2016年9月22日木曜日

そういう言い方は良くないんじゃないか、と思うことが多い

ツイッターに流れてくる意見に、反発したくなることは多い。そんな言い方はないんじゃないか。こういう点はどう考えるのか。あなたは前にこんなこと言ってたじゃないか。などなど。

しかし、論争したいわけではないし、小言みたいに受け取られるのも嫌だし、などと考えると、個別に反応するのはやめておこう、と思うようになってしまう。リアルなやりとりだったら、自分の考えを挟みながら相手に考え直してもらうということもできるが、文字だけでそれをやるのは、しかも、軽いノリが良しとされているような所では、ものすごくエネルギーをつかうだろう。ということで、基本的にスルーするだけになる。

炎上するような、とても悪い意見、たとえば、この間のフリーアナウンサーの人工透析に対する、公共で活動する人間とは思えないような記述などは、誰が見ても悪いものだから、すっきり石を投げられる。それでどうか、もっと違うやり方が必要じゃないか、という意見もあるだろうが、とにかく。

反発したくなるが、結局、やめておくのは、もっと微妙なものだ。全く知らない人だったりすれば、そんなに気を使うことはないし、またそれほど気になりもしない。逆に、強いつながりがあれば、個別に意見交換ができる。難しいのは、ちょっとやりとりをしたことがあったりするような人で、この意見以外は、一つの態度以外は、それほど悪いと思わないというような場合か。

いちいち、こうじゃないか、違うんじゃないかと言ってられないから、受け流す。自分のような適当な人間、世間では一般的だろう。だから、執着心の強い人か、何でも思ったことを口に出さずにはいられないような人の、異議というか、ツッコミというか、だけが目に見えるものになる。そのため、修正行為や部分批判自体、面倒くさいやつのやる行為と見られてしまったりもするのだろう。

ツイッター上での他者の否定、多様な他者をひとまとめにしての論評、聞かせようという悪意の悪口、などなど。やめてほしい。しかし、やめてほしい、と思ったそばから、自分も同じようなことやっているじゃないか、という内なる声が聞えてくる。他人に苛立つときは、だいたい自分自身にあるものと似たものをそこに見出した時でもある。他人から発する不快なものに接した、というより、自分も持つ毒に触れたような気持ちになる。だから、まぁ、なんというか、ほどほどにしてほしい。

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