2018年3月8日木曜日

木の下に埋まっているのは

以前に住んでいた木造アパートの近くを通った。家賃、2万4千円で風呂なし・便所共同。不便と言えば不便だったが、街中にあり交通も便利で10年近く住みついていた。「昭和時代」の話ではなく、10年くらい前のこと。収入が無く、貧乏だったからだが、好みでこういう暮らしを選んでもいた。まぁ、また戻るかもしれないが。

アパートの近くに小学校があり、グラウンドは阪急京都線に面していて、何本か桜の木が植えられていた。線路の向こうから見える、踏切りを通り過ぎる電車越しの満開の桜、なんて図はなかなか絵になった。

アパート暮らしの初期は、本を書くことを最大の目標にしていた。しかし、一行も書けない状態が続いた。今となっては、ほんと何していたんだろうと思うが、まぁ要は遊んでいたのだろう。焦燥感だけは常に感じながら。「桜が咲くころまでには書く」と決意したことがあった。編集者に締切を設定してもらったからだったか、あるいは自分でそう考えただけだったか、もう忘れてしまったが、それでも結局全く書けず、暗い思いで満開の桜を見た記憶がある。その仕事には、その後蓋をしてしまい、メールの返事も出せなくなってしまった。普段はヘラヘラと暮らしていたのだが、桜の季節が近づくたびに挫折の記憶が思い出され、敗北感にじわじわやられるような気持ちになった。

長年、諦めてしまっていた仕事を、ようやく形にすることができた。これでようやく満開の桜も、スッキリした気分で眺められるかなと期待したいところだけど、どうもそう簡単にはいかないようだ。赤みを帯び始めた桜の木を見ると、やっぱり苦味がよみがえってくる。何ですかね。春って、そういう季節だってことなのかもしれないですな。

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