2018年3月31日土曜日

書くことを生活に組み込みたい

週に一回は更新しよう、と考えていたが、難しい。一日のうち、何にどう使うか、それを決めて、うまくコントロールできない。実はあと数日はまだ仕事がなく、何をやってもいい時間だ。普通に仕事をしている人なら、これだけの休み、とても貴重だから大事に使うだろう。ただゲームとかをして無為に過ごす人もいるかもしれないが。いや、ゲームをして無為に、という表現自体、間違っているか。楽しくゲームに時間を費やせるなら、いい自由の使い方だろう。自分の場合、今は収入は低いが休みは多い生活をしている。だから、時間の自由さに対するありがたみを感じにくくなっており、折角の長い休みを全く有効活用できていないのだ。仕事的なものにも、遊びにも。

何をしようとしても、それをするなら、これをすべき、という考えが頭に浮かび、身体がとまってしまう。それで結局、本当に何もせずに一日が終わり、こんなことなら、せめて遊ぶべきだったか、とか、本を読めばよかったな、とか考えるのだ。なら、何かそういう予定を次の日には入れようと思うのだが、いざ、これから何かをやろうという段になると、同じ気分のくり返しで、それをするなら、これを、これなら、あっちが、ということになる。何とかしないといけない。そうやって、ただただ歳をとっていくのだな、と考えると、絶望的な気分になってくる。

何の話だったか。ブログの話だ。ブログの記事を書く、というのは、今の所、やってもやらなくてもいいことだ。だから、やるべき、と少しは意識しないと、書く気も起こらないのだ。仕事でもないことを、ノルマのように思うのは馬鹿馬鹿しいに決まっている。だが、もっと定期的に更新して、生きたブログ(ブログでもnoteでも何でもいいが)にしたいという気持ちもある。訴えたいこと、伝えたいことが特別にあるわけではないが、日々、頭の中をすぎゆくモヤモヤを、テキストにしておきたい、他人に伝達可能な形式の何かに一応しておきたい、とは思っている。

それは、大げさだが、生きたいという欲望と結びついた何かだ。先のことを考えると、気が重くなる。生活のこと、とくに、来るべきバイト生活を思うと、絶望的な気持ちにもなる。おそらく、三年後には高年フリーターとして、フルタイムに近い形で最低賃金の仕事を何かしなければならないだろう。本当は、来年からそうなのだが、来年は、働かない(時間が余っても、その時間パートなどに行かないと言う意味)でおこうと決めている。しかし、次の年も、生きるつもりなら(もちろんそのつもりだが)おそらく、何かをしなければいけない。それを思うと、ただただ怖い。今よりも自分はもちろん、周りの人間も歳をとっていることを考えると余計に。

だけど、3年後を想像して、怖がって、今、やるべき何かをできないなら、どうしようもない。フリーターになるにしても、生きているということをちゃんと意識して生活したい。そのためには、書く、ということを活用するしかないのではないか。書くことによってバランスを保って、何とか生きていく気力を萎えさせないようにできるのでは、と何となく思っているのだ。となると、それは、今から始めるべきことだ。まだ余裕のある、今の時点から、書くクセをつけておかないと、もっと絶望的な状態になった時に、とてもじゃないが書く気力なんてわいてこないに決まっている。だから、生活に書くことを埋め込む必要がある。今すぐに。

で、初めに戻る。何をするか、を毎日、毎日、自由に決められる、恵まれた状態にある。だけど、何も決めていないのだ。それが焦燥感につながる。小さな決断が必要だ。決断してこそ、こんなものでも書けるというものだ。決めなければ、こうしなければ、ああしなければ…、どうして仕事でもないのに、義務感を抱かなければならないのか、と嫌になるが、それはやはり仕方ないのだ。まぁ、いい。とにかく、書くためには、時間がいる。時間をどうして確保するかというと、書くことによってだ。何事も、実行しながら、実行できるようにしていかなければいけないのと同じだ。何だか分からないが、こんな文章でも、書く前よりは思考が少しスッキリはした。このレベルの訳の分からないものでかまわないから、なんとか書くことを生活に組み込んで、前向きな意識を呼び起こすつもりで、書くことによって、書けるようにしていくことだ。と自分に言い聞かせる。

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