2018年5月10日木曜日

酒よ

アルコール依存症らしい人の話を聞くと、胸が痛い。そして怖い。自分だって、たぶん依存症だからだ。たぶん、とか付けるのは、直視していないごまかしの態度のあらわれだ。ただ、依存症についての本などに出てくる「底つき」までは行ったことはない。歯止めが効かなくなるまで飲み続けて、もうだめだ、と痛感するような体験のことだ。そこまでいくと、もう断酒しかないという。ひと口飲んだら、また底まで行ってしまうことになる。TOKIOの人の話とか聞くと、退院後にひとり酒を始めて、とめどなく、という報道されている流れが本当なら、間違いなく依存症なのだろう。自分は、そこまでは行っていないが、飲み始めたら、ずっと飲みたくなってしまうのは間違いない。条件が整えば、幾らでも飲み続けると思う。そういう自分の症状を自覚して、3年くらい前に、意識的に禁酒した。(前に書いたと思うが気にせず続ける。)その頃、将来の希望がない、という状況に耐えきれず、酒に逃避するようになった。もともとだらしない酒飲みだったが、ひどさが明らかに増していた。非常勤講師の仕事に行く。仕事の前はさすがに飲まなかったが、終わったら、すぐに飲みたくなった。帰りの駅のホームで缶ビールをあける、なんてことも結構あった。一度やると、飲まないと物足りなくなる。ミナミの立ち飲みに一人で出かけた。夜中に酒がなくなると、コンビニまで行って、安い日本酒のパックを買ったりもした。同居人は基本的に酒を飲まず、酔っ払いを嫌悪している。だから歯どめになってくれている。用事で彼女がいないとき、監視の目を盗むような気持ちでコソコソ飲み始めたりすることも多かった。飲めば手軽に気分を変えられる。ちょっとの間だけだが、それは確かだ。YouTubeで何か聞きながら、酒を飲んで、ツイッターでも見ていたら、楽しい気分にひと時はなれる。しかし、まやかしの快楽であることは明白だし、醒めたら後悔しか残らない。充実した仕事なりをやっていて、仕事終わりや休みの日に飲んだりするくらい、全然問題ないと思う。自分は違った。そんなスカッとした飲み方など、ほとんどしたことがなかった。逃避の為だけに飲んできたのだ。その頃は特にひどかったが。

これじゃだめだとさすがに思うようになった。かつて見た、アルコール依存症の互助グループのドキュメンタリーの映像や、中島らもの『今夜すべてのバーで』などの描写が、反面教師として助けてくれたようにも思う。そこまで行ったらもう大変だぞ、というような。ずっとほったらかしにしていた「本」の刊行にあらためて再挑戦することを決意し、書くためにも、酒はやめようと誓った。人と会う時は除外して、という甘いルールだったが、とにかく一人で飲むのだけはやめようと。任期付きの常勤仕事が終わり人と会う機会がグッと減っていたので、飲み会などもほとんどなかった。ただ、一年間で、一回か二回くらいはそういう機会があったかもしれないが、それまで週1回の休刊日さえ守れなかったことを思うと、なかなかのものだった。その後、ちょっと崩れはじめた。原稿を書き進んで、気持ちも緩んだのかもしれない。去年の春、熊本に調査をかねて旅行に行った時、ひとりでは飲まないという禁をやぶって夜行バスを待つ時間に飲み屋で大びんのビールをあけた。覚えている、ということは、まずいことをした、という気もあったのだろう。それでも大崩れはしなかったが、ぐっと飲酒習慣に近づいたことは間違いない。飲まなかった間は、スーパーの酒のコーナーとかを見て、「ああ昔はここで酒を買っていたんだなぁ」とか過去形の眼差しを向けていた。無駄遣いをしていたなぁ、なんて思っていたのだが、ちょっとずつ、飲みたい気持ちが復活してきた。酒を控えたおかげで、何とか、本も書けた。しかし、仕事が終わりに向かうと、生活の目標を見失うような気持ちにもなっていった。もともと自分は弱い人間なのだ。相当気合いを入れないと、自堕落に向かう。人と飲む機会もちょっと増えたり、家でも、同居人と安いワインを軽く一杯飲むということが増えた。昔の酔っ払い状態に比べたら、飲んでないようなもの、だが、でもやっぱり、酒は酒だ。たまにでいいや、という感覚から、毎日飲みたいという欲が湧くようになり、すきがあればズッと飲んでいたいという意識になってきた。やめた方がいいかな、と考えると、何だかとても寂しいような気がしてしまう。これは、依存症の症状だ。6年くらい前にタバコはやめた。タバコもやめる前は、一生やめられないような気がしていた。多くの人がそうだと思う。やめると考えるだけで、とても寂しい気持ちがする。何か大事なものとお別れするような気持ちになるのだ。だけどやめられた。

酒も同じだろう。安いワインが一本、飲みかけで冷蔵庫に残っているが、もう飲むのはやめよう。そう考えると、酒を飲まずして、何の楽しみがあるのか、なんて気持ちになる。酒にとらわれてしまっているのだ。だからこそ、やめた方が良い。ただ、断酒までは考えていない。人と会う機会には、飲む楽しみを残しておきたい。人と一緒の時だって飲まなくてもいいじゃないか、とも思う。本当はそう思っていないのだが、そう思うようにしたい、ということだ。とにかく、ひとりで、飲むために飲む、ということはもうやめよう。といいつつ、明日には、また飲もうとするかもしれない。そんなものだ。それならそれで、明後日また、やめることを決意すればいい。とにかく、毎日飲みたくなる、という心理状態から、自由になりたい。そのためには、依存症であることを自覚することがスタート地点だという気がする。これから先、楽しいことなど、ろくにないのは事実かもしれない。でも、飲んだって、そんなものはないのだ。まやかしだ。喜びは、自分で作っていかなければならないのだ。小さな喜びを作り出す努力がいるのだ。そのためにも、酒からは自由でいたいと思う。ずっと我慢するとか考えるからしんどいのだ。今日一日は飲まないように、を毎日続けることだ。そのためにも、あらたに目標を立て、建設的に生きることに努める必要がある。それと同時に、今日一日に意識をもってきて、先の不安を過剰に取り込んで、自分で自分を縛るようなことをやめるように心がけることだ。

ゴチャゴチャしたままでも、今の思いを文字にして書いておけば、生活の改善へ向けての、ちょっとした指針くらいにはなるだろう、と思い、書き殴ってさらしておくことにした。あまり重く考えずに、小さく決意しておこう。

(去年の春、と書いている熊本行きは、一昨年だった。どっちでもいいけど、自分のためにメモだけ。)

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