2016年9月25日日曜日

どんどん書くことにしている

何かをやろうとすると、すぐに反対の考えが心に浮かぶ。どうせ無理だ、意味がない、など、やろうとすることをおしとどめようとする。世の自己啓発本は、ポジティブシンキングをすすめて、自分内のストッパーを外そうとさせる。自分も、そういう本をパラパラながめて(恥ずかしいからこういう言い方をしているのであって、何冊かは結構しみじみと読んで)、なるほど、そういう部分は自分の欠点だな、もっと肯定的にとらえるようにしなければな、と考える。ああいう本が読まれるのは、誰にでも当てはまる心理的傾向だからなのだろう。

他人の内面というものは、よく分からないものだ。自分がそうだと思い、他の人もあてはまると思い込んでいることが、どれくらい本当にそうなのかは究極の所分からない。だいたいそうなのだろうと思いながら、ごまかして生活している。そんな不確かな目でではあるが、どうやら、ポジティブシンキング的な考え方は、生まれつきか、環境か知らないが、する人はするし、できない人ははなからできないように感じられる。できない人が、自己啓発的なものにハマる、というのが分かりやすいが、実際は、できる人がそういう本を読んで、これでいいのだ、と確認する、自分の中の「弱い部分」を押しつぶしておく、それでスッキリする、という風に使っている場合もありそうだ。そっちの方が多いのかもしれない。

今、自分は、ネガティブ側に立って、ポジティブな人を、ちょっと脳天気な奴らというように描いている気もするが、自分自身を振り返ってみたら、案外、ポジティブ側なのかもしれないとも思う。自意識としては、全然違うのだけど。精神的に弱く、肝が据わっておらず、いわゆるヘタレだけれども、どこかで、どうにかなるさ、というような楽天的な発想で生きてきたのだ。冷静に考えると、どうにもならないので、時に、激しく不安に襲われるが、精神疾患みたいになることも、今のところは特になく、そのうち危ないかもしれないが、まぁ、生きているようだ。

何を書こうとしたのか。

このブログでは、頭に浮かんだことを、とにかく外部に書き出して、ちょっと整理したくらいの文章を載せている。元ネタは、『魂の文章術』というスピリチュアルな自己啓発本だ。10年くらい前、図書館で読んだ。自己検閲の力をゆるめて、書きまくれ、というようなことが書いてある。詳しい内容は忘れたが、潜在意識とか、内なる自分とか、その手の、似非心理学は興味がないのだけど、そんな話と絡めながらの本だった。『数学文章法』で評判のいい、結城浩さんも、ネット上の文章で、この本を参考に、自動筆記をすすめていたように思う。書けない人は、自分内の編集者がうるさいことが原因になっている。だから、頭に浮かんだことをどんどん書き出すことは、精神の健康にもよい。結城氏は、バックスペースだけを許可し、複雑な編集はしない、などの縛りを推奨していた。

このブログの文章は、エディターで一気に書いている。後から少しだけ、入れ替えたり、編集しているから、自動筆記ほどではない。書き方のルールについて、説明しようとしているのは、おそらく、「本当はもっときれいな文章が書けるのだけど、これはあえて雑く書いているのです」と言い訳したいという欲求があるからだろう。振り返ってみたら、丁寧に書いたところで、一気に書いたものと、読みやすさ、その他、あまりかわらなかったりするのだが。文法的間違いだって、大差ないかもしれない。丁寧に書いたつもりでも、何日か寝かせたあと読み直すと、へんてこな部分がいくらでも見つかるのだから。自分のつかう言葉の癖やパターンのようなものは、一気に書いた方がずっと目立つけれども。

図書館で、『魂の文章術』を手に取ったのは、書けないことが苦しくて仕方がなかったからだ。「本当」のところ、自分が、ポジティブなのかネガティブなのかは分からないが、とにかく、書けない期間が長く続いていた。書かなければならないと思うと、手が震えるくらいになった。自分にとって、ポジティブな行動がとれない、前向きに生きられない、というのは、書けないということと結びついていた。書くことは面倒くさい。その面倒くささをいろいろ言い訳しながらごまかしてきた。今でも書けないのだけど、だいぶマシにはなってきた。ひとつのきっかけになったのは、このような自動筆記的方法の実践だったのだ。とにかく、書かないとどうしようもない。下手でも、つまらなくても、何か書きだそう。しゃべっているだけでは何も残らないけど、書くという行為は不思議なもので、自分用のノートに文字を書き連ねているだけでも、何かは残る。それが、良いことなのかどうかは分からない。妄想をこじらせ、犯罪を犯すような人が、びっちりノートに文字を書いていた話とかを知ると、他者に開かれていない文章が大量に蓄積されてしまう状況は、病気をより悪化させてしまう例もあるように思う。だから、誰に対しても、有効な方法と言えるかはわからない。分からないが、自分には、あまり意味とか、読まれることとか考えず、とにかく書いてみろ、という実践は、役にたったのだ。

次の段階は、他人が読んで意味のある文章を書くことだ。言い訳をしたい自分とは、つまり、本当はもっと上手に書けると見せたい自分だ。この見得の部分というか、恥をかきたくない心を、何とか解きほぐすことが必要だ。そのために必要なのは、とにかく、沢山書くことだ。おそらく人生の後半戦に入って、ずいぶん経つはずだ。そんな歳になって、こんなことを言っていること自体、情けないが、自分の能力からしたらこんなものなのだ、と思えるようになってきた。

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