2012年4月22日日曜日

「長八の宿」に泊まる話

3月末、K君に誘われ、伊豆半島に小旅行に出かけた。彼は理系の研究者で、ゲノムに関する研究プロジェクトに関わっている。T大で助教(かつての助手)として働いていたが、新年度から職場が変わることになっていた。近年の大学界隈では、下働きの研究者や事務員の多くは、年限付で雇われるようになっている。彼も、期限切れを迎えたのだ。原発に反対し続けてきたことで有名な小出先生のように、クビにはならない万年助手という立場は、今日の「若手」研究者からみるとちょっと羨ましかったりもするのだ。有給休暇も手つかずで残っているし、4月以降、旅行する余裕なんて当分ないかもしれないので、ちょっとどこかに行きませんか、という話なのであった。3月で任期切れは、私も同じこと。他の研究機関への就職が決まっている理系の彼とは違い、私の方は次の仕事が見つからず、これからどうしようかと重たい気分で春を迎えようとしていた。当然、旅行するような気分ではなかった。精神的にも、経済的にも。そんなこちらの懐具合を察して、旅費くらいもつからさと、何ともありがたい申し出までしてくれるK君。そこまで誘ってくれるなら、ちょうど取材として行きたいと思っていたところもあるし、それを兼ねてだったら行ってもいいかなと、二泊三日の旅に出かけることにした。(旅費はともかく、飯くらいはたかってもいいかな、というくらいの気持ちだったのだが、結局、ほとんど全部おごってもらうことになってしまったのであった。)

伊豆の伊東温泉競輪場で、競輪の日韓戦が開催されることになっていた。ぜひ、生で観戦したいと思ってはいた。真剣勝負で日韓のトップ同士が戦うのは、史上初なのだ。去年の3月に実施される予定だったのだが、震災で一年延期となってようやく開催されることになったものだ。去年だったら、研究費で旅費が出ることになっていたので、公式に取材を申し込んで見学する予定だったのだが、今年はそんな資金はない。自費で行くには遠いのでどうしようかと迷っていたところだった。そんなわけで、K君にも競輪につき合ってもらい、その後、伊豆近辺のどこかを回ろうということになった。

東京から来るK君と熱海の駅で待ち合わせ、伊東線に乗りかえ伊東まで向かった。競輪初体験の彼に、簡単なレクチャーをしているうちに、伊東に到着。競輪学校の取材で修善寺には行ったことがあったのだが、伊豆半島の東側は初めてだった。駅前の様子は、あまり活気がない観光地という感じだったが、春休み中の週末でもあり、それなりに観光客の姿もあった。タクシーで競輪場に向かい、夕方まで、レースを楽しんだ。特別なイベントで、この日は決勝戦の行われる最終日だったのだが、場内の観客は田舎の競輪場の普通のレースと変わらない感じだった。ルールの違う日本の競輪に慣れない韓国選手が連日苦戦していたが、この日は、二日間の経験を生かし、一矢報いる場面もあった。貧乏人らしく100円単位で遊んだだけだが、少し浮いた。K君は、最近手に入れたというミラーレスデジカメで場内を興味深げに撮影したりしながら、はじめての競輪を楽しんでいたようだ。残念ながら、ビギナーズラックとはいかなかったが。

レース終了後、伊東の駅まで無料バスで戻る。この日まで、何だかんだお互いに忙しくもあり、競輪以外の予定はほとんど決めていなかった。とりあえず、伊東の街に宿をとり、酒でも飲みに出かけようということにしていた。スマートフォンを持つK君が、「食べログ」かなんかで評判の良さそうな店を探してくれる。私の方は、うまい店を探して食べに行くなんて趣味を持ち合わせていない。チェーン店以外に入るのは普段ならびくびくものなのだが、今回は、高けりゃ出してもらえばいいやと、K君という大船に乗ることにしていたので、すっかりまかせっきりだった。カウンターと少しのテーブルがあるだけの店に入り、地魚の刺身や、金目鯛の煮つけなど、普段は食べられない美味いものを食った。伊東の宿は、話のネタにもなりそうなところということで、ハトヤを予約していた。私もK君も大阪出身。関西では、「伊東に行くならハトヤ」のコマーシャルはやっていなかったはずだが、二人とも、なぜか知っている。懐かしのコマーシャルを扱う番組とかで見たのだったか。なんとなく、「8時だよ全員集合」の時やっていたというイメージがあるのだが、どうなのだろう。ハトヤは、宇宙船をイメージしたような渡り廊下があったり、ゲームセンターがあったりと、キッチュで面白い宿だった。

次の日は、大雨になった。K君が買ってきた『ことりっぷ・伊豆半島』を宿で読み、とりあえず、伊豆急に乗って下田まで行くことにした。絶景のはずの車窓の景色は大雨に煙ってよく見えないほどであった。下田の駅に着く。雨量はそれほどでもなかったが、強風は続いていた。せっかくだからと、駅から、ペリー来航記念碑のあるところまで散歩した。途中で折りたたみの傘をさしたが、強風で壊れてしまい、役に立たなかった。例によってネット情報で探した店で昼飯を食べる。お婆さん二人が切り盛りしている小料理屋で、昼間は定食を出しているような店だった。店内のテレビにはNHKがかかっていた。仁鶴が司会の長寿番組の後、話題になっていた朝ドラの最終回が流れた。こんなところで、ずっと大阪弁を聴くというのもへんな気分であった。下田から、石廊崎まで行くことなども考えていたが、天気も悪かったので、この日の宿泊先まで、早めにバスで向かうことにした。

二日目の宿は、西伊豆・松崎の山光荘をとっていた。ここは、つげ義春の『長八の宿』のモデルになったところだ。K君とは高校2年の時に、同級生になって以来の付き合いなのだが、その頃、二人でよくつげ義春のマンガについて感想を言い合ったりしていたのだった。私たちが高校を卒業する年に、年号が平成に変わった、昭和の最晩年の頃だ。当時、つげ義春はすでに幻のマンガ家というイメージになっていた。広い意味でサブカル的な趣味のある若者なら、教養として読んでいて当然、というような存在だったと思う。私は、小学館の漫画文庫版の『ねじ式』『紅い花』を買い、何度も繰り返し読むくらいに好きだったのだ。今回、最初にK君の方から、つげ義春の、旅ものに出てきたようなところに行かないかと提案があった。伊東競輪に行くついでとなると、『長八の宿』舞台が近いんじゃないかな、とここに行ってみることにしたのだ。

下田の駅前からバスで一時間ほど。西伊豆・松崎は、観光の街然としていた伊東や下田と違い、もっと鄙びたふつうの田舎らしい町並みだった。大阪で生まれ育った私は、実際に「普通の田舎」なんてものはイメージとしてしか知らないのだが、なぜか懐かしさを覚えるような雰囲気だった。夏休みをテーマにしたアニメやゲームの舞台なんかにぴったりかもな、なんてことも思った。

長八というのは、明治に活躍した松崎出身の左官職人で、鏝絵という技法を使った、面白い絵画作品を数多く残している。今回泊まる「長八の宿」は、江戸時代に作られた造り酒屋の建物を受け継いで、旅館に改装したもので、当時の酒屋に頼まれて長八が彫ったレリーフが残っていることなどが売りになっている。もちろん、長八の名前も、鏝絵というもの自体も、私たちは、つげ漫画で初めて知ったのであった。地図を見ると、『伊豆の長八美術館』という施設までできている。温泉も湧き、夏には海水浴もできるという町ではあるが、鉄道も高速も通っておらず、伊豆半島の他の観光地と比べると特に特徴のないような松崎にとって、長八は貴重な観光資源になっている様子であった。

ローカル鉄道の駅程度には、「町の出入り口」感を漂わせている松崎町のバスターミナルに着いたのは午後2時すぎ。とりあえず美術館くらいしか行く場所はなさそうだったので、バスを乗りついで行ってみることに。晴れていれば、散歩しながら行けばいいところだが、まだ傘がないとつらいくらいには降り続いていた。美術館は、バブル期に設計したことが明白な、立派なハコものであった。左官職人の美術館、ということで、この地域の建築の特徴でもある、鱗塀を模した派手なデザインになっている。少し岡本太郎の彫刻のようでなくもない、未来の忍者屋敷のような、なんとも表現しようがない建物であった。館の入り口には、天皇夫妻が来たことをしめすモニュメントも。中に入ると、思ったよりは、多くの観覧者がいて少し驚いた。小さな細工がほどこされている部分が作品の見どころだ、ということで、入館者には虫眼鏡が手渡された。最初に、鏝絵とは何か、というようなレクチャーを職員の人がしてくれる。中年男二人連れの私たちは、少し影のある感じの年齢不詳なカップルと一緒に、解説を聞くことになった。鏝絵は、左官屋が使う鏝で絵の表面を盛り上げることによって、ちょっとした3D効果をもたらすという技法を使うもので、確かに細かい仕事が施された作品が多かった。長八は、若い時期に狩野派に入門しているのだが、あくまでも本業は左官職人だと考えていたそうで、美術品的な作品は、すべて自分の趣味で作ったものだという。世話になった人にプレゼントしたりするために作ったものにすぎず、作品を決して売ることはなかったらしい。そう聞くと確かに、どの作品からもアマチュアっぽい気楽さが感じさせられるような気がした。解説者がついていたり、虫眼鏡を貸してくれたり、ずいぶん親切な美術館だなと最初はびっくりしたが、全体を通してみると、展示品がすごく少なく、これで500円はちょっと高すぎる。それを補う意味での解説なのね、と納得した。

美術館を出て、まずは長八の宿を目指すことに。チェックインには早すぎるが、依然天気は悪く、荷物を持ったまま散歩するのも億劫だったのだ。スマートフォンのgooglemapに宿の住所を入れ、大体の場所を確認していたK君。自分が中心で動くような、普段の旅行だったら、宿の場所を確認したり、ネットから地図を印刷してきたりくらいの準備をするのだが、今回は、本当に彼にまかせっきりだった。K君のi-phoneによれば、宿の位置は、街の中心で何軒かお店が並んでいるあたりとのこと。だが、美術館でもらってきた、『松崎温泉郷観光案内図』を見ても、そのあたりに宿の名前はない。それほど有名ではないのかなと、googlemapが示す場所に向かう。おそらく街に一軒だけの小さな本屋「マリア書店」というものがあり、雑貨も扱うよろず屋的な八百屋があり、お客さんの入っていなさそうな靴屋があった。それらの店がぽつぽつと並んでいるあたりがどうやら、この町の中心らしい。しかし、それらしい宿は見当たらない。

「おかしいなぁ」と言いながら、靴屋の軒先でi-phoneを確かめるK君。私は、横でぼんやりしながら、さみしい街の様子を眺めていた。しばらくこねくりまわし、ようやく宿の場所をつきとめたK君。googleの地図が間違っており、宿は全然違う、さっき通り過ぎたあたりにあったことがyahooの情報によって分かった。例の観光案内図を広げると、確かにそこに、めざす「山光荘」の名前があった。先ほど通ったのとはちょっとだけ違う、入り江沿いの道から美術館方面に引き返した。途中、確かに、宿があった。目の前に足湯が使える公共のスペースがあり、隣は雑貨屋。そこには、一つ口の、いわゆる赤ポストが現役で立っていて、最初に通った時に写真を撮ったりしたのだった。その横に、立派な門構えの日本家屋があり、それが「山光荘」であった。

江戸時代から続く造り酒屋を旅館に作り替えたものだと、下調べをしていたK君に聞いていたが、想像していたよりも断然立派な旅館だった。つげ義春の漫画からは想像できないような。門をくぐり敷石の前庭を通り玄関へ向かう。地域の温泉協会の看板、釣り団体の会員証のようなものなどが掲げてある。

玄関を開けると、ロビー的空間になっているが、囲炉裏が掘ってあったりして、田舎らしい雰囲気を演出していた。囲炉裏近くの壁には10数枚のサイン色紙が飾ってあった。古谷一行、寺田農などの名前が読み取れた。テレビのロケにでも来たのだろうか。横には、『まんだら屋の良太』の畑中純の版画が額に入れて飾られていた。このあたり、あの「長八の宿」なんだなぁ、ということを感じさせた。ガラスケースの中に、日本画と、亀を象った人形のようなものが陳列されていたが、それらが長八の作品であるということは、後で旅館の方に教えられた。

ごめんくださいと繰り返しても、なかなか人が出てこなかった。チェックインの時間には少し早すぎたのだろう。玄関をもう一度出て、外の呼び鈴を押したら、ようやく奥から人が来る気配がした。「雨、大変だったでしょう、どこであわれましたか」と、70前後くらいの上品な割烹着姿の女性が出てきた。おかみさんなのだろう。普段からこのあたりは風が強いのだが、今日の強風雨は相当だった、というような話をしつつ、部屋に案内してくれた。

部屋は、昨日泊まった「ハトヤ」に比べ、とてもきれいとはいいがたい古い日本間で、廊下から襖で仕切られただけ。セキュリティなどという下らない言葉などない時代のつくりだった。雨の日の木造家屋らしく、森を思わせるような木材の湿った匂いと、庭の土の匂い、それに、調理場から流れてくる料理の下ごしらえの匂いが混ざり合って、何ともいえない落ち着いた気持ちにさせられた。あまり強くないが、温泉の匂いもうっすらと漂う。おかみさんがお茶と、茶菓子を置いて出て行ったあと、顔を見合わせて「いやぁ~これは思ったより良い感じだなぁ」と二人で喜んだ。

「今の人、おかみさんだとすると、『長八の宿』に出てきた、あの奥さんかな」とK君。確かに、年恰好からしておかしくない。マンガが描かれた当時、30代前半くらいだったとしたら、大体、それくらいのご年配だろう。雨がようやくあがったようなので、荷物を置いて、近所を散歩することにした。夕飯は、6時にお部屋へお持ちします、ということであった。普段より早い飯だし、近くには店もなさそうだし、酒とつまみくらい用意しておいた方がいいかなと、バスターミナル近くのコンビニで焼酎と乾きものを買ってきた。本当は、こんなところにまできてコンビニというのも味気ないなと思ったのだが、他に店がなさそうだったので仕方がなかったのだ。店内は当然、大阪でいつも見る景色とほとんど同じだし、同じBGM。コンビニは、確実に何かを破壊するものだな、と改めて思った。当然、町の人にとっては便利になったに違いないのだが。

宿代は、食事つきで一万円程度だった。普段、何処かに泊まるときは、東横インのような、安いところしか考えもしないので、私にとっては贅沢な値段だが、K君によれば温泉宿の相場としては格安だとのこと。だから、食事は期待できないよ、とのことだったが、なかなか贅沢な料理が出てきた。地魚の刺身や山菜の天ぷらなどをつつきながら、ビールを飲む。「つげ義春も、結構贅沢な旅行していたのかもね」とK君。彼は、ノートパソコンも持ってきていて、今日撮った写真を早速確認してみたりしていた。新鮮なお刺身をたらふく食べる機会なんてもう当分ないかもなと思いつつも、昨日からかなりの海鮮料理を口にしているので、少々食傷気味にもなっていた。何日かに分けて食べたいものだな、などとバカなことをぼんやり考えた。

料理を運んできたのは、おかみさんとは別の女性だった。やはり60代後半から70くらいで、おかみさんと同じくらいのようだった。「最初の人がおかみさんなら、さっきの人は、もしかしてトヨちゃんかな」と私。「えー、それはイメージ違うなぁ」と笑うK君。『長八の宿』の中で、トヨちゃんは、ちょっとエッチな女中さんとして登場してくる。このマンガは、つげ義春本人と思しき主人公が、宿に泊まり長八の説明をうけ、宿で働く何人かのキャラクターとちょっと交流するという話だ。高校生の頃、確かに何度も繰り返し読んだのだけど、今となっては二人とも作品の記憶も少しぼんやりしていた。来る前に、再読してくるべきだったのだが、マンガ類は実家の本棚においてあり、読みに帰る余裕がなかったのだ。K君も忙しくて再読していなかった。読み直せば、舞台だけこの宿を借りて、面白いキャラクターを配した、つげの創作だったということが当然すぐわかるのだが、この時は二人とももう少しモデルに基づいた私小説っぽい作品だったと勘違いしていたのだ。風呂から、富士山が見えるという設定だったはずだが、地理的に無理だということは、宿に来てすぐに分かった。「少し、つげ義春にしてやられたような気もするね」なんて話をしながら、コンビニで買ってきた焼酎を飲んだ。

横になったころにはまた風が少し強くなった。古い家屋らしく、柱やガラス窓がギシギシと音をたてた。エアコンの通気口か何かから「ビュー」というちょっと恐ろしい音も継続して聴こえてきた。少し『ゲンセンカン主人』のような雰囲気だった。

次の日は、一転して晴天になっていた。晩飯を片づけてもらった時に、例のトヨちゃん(かも)の仲居さんに、つげ義春目当てで来たことを伝えていたので、チェックアウトの前に、つげが泊まった部屋に案内してくれた。蔵を改造した部屋で、窓のところにほどこされた長八の漆喰細工がきれいに残っている。この日、私たち以外には、30前後くらいのカップルが一組泊まっていただけだった。彼らも一緒にその部屋を見学したが、つげ義春の名前も知らないとのことだった。

チェックアウトの時、おかみさんがいろいろ話を聞かせてくれた。「先生のファンとお聞きしたのが夜だったもので、早くお聞きしていれば、いろいろお見せできましたのに」と、少し申し訳なさそうにされていた。現在でも、つげ義春から毎年年賀状が来るそうで、ファンの方にはそれをいつも見せているとのことだった。40年前の作品なのに、今でも、月に何組かは、ファンだというお客さんが来るのだそう。「お客さんたちのように、男の方お二人でいらっしゃる方が多いですよ」との言葉に、思わず苦笑してしまった。まぁ、中年のオタク同士ってパターンなのだろうね。

つげ本人が泊まった時は、気が付かず、後からマンガを読んだというお客さんが沢山来るようになってから、出版社に住所を聞き、東京の自宅まであいさつに行った話。その後の年賀状のやりとり。最近では、奥さんが亡くなって「先生もお身体があまりよろしくないようです」というような話などを聞く。帰宅後、つげのエッセー集『貧困旅行記』を読み直すと、おかみさんが訪ねてきたエピソードがちゃんと書いてあった。あまりにきれいで驚いた、とつげは書いているが、確かに若い時分には相当美人だったのだろうと思わせるような上品なお婆さんであった。

宿を出て、バスで西伊豆を北上する。途中立ち寄った景勝地で、美術館で一緒に説明を受けたカップルをまた見かけた。40前後だとおぼしき男の方にちょっと暗い影があった。旅行なのにスーツっぽい恰好なのも、少し不思議だった。地味な観光地をわざわざ選んで旅しているあたり、もしかしたら不倫、しかも大学の先生と院生とかそんな感じかも、なんて馬鹿な想像をしたりした。西伊豆は観光地としてはやはり落ち着いた感じだった。松崎に、なぜか一組だけギャルの二人連れがいて、面白かった。おそらく、何かに騙されたのであろう。

土肥でバスを降り、昼飯を食べに行った。例の如く、バスの中でK君がスマートフォンで調べた情報で、ここから、清水港までフェリーが出ていることを知り、ちょうどいい時間だったので乗ってみることにした。彼も、研究会か何かで修善寺近辺には何度も行ったことがあるらしい。ならば伊豆半島一周にこだわらず、とつぜん船に乗ってみるなんていうのも一興かなということになったのだ。K君は、明日から新しい職場での勤務がはじまるのだが、最終の新幹線に乗れたらどこでもいいということだった。

春休みの日曜日ということもあって、駿河湾フェリーには親子連れの行楽客などでかなりにぎやかだった。空は晴れ渡っていたが、海上は強風が続き、大しけだった。土肥港を出てしばらくすると、富士山が姿を見せた。肩のあたりにちょっと雲をかけていたが、絵にかいたようなきれいな姿であった。つげ義春は、「長八の宿」の最後に富士山を配して物語のしめにしたが、私たちの旅の最後にも無理やり富士山を突っ込む形になったのだった。

今回の旅では、K君にすっかりお世話になった。旅の途中、実は6月に子供が生まれるのだという話もはじめて聞いた。40をまわってはじめての子供だ。「良かったね、おめでとう。」子供が成人する頃には、自分はもう爺さんだが大丈夫だろうかと、高齢で子を持つことになった人なら誰でも抱くであろう心配話に耳を傾けながら、もうこういう自由な旅行をすることはないのだろうな、としみじみ思ったのだった。

ただ、これまでに二人で旅行をしたことなど、そもそも一度も無かったのだけど。しいてあげれば、高校時代の修学旅行くらいか。彼と同じクラスになった高校二年生の時、修学旅行として東北地方を回ったのだった。雫石、小岩井農場、十和田湖などに行った、という記憶はかすかにあるのだが、詳細は全く覚えていない。ただ、バスの中で、つげ義春の話をK君はじめ何人かの友達としていたことは記憶にある。私たちから10歳くらいしか離れていなかった社会科のA先生が担任だった。つげ義春の話をしているのを聞き、なんで君らそんなマンガ知ってるんや、と関心をもってもらったことがうれしかったことも覚えている。その後、先生から、諸星大二郎の単行本を借りるようになったり、いろいろ影響を受けることになった。今思うと、先生もまだ30前後の若さだったのだ。

高校生の頃まで、本当にマンガが好きだった。しかし、20代になるとほとんど読まなくなってしまった。読めないようになった、言った方が正確かもしれない。なんとなく絵にひっかかり、活字だけの本の方が読みやすいと思うようになったのだ。最近は、一年に一冊も読まないなんてのも普通になってしまった。だが、原風景のようなものとして、マンガを読んだ記憶は、自分の中に生きているのだなと改めて思う旅だった。つげをはじめ、当時マンガを読んでいたことが、その後の自分に何らかの良い影響を与えていたかどうかは分からない。少なくとも、K君やあるいは何人かの親しかった人たちとをつなぐ共通の記憶として持つものとしては、良質のものだったんじゃないかな、と思う。

旅行中も、K君と話していたのは、つげ義春の旅モノのどこが一体面白かったのだろう、ということだ。あらためて考えてみると、どこがどう面白いのか説明できない。でも、確かに面白かった。私の場合は特に、『ねじ式』や『ゲンセンカン主人』などの実験的な作品より、なんでもない旅ものが好きで、中でも「長八の宿」は一番好きな作品だった。その割に、詳しい内容を忘れてしまっているのがさみしいが、なんとなく「大人」になったら、ああいう旅がしたいな、たぶん、することになるのだろうな、と思ってもいた。帰ってきて、先の『貧困旅行記』やネットの情報などで復習をしてみて驚いたのだが、あの宿につげが泊まったのは30歳そこそこの頃だったということだ。なんという若さか、と今の私は思う。そんな齢で、あんな枯れた味わいを出していたのか。ただ、もしかしたら、今読み返してみると、そのようなある種のカッコのつけ方に、別の意味の若さを感じることになるかもしれない。

K君がパパになる話を聞き、思い出したのは、やはり当時熱心に読んだ藤子F不二雄の異色短編「劇画オバQ」のことだ。F先生の短編集も、つげマンガ同様、当時のマンガ好き共通の必読作品だった。大人になった正ちゃんのもとに久々に訪ねてきたQ太郎とOちゃん兄弟。昔を思い出して忘れていた子供の頃を夢を語って盛り上がるが、正ちゃんに子供ができたことを知り、ひっそりとお化けの世界に帰っていくQちゃん兄弟。いわば「妊娠小説」の一種だが、さみしそうに描かれたQちゃんの姿は何とも切ないものだった。つげ義春の鄙びた温泉旅行の世界と同じように、高校生の私は、Qちゃんのさみしさもしみじみ味わったつもりになって読んでいたのだった。当然、あの作品は、Qちゃん目線で描かれているので、そう読むようになっているのだが、多くの人々は大人になって正ちゃんたちの視点から読み直す日がくるのかもしれない。ドロンパやU子なんて面白い連中がいる、帰るべきお化けの国があるQちゃんたちと違って、大人になった人たちの中で、なんとなくお化け的な感じでこれからも生き続けるしかないのかな、なんてことを思ったりもした。

お化けの楽しさを思い出すためにも、久々に実家に帰って、昔熱中していたマンガを引っ張り出して再読してみようかな、なんてことも思ったのだった。(終わり)

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