2018年5月6日日曜日

頭の中のケシゴム的な

記憶障害がひどい。同世代の友だちの多くも、「あるある」と言っているようだから、何てことないのかもしれないが、絶対知っているはずの言葉が出てこなくなるとさすがに焦る。講義をしていて、アドリブ的に脱線して事例を出そうとしている時に、固有名詞がでなくて、あの、あれ、あれがですね、になることもたびたび。年寄りに向かっているということなのだろう。

ただ、自分自身の頭脳の特性というか、欠陥もやっぱりあるのかなと思うことも。若い頃は、自己反省、自己省察を、今思うと全然していなかったので、全く気付かなかったのだけど、昔から「ストーリー」を記憶するのが苦手だった。今はあまり小説を読まないけど、若い時は、近代文学の名作とかは一応読んだ。読んで、面白いな、と思ったが、あとで筋を全然覚えていなかったりするのだ。同じのを読んだ妹に、あんな話やったな、と言われても、あ、そうだったかなという感じ。一回二回の話ではなく、よく考えたら、ストーリーのほとんどがそんな気がする。子ども頃に熱中したマンガなんかは、買って手元においたらだいたい数回は読み返したので、さすがにそんなことはないが、一回しか読まなかったものに関しては、まぁ、記憶に残っていないのだ。

パッと見て、ズッと覚えている、という能力者がいる一方で、反対もいる、ということで、自分は反対側なのだろう。細々と読書会をやったりしているが、一か月くらい期間が空くと、もう前回読んだところがどんな内容だったのか、付箋貼ってあっても思い出せなかったりする。読んでいる時は、それなりに、面白いな、と思ったりしているのだけど。何のために本など読むのだろう、と思う。同じ事をツイッターで何度もつぶやいているけど。

父親が何度か倒れて以降、記憶がどうも曖昧になっているよう。コミュニケーションをしていると、時間軸が狂ってきているのに気づく。昨日と2週間くらい前が切り分けられなかったり。それでも、田舎にいた頃のこととか、仕事をしていた頃のこととかは、それなりにハッキリ覚えているようで不思議に思ったりする。昔は顔も含め、あまり似ていないように思っていた親だが、この頃は、そのまんま受けついでしまっているな、と感じることがたびたびある。世話する立場で接すると、今までとは違って客観的に見えるからかも。自分もやがて、脳内がもっとぼんやりしていくのだろう。その時、どんなことを繰り返し語ることになるのか。父親とちがって自分には子どもがおらんから、そんな頃には、話し相手になってくれる人もいないだろうし、存在しない相手に迷惑をかけるかもとか心配する必要はない。ただ、文章を書いたりするから、今よりも恥ずかしい何かを、ネットの虚空に向けて書き散らかしたりすることになるかもしれないな、とは思う。もうなっているとも言えるが。

メモしたり、ノート書いたり、外部化しておけば、記憶力が衰えても「問題」はないのかもしれないが、そんなことしているから、余計に、記憶力が下がっているのかも。まぁ、よく分からないが、これからも、たぶん、同じことを何度も書くことになるだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿