2016年9月11日日曜日

金原みわさんの記事に対して抱いた疑問点について(2015年12月20日)

ネット上にアップされた次の記事について抱いた疑問点について書きます。
http://zoudazou.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html

金原みわさんというライターの方が、淀川の河川敷探訪記として書かれたもので、その中で小屋掛け生活をしている方の写真と生活が紹介されていました。わたしは取材場所の近所に住んでいますので、そのあたりはよく散歩しています。その方とも何度か話をしたことがあります。ただそれだけの関係です。当該記事については、著者の金原さんが書かれた記事を以前興味深く読んだことがあり、ツイッターをフォローしていたため知りました。金原さんともネット外での面識はありません。そこで、ツイッター上で批判のメッセージを送りました。金原さんから誠実な回答がありました。記事は掲載し続けると判断されたとのことです。その間のやりとりは、関心のある方はツイッターをたどってください。ツイッターでは、中途半端ないちゃもんだけになってしまっていますので、ここに私の異論をかかげておくことにしました。

ネットにアップする危険性について
記事を一読して、こんなにハッキリと本人や小屋の写真をとって、ネット上にアップするのは危ないのではないか、とまず思いました。近所の人なら、どこの誰のことか、すぐに分かるからです。社会には、いろんな意見を持つ人がいます。公園にテントを貼って仕方なく暮らしている人には、「みんなの場所」を独占するなという声があがります。さまざまな事情から家を失ったため、仕方なく「みんなの場所」に流れ着いて雨露をしのいでいる人が多いと思いますが、「公的機関」の許可を得ていない以上、ナントカ条例「違反」だと、目の敵にする人も少なくありません。

もちろん、路上生活について、どう思うかは、それぞれの自由でしょう。私は、河川敷のような空間のすみずみまで管理が行き届くような社会は息苦しくて気持ち悪い、と思っています。が、そう思わない人も多いはずです。印象論ですが、ネット上はそのような規範意識の高い人が多いように思います。あの記事のせいで、存在が知られ、中には、行政に苦情の電話などをかけたりする人があらわれるのではないか、そのために、これまでなんとかやってこられた生活の場を、あの方が失うことになったら大変だ、という危惧をまず抱きました。今でもそれは持っています。

表現をめぐって
最初に記事を読んだ時、「おじさんに続いて、ホームレスハウスの中へ入っていった。…そのうち私は、好奇心に殺されると思う。」という一文に、大変憤りを抱きました。

上記のように、ぼかしもなしで写真をアップしていることに対して、被取材者にどんな影響を与えるかあまり気にしない方なのだろう、とまずは思いましたし、危害を及ぼすのはあくまでも、おじさんの方で、自分は勇気ある冒険者のような気持ちでいるのだな、と感じました。あの小屋は、「ホームレスハウス」という言葉を聞いて、想像するような場所とは違うのにな、とも思いました。

日本中で、路上生活者に対する暴力行為はあとを絶ちません。大阪でも、若い男性により、何の罪もない路上生活者の方が殺されるという痛ましい事件が何軒かありました。「普通の生活」をしている人たちが、そこから外れた暮らし方をしている人に対して、広い意味で恐れの念を抱くのはもちろん仕方がないとは思います。ただ、実際は、被害にあうのはいつも路上生活者の方です。
(たとえば、こちらなど参照。http://iwj.co.jp/wj/open/archives/161681 )

もしかして、金原さんの好奇心が殺すのは「自分」ではなく、「相手」の方なのではないでしょうか。大げさに言えば、の話ですが、取材する側は相手の生活に影響を与えるかもしれない、という最低限の自覚は必要だと思います。

「好奇心に殺される」というのは、金原さんの活動全体をあらわすキャッチフレーズのようなもので、象徴的な意味で使っているだけなのでしょう。(乱歩を描いたアニメのキャッチフレーズだということもさっき知りました。)もちろん、本当に「殺される」と思ったら、声はかけないでしょうから。

「普通」の人たちは、路上生活者のことは、たとえ目にうつっても存在として認識せず、スルーするものだと思います。あの小屋は目立ちますから、他の路上生活者の方よりは多くの耳目を集めたと思いますが、これまで何十万、何百万人もの人が視界に入りながらも認識もせずにすごしてきたはずです。興味を持ち、住んでいる人に話しかけ、写真におさめた金原さんが、スルーする他の多くの人に比べて差別的だなどとは全く思いません。ただ、自分の関心を記事にする、「こんなに面白いものがあるよ」と他の人に伝える、という時には、被取材者に対する最大限の配慮がいると思いました。

もう一つ、本文中で使われていた「おじさんから獣の匂いがした」についての、違和感を@で伝えました。

金原さんからは、
「表現について。あの話の中で侮辱するつもりも責めるつもりもありません。また褒めるつもりも持ち上げるつもりもありません。言葉を慎重に選んだ上で、訪問者として私が感じた素直な気持ちを書かせていただきました。」
という返事をいただきました。

最初、とても差別的な表現だと感じました。路上生活者=「野生の生活を送る人」という連想から、「獣」という言葉を無神経に使っているのではないか、先に書いたように、自分自身を冒険者になぞらえているようだし…。

しかし、冷静に全体を読み返すと、自分の誤読かもしれないと思えてきました。ここでの「獣」は、確かに否定的でも肯定的でもないように配慮して使っておられます。少なくとも、私が知らない場所の知らない人に関する記事だったとしたら、全く気にならなかったかもしれません。匂いの元は、自由度の高い生活をしているペットたちの方で、ペットを愛する方たちであることを表現されているのですね。自分の方が、偏見により歪んだ読み方をしたのかもしれません。

ただ、路上生活者のことを書く時に、「匂い」に関する表現は、やはり気になります。一般的に、路上生活を送る人はお風呂に入る機会も少ない人も多く、不快な匂いをさせる人が多いのは確かです。公共の場所、たとえば図書館をめぐっては、異臭を発してしまう方をどうするか、というのは大変深刻な問題となっています。しかし、記事にあがっていた最初の人は、そういう匂いがあまりされない方です。微妙な話なので直接聞いたことはないですが、たぶん相当気を使ってらっしゃるのでしょう。だからこそ、多くの人が訪ねてきたりする、ということがあると思います。それなのに、「獣の匂い」って書くのはひどくないか…と思った次第です。

許諾をめぐって
今回、わたしからの批判を受け、金原さんはすぐに行動に移され、再取材をされたようです。お尻が重い自分からすると、フットワークの軽快さには本当に頭が下がります。ご本人に記事掲載許可を受けられた以上、これ以上とやかく言うのはやめておきます。

他の方が、取材写真のあり方について法律的な話をちょっとされていましたが、私は「法的」な話はあまり関心がありません。ブログや、SNSなどで、勝手に撮った街や、知らない人の写真なども無神経にアップしています。怒られたらその時に謝ろう、くらいの気持ちです。河原の話でも言ったように、ガチガチに管理された社会より、ちょっとルーズなくらいの方がいいと思っています。

金原さんの他の記事やツイッターでも「絶対あかんやつ」がよく取り上げられていますが、ああいう著作権を無視した自由な表現は、私は大好きです。もちろん、ツイッターでRTすることもあります。ミッキーマウスもドラえもんも、簡単に描けるからこそ愛されているのだから、どんどんみんな勝手に描いたらいい、くらいに思っています。

十三駅前の「鉄腕波平通り」がそうだったように、あまりに多くの人に「面白がられ」すぎると、「お上」に見つかって、撤退せざるを得なくなったりもするでしょう。「面白い」ものを発見し、広く伝えると、その面白いものをなくしてしまう、ということにも当然つながります。ずうずうしく「鉄腕波平」なんてキャラクターを使っちゃう商店会は、タフな人たちだと思います。ちょっと怒られたくらい平気でしょう。自由な街の看板も、ヘタクソなミッキーマウスも。みんなタフです。

そういう意味では、河川敷で自分で小屋を建て十年も住んでいる人は、「タフ」に違いないです。関係ない自分が「弱者」のようにとらえ、文句を言っていること自体、失礼なことかもしれません。ただ、看板は貼り換えたらすみますが、生活の場は、それほど簡単に変えられないのではないでしょうか。ですから、「面白い人」として紹介するには、それなりの配慮がいるのではないか。そういう危惧から、違和感を表明しました。

議論が大きくなればなるほど、読まれない方がいいと思う記事が読まれることになりますので、書くか書かないか大変、迷いました。しかし、金原さんが誠実な対応をされた上、その上で記事を掲載し続けると判断された以上、他の人が読める場所に意見を書いておこう、と判断しました。あのおじさんが、もしあそこにこれ以上居づらい状況に追い込まれたとしたら、その責任の一端は自分にもあります。(20151220)

※※※
このブログ、放置気味になってしまっております。このライターの方、各所で活躍されているということを知り、久々に確認してみたら上記記事リンク切れになっておりました。この記事を書いた直後、ご本人にお伝えしました。すると「見ました」の一文だけのメッセージが返ってきました。ツイッター上で違和感を伝えた際は、記事にある通り、迅速に再取材したり、こちらにも会って話をしましょうという趣旨の連絡がなんどかありましたが。文章で公表している内容に関しては、公の場で議論すべきだと考え、公的に意見を述べますと返答した上で、それなりに時間をかけて書いたのが、この文章です。元の記事を削除された、あるいは別に編集されて本にでもされていたりするのかどうか、私は知りません。リンクが切れている以上、何もないところに批判の玉を投げているようで、ヘンテコになってしまっていますが、しばらくはネット上に掲載されており、ある程度話題を集めた記事(おそらく私も、自分がよく知らない対象の話なら何とも思わなかったでしょう)だったことは確かですので、この文章をさらしておくことにそれなりの意味があるように思います。念のため補足しておきます。(20160726)

0 件のコメント:

コメントを投稿