2018年6月30日土曜日

見たくなければ見なければいい、の話

 控室で英語担当の女性講師が「先生、今日は眠くありませんか?」と声をかけてくれた。非常勤講師としていろんな所で働いているが、「コンニチワ」「オツカレサマデシタ」以上の会話はあまりしない。そんな中、いつも何か話題を振ってくれるこの方は、貴重な存在だ。「あんな試合なら起きてなくてもよかったかなって後悔しましたよ」と笑ってらっしゃる。本当に、少し眠たそう。ワールドカップの話だな。自分は見てない。見ていないけど、やっている時間は起きていた。だから、眠くはある。ツイッターも眺めていたから、何がどうなったかは、だいたい知ってはいる。どう答えようか、と一瞬ためらったが、考えるより先に、「僕はサッカー見ないので、眠くありません」という拒絶的な言葉を発してしまった。「…あ、そうなんですか…」「ええ、国家代表とか、そういうナショナリズムが嫌いなんです」と余計なことまで口にした。言った瞬間、激しく後悔したが、遅かった。「ああ、そういえば、まぁ、そういうのは、あれですよね」と、気まずさを調整するような言葉を相手に言わせてしまった。
 「こんにちは」「お疲れさま」と仰っただけなのだ。「暑いですね」「鬱陶しい天気ですね」の延長線なのだ、「サッカー何々でしたね」も。見てなくてもいいのだ。「僕、見てなかったですが、どうでした?」とか、「これこれこうなんですってね、見てないですが」とか答えたらいいだけなのだ。サッカーとは何か。スポーツはどうあるべきか。はたまた国家とは…、なんて、何の関係もないのだ。どうして、自分は、こんな当たり前の大人としての対応が出来ないのか。
 まずい、と思い、「知人も好きな人が多いですからね、サッカーは」「ヨーロッパリーグとか応援していたり、ナショナリズムを越えた魅力がありますよね」とか、いろいろ取り繕うことを口にした。自分の言葉はいつも軽いが、これらの言葉の空虚さは後に引きずるほどのものだった。
 
 別の男性講師の方が入ってきて、お二人で、サッカーの話は継続された。ああいう作戦をどう評価するのか。フェアプレーポイントみたいなのがあるのは初めて知った。次にあたるのは、どこどこだ。ドイツが韓国に負けたのは意外だった。前回優勝チームは、予選敗北というジンクスがあるのだ。などなど。全く試合を見ていない自分でも、全て知っている話ばかりで、楽しい会話は続いていた。
 日本中で、あるいは、焦点は違うだろうが、世界中で、同じ話を、同じようにみなでやっているのだ。あれは良かったのか、ダメならどうなのか、それにしてもあれでは、とはいえあの場合は。そういうものなのだ。自分は、たまたまサッカーからは距離があるだけで、他のテーマについては、同じようにやっているのだ。あれはどうだ、これは、こうだ、あれはゆるせない、でもこれはしかたない、あんな意見があるが、それはこうだ、これが分かっていないのだ、でも、たしかに、まぁ、そうですね、と。
 
 三島由紀夫が『不道徳教育講座』で、流行には乗っておけ、「乗らないぞ」なんて意識している奴の方が、よっぽど流行に左右されているのだ、というようなことを言っていた。まさにそうだと思う。ここ連日、ワールドカップの事ばかり気にして過ごしている。一試合も観ずに。流行に左右されまくっている。
 講義の雑談で、「早く終わらないかな、とかネットでつぶやいてますが…」と言ったら、ちょっと受けた。安物の「ぶっちゃけ芸」みたいなことをしてしまっている。恥かしい。視聴率がある程度正確なら、まぁ、半分弱くらいの学生は見ている、という感じだろうか。
 いつからこんなに「気にする」ようになったのか。もう覚えてない。中田とか、カズとか、武田とか、川口とかは、名前と顔が一致するから、その人たちの頃は、普通に試合も見ていたのだと思う。熱心ではなかったが。その次の世代は、コマーシャルに出ている人の一部とか、モノマネされる人くらいしか知らない。いつからか、意識して見ないようにし始めたのだろう。
 私の知っている社会学者には、野球ファンは少ないが、サッカーファンは多い。自分にとっては、それが余計に苦手意識へとつながっているような気もする。準拠集団の皆さんへの恐怖感か、何かしらないが、とにかく。ここ何年かの間に、試合の映像がたまたまテレビに映っていて目にしたことはある。何となく、面白そうな感じはする。しかし、その面白そうな感じが、またちょっと気持ち悪かったりする。
 
 ふと考える。自分の内なるコレは、数年前「韓国嫌い」の連中が、フジテレビにデモをした時の原動力と同じものなのではないか、と。「嫌いなら見なければいい」「誰も見てくれなんて頼んでいない」「好きな人の邪魔しないでくれ」。KARAや少女時代が好きな自分は、韓国の芸能人を日本のテレビに出すな、と訴えた、あのデモの連中を憎んでいる。馬鹿な奴らだと心から軽蔑している。あのデモは、戦後に実施された大衆デモの中で、「目的を達成した」数少ないもののひとつだ。自分が、ワールドカップに感じるコレは、あいつらの感じていたものと同じなのではないか。「嫌いなら見なければいい」のだ。確かに。「好きな人の邪魔」なんてしてはいけないのだ。しかし…。黙っている、ことの何とも言えぬ圧力。だから、つい「嫌だ」を訴えたくなる。あいつらと自分は、同じ穴のムジナなのかもしれない。
 肥大化した自意識と、メディアが作る疑似環境と、そのあたりの問題だろうとは思うが、どうか。もう少し、きっちり考えないといけない、かもしれない、かも…。

 と、まぁ、このようなことを考えながら、鬱陶しい雨の中、二つ目の勤務先に移動した。
 ここの学校は、女子スポーツ部が盛んで、グラウンドでは彼女たちのトレーニング姿がいつも目に入る。どのクラブも、雨のために練習は休みのようだった。そんな中、女子サッカー部の学生数人が、びしょ濡れになりながら、ボールの蹴りっこをしていた。前日の試合を見ていて、じっとしていられなくなったのかもしれない。本当に楽しそうで、サッカーが面白くて仕方がない、という様子だった。こんな美しいサッカーを見てしまい、グチグチとこねくり回している自分の気色悪さが恥ずかしく思えてきた。

 なんですね。運動不足ですね。自分。たぶん。あと、カルシウムとかも足りてないのかも。4年後は、ケロッとした顔で、あそこの監督はどうたら、とか言っているかもしれません。その時は、すみません。ああ、でも、もう次の試合は惜敗してほしいなぁ…。

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