていたし、今もある程度はそう考えているが、あまりにもすっかり忘れてしまうようになると、残念に思う気持ちが芽生えてきた。芽生えてきたというと、若い時はそうではなかったかのようだが、日記を書いたりしていた(とぎれとぎれではあるが)ので、記録を残しておきたいという気持ちはずっとあったのだ。ただ、記憶が無くなっていくということと、考えが変わっていくということ、頭の働きは弱くなっていくのだ、ということがリアルなものになってくると、記録に対する意識もやはり変わる気がする。例えば、今はまだ覚えている今日一日のこと、昨日のこと、何とか思い出そうとすれば出てくる一昨日のこと、だいぶ怪しい4日前のこと、これら自分のアタマの中にある何かは、今、書いて残しておけば残るのだ、しかしそうしなければ、確実に、きれいさっぱりこの世からなくなるのだ、それで本当に良いのかという不安に襲われるのだ。それでいいのだ、と、アタマでは思うのだが、記憶をあまりにも雑に扱うことで、過去のことだけでなく、現在への対峙の仕方にまで悪影響を及ぼしているのではという心配がある。書いておいたところで、それは、所詮現実の断片だ。だから意味がない、と昔は思っていた。しかし、アタマの中のぼんやりした出来事を残す、他者と共有するというのは、そんな断片的な方法しかないのだ、ということにようやく気がつきはじめた今日この頃だ。下手な写真でも撮っておいた方がいい。下手な記録でも残しておいた方がいい。いい、というのは、世界にとって良いと言うのではなく、ただ自分にとってだ。死ぬまで自分とつきあい続けなければならない。すねたり、ひねたりはするだろうが、生きている限り誰かと何かを共有したいという思いはずっと持ち続けるような気がする。先のことはわからないが。ならば、まぁ、誰も読まないとしても、アタマの中に何かが出てきて、それを、他者が一応は解読可能な程度の言葉にできるのなら、何でもとりあえず書き残しておけばいい、と今は思うようになった。だが、面倒くさいし、何でもいいから書いておこうと思っても、何も出てこない日は出てこないのだ。

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